
ほどけた涙(13/30)

朝だった。
障子越しの光が、部屋を淡く照らしている。
空気はまだ少し冷たく、静かな朝だった。
彩艶は支度を終え、部屋の中央へ静かに座っていた。
胸の奥が落ち着かない。
眠れなかったわけじゃない。
けれど、浅い眠りを何度も繰り返した。
目を閉じる度、藤襲山の暗い景色ばかり浮かんでいた。
鬼。
夜。
死。
考えないようにしても、頭の奥へ滲んでくる。
その時。
「彩艶ちゃ〜ん?」
襖が開く。
蜜璃がそっと顔を覗かせた。
「もう準備できてるぅ?」
彩艶は小さく頷く。
「はい」
蜜璃は部屋へ入ると、彩艶の前でしゃがみ込んだ。
そしてふわりと笑う。
「じゃあ最後にねぇ、髪結ってあげる!」
彩艶が少し目を瞬く。
「……髪?」
「うん!」
蜜璃は嬉しそうに頷いた。
「長いと戦いにくいし、ちゃんとまとめた方がいいもん!」
明るい声。
きっと、少しでも普段通りにしようとしている。
彩艶は静かにその場へ座り直した。
蜜璃が後ろへ回る。
さらり。
黒髪へ櫛が通る。
その瞬間だった。
彩艶の呼吸が、ほんの少し止まる。
優しく梳かれる感覚。
絡まないように、丁寧に指で解く手。
その温度が。
あまりにも、昔と似ていた。
蘇る。
母の手。
女中の声。
花の香り。
静かな朝。
『お嬢様、少しじっとしてくださいませ』
『今日は藤を飾りましょうか』
柔らかな笑い声。
穏やかな光。
何気ない日々。
明日が来るのが、当たり前だった頃。
そして。
血の匂い。
崩れる音。
震える視界。
『彩艶、動かないで』
母の声。
優しかった声。
でもあの日だけは、必死に震えていた。
『大丈夫だから』
その言葉の意味を。
彩艶は今になって、理解してしまう。
ぽたり。
膝へ涙が落ちた。
彩艶は目を見開く。
止まらない。
次々に視界が滲んでいく。
「……っ」
声がうまく出ない。
頭では分かっていた。
皆もういない。
戻れない。
帰れない。
でも。
本当はどこかで、まだ続きがある気がしていた。
また朝が来れば。
またあの日常へ戻れる気がしていた。
けれど違う。
もう誰もいない。
死んだのだと。
ここで初めて、彩艶は身体で理解してしまう。
肩が小さく震える。
声を殺すみたいに、彩艶は泣いた。
蜜璃は驚いたように目を瞬く。
けれど、何も言わない。
ただ静かに、彩艶の背中へ手を添える。
「……大丈夫」
柔らかな声だった。
彩艶はしばらく俯いたまま、涙を零し続ける。
怖かった。
悲しかった。
寂しかった。
そして。
戻れないことが、苦しかった。
やがて少しずつ呼吸を整え、彩艶はゆっくり顔を上げる。
蜜璃が結ってくれた髪へ、そっと触れた。
綺麗にまとめられている。
戦うための髪。
もう、昔へ戻るためのものじゃない。
彩艶は小さく息を吸う。
そして静かに口を開いた。
「……行ってきます」
蜜璃の目が少し潤む。
それでも笑った。
「うん」
「待ってるねぇ」
朝の光が、静かに二人を照らしていた。
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月下彩譚