名を得た流れ(9/30)綴彩堂上線
夕暮れだった。

山の斜面を橙色の光が染めている。
風が草を揺らし、乾いた葉がさらりと音を立てた。

蜜璃は木刀を肩へ乗せたまま、少し離れた場所から彩艶を見ていた。
ここ最近、彩艶は平地ではなく斜面ばかり選ぶ。

最初は転んでばかりだった。
足を取られる。
軌道が乱れる。
呼吸も続かない。

それでも毎日、飽きるほど同じ場所で木刀を振っている。
蜜璃はその姿を見つめながら、ふわりと笑った。

「ほんと頑張り屋さんだなぁ」

その呟きに、彩艶が小さく振り返る。

頬には汗。
呼吸も少し荒い。
けれど以前より、目が逸れなくなっていた。

彩艶は少し迷うように視線を落とす。

そして。

「……見てほしいものがあります」

蜜璃が瞬きをする。

「え?」

「まだ、ちゃんとできない時もあるんですけど……」

彩艶は木刀を握り直した。
その指には、何度も擦れた痕が残っている。

蜜璃は少しだけ姿勢を正す。

「うん! もちろん!」

柔らかく返しながらも、内心では少し驚いていた。
彩艶の方から“見てほしい”と言うのは珍しい。

彩艶は斜面へ立つ。

平地ではない。
少し傾いた足場の悪い場所。

そこへ静かに足を置き、ゆっくり呼吸を整える。

吸う。
巡らせる。
流す。

蜜璃の表情が少し変わる。
空気が違った。

彩艶は目を閉じる。

怖い。

まだ不安定だ。
途中で止まるかもしれない。
崩れるかもしれない。

それでも。

踏み込んだ。


ヒュッ――


一撃。

すぐ次へ繋ぐ。

二撃。

止めない。

流す。

三撃。

軌道が重なる。


斬撃が斜面を滑るように駆け抜けた。
風が遅れて揺れる。

蜜璃の目が僅かに見開かれる。

止まらない。
力任せじゃない。

けれど、流れそのものが次の斬撃を押し出している。

最後の一撃が抜けた瞬間。
彩艶の身体が僅かによろめいた。

呼吸が乱れる。
まだ長くは保てない。

彩艶は息を切らしながら、不安そうに蜜璃を見る。

「……まだ未完成です」

声は小さかった。

「呼吸も乱れるし、長く続かないし……」

視線が少し下がる。

「ちゃんと通り切れてるかも、まだ分からなくて……」

蜜璃は答えなかった。
ただ静かに、さっきの剣筋を思い返している。

流れる剣。
止まらない軌道。

自分の恋の呼吸とも違う。

もっと細く、繊細で、それでいて逃がさない流れ。

蜜璃はゆっくり瞬きをした。
そして。

ふわりと笑う。

「ううん」

彩艶が顔を上げる。

蜜璃はまっすぐ彩艶を見ていた。

「それ、もう立派な“型”だよぉ」

彩艶の目が大きく開かれる。

風が黒髪を揺らした。

「え……」

「まだ未完成でもいいの」

蜜璃は柔らかく笑う。

「ちゃんと彩艶ちゃんの剣になってる」

その言葉に、彩艶の呼吸が止まりそうになる。

蜜璃は続けた。

「私の真似じゃないもん」

「彩艶ちゃんにしかできない流れになってる」

夕陽が蜜璃の髪を透かす。
優しい声だった。

でも。

その目は、ちゃんと剣士を見る目だった。

彩艶は言葉を失う。
初めてだった。
自分の剣を、誰かに認められたのは。

胸の奥が、少しだけ熱くなる。

蜜璃はにこっと笑った。

「名前、つけたの?」

少し沈黙。

彩艶は木刀を握り直す。

そして小さく頷いた。

「……色の呼吸・壱ノ型」

呼吸を整える。

静かに、けれど確かに口にする。

「彩流、です」

蜜璃の顔がぱっと明るくなった。

「素敵ぃ……!」

本当に嬉しそうだった。
その笑顔を見て、彩艶の胸の奥が少しだけ軽くなる。

けれど次の瞬間。

蜜璃の表情が、ほんの少しだけ揺れた。

型になった。

それはつまり。

この子がもう、“鬼と戦う剣”を持ち始めてしまったということだった。

夕風が静かに吹き抜ける。

彩艶はまだ、その意味を知らなかった。
綴彩堂下線
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