過日
アルカの目に映るそれは見たことのない景色だった。明らかに初めて見る景色で、既視感などない。しかし、妙な確信があった。
わたしはこの星を知っている。
みたことのある色だった。みたことのある光だった。宙に浮く白い大きな星。知った構図だった。
知っている。
全身から力が抜けるような安心感──いい表し難い懐かしさ、そこに帰りたいのに帰れない恋しさ。……無力感。
────さすかだ!おれの自慢だよキョウダイ!────
反響する誰かの声。手を伸ばしたはずだった。そのとき、アルカは確かに『彼』の名を口にしたはずだった。伸ばした手は誰にも取られなかったし、返事も当然、なかった。
そこは広大な草原であった。埋め尽くすような星々がぼんやりとその広大な大地を照らしだしていた。農牧地であるそこは広大な大地と河川、そして生き物に恵まれていた。そこに生きる無数の家畜の食料となるため、根付く芝生は伸びすぎることがない。
川辺に一軒の家があり、窓のカーテンの向こうからわずかに光が漏れていた。玄関の前の芝生に父が腰を下ろし、空を見上げながらちいさなわたしをその膝の上であやしていた。
火星は雨が少ない。それに適応するために進化した足元を覆う芝生は、原産地たる地球のそれよりすこし硬いのだという。そんな芝生でも、わたしには十分に柔らかかった。ならば地球の芝生とは一体どれほど柔らかいのだろうか。綿のようなのか、それとも踏むとぺしゃんこに崩れてしまうのだろうか。父にそれを聞いたことはあったが、父は苦笑するだけで答えるには難しいと言う。そういうとき、父は決まってこう言う。『地球に行けばわかる』と。
父の膝の上から芝生で遊んでいると、わずかにあたりが明るくなった気がして、わたしはふっと空をふり仰いだ。
雲が晴れ、そこにはいっとう大きな星が浮かんでいた。
「――にも、ツキを見せてやりたいなぁ」
「……つき?」
「ああ」
そのいっとう明るい星から、父に目を向けた。父はまだ空を見上げていた。見上げる先にあるのは、火星を宇宙から飛来する太陽風や隕石等から守るための人工オゾン膜と、そのさらに向こうにある2つの大きな星だ。名前はフォボスとダイモス。火星の夜を照らす、大いなる星。
「そう。フォボスの3倍くらいあるのかな。それがね、ほぼ毎晩見える」
「落ちてこないの?」
「もちろん。むしろ、月はたくさんの小惑星から地球を守ってくれているんだから」
そしてすごく、明るいんだ。そう言って父はゆるりと口角をあげて笑った。美しいよ、と。
へえ、とわたしは実感なく返した。フォボスの三倍の大きさ、と言われても、たいした大きさには思えなかった。フォボスだけでも十分に明るい。火星に生まれ、火星で育ったわたしはそう感じていた。これ以上の明るさなんていらない。この景色の方が、『地球』よりずっときれいだと。
そりゃあ、絶景なのだろうけれど、きっと旅行先みたいに一度見れば満足してしまうような、そんな気がしていた。地球の話が多い父にムッとして、わたしは空から視線をそらして父に強くしがみついた。
「──?」
「わたし、こっちの方がいい。家があるもん」
不思議そうにわたしを呼んだ父に言った声はきっと不愛想そのものだった。それを聞いた父はしばしの間の後、ぷっと楽し気に噴き出した。何故笑われたのか分からなくて、とにかくその笑いにも腹が立ったのでさらに強くしがみついた。
「ごめんごめん。──を笑ったわけじゃあないんだ」
「……」
「──は…、……──の故郷は、ここだよな」
なんだか父のまとう空気が変わった気がして、わたしはゆっくりと顔を上げた。相変わらずやさしく笑っている父の口元が見えた。さらに視線を上げようとしたところで、ポスンと父の大きな手がわたしの頭に乗っかってわしゃわしゃとなでくり回した。
「そうだな…父さんも、帰ってくるならここがいい…!ふふ、お前はいいことを言うなあ」
たしかに笑ったのに、その顔が分からない。じり、と写真が燃えるように景色がどんどん見えなくなっていく。
……否、ここは、本当に火にのまれた世界だ。
パラパラという発砲音と爆音、何かが壊れる音ばかりがあたりに響いていた。目の前の父に手を伸ばそうとしたが、体は動かない。とても怖くて怖くて仕方が無いのに、すごく眠たかった。
「いいね、今からゆっくりお休み。起きる頃には月についてる」
「やだ、おとう、さ、ん……!」
「お父さんは、お母さんを迎に行かなくちゃ」
「や、おか、さ……とう……」
「だから、──、俺の最愛の子、待っててくれな。その間、いろんなことを知って、学び、そして……」
そして、わたしはのちに事実上の両親の死を知ることになる。
歩き方も忘れそうな失望のさ中、わたしは『彼』に出会うことになるけれど──
──?
『彼』って、誰?
「──…てたわけ!?」
「だってコイツ寝てたし…」
「はァ?」
ふと騒がしい声がして、アルカの意識が浮上した。瞼が重くてなかなか起きれない。起きろ!念じてやっと瞼がノロノロとあがった。昨晩、マストの下でサボと話をしていたところまではアルカとて覚えている。はていつの間に寝ていたのだろうとまだぼんやりとした視界を眺めた。木造の部屋、天井から無機質な灯りが吊り下がった室内。その灯りの下に無造作に置かれた長椅子で、サボとカーラが激しく口論していた。
「だからって医務室に転がしとくゥ!?普通!!」
「あー!うるせーうるせー!お前もコアラも寝てる時間じゃねーか!気ィつかったんだよ!!」
「起こせばよかったんじゃない!あたし医者よ!?」
「こないだ重傷患者に起こされてブチ切れてたの誰だよ!!!」
普段なら笑ってしまうようなやり取りなのに、すこしも笑えない。
父母は死んだ。アルカは己が戦争孤児だったということを再認識した。父母は戦乱のさなかに亡くなった。あの日、脱出艇にアルカだけを乗せた父ははぐれた母を探して殺戮の横行する街中へ戻った。目が覚めたときには、アルカは月の難民キャンプに転がっていた。
それから1ヶ月もしない頃、父の言いつけ通り父母を待っていたアルカの目に飛び込んできたのは、壊滅した故郷の映像であった。地域成層圏が完全に破壊され、凡そ人は生きることもできない地域となっていた。父母が、生きていようはずもなかった。
──こんな記憶、思い出したくなかった。
「カーラ…?」
出した声は思いのほか掠れていた。むくりと起き上がれば、アルカの目覚めに気が付いたカーラが心配げに目を向けていた。
努めていつも通りを振舞ったが、きっと上手くできていなかった。どうしたの、と神妙に訊かれてしまった。なんでもない。ただちょっと、いやなことを思い出してしまっただけで。
わたしが、父が、母が。何をしたというのか。
キャンプにいない全ての知人は故郷の景観とともに死に絶えていた。戦争があったことはテレビで知っていた。けれど、ただ日々を穏やかに過ごしていたかっただけの、日常の全ては唐突に奴らに──地球に、呆気なく破壊され尽くした。まるで悪い夢のように現実味がなかったそれらの出来事。それが現実だと受け入れる頃には、アルカは怨嗟に塗れた子どもになっていた。
あの日、“わたし”は正真正銘のひとりぼっちになった。
「カーラ大丈夫?なんか変だけど」
「あんたに言われたくない」
「ええ?」
誤魔化しはあまり効かなかったらしい。思わず苦笑いした。伊達に医者はやっていないようだ。
過去に思いを馳せるのは打ち切った。カーラに心配をかけるだけだ。起き抜けたわたしは毛布を畳んで使用済みケースのなかに放り込んだ。
「アルカ体調は?」
「悪くないよ、大丈夫」
「記憶は?」
「──…」
これが友人なら、気を利かしてなにも聞かないのだろうが、彼女は医者だ。それも軍医だ。ならば聞かないわけが無い。医者として。革命軍として。アルカから情報を徹底して引きずり出すだろう。
どう答えるべきか、迷った。全部を思い出したわけではない。なにせこれ以降の記憶は未だに思い出せていない。アルカに関係あったと思しき“プロメテウスの火”や“アリスタル”コス大学に関してもすこしも思い出せやしない。
だがここでなにも思い出していないとも言えない。なんとなく、カーラに嘘をつきたくなかったというのもある。
「……両親のことを、ちょっと」
それだけ。ぽつりと零した言葉に、カーラがわずかに目を見開いた。
「亡くなったの、たぶんちいさな頃よね?」
「あんまり思い出せてないんだけど、たぶん10歳にもなってなかったと…思う」
記憶喪失状態だから思い出せないのか、ちいさな頃だったから思い出せないのかが判然としない。ただ、募る気持ちは恨み辛みのようなネガティブなものばかりだ。きっと当時のままの、風化しないままの気持ち。
きっとこの感情を抱えて幾年も経ったはずだ。大学に入るまでになったその間に、立ち直ることもあったはずだとも思う。
「亡くなった時のことも思い出した?」
「…むしろ、その時をメインに思い出したというかなんというか…」
「うっわやなパターンねそれ」
「そうなの?」
「その時の気持ちがダイレクトに甦っちゃうもの」
ああ、なるほど。アルカは頷かずには居られなかった。今がまさにその状態だ。
アルカが“兵器”“争い”事を嫌うことは既に知っているだろう。地球に良い感情がないことも既に彼女の目の前で吐露している。アルカの心境もある程度察しているようだった。
「軽食を摂ってベッドで休みなさい。…食欲、わかないならせめてスープだけでも」
とても食べ物が喉を通る気分じゃない。そう思ったのが顔に出たらしい。カーラが仕方ないとばかりにアルカの頭を撫でた。
「ひとまず部屋に。スープはわたしが持って行くから」
「…分かった」
心配をかけた。一足先に医務室を出たカーラを見送ったのち、アルカも席を立った。
──月。
夜空にぽっかりと浮かぶ、やたらと眩い輝きを放つ星。衛星、というべきか。父がアルカに見せたかったもの。夜空を眩しいほどに照らす天体。
ちいさな頃に見ればきっと、美しいと感嘆出来たのだろうが。
「……やっぱり、火星の方がいいよ」
フォボスとダイモス。埋め尽くす星に先駆けて輝く二星が照らすあの大地こそ、アルカにとってはなにより美しかった。