恐怖、再び


 何事かと飛び起きた時にはもう遅かった。大きな音がしたかと思えば、次に聞こえたのはジャーヴィスの声。

「ミス・ミョウジ、申し訳ありませんが早急にスターク様の寝室へ」

 なにやら只ならぬ雰囲気だ。慌てて寝間着の上に近くにあったカーディガンを羽織って、部屋を駆け足で飛び出した。彼の指示通りに廊下を進んでいく。

「……なに、これ」

 私が目にしたのは、大きな穴。そこにあったであろう壁には、穴が空いて無残に崩れていた。
 奥から聞こえてくるのはペッパーの叫び声。放心しかけた意識をハッと取り戻し、彼女の元へと急ぐ。

 そこにいたのは、アイアンマンだった。

「トニー! 一体なんなの!」

 ペッパーが泣き叫ぶみたいに言う。
 そうだ、これにはスタークさんが入っているんだ。穴の方を向いて立っているその様子からは、まるで彼の攻撃で壁を破壊したかのように見える。状況がまったく見えてこない。
 彼女の元へ駆け寄り、彼女の彼女の両肩を掴み目を合わせる。掴んだ肩がカタカタと震えている。

「ペッパー! 大丈夫なの!?」
「ナマエ、ねえ、トニーが」

 どうやら彼女は軽いパニック状態に陥っているようで、私にしがみついてなにかを説明しようとするもうまく伝わらない。
 とりあえず彼女の背中を摩りながら、アイアンマンを見るも、彼はそのまま棒立ちで立ち尽くしている。

「これはどういう、」

 言いかけた私の声を遮って、再び大きな音が響いた。今度は別の場所だ。
 思い当たるのは一つだけ。寧ろどうして忘れていたんだろう。最悪の事態を思い出して、彼女をベッドに座らせる。

「いい? ペッパーしっかりして。貴方はスタークさんを連れて逃げて」

 座らせた彼女に言い聞かせるように言う。ヒーローであるアイアンマンを逃して自分だけ残って、なにができるというのだろう。
 それでも、今のスタークさんは何か様子がおかしいことくらい私にもわかる。どうにかしなければと考えたとき、昨夜の彼とのやり取りが頭を過る。
 もしもハルクを宥めたのが、単なる奇跡じゃなかったのなら。それに賭けるしか、私には思い浮かばなかった。
 意を決して立ち上がる。

「……誰が逃げるって?」

 聞こえた声に振り返るとマスクを外したアイアンマン、もといスタークさんが此方を見ていた。

「スタークさん!」
「話は後だ、ハルクのところへ急ぐぞ」

 とりあえず自分が先に様子を見る、と彼はハルクがいると思われる方へと飛んでいってしまった。
 スタークさんは大丈夫なのかとか、一体何があったのかとか聞きたいことは山ほどある。ただ彼の言う通り、今はハルクのことが先決だと、一旦全てを忘れて彼の部屋へと走った。

 焦りと恐怖で部屋に着く頃には心臓が痛い程音を立てる。酷く息が切れて苦しい。それでも目を開いてその光景を直視する。
 やはりそこには大きな緑色。ここに来るまでの部屋は荒れていたが、幸い今は広い部屋まで来てくれたらしい。

「来たか。あの時の、出来るか?」

 先についていたスタークさんはハルクを牽制しながら私に問う。彼はもしかすると、私がハルクを落ち着かせたのは、必殺技か何かと勘違いしてるんだろうか。そんな口ぶりだ。

「わかりません。でも、やってみます。手を下ろしてください、武器を向けないで」

 一度深く息を吸い込んで気を引き締めた。出来る、そう自分に言い聞かせて立ち向かう。
 私の声にハルクは此方へ顔を向けた。目が合うと、ドクンドクンと更に煩く跳ねる心臓。彼は私を覚えているだろうか。冷や汗が額に滲む。

「ハルク、覚えてる? 私、この前も貴方にあったの」

 一歩近づこうとすると、彼は大きく吠えた。この間よりも警戒心が強い。――それもそうか。以前どうしてあの姿だったかは知らないが、今回は攻撃してきた人物が目の前にいるのだ。
 少し迷ったが視線だけをスタークさんの方へと向ける。

「スタークさん、スーツを脱いでください」
「なに? スーツを脱げだと?」
「彼は、その姿を脅威に感じているのかもしれません。貴方の攻撃でこうなったんでしょう?」

 彼が断りにくい言い方を選んだため、少し嫌な言い方をしたと思う。実際にスタークさんがどう感じたかはわからないが、やや間があってから、それを承諾してスーツを解除してくれた。

「これで失敗したら許さないぞ」
「……プレッシャーかけないでくださいよ」

 冗談めかしてスタークさんは小さく笑う。私の緊張を解こうとしてくれているのだろうか。少しだけ肩の力が抜けた。
 武装をやめた彼をみて、ハルクも少しだけ落ち着いてくれたようだ。一歩近づいてみるとやはり警戒はしているものの、唸るように息を吐き、こちらの様子を伺っている。

「怖かったよね、でも大丈夫。もう危険はないわ。……だから、ゆっくり休みましょう?」

 一歩、もう一歩とこの間と同じように距離を詰める。そして腕を開いて敵意がないことを示す。
 ハルクはゆっくり近づいてきて、そして私に触れた。以前は目を瞑っていてわからなかったが、彼も同じようにこうしていたのかもしれない。
 大きな掌に身体を預けると、それは私の頭に触れる。一瞬首を捻られたら、と肝を冷やしたがどうやら私の顔を見ているらしい。じっと、見やすいように彼の大きな瞳へと顔を向ける。

 彼が何か言いたそうに口を開く。しかし、それが音になる前に顔を歪めた。私を軽く突き飛ばし、呻くように私から離れ部屋の隅へとよたよたと歩いていった。
 スタークさんが飛ばされた私を受け止めようと駆けてくるもあと一歩及ばず、受け身なんて取れるはずもない私はそのままの勢いで床に転がった。腰を打ったようでじんじん痛む。
 しかし、目の前で以前見せたハルクから戻る場合の反応を示した彼に、大きく安堵の息をついた。

「大丈夫か?」
「っ……ええ、まあ。でも、よかった」

 安堵すると、胸の奥へとしまい込んでいた恐怖が一気に襲ってきて手足が震え出した。
 博士は緑色で無くなると、その場に気を失うように伏せていた。彼の身体への負担はないのだろうか、と心配になり震える脚で立ち上がろうとするも、腰の痛みのせいか、はたまた震えが原因か、うまく立ち上がれない。

 それに気づいたスタークさんが私の隣へとしゃがみ込む。私の身体へと腕を回して引き上げるようにして立ち上がらせる。
 彼の厚意に甘えて肩を借りてゆっくりと歩く。

「すみません、お手を煩わせて」
「いや、無理するな。手間をかけさせたのは僕だ」

 ふと隣の整った横の顔を覗き込む。よくわからない人だが、いつものような飄々とした様子が感じられない。もしかすると、彼も責任を感じているのかもしれない。
 だから今度は、と私が冗談めかして彼に笑いかける。

「せめてスタークさんが受け止めてくれればよかったんですけど」
「スーツを着ていれば間に合った」
「それはそうかも」

 返ってきたいつもの軽口に小さく笑い合う。
 何があったか知らないが、今は落ち込む彼を慰める余裕も、貴方のせいだと責め立てる元気も残っていない。こうして笑っていてくれた方が、私が楽なのだ。

 博士に目立った外傷はなくて、今はただ眠っているみたいだった。無事に人間に戻っている上半身裸の彼に、とりあえず自分のカーディガンを被せる。

「トニー、ナマエ」

 声の方へと視線を移すと、荒れた廊下を不安そうにやってきたペッパーが部屋の中を覗いていた。どうやら気は落ち着いたようだ。私の身体を支えているスタークさんから離れ近くの壁に凭れると、彼女の元へと向かうように促す。
 スタークさんは彼女へと駆け寄ると、その身体を抱きしめた。ペッパーはスタークさんの頬を手で包みながら顔色を心配そうに確認している。

「ペッパー、君こそ怪我はないか?」
「ええ。それより貴方は……酷い顔色、大丈夫なの?」
「僕は平気さ。少し悪い夢を見て、……すまなかった」

 彼らのやり取りを眺めながら、皆が無事だった事を改めて安堵した。怪我人といえば、自分が鈍臭く腰を打ったくらいで、兎に角ほっと一安心する。
 すると、横で倒れていた博士が小さく唸って目を覚ました。身体を起こすも口を開かない。

「あの、大丈夫ですか? その、身体とか」

 こういう時、どう声をかけたら良いのだろう。どんなマニュアル本にもきっと答えは書いてない。沈黙に耐え切れずに声をかけてみたものの、それはいつもよりも更にぎこちないものだった。

 ふと、博士の視線が私の指先へと移ったような気がした。自分で視線を落として確認すると、未だに指が震えていることに気がつく。咄嗟に手を握りそれを隠すも、やはりあからさまだったのか彼は目元を掌で覆い俯く。

「……すまなかった」

 そして一言、私に告げた。
 それから彼はカーディガンを丸めて私へと差し出すと、立ち上がって背中を向けた。

「これ、ありがとう。……僕は自室へ戻るよ。腰も、一応病院で診てもらってくれ」

 歩き出し離れていくその背中に、胸が痛んだ。あんなにも怖かったのに、ハルクと出会ってから、私は何度も死を意識したのに。それなのに、今は彼にあんな表情をさせてしまったことがどうしても悔やまれた。
 私が腰を無意識的に庇っているのにも気づいだのだろう。それが余計に彼を責め立ててしまったかもしれない。

「待て、バナー。僕に考えがある」

 先の二人にも一言告げて出て行こうとする博士をスタークさんが呼び止める。
 考え、という言葉に嫌な予感がした。

「僕は断る」
「良いから聞け。僕は君のためを思って言ってる」

 これは博士も同じだったのだろう。いや、彼の方がこれから何を言うのかわかっていたのかもしれない。振り向くや否や、博士は首を振った。
 だが、スタークさんは構わずその考えについて語り出した。

「ハルクを彼女は二度も止めた。僕も目の当たりにした。いいか、バナー。僕はこれは偶然や奇跡なんかじゃないと思うんだ。きっと何か鍵がある。彼女の行動からハルクの制御の仕方を探れるかもしれない」

 確かに、これは偶然にしては出来過ぎていると私自身も感じていた。
 私を指し示して、彼は続ける。

「以前話しただろう? 僕は君とハルクの関係を円滑なものにしたい。忌み嫌うものじゃなく、君の強みに。だが、僕に出来ることは、僕だけじゃ対ハルク用のスーツを考えることくらいだ。それは君を傷つけない解決策じゃない。暴走したハルクを抑えることは出来ても、それは根本的解決にはならない」

 つらつらとスタークさんの口から流れ出る言葉の端々に、博士がハルクを思う以上に、彼がハルクを信頼しているのかもしれない、と感じられた。

「僕はハルクを倒す為にスーツを作るつもりはない。あくまで君を守る為に作るんだ。わかるな、これはチャンスだ」

 わかるだろ?と、彼は手を広げて全てを語り終えた。黙って聞いていた博士は、複雑そうな顔で眉間に皺を寄せていた。

「スターク。君がそう言ってくれるのは嬉しいよ、とてもね。……でも、具体的にどうやって? どうやったって他人を巻き込む」

 問いかける彼の瞳には深淵のような深い悲しみが見えた。そして、絞り出すような声で、博士は言う。

「恐怖の目を向けられるのは、耐えられないんだ」

 その言葉に、再び胸が痛む。
 申し訳ないことをしてしまった。きっと彼は私の恐怖を感じ取ってしまったのだ。
 胸の中に生まれたのは罪悪感。彼はこれから先も、自分の中の猛獣をどうにかして飼っていかなければならないのだ。彼は何も悪くない、被害者なのに、そんな彼の傷口を私は更に抉ってしまった。

「あの、私に出来ることなら協力します」

 私は自分の意思で口を開いた。ここまでは流されていただけだったかもしれないが、今回は違う。私が彼に何かしてあげたかった、そうしたかった。もしかすると今だって情に流されているのかもしれないけれど、自分で決めたことだから悔いはない。
 それでも、彼の信頼には値しない。

「……君はさっき震えていたじゃないか。無理もない、あんな化け物と対峙して恐怖を感じない方がどうかしてる。それを何度も味わえって言ってるんだ。君にそんな義理はないだろう」

 やり場の無い感情を噛み殺すように、彼は一つ一つゆっくりと吐き出す。本当はきっと、感情的に私にぶつけたいのだろう。そっちの方が断然楽なはずだ。でも彼はそうしない。ぐっと堪えて感情を飲み込んでいるみたいだった。

「今はまだ、怖くないとは言えません。でも、私も自分が止められるのは、何か理由があるのかもしれないと思っています。それなのに、ここで断ったら私は自分を嫌いになると思います」

 取り繕うことは、この場では適切では無いだろう。そう判断して、私は本音を漏らす。
 本当に奇跡でないのなら、ここで協力しないのは彼を見捨てたと同義だ。そんな自分を、私は愛せる自信がない。

「同情か」
「そうかもしれません。でも、同情だって一つの情です。それにもし原因がわかったら、私以外の人でも同じことが出来るかもしれない」

 自嘲していう博士に、臆することなく返す。同情だと言われても、確かに自分は彼に同情しているのだろうから否定するのも間違っている。
 それに同情だって、彼の力になりたいと思ったことは嘘ではない。理由がわかり組織の人間で手に負えるようになれば、部外者の私はお役御免になると思ったのも本音だ。こっちの方が、彼には説得力があったようで、そのまま黙り込んでしまった。

「よし、決まりだ」

 私達のやり取りを見ていたスタークさんが、手を叩いてから言った。
 それから、彼は旅行のそれの如く期待に胸を膨らませた様子で計画を立て始めた。

「シェルターを使おう、あの中ならハルクがヤンチャしても平気だ。対ハルク用スーツの為にハルクのパワーも測定する必要があるから、それも並行しよう。そうだな、名付けて」

 勿体つけたように彼は一度口を閉じる。

「ハルクトレーニングだ」

 そう言ってスタークさんが満足げに浮かべた笑みを見て、彼は初めからこうなる事を予測していたんじゃないだろうか、なんて気さえした。

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