切り取られた風景(後)


美奈子が東京に戻り五日程した頃、葉書が着た。銀座の町並みを写した絵葉書で、見た叔父はむしゃくしゃした。女から、然も東京、メッセージは“あたし超元気”と来る。達筆な女やな、と一言叔父は云い、受け取った侑徒は其れを金魚の横に並べた。
未だ未だ健在である。貧相さは変わらないが。
卒業した筈が隆臣、東京に戻る準備もして居ない。下宿先は、次の子居てないから、と奥さんの好意により三月一杯居て良い事と為った。美奈子と別れたからと云っても両親から勘当された訳では無いので、早く東京に戻れば良い話だが、実は隆臣、十日前後迄先を決め兼ねて居る。其れと云うのも、師匠が絡んで居る。少し話がある、手紙では何だから直接云いたいと、十日前後に来る師匠を隆臣は待って居た。
其れ迄、侑徒と遊んで居る。
殆どと云って良い程後期は行かなかった筈が、進級出来たのである。
廉太郎とも偶に遊んだ。卒業して迄関わるなと云われた隆臣だが、隆臣、廉太郎の父親からかなり好かれて居る。卒業しました、ほなさいなら〜は寂しいやないか、そう云われると隆臣はつい行って仕舞う。
美奈子が居ないと静かだった。美奈子一人で騒いで居た事を知った。
果たして十二日、師匠は来た。引き延ばされた自分の写真に、趣味悪いと、けれど隆臣は「師匠だから」と屈託の無い笑顔を向けた。
「其れで師匠、御話とは。」
師匠に座布団を渡し、何せ隆臣しか居ない、座布団は一つしか無く、直に座った。
「東京に戻って来るのは何時?」
「師匠の御話を先にと、未だ決めて居りません。」
「戻る積もりはあって?」
「はあ、一応は。」
「一応、ね。」
其処で師匠は茶を飲み、真っ直ぐ隆臣を見詰めた。
「私ね、てっきり貴方は原口さんと結婚する物だと、思って居たのよ。」
「申し訳ありません。」
情けなく会釈し、肩を竦めた。
「だからとね、私。私が居ては原口さんに御迷惑だろうと、東京から離れる事にしたのよ。」
まさか全くの無駄に為ったとは、と鼻で笑った。
「そんな…。師匠が御気に為さる事は…」
在の時の事は自分が悪い、貴女は何も悪く無いと云ったが、そう行かないのが、大人の面倒臭い所である。
「だからね、若し、若し貴方に其の気があるなら。」
もう一度、私の下に付かないか。
身に余る言葉に隆臣は瞬きを繰り返した。
「私が、もう一度、ですか…?」
「破門した記憶は無くてよ、隆臣。」
「然し…私は…」
「其の気があるのか否か、其れだけをはっきりと仰い。」
其れ以外の事は聞かない、済んだ事をとやかく云うな。師匠の真っ直ぐな目は在の頃と何ら変わらず、弟子の本質を見極める目であった。
「如何なの。隆臣。」
静かだが、ずっしりとした声で師匠は聞いた。出す音の様に、隆臣を魅力した。
一度座り直し、畳に手を付いた隆臣はゆっくりと、一番最初、弟子入りした時と同じ様に、礼の全てに敬意を表した。
「謹んで、御受け致します。常磐津師範代。」
「三味線一つで、いらっしゃい。」
初めて貰った言葉と同じ言葉に全身に鳥肌が立ち、涙が滲んだ。
「有難う、有難う御座居ます、師匠…」
京都を去るのは四月一日、其れ迄の半月余り、三味線以外の荷物を全て処分しろと師匠は云った。
三味線以外全て…。
隆臣は顔を上げ、ふっと後ろを向いた。
「此れは…」
「いけません。其れこそ真っ先に処分よ。」
こんな大きく引き延ばした写真等、此れから一緒居ると云うのに要らないだろうと師匠は怒ってみせた。
「然し師匠。此の美しさは…」
「今、持って帰るわ。」
そして京都駅か何処かで捨てる。其れは困る、自分で処分するからと師匠を見送った。帰り際奥さんに、費用は隆臣の両親では無く自分に寄越す様師匠は頼んだ。隆臣は猛反発したが、両親から「常磐津さんの弟子に戻るのでしたら、全て常磐津さんの御気の済む様に」と許可は貰って居ると、何だ、隆臣の気持等構い無しに話は進んで居た。嫌だと云えば(尤も隆臣がそんな事を云う筈無いが)首に縄を付ける覚悟だった。
師匠には敵わない、そう云うと「だって貴方の師匠だもの」と潔く去って行った。
翌日、侑徒達に伝えた。漸く消えるか、と廉太郎は扇子を開いた。
「何処行くんや?」
「博多だって。」
「博多…?博多て何処や。」
「俺も良く判んない。」
でも師匠が行くなら何処にでも行く、だって弟子だから。と持ち前の明るさを見せた。
帰宅した侑徒は叔母に聞いた。
「叔母さん。博多て、何処ですか?」
「博多…」
叔母は暫く考えてが全く思い浮かばず、そんな県あったかなあ、と夕食の味見をした。
「何や何や、博多が何や。」
叔父が、暑い暑いと、矢鱈高い今日の温度に腹を立て帰宅した。
「博多がどないしたんや。」
「何処かなあて。」
「九州やで。」
侑徒と叔母は声を揃えて笑った。
「九州て。」
「九州は無いわぁ。九州位ならうち知ってるわ。」
笑う二人に、叔父の不安は的中した。
「もしもし御二人はん…、えっらい勘違いしてはんのと違いますかあ…」
此れは県名では無く地名だ、云うと二人は揃って笑うのと止めた。
「何…?」
「君子、湯布院て聞いて、県名やぁ思うか?」
「阿呆な、湯布院は大分やんな。有名やんな。」
「せやから、博多は福岡や…。も一つの祇園はんがあるんやて…」
己の無知さに言葉も無かった。二人は顔を見合わせると叔父に向き、首を傾げ乍ら「此の人頭おかしん違うか」「祇園が京都以外に、此の世に二つとしてあるかいな」と納得しない顔で退散した。自分は何一つ間違った事は云って居ない、其の不服そうな顔はなんだ、本当に祇園はあるんだ。一人台所に残された叔父は如何して良いか判らず、キャベツの味見をした。
夕食を終えた侑徒は自室に入るや否や、叔父から借りた日本地図を開いた。日本には沢山国があるんだなあ、と地元にも大した愛着持たない侑徒は唸る。こんなに沢山の国、人、其の中で隆臣や美奈子に出会えた事は奇跡に近い。一年前の冬、隆臣が腹痛に襲われなければ全く変わりない一年を過ごして居た。
勘当された侑徒に「友達頼れば良いじゃない」と言葉通り手を差し出した隆臣。
古典音楽を、友達と云う存在を、男女のややこしさを、消防車も鳥の巣頭も、侑徒の知らなかった全てを隆臣は教えて呉れた。
其の隆臣が、居なく為る。
「一生、詰まらへん、か…」
東京に行っても御前が変わらなければ、一生詰まらない。
楽しい事なら沢山知って居る、だから、変わろう…?
殺風景な部屋で聞いた言葉は、ステンドグラスの様な鮮やかさを帯びた。
「今更、在の詰まらへん生活に戻れゆうんか…」
別れた先にある辛さ、隆臣は一言も教えはしなかった。こんなにも苦しいとは知らなかった。
こんなにも辛く苦しい事と知って居たら、関わり等持たなかった。
地図に頭を突っ伏し、紙を湿らす侑徒の頭を金魚は窺う。こつんこつんと口先を鉢に付け、慰めた。
「御前は、居てるか…」
口から泡を出し、返事をした。
「なあ、頼し、傍居って…」
金魚にでは無く、隆臣に云えたら何れ程良いか。
楽しかった思い出が、泡の様に一つ、一つ、消えて行った。




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