
花の香る夜(4/30)

引き戸が閉まる音がして、部屋に静けさが戻る。
彩艶は入口に立ったまま、しばらく動けなかった。
案内された離れは広い部屋だった。
綺麗に整えられた畳。
机の上に飾られた小さな花。
窓の外では、夜風に揺れた木々がさわさわと音を立てている。
落ち着く匂いがした。
花の香り。
木の匂い。
どれも、自分の家とは違う。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
彩艶はゆっくり部屋へ上がる。
足裏に畳の感触が伝わる。
その瞬間、ようやく少しだけ実感した。
――もう帰れない。
胸の奥が、ずしりと重くなる。
でも。
涙は出なかった。
悲しいのかどうかも、まだよく分からない。
ただ頭の奥に、血の色だけが焼き付いている。
ぼんやりと立ち尽くしていると、再び障子が開いた。
「お茶持ってきたわ!」
明るい声。
甘露寺蜜璃が湯呑みを両手に持って立っていた。
ふわり、と甘い香りが広がる。
「熱いから気を付けてね!」
机の上に湯呑みを置きながら、蜜璃がにこにこと笑う。
彩艶は小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「あと、お腹空いてない?」
その言葉に、彩艶は少しだけ目を瞬かせる。
空腹。
言われるまで、考えもしなかった。
分からない。
お腹が空いているのか。
何かを食べたいのか。
そもそも、自分が今どうしたいのか。
彩艶が黙り込むと、蜜璃は「あっ」と声を漏らした。
「ご、ごめんなさい!」
慌てたように手を振る。
「今日は色々ありすぎたわよね……!」
その慌て方があまりにも必死で、彩艶は思わず瞬きを繰り返した。
蜜璃はさらにおろおろする。
「えっと、お茶だけでも飲めそう?」
「……ふふ」
気付けば、小さく笑いが漏れていた。
蜜璃がぴたりと止まる。
「……笑った」
「……すみません」
「違うの!」
蜜璃はぱっと顔を明るくした。
「ちょっと安心したの!」
その笑顔を見ていると、不思議と肩の力が抜ける。
彩艶は湯呑みに手を伸ばした。
じんわりと熱が伝わってくる。
温かい。
その温度が、少しだけ現実を薄めてくれる気がした。
夜は静かだった。
部屋に一人になると、余計に静けさが際立つ。
布団へ入っても、なかなか眠れなかった。
目を閉じる。
するとすぐに、あの光景が浮かぶ。
血。
鬼の目。
冷たくなった手。
ぐちゃり、と響いた音。
「っ……」
呼吸が浅くなる。
胸の奥がざわつく。
でも。
涙は出ない。
怖かったはずなのに。
苦しかったはずなのに。
感情だけが、どこか遠い。
彩艶はゆっくり目を開けた。
障子の向こうに、淡い灯りが見える。
風が揺れる音。
微かな花の香り。
それだけが、
――ここはもう、あの場所じゃない。
と教えてくれていた。
彩艶は小さく息を吐く。
そして、ぼんやりと天井を見つめながら目を閉じた。
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月下彩譚