
止まれない足(11/30)

夜の稽古場は静かだった。
障子の外では風が木々を揺らし、葉擦れの音だけが遠く響いている。
彩艶は一人、木刀を握っていた。
踏み込む。
一撃。
二撃。
三撃。
止めずに繋ぐ。
流す。
――ヒュッ。
だが四撃目で軌道が僅かに乱れる。
呼吸も崩れた。
「……っ」
彩艶は小さく息を吐き、木刀を下ろす。
腕が重い。
掌も熱を持って痛む。
彩流はまだ未完成だった。
安定しない。
長く保てない。
少し崩れるだけで、全部乱れそうになる。
それでも。
止まりたくなかった。
彩艶は呼吸を整え、再び木刀を構える。
その時だった。
「……彩艶ちゃん」
入口から声がした。
彩艶が振り返る。
蜜璃が立っていた。
薄い羽織を羽織ったまま、静かにこちらを見ている。
彩艶は少しだけ目を伏せた。
「……起こしましたか」
「ううん」
蜜璃はゆっくり首を振る。
けれどその表情は、いつもの明るさより少し静かだった。
彩艶は木刀を握り直す。
少し沈黙が落ちる。
風が吹き、髪が揺れた。
蜜璃は彩艶の木刀を見る。
擦れた掌。
乱れた呼吸。
震える腕。
それでも振るうことをやめない姿。
胸の奥が、少し苦しくなる。
「……本当はねぇ」
蜜璃がぽつりと零す。
「もう少し、ゆっくりでいいって思ってたの」
彩艶の指先が僅かに止まる。
「もっと体も作って、もっと安定してからって……」
蜜璃は笑おうとする。
でも少しだけ、上手く笑えなかった。
「だって彩艶ちゃん、まだ小さいしぃ」
冗談みたいに言う声が、少しだけ震えていた。
彩艶は静かに視線を落とす。
自分でも分かっている。
まだ足りない。
彩流は不安定だ。
真正面から押し切れるほど強くない。
鬼を斬れる保証なんて、どこにもない。
怖い。
最終選別。
鬼。
死。
考えるだけで、胸の奥が冷える。
それでも。
彩艶はゆっくり木刀を握り締めた。
「……行きます」
静かな声だった。
蜜璃の呼吸が止まる。
彩艶は少しだけ俯く。
「怖いです」
「鬼も、死ぬのも」
「ちゃんと斬れないのも」
正直な言葉だった。
強がりはなかった。
だからこそ、重かった。
彩艶はゆっくり顔を上げる。
黒い瞳が、まっすぐ蜜璃を見る。
「でも」
小さく息を吸う。
「今止まったら、もう踏み込めなくなる気がして」
風が吹く。
静かな夜だった。
蜜璃は何も言えなかった。
まだ幼い。
細い。
傷だらけの手。
それなのに。
その瞳だけは、もう前を向いていた。
蜜璃はゆっくり目を伏せる。
止めたい。
行かせたくない。
もっと守っていたい。
でも。
もう分かってしまっていた。
この子はきっと、止まらない。
蜜璃は小さく笑う。
少しだけ泣きそうな顔で。
「……そっかぁ」
そしてゆっくり、彩艶へ近づいた。
そっと頭へ手を乗せる。
「じゃあせめて、ちゃんと帰ってきてねぇ」
柔らかな手だった。
その温度が、胸の奥へ静かに沈んでいく。
彩艶は小さく頷く。
「……はい」
夜風が、二人の間を静かに吹き抜けた。
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月下彩譚