
朝露の匂い(5/30)

翌朝。
「おはよう〜!」
勢いよく襖が開いた。
朝の日差しが一気に差し込み、彩艶は思わず目を細める。
眩しい。
昨夜はあまり眠れなかった。
何度も浅く目が覚め、その度に血の色が頭を過った。
けれど今は、それを考える暇もない。
部屋の前には、すでに支度を終えた甘露寺蜜璃が立っていた。
「今日からお稽古するわよ!」
朝から元気だった。
その声だけで空気が少し明るくなる。
彩艶はまだぼんやりした頭のまま身体を起こす。
「……もう?」
「もちろん!」
蜜璃は胸の前で拳を握った。
「基本ってすっごく大事なんだから!」
その勢いに押されるように、彩艶は小さく頷く。
止まっているわけにはいかなかった。
着替えを済ませ、蜜璃の後について廊下を歩く。
朝の蜜璃邸は、夜とはまた違う空気だった。
障子から差し込む柔らかな光。
庭を渡る風。
鳥の声。
花びらの落ちる音まで聞こえそうなくらい静かだった。
やがて辿り着いたのは、屋敷の奥にある広い稽古場だった。
木の匂いがする。
朝露を含んだ空気がひんやりしていた。
床は綺麗に磨かれている。
彩艶は思わず周囲を見回した。
ここだけ少し、空気が違う。
静かだけれど。
昨日までの“普通の生活”とは違う場所。
蜜璃が木刀を持ち上げる。
「まずは立ち方からね!」
そう言って軽く構えてみせた。
動きは柔らかいのに、隙がない。
彩艶はその姿をじっと見る。
足の向き。
肩の位置。
重心。
呼吸。
どこに力が入っているのか。
視線が自然とそこへ向かっていた。
「はい、彩艶ちゃんもやってみて!」
木刀を渡される。
思ったより重い。
手に馴染まない。
ぎこちなく握ると、蜜璃が後ろから覗き込んだ。
「あっ、そこ力入りすぎ!」
「……っ」
慌てて握り直す。
でも今度は不安定になる。
上手くできない。
足もふらつく。
身体が思うように動かなかった。
蜜璃はそんな彩艶を見て、困ったように笑う。
「最初はみーんなそうだから大丈夫!」
そう言いながら、自分の足元を指差した。
「ほら、重心ここ!」
彩艶は視線を落とす。
――違う。
さっきと少し。
立ち方が変わっている。
無意識に口が動いた。
「……右足、少し後ろに下げました?」
蜜璃がぱちりと瞬く。
「え?」
「さっきより、重心が後ろ寄りです」
自分でも、なんで分かったのか分からない。
でも、見えた。
ほんの少しの違いだった。
蜜璃は数秒黙ったあと、目を丸くする。
「……ほんとだ」
そして、じっと彩艶を見る。
「今の、一瞬で見たの?」
彩艶は戸惑いながら頷いた。
「……なんとなく」
蜜璃の表情が、少しだけ変わる。
驚き。
でもそれ以上に。
何かを見つけたみたいな目だった。
それから稽古は続いた。
木刀の振り方。
呼吸。
身体の軸。
どれも難しい。
上手くできない。
腕はすぐ痛くなるし、足も震える。
それでも。
蜜璃の動きを見るのは、不思議と嫌じゃなかった。
柔らかくて。
綺麗で。
でも強い。
その動きを目で追う度に、
――もっと見たい。
そんな感覚が胸の奥に生まれる。
気付けば、彩艶は昨日より少しだけ前を向いていた。
まだ鬼殺隊ではない。
まだ剣士でもない。
でも。
鬼から目を逸らしたままでは、いられなかった。
朝の光が、稽古場へ差し込む。
その中で。
彩艶は初めて、鬼と向き合うための一歩を踏み出した。
- 5 -
*前次#
ページ:
月下彩譚