届かない刃(6/30)綴彩堂上線
朝靄の残る庭で、木刀のぶつかる音が響いていた。

まだ日も高くないというのに、彩艶の額にはうっすら汗が滲んでいる。
握った木刀は湿って滑りやすく、何度も握り直したせいで掌の皮が擦れて痛んだ。

「うーん……もうちょっとだけかなぁ」

向かい側で木刀を構えていた蜜璃が、小さく首を傾げる。

「今の動き、すっごく綺麗だったよぉ!でも最後がちょっと浅いかも!」

蜜璃は悪気なく笑った。

彩艶は息を整えながら、「はい」と小さく返事をする。

浅い。

その言葉は、この数日ずっと耳にしていた。

最初に蜜璃の剣を見た時、彩艶は本気で見惚れた。

柔らかく流れるような剣筋。
大きくしなやかに動く身体。
それなのに、一撃は重く、鬼の首を断てるほど鋭い。

こんなに綺麗な剣があるんだと思った。
だから彩艶は、蜜璃の動きを必死に真似した。
同じように踏み込み、同じように振る。

けれど


――届かない。


何度振っても浅かった。

「じゃあ次、もう十回やってみよっか!」

蜜璃はにこにこと笑いながら木刀を持ち直す。

「えっ……あ、はい」

「反復大事なの!いっぱい身体に覚え込ませちゃお〜♡」

その声は明るく、純粋に励ましてくれているのが分かった。
だから彩艶も頷く。

期待に応えたかった。
もっと上手くなりたかった。

「せーのっ!」

蜜璃が踏み込む。

――バキッ!!

木人へ深い裂け目が走る。

彩艶は思わず目を奪われた。

綺麗だった。
何度見ても。

まるで舞っているみたいなのに、威力がある。
それに比べて自分の剣はどうだろう。

彩艶は木刀を握り直す。

踏み込む。
振る。
木人へ打ち込む。


――バシッ!


鈍い音が響く。
だが残った傷は浅かった。

「うんうん! 最初よりずっと良くなってるよぉ!」

蜜璃が嬉しそうに笑う。

「この調子なら夕方もやれそうだね!」

「……夕方も?」

「うんっ! せっかくだし、今日は朝と夕方やろっか!」

蜜璃は楽しそうに続けた。

「筋肉も呼吸も、繰り返した方が身体に馴染むの!」

彩艶は一瞬だけ目を瞬いた。
けれどすぐ、「はい」と頷く。

本来なら驚くべき量だったのかもしれない。
だがその時の彩艶には、考える余裕すらなかった。

ただ、届きたかった。
蜜璃みたいに。
鬼を斬れる剣へ。

その一心だけだった。

昼頃には腕が重くなり始めていた。
踏み込みのたびに脚が軋む。
呼吸も乱れやすくなる。

それでも蜜璃は、「あと少し!」「今の良かったよぉ!」と明るく笑いながら稽古を続けた。

蜜璃にとっては、きっと普通だった。
努力家の彼女にとって、反復は当たり前なのだろう。
けれど彩艶の身体は、少しずつ限界へ近づいていた。

夕方。

茜色に染まった訓練場で、彩艶は再び木刀を振るっていた。

腕が震える。
掌が痛い。
呼吸が熱い。

それでも木刀を止めなかった。

「もっと踏み込んでみよっか!」

蜜璃の声が飛ぶ。

彩艶は強く地面を蹴った。
勢い任せに振り抜く。

その瞬間、体勢が崩れた。

「わっ――」

足が滑る。

身体が傾き、そのまま地面へ膝をついた。

「あぁっ、大丈夫!?」

蜜璃が慌てて駆け寄ってくる。
彩艶はすぐ立ち上がった。

「……平気です」

けれど、握った腕は小さく震えていた。

蜜璃の剣は崩れない。

あれだけ大きく動いても、軸が乱れない。
なのに自分は、少し強く踏み込んだだけで簡単に流される。

「ごめんねぇ……! ちょっとやりすぎちゃったかなぁ?」

困ったように眉を下げる蜜璃に、彩艶はすぐ首を振った。

「いえ……もっと、やれます」

その言葉に、蜜璃はぱっと顔を明るくした。

「ほんと!? じゃあ明日から朝練も増やそっか!」

悪意なんて一切ない、純粋な笑顔だった。
彩艶も小さく笑って頷く。

嬉しかったのだ。

期待してもらえることが。
必要としてもらえることが。

だから気付かなかった。

自分がどれだけ無茶を始めているのか。

訓練が終わる頃には、空はすっかり紫色に染まっていた。

彩艶は一人、屋敷の外れを歩く。

吹き抜ける風が火照った肌に冷たかった。
何度も木刀を振った掌は、じんじんと熱を持っている。

彩艶はふと立ち止まり、自分の手を見下ろした。

細い指。
小さな掌。
蜜璃ほどの力はない。

何度振っても浅い。
何度当てても足りない。
鬼を斬るには、届かない。

「……なんで」

喉の奥が熱くなる。

「なんで届かないの……」

夕陽が沈み、世界がゆっくり夜へ溶けていく。
その胸に残ったのは、憧れではなかった。


届かないという、静かな焦燥だけだった。
綴彩堂下線
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