切り取られた風景(後)
「叔父さん、一寸車借りるわ。」
四月の一日、十一時頃廉太郎が迎えに来た。廉太郎の家から駅迄の並びに、侑徒と隆臣の順にある。途中で侑徒を引っ掛け、車で隆臣を迎えに行き、云われた通り隆臣は、三味線一つだけ持って居た。
「奥さん、旦那さん、四年間、本当に御世話に為りました。」
「元気でな、隆ちゃん。」
「偶には顔見せや?」
「御手紙出します、御元気で。」
深々と頭を下げ、隆臣は乗った。バックミラーで確認すると二人は門の所で見えなく為る迄の見送りをした。隆臣は其れを車内から振り返り見、ずっと手を振る。隆臣の下宿先から右に曲がった。ゆっくり走って居た車は停止した。
車一台ぎりぎりの道幅、其処に一台に停まって居たのだ。
「うっわ、邪魔な…」
助手席に座る廉太郎は吐いた。他にも道はあるが、車が通れる場所は此処しか無い。もう一つバックをすればあるが、此れは一方通行車線で、此方からは入れない。此処以外、大通りに出る道は無いのだ。
窓から外を窺い知った隆臣は「本当、最悪」とシートに背中を当てた。
此方を向いて停まる車の真横の建物、橘診療所である。
雨にも当たった事の無い様な純白、太陽を矢鱈反射さし、侑徒の目は一層細く窄まった。
掌に汗滲ませ、汗はびったりとハンドルに張り付く。離れない侑徒の変わりに、看板の見えない廉太郎はクラクションを押した。
「済んませぇん、車退かして貰えますやろかあ。」
済んませんと何度かクラクションを鳴らすと、「はいな、今退かすしな」と診療所のドアーから出て来た姿に侑徒は凍り付いた。喉で悲鳴が溢れ、パニックを起こした。車は車庫に入ったが、侑徒はハンドルを握り締めた侭前を凝視した。瞬く間に血の気は引き、短い息を繰り返す。いや、息もして居なかったかも知れない。足は竦み、手に力は入らず、勝手に揺れる眼球で唯々前を見た。
車庫に入った時行けば良かった。車庫から出た父親は、停車する車を、診療所に入る前に態々足を止め、見た。
黒のシトロエン。
そう矢鱈にある訳では無い車に父親は其の侭仰け反り、ナンバーを確認した。手にして居たノブから手を離し、きちんと車体に向いた。
「ふぅん。」
窓は開いて居ないが、はっきりと侑徒には聞こえた。
「大層、やんなぁ…?」
悲鳴も出なかった。
「なあ、侑徒。」
横の侑徒の真横に父親の顔は来、硝子越しだが、其の薄気味悪さと冷酷な声に廉太郎はドアーに背中を当て、後退った。隆臣も、反対のシートに逃げた。
「泣き付いて来るかぁ思えば、何や、京友禅着てシトロエン乗って、はっ。大層ですなぁ。」
見たく無いのに、侑徒は顔を向けて仕舞った。
「誰や…」
「侑徒の父親だよ…」
「は?叔父さんが父親ちゃうんか…」
「叔父さんは本当に叔父さんだよ…。此の人が父親…」
何を如何生きれば、此れ程迄人に恐怖を与える人間に為れるのか、二人は疑問だった。
「御父…さん…」
「へぇ、未だそう呼びはる。出来損無いの癖に。」
煙草を咥えて居た廉太郎は、車から下りると父親に向き、退かすと侑徒を引き摺り下ろした。其の侭後部座席に侑徒を座らすと、又一度父親を見た。
「己の様なけった糞の悪い奴、初めて見たわ。此れが父親とか、何の嫌がらせや。侑徒可哀相。カーアイソ。」
持って居た煙草をズボンに飛ばすと、父親は避ける様に数本下がった。ズボンの焦げを気にした父親を気にする事無く、廉太郎はクラッチを踏んだ。
「傷付けたら堪忍、叔父さんに詫びてな。」
父親がドアーに手を掛ける前、車は動いた。忌ま忌ましそうに車体は叩かれ、又其の音に侑徒は怯えたが、隆臣は笑い飛ばした。
「いやあ、最後の最後にスリルあったね。」
「こんなスリル、要らへん…」
「へんっ、在れが父親かいな。けった糞悪い男やで。」
侑徒と初めて言葉を交わした場所。最後に見れて良かった。一年前の気持を思い出した隆臣は、外を見る侑徒を見た。
暖簾からひょっこり出た、在の顔と同じに目に生気は無く、怯えて居た。シートに乗る侑徒の手を、隆臣は握った。気付い侑徒は振り向き、其の侭視線を落とした。
此の手が、自分を連れ出して呉れた。
浅黒の手に真白な手が乗り、地面に残る雪に見えた。
「アホンダラ、退きなっ。こちとらシトロエン様々やで、仏蘭西様やでっ。退き晒せぇっ」
無謀な車線変更をして居るのは廉太郎であるが、周りの国産車が焦って居る様にも取れた。
外車に乗る阿呆等、其の筋の方々か相当の悪趣味な奴。後者で在ればぶつけた時謝れば良いが(車を持つ等金持ちしか居ないので弁償は出来る)、前者であったら謝っただけでは済まない。然も、相手が窺い見る運転する男は胡散臭い廉太郎。丸眼鏡に髪伸ばした若い男。嗚呼此れは悪趣味な爺では無く、組の若いモンが長さんでも迎えに行って居るに違いない。後部座席に座るのは此れ又、若い男。横には芸者みたくな別嬪さん。
組の若いモンが、迎え先の息子と愛人を連れて居るとしか相手側には見えない。
外車でも、いや外車であったら運転手が居る。其れがこんな荒い運転をする訳が無い。屋敷に使える運転手の技量、自分で運転する金持ち達は知って居る。技量に比例して、給料が馬鹿高いのだ。
矢張り如何遣っても朦朧爺で無ければ、其方さんだ。絶対にぶつかりたく無いと、廉太郎の周りは空いて居る。
「廉太郎、師匠の所に霊柩車で行きたくないんだけど…」
「嗚呼、堪忍…」
乱暴な運転等知らない侑徒は激しい揺れに気分悪くし、シートに横たわった。隆臣の恐怖も侑徒の気分も構い無し車は蛇行し、此の先外車を運転する事が無いであろう廉太郎は興奮する。するのは一向に構わないが、周りに気を使って欲しい。良くこんな運転で免許が取れたな、廉太郎が取れるのなら自分にだって取れる。隆臣は福岡に付いた直ぐにする事を決めた。
博多の街を消防車でウーウーだ。
因みに今更だが、隆臣が欲しいと、消防車と再々比喩された在の車は伊太利亜のランボルギニーである。
蛇行運転の末、車は漸く駅に着いた。
「大丈夫…?侑徒…」
父親に会った時より顔は悪く、「あかん」「もう限界や」と侑徒は下り様、車の後ろで吐いた。雑踏の中で侑徒の呻きは消され、良かった。水を差し出され、飲んだが又気持悪く為り、暫く吐いて居た。
其処にだ。
「侑徒、大丈夫?」
と聞き慣れた声と共にハンカチを差し出された。
「美奈子、はん…」
「廉太郎でしょ、こんなにしたの。折角の美人が。」
しゃがみ、侑徒の口を拭いた。
「お、美奈やないか。来たな。」
「来たよ…、来たよっ。騙されてねっ」
車の天井に腕を乗せ、ニタニタ笑い煙草蒸す廉太郎に美奈子は鳥の巣靡かせ近付いた。
「良くも騙したわね、麿眼鏡っ」
「せやないと読まんと思ってな。」
隆臣の福岡行きが決まった翌日、廉太郎は東京に居る美奈子に手紙を送った。差出人を吉川隆臣にすれば美奈子の父親が破棄する。かと云って師匠の名前は知らないし、其の差出人では不自然である。仕方無し宝来廉太郎と書いたが、いやいや待て、自分から手紙が着て読むか?と考えた。絶対に読まない。手にもしない。
橘侑徒、―――美奈子に手紙を読ますには此れ以上打って付けの名前は無い。
受け取った美奈子は、嗚呼侑徒ってこんな字なんだ、と案の定綻んだが、妙に見覚えのあるひん曲がった行書体。メガフォンに張り付けられた侑徒の文字は、見事真直ぐな草書体であったのを思い出した。
こんな斜めに書く男、美奈子は一人しか知らない。
開くと矢張り、廉太郎であった。
「騙されてるの覚悟で開いたわよっ」
「阿呆やんなぁ。侑徒が出す訳無いやん。」
「だって住所知ってるから…」
だからと、一割の期待で開いた。期待した私が馬鹿でした、美奈子は高笑った。
「大体さ、廉太郎。」
一言文句云って遣ろうと手紙を持参した美奈子は、押し出した。
「枠があるのに、何で完全に無視して書いてるの?」
見た隆臣と侑徒は、枠を完全に無視し、全て右斜めに向く手紙に笑った。
「枠の意味無いわな。」
「此れは酷いね…」
「しゃぁないやろ。斜め向くんや。」
「性格が傾斜してる何よりの証拠だね。」
こんな手紙返す、と押し付け、押し付けられた廉太郎はごみ箱に捨てた。
ホームに行く迄の並びは矢張り、廉太郎、美奈子、侑徒を挟んで隆臣だった。廉太郎が隆臣の横に並ぶと云う考えは昔から無い。廊下の時みたく美奈子は侑徒にべったり張り付き、負けじと隆臣も腕を掴んだ。
「諦め悪いよ、鳥の巣っ」
「良いんですよぅ。アンタこそ離れ為さいよっ。侑徒嫌がってるじゃんっ」
「はあ?美奈子にだよっ」
「違うね、侑徒は優しいもんっ。ねえ、侑徒っ」
「へぇ…」
曖昧に返事したが実際双方から離れて貰いたかった。一人で何の障害も無く歩くのが侑徒は昔から好きだった。幼少時代も、危ないからと叔父は手を引こうとするが、一人でさっさと歩く。いやんあはんべたべたと歩くのが好きなのは、此の二人だけである。交際時も二人は腕を絡め、手迄も絡め、いやんあはんと歩いて居た。本人達は良いだろうが、四年間見せ付けられた廉太郎は吐き気しかしなかった。
何がいやんあはん、ねえ君、ねえ貴方、や。男なら前を歩きな、女なら下がって歩きな。何がいやんあはんや。
勿論廉太郎、戦争半ばに(京都には終戦暫くして)入って来た、欧州のレディーファーストたる習慣は大嫌いである。
女子に気ぃ使って自滅するんは、男の方やで…。やから家でもでかい顔しはんねんっ、ええい、何がレディーファーストや。だったら先に死ね。
何時の時代も、先に死ぬのは男の方である。
そんな、いやんあはんねえ君ねえ貴方、な三人から数歩下がり廉太郎は歩いた。こんな人種と知り合いに思われたく無い一心だ。
電車が着く前にホームに居る予定だったが、時間を相当食ったのだろう、丁度電車は着た。
「うわ、ギリギリ…」
電車の風に隆臣は目を細めた。
「駅弁は?要るぅ?」
美奈子は聞いたが、要らないと返され、ふて腐れた顔に皆で笑った。
此れが四人で会う、本当の最後。
其々思いがあるのか、黙って電車を見て居た。
『一時発、大阪経由博多行き、二分後発車致します。御乗車の御客様は………』
雑踏の中にアナウンスは流れ、三味線を担ぎ直した隆臣は電車に乗った。三人を流しで見、真ん中に立つ侑徒を見詰めた。
切り取りたいと思った風景は、一年と云う長さでしっかりと切り取れた。小首傾げ自分を見上げる侑徒に顔が歪み、「ゆわんといかん事、あると違う?」と廉太郎に促された。
美奈子は顔を逸らし、傷を見ない様にした。
「俺ね、侑徒。御前に云わないと行けない事がある。」
又一度、アナウンスが流れた。
真っ白な頬に触れると、侑徒の目から涙が溢れた。
「愛してる…」
何方が引き寄せる訳でも無く、二人の顔は近付き、発車ベルが鳴り終わる迄キッスをした。
『確認、ドアー閉まります。』
後方の車掌が笛を鳴らした。
「愛してる、隆臣…」
「良かった…」
両思いだね、俺達―――。
唇を離し、一度見詰め合うと廉太郎が半分乗り込む侑徒の身体を車内から出した。
『発車致します。』
空気抜かし乍らドアーは閉まり、隆臣は張り付いた。
「会えて良かった、愛してるよ。侑徒…」
「抜かしなや…」
「元気で居て、笑ってて…っ」
電車を追う事はせず、ホームに座り込んだ侑徒に合わせ二人はしゃがんだ。髪は隆臣に付いて行く様に靡き、運転席から上体出す車掌が三人の頭上を通り過ぎた。残ったのは跡形も無い唯広い線路と、電車の匂い。其れと、初恋の儚さだった。
初恋の儚さは桜に似て居る。
隆臣が行った頃、其の初恋(師匠)は待って居る。
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