敬作の目
翌日は日曜でした。今日も皆さんは働いてらっしゃる。然し昨日の事があり、素直に寝て居ました。友人である雄一の新刊を眺めますが内容はさっぱり頭に入りません。無駄に頁を捲って居ると玄関の戸が叩かれました。
私の家は、質素の極み。六畳二間の、便所は共同、風呂無し家です。風呂は歩いて十分程の場所にある銭湯に毎日、帰り際行きます。休みの日は面倒なので、用事が無い限り行きません。特に今は冬、炬燵からは出ません。
あ、おぜうさん。軍とは、一週間風呂に入れない事も普通なので、汚いとか思わないで頂きたい。
私は昨日のショックでずぼらにずぼらを重ね、炬燵から返事をしました。
「開いてます。」
「知ってるよ。」
顔を現したのは何と、雄一と其の息子清人ではありませんか。私は此の清人が可愛くて堪らず、でれでれ顔面綻ばし、漸く炬燵から出たのです。
「居るのに鍵掛ける奴じゃないよな、敬作は。」
下手したら留守でも掛けないのに、と外国製の背広姿で靴を脱ぐ雄一は何だか窮屈そうで、滑稽。雄一宅の玄関は、私が今寝ている場所より広いのです。華族の公爵が、こんな場所に居る事自体が私の口元に笑顔を運びます。雄一宅の便所の方が、玄関…いいえ、私の家より広いかも知れません。
「敬作さん、今日は。」
雄一の後に清人が靴を脱ぎ、きちんと揃えると炬燵に入り込みました。清人、炬燵が大好きなのです、家に無いので。
「奥様は元気?」
三人入ると、炬燵の中はてんやわんや。誰の足か判りません。
「暫く会ってないな、私は今別邸に居るから。」
小説家の篭りが始まった様です。其の、小説を書くだけの別邸、言わずもがな、此の家より広い勿論、風呂も便所も付いて居る、戸建です。
今日は息抜きで清人と出掛けに行ったらしいのです。
清人の持つ大きな箱、三越の包装紙が巻かれて居ます。
おやおや、其の中には一体どんな秘密が詰まっているやら、敬作小父さん、興味津々です。屹度素敵な夢が詰まって居ます。
「ほら。」
蜜柑の乗るテーブルに、金細工のライターとシガーケースを置いた雄一は、背広の内ポケットから小振りな箱を投げて寄越しました。
「何?」
「あげるよ。」
雄一は、人に物を贈るのが非常に好きな金持です。ケチな金持が中には居ますが、雄一は湯水の如く金を散蒔くのです。一度、末端のキャバレーで(梯子掛け捲った銀座からの帰りで雄一は上機嫌)文字通り札束散蒔いた事が、本当にあります。閉店間近の、疲れ切った化粧浮いた、此の世の楽しみって何よ?と陰湿たる雰囲気纏うホステス達が、一瞬でぱっと明るい表情に為ったのです。
――酒は楽しく飲まないとっ、さあ拾い為さいっ、拾って子供と遊び為さいっ。足らないか?だったらもっとだっ、さあ使えっ。私の代わりに沢山使って、景気を良くさせろっ。大日本帝國万ざぁあいっ――
末端のホステス何てのは大概子持ちですから、雄一は、清人と遊べない鬱憤をホステス達に託したのです。私も一枚、失敬しました。
札の雨に皆浮かれ、客も拾って居ました。銀座は其の侭銀行から引き落としますので、何故トランク一杯に金を詰めて居るのか不思議ではありました。
――花の浮世じゃ、さあ拾え――
雄一は半年に一度、こうして慈善活動をして居ます。銀座のクラブで散蒔く等品がありませんから。金のある場所に金を散蒔いても詰まらない、が雄一の持論です。
「何だ、此れ。」
「開けて見れば?」
カキンと、ライターの音が響き、煙が渦巻きます。開けて出て来たのは銀細工のタイピン、雄一の事ですから御高いのでしょう、繁々眺めたのです。指先に銀の冷たさを、鼻に付けて匂いを嗅ぎました。
「有難う、でも、俺はタイを締めないよ。」
ペーパークリップにでもし様か考えておりますと、紫煙の向こうから雄一の険しい顔が向けられました。
「は?何でです?」
「背広を着る時何て、余り無いから。」
雄一の様に日がな一日背広姿ではありません。私は、軍服です。
「軍服にタイあったでしょう?」
「其れは雄一…黒軍服の方々だよ…」
云って私は、壁に吊り下げる軍服を指しました。白の詰め襟、元帥章が艶めかしい光を放って居ます。
「………うん、如何やら私は思い違いをして居た様です。」
「あはは。」
此の軍事批判家、頭にある軍服は黒の様子。けれど、親友の軍服を忘れるのも、小説家として如何かな、と思われます。
タイピンだけを渡しに来た雄一は、茶も飲まず、煙草一本吸うだけで腰を上げました。
名残惜しい、清人が、名残惜しいのです。
「あのさ、雄一。」
「ん?」
「夕方位に、送ろうか?清人。夕食、外で食べて。」
「………有難い…っ」
別宅に居ると云う事は、自宅から正反対の方向に行かなければ為りません。私の家は、両宅の中間にあります。自宅に清人を送り、別宅に着く迄の時間凡そ二時間、缶詰の今、其の二時間は惜しい様思います。私の今から別宅は一時間も掛からないので、私は云ったのです。
其れに…。
昔は仲の良い夫婦でしたが、擦れが生じ、顔を付き合わせれば喧嘩の絶えない夫婦と為りました。清人も自宅に居ても誰も相手にして呉れない、まるで昨日の私の様な扱いですから、清人の為にも私は云いました。
「幾ら遅くても構わないよ、如何せ麗子さんは居ないんですから。」
「又、居ないの…」
「嗚呼、又。彼女の仕事は育児放棄と折檻ですから。」
父親も多忙、母親も居ない、清人が哀れで為りません。私の家は貧乏でした、金はありませんでした、ですが、母は必ず居ました、清人は真逆なのです。金はあっても愛は無いのです。豪邸に住み、沢山の使用人が居て、有り余る冨を持って居るのに、清人は満たされないのです。常に虚無感を感じて居るのです。
雄一も又、そんな一人だったのです。
ですから雄一は、時間がある時は必ず一緒に居ます。孤独の虚無感を、人一倍知って居るのですから。
雄一はテーブルに札を二枚置き、残さず使えと、無理難題と清人を置いて出ました。
包装紙を撫でる、そんな清人の小さな頭を、私は撫でたのです。寂しさを沢山沢山詰め込む頭を、沢山沢山撫でたのです。
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