かの空の色は

 思わずニックの襟首をつかんでがくがく揺らしまくった。申し訳ないと思わなくもないが、アルカはそれよりも目の当たりにした興奮には勝てなかった。
 わたしは悪くない。悪いのはこの広大な水の世界だ、と言って。

「あ、青!?!?めちゃくちゃ青いなにこれなにこれなにこれ!?!?でかい!!うっそでかすぎるていうか広い!なんなのこの貯水池!!」
「ち、ちょす、ちょすい…ぐる゛じい゛…」

 ガクリとニックから力が抜けた。明確な答えが返ってこなかったために、アルカは仕方ないとばかりにニックの襟をはなして水たまりの方へ駆け寄った。
 巨大、という言葉にも収まらないほどの水が、そこにあった。

 サボらが、いわゆる犯罪者集団であったことに目を回したアルカは例の医務室へ連れていかれていた。目が覚めたアルカはまず、あのトラウマ化しそうな女医と引き合わされ、長い問診と手探りな情報整理を行った。もう気が遠くなるような話で、頭がパンクしそうだった。見かねたサボが息抜きしてこいと言うので、何かと心配してくれていた兵士のニックの案内のもと甲板に出た。はてのない貯水湖がそこにあった。そう、いわゆる『海』だ。海といえば地球だ。地球の大半を占めるといわれる、広大な水の世界を何となく知っている。だが、見るのははじめてだ。

「(やっぱり、ここは地球か…?)」

 生命の起源たる地球。海があり、空が青いのならそうなのだろう。
 見上げると、そこには太陽がある。目を潰さんとするようにまぶしくて、じりじりと肌にダメージを与えてくるかのようだった。太陽の画像を見たことはあった、と思う。けれど、こうしてその光を生身で浴びるのはきっとはじめてだ。妙な確信を覚えつつ、わたしは天井のない、青く高い空を見上げつづけた。
 地球は青い。それは知っていた。けれど、地球から見た空もまた青かった。正直見慣れない。まるで写真の世界だ。とても不思議な気分である。しばらくはぼんやりと空を見つめていたが、段々と首が痛くなってきたので視線を下げた。
 続いて海に焦点をあわせたアルカは、その底を見んと舷に近づくが、底が見えない海が怖かったので2、3歩離れた所から眺めることとする。
 生命の起源は海にあるという。正確には水の有無で生命の誕生が可能か否かが決まる。…とされている。いまだに人類は他惑星起源の生物と相対したことはない。

「……こういうことは、ポンポン出てくるのになあ…」

 自分に関係あることはてんで出ない。
 しかも、そうしたポンポン出てくる事柄のほとんどが、この革命軍の人々にとっては奇妙なことばかりだったようだ。また見上げた空には人口物などない。もちろん、その空の彼方にもない。
 じりじりと照り付けてくる太陽の光を、雨でも受けるように掌を天に向けた。吹く風は周囲の水分量の所為か少しじめっぽい。独特の水の臭いがして、全くもって嗅ぎなれない。むしろ一瞬は臭いとすら思った。臭いごと身体にまとわりつくようで、この調子だと毎日二回はシャワーだな、と内心でちいさく呟く。しかし、不思議とそれを嫌だとは思わないのだからおもしろい。本能的な部分だろうか。こんな臭いやじめっぽさに囲まれるのは心底ごめんなのだが、意思に反して身体がどこか喜んでいる。なんだか体がすっきりしてかるい気がするのだから不思議だ。


「あ、きみ!」

 突然かけられた声に、びくりと肩を揺らして見てみれば、なんとも可愛らしい顔立ちをした女性が立っていた。何故話しかけられたのか分からずその女性を見ていると、やっと回復したニックさんが後方で「あ…」と弱弱しい声を漏らした。

「わたしコアラ!よろしくね!」
「…あ、ああ、うん、よろしくお願いします。…あ、わたしは。ええと、アルカです」

 気さくな性格らしいコアラさんは人好きする笑みを浮かべてアルカのすぐ近くに立って覗き込んだ。その素晴らしいプロポーションに、アルカは思わず視線をうろつかせた。
 戦闘員が多いのか、この船の乗組員は皆屈強だとは思うが、それにしては大柄な人が多い。女医たちも総じて身長が高い。正直見慣れない。呼ばれて振り返って見ても、相手の顔の位置が想定よりずっと高くて視線を合わせるのにワンテンポ遅れたり、いまだに一瞬はびくつくときがある。

「アルカちゃんね、覚えた!困ったことがあれば是非言ってね」
「は…はい…」

 そういえばサボと同じで帽子にサングラスという出で立ち。何か関係あったりするのだろうか。
 地味にしどろもどろなアルカなど知らない様子で、コアラはぐいぐい近づいて不思議そうにアルカを観察しだした。

「ところで、何してたの?」
「え、ああ…。うーん、たぶん、わたし、海とかはじめて見たと思うんですよねえ…」
「…へ?そうなの?」
「うん。ちょっと感動しちゃったなあ…壁もなければ天井もない、はてもないから」
「あははは!そりゃあ海だもん!!」

 海だから。果てがないことも、底が見えないことも、この壮大な景色も、そんな簡単な言葉で片付いてしまう。

「昼間の空が青いって本当だったんですね」
「え?」
「あっ…ああと、あ、そっか。当然ですよね。…すみません、こんなにはしゃいじゃって」

 大気の性質と光の性質を思えば日中の空が青いのはどう考えても当然だった。そう、地球は昼間の空が青く、夕暮れが赤い。騒ぎすぎたな、とすこし反省した。コアラはというと、人差し指を頬に当てて少し考えた様子だった。
 それから、直ぐににっこりと笑う。

「ふふ、知らないことはね、これから知っていけばいいんだよ!」

 ぱっと笑う彼女の、なんと眩しいことか。
 正直、驚いた。

 そして、すこしだけ。ほんのすこしだけ、安心した。

「……そっか」
「そうだよ!わからないことは知ればいいの!知ることは悪いことじゃないよ!」

 そっか。そうだよね。そりゃそうだ。
 ひどく納得して、アルカは思わず口元が緩む。知ればいいんだ。

「とくに、この海のことは知っていないと命取りなこと、多いよ!いわゆる異常気象、天変地異が常識なんだから!」
「へ、へえ…」

 それってつまり…どういうことだ?何か想像しえないことがよく起こるということだろうか。
 返事のわりに反応のうすいアルカに、あまり理解されていなことを察したコアラ、まあそのうちわかるよ、とアルカの頭をぐりぐりなでた。あれ、なんか妙に子ども扱いされている気がする。

 ──────。


「……ん?」
「うん?どうかした?」
「いや、デジャヴを感じただけだからなにもない」
「…そう」

 コアラも、アルカが記憶喪失だと知ってはいたので、何も言わずにアルカを観察していた。まあ、それ以上に、コアラは彼女の対応が考えちふけるあまり、素の性格に戻っていることが喜ばしかったのだが。
 そんなこともつゆ知らぬアルカは、やはり考え込んでいた。今、自分は何にデジャヴを感じたのか。頭を撫でられたことか、それともコアラの言葉か。景色なのか、この状況なのか、はたまた全てか。どれも合ってるようで、どれも違う気がするので堂々巡りだった。すぐに思い出すのは諦めて、アルカはいきをはいて考えを中断した。

「思考タイムは終了?」
「……終了です」

 隣にまだいたらしいコアラに、内心びくつきながらも平常心で返した。完全に彼女の存在を忘れていた。

「今日は何か予定はあるの?よければ船内を案内するよ」
「ああ、いえ…。大丈夫です。ニックさんもいるし、まだこれから医務室に行かなきゃいけないので」
「そ?それじゃあ、わたしもおいとましようかな。じゃあね、また話そ!」

 肩をすくめたコアラはかるく返すと、踵を返して颯爽とその場を立ち去った。
 その後ろ姿から視線をそらすように海に目を向けると、入れ違いでやって来たニックが苦笑しながら隣に立った。

「コアラさん、いい人でしょ?」
「うん…そうだね…」
「あれでもすっごい強い人なんですよ」
「エッそうなの?」
「しかも優しいんです。あの人に救われた人、少なくないんですよ」
「へぇ」

 でも、革命軍──犯罪者なんだよねえ…。
 アルカとしてはニックの方が話しやすい。なんだろう。人見知りなのか、話しかけてくるほとんどの人に対してどこか馴染み切れない。…まあしばらくすればなくなる関係なので馴染み切る必要はないのだけれど、…こんな船だ。危険の芽は少しでも摘んでおきたいところである。

「アルカさん、そろそろ…」
「……そだね」

 ふと脳裏にサボたちがよぎり、そう簡単によろしくできそうにないなあ、なんて考えていたら、ニックがまさしくそれ関連の話をぶち込んできた。
 戻ろっか。
 そうニックを見ずに返した。これから、ない記憶とある記憶の整理である。サボという男は搾り取れる情報はとことん搾り取るつもりらしい。正直、かなり疲れるが仕方あるまい。どうせ自分のためにもなるのだ。これくらいの疲れ、享受してやろう。