
黒羽の知らせ(10/30)

数日後。
昼下がりの蜜璃邸は静かだった。
庭先では風に揺れた花がさらさらと音を立てている。
彩艶は縁側へ座り込み、擦れた掌へ布を巻いていた。
連日の訓練で皮膚は何度も裂けている。
それでも木刀を握れないほどではない。
指を動かしながら彩艶はぼんやりと庭を見る。
あの日から、彩流の感覚は少しずつ身体へ残るようになっていた。
まだ不安定だ。
長く続かない。
呼吸も乱れる。
けれど、完全に消えることはなくなってきている。
その時だった。
バサバサッ――
羽音。
彩艶が顔を上げる。
黒い影が空から降り、庭木へ止まった。
鎹鴉。
蜜璃の鴉だった。
「どうしたのぉ?」
蜜璃が声をかける。
鴉は嘴を開いた。
「最終選別前倒シ開催」
空気が変わる。
彩艶の指先が止まった。
「隊士不足ニヨリ、次季開催予定ヲ変更」
「参加者少数ニテ実施」
「候補者ハ速ヤカニ準備セヨ」
蜜璃の表情が、ほんの僅かに強張った。
前倒し。
つまり。
予定より早い。
本来ならまだ時間があった。
もっと鍛えられた。
もっと身体を作れた。
もっと。
蜜璃の頭の中でそんな言葉が何度も浮かぶ。
だが。
彩艶は黙ったまま、鎹鴉を見ていた。
胸の奥がゆっくり冷えていく。
最終選別。
鬼のいる山。
死ぬかもしれない場所。
理解している。
怖い。
喉の奥が少し詰まる。
それでも、不思議と逃げたいとは思わなかった。
むしろ静かに、何かが沈んでいく感覚があった。
――来た。
そんな感覚。
鴉は必要事項だけを伝えると、再び羽を広げて飛び去っていく。
羽音が遠ざかる。
静寂。
蜜璃はしばらく黙ったまま、庭を見ていた。
そして。
「……早すぎるよぉ」
小さく零す。
その声は、今まで聞いたことがないくらい弱かった。
彩艶は視線を落とす。
自分でも分かっている。
まだ未完成だ。
彩流も安定しない。
体力も足りない。
真正面から押し切れるほど、強くもない。
それでも。
ここで止まれば、きっとずっとこのままだ。
彩艶は掌へ巻いた布を、ぎゅっと握る。
蜜璃がゆっくり振り返った。
「彩艶ちゃん」
声が揺れていた。
「本当はねぇ、もう少し……もう少しだけ、鍛えてからって思ってたの」
蜜璃は笑おうとする。
でも少しだけ、うまく笑えない。
「だってまだ小さいし、細いし、無理しちゃうしぃ……」
途中で言葉が弱くなる。
行かせたくない。
その気持ちが、痛いほど伝わった。
彩艶は少しだけ俯く。
優しい。
本当に。
優しい人だと思った。
だからこそ。
逃げたくなかった。
彩艶はゆっくり顔を上げる。
黒い瞳が、まっすぐ蜜璃を見る。
「……行きます」
静かな声だった。
でも。
迷いは少なかった。
蜜璃の呼吸が止まる。
風が吹く。
花びらが一枚、縁側へ落ちた。
彩艶は小さく続ける。
「怖いです」
「鬼も、死ぬのも」
「ちゃんと斬れないのも」
声は震えていない。
ただ、正直だった。
「でも」
彩艶はゆっくり息を吸う。
「逃げたままだと、ずっとこのままな気がするんです」
蜜璃は何も言えなかった。
まだ幼い。
まだ弱い。
それなのに。
その瞳だけは、もう前を向いていた。
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月下彩譚