
花の灯る屋敷(3/30)

夜道を歩きながら、彩艶はずっと黙っていた。
繋がれた手だけが、現実に残された唯一の感覚みたいだった。
風が冷たい。
でも、蜜璃の手は温かい。
その温度を離したくなくて、彩艶は無意識に少しだけ握る力を強くした。
甘露寺蜜璃は、それに気付いたのか気付いていないのか、ふわりと笑う。
「もう少し歩くけど、大丈夫?」
彩艶は小さく頷いた。
歩いて。
歩いて。
夜の闇を抜けるように、ただ前へ進む。
頭の中は、まだ上手く整理できていなかった。
鬼。
血。
冷たくなった手。
全部が遠くて、全部が鮮明だった。
思い出したくないのに、勝手に浮かぶ。
でも。
今は立ち止まりたくなかった。
止まったら、あの光景に追いつかれそうだったから。
ふと、蜜璃が前を見て嬉しそうに声を上げる。
「着いたわ!」
彩艶が顔を上げる。
そこにあったのは、大きな屋敷だった。
夜の中でも分かる。
庭に咲く花の色。
風に揺れる木々。
柔らかな灯り。
暗い夜の中なのに、その場所だけ少し違って見えた。
「……綺麗」
ぽつりと零れる。
蜜璃がぱっと振り返った。
「でしょう!春はもっとすごいのよ!」
嬉しそうに笑う顔が、妙に眩しい。
門をくぐる。
その瞬間、彩艶は少し目を見開いた。
空気が違う。
花の香り。
木の匂い。
縁側が風で小さく鳴る音。
人が暮らしている音。
そこには、ちゃんと“生活”があった。
彩艶は思わず周囲を見回す。
庭には季節の花が咲いている。
淡い色の花弁が、夜風に揺れていた。
廊下には柔らかな灯り。
障子越しの明かりが、床へ温かく落ちている。
さっきまでいた場所とは、まるで別の世界みたいだった。
――まだ、こんな場所があるんだ。
そんなことを思う。
蜜璃はそんな彩艶を気にした様子もなく、明るく振り返った。
「寒くない?早く中入りましょ!」
引かれるまま、屋敷へ足を踏み入れる。
中はさらに温かかった。
花柄の小物。
淡い色の座布団。
棚に飾られた小さな置物。
どこを見ても、優しい色で出来ている。
彩艶は少しだけ戸惑う。
こんな空間に、自分が居ていいのか分からなかった。
でも。
不思議と、怖くはなかった。
廊下を歩きながら、蜜璃が楽しそうに話す。
「こっちはお庭がよく見えるの!」
「朝はね、鳥がいっぱい来るのよ!」
声が明るい。
無理に励まそうとしているわけじゃない。
ただ、いつも通りに接している。
そのことが、少しだけ息をしやすくしてくれた。
やがて蜜璃が少し小さめの建物の引き戸を開ける。
「今日はここ使って!」
そこは綺麗に整えられた離れだった。
窓の外には庭が見える。
机には小さな花が飾られていた。
彩艶は静かに離れを見回す。
落ち着く匂いがした。
「……ありがとうございます」
掠れた声でそう言うと、蜜璃はふわりと笑う。
「うん!」
その笑顔を見ていると、少しだけ。
本当に少しだけ。
張り詰めていたものが緩む気がした。
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月下彩譚