ハルクトレーニング


 ついにスタークさん曰く「ハルクトレーニング」を行う日になった。
 時間の経過で冷静になってみると、自分がとんでもない約束をしてしまったのだという自覚がふつふつと沸いてきた。
 しかし、もうここまで首を突っ込んでしまったのだから、私だって腹を括るつもりだ。

 先に一階ロビーにて待っていると、暫くして準備を漸く終えた二人がやってきた。待たせたことを悪びれる様子はない。

「よし、準備できたかナマエ」
「はい。あの、スタークさん」

 そういえば一つだけ変わった、というか変わってしまったことがある。

「……ナマエって」
「ナマエは君の名前だろう。間違ってるか?」
「そうではなくて、なんだか慣れなくて」
「そんなことか。直に慣れる」

 あれ以来、スタークさんが私の名前を呼ぶようになった。別に嫌だとかそういうわけではないのだが、今まで名前を呼ばれいなかったせいか、呼ばれ慣れずに聞き過ごす事がまだある。これは先日の一件で、少しは認めてもらえたということだろうか。

「よろしくお願いします、バナー博士」

 それから博士へと向き直り一度頭を下げる。私を見る彼の表情は浮かない。

「こちらこそ。……気が変わったんなら、今の内だと思うけど」
「そんなこと」
「そうだぞ、バナー」

 私がそれを否定する前に、スタークさんが口を挟む。

「彼女は勇敢だ」

 そう言うと、私の肩を叩いて笑った。
 関係が良くなるのは良いに越したことはないのだが、こう親しげにされると調子が狂ってしまう。いや、もしかするとこの態度が彼のスタンダードで、今まではやはり何処かで友人の厄介者だとでも思っていたのかもしれない。

 ただ一方で、博士との距離はまた開いてしまったように思う。というか、顔を合わせるようになった分、気を使わなくなり少しずつ本音が見えてきているのかもしれない。


 スタークさんに連れられたのは、個人のシェルターというには立派な、まるで軍事基地のような施設だった。その上、武骨な雰囲気ではなく、そこはスターク製。洗練されたデザインだ。
 そもそもここはスタークさんが自身のスーツ開発のために設立したものらしく、耐久性や設備はお墨付きだという。

 物珍しさに辺りを見回しながら奥へと進み、案内されたのは監視室のような部屋だった。ただ部屋の中に並ぶたくさんのモニターが映し出すのは、監視カメラの映像なんかではない。どうやらここもラボの一種のようだ。
 片側の壁はガラス張りになっていた。近寄ってみるとそれは分厚い超強化ガラスで、その先に広がる部屋を観察できる作りになっている。

「とりあえず君はここで待機だ」

 そう言って私一人をここに残し、彼らはガラスの向こう側へと出て行った。バナー博士が真ん中に立ち、スーツを着たスタークさんが隣に立っている。
 どうやら防音にもなっているらしく、彼らの会話はこの部屋には殆ど聞こえてこない。ただスタークさんがハルクになるように促したのだろう。博士がガラス越しに一瞬私へと目を向けるも観念した様子でシャツを脱ぐ。ハルクへと姿を変えるためにだ。

 博士が変身のために力を込めた、のかはわからないが彼の身体が大きく膨れ上がり、肌の色が緑色になっていく。
 彼がハルクなのだとわかっていたつもりだが、初めて博士がハルクになる瞬間を目の当たりにして動揺している自分に気づいた。

 そこからスタークさんはハルクを暴れさせながらも、計測機器を殴らせたり握り潰させたり、それから跳躍力とか瞬発力とか、ハルクにどれだけの力があるのかを調べ始めた。
 それからは時々この部屋に音声を通して、画面に映し出されている数値を報告したりしたくらいで、私はただただハルクの迫力に圧倒されていた。
 後になって考えれば、それだってジャーヴィスに頼めば事足りるのだから、きっと私を退屈させないために役割を与えていたのかもしれない。

「そろそろ君の出番だ。心の準備は出来てるか?――おい、聞いているのか?」

 声がかかったのはそれから暫く経ってからだった。慌てて気を引き締めて立ち上がる。

「申し訳ありません。少し見入ってしまって」
「堅いな、肩の力を抜け。これは任務でもなんでもない。私は君の長官ではないからな。わかるか?」

 言われてみれば、まるで出来損ないのブリキのスーツでも着ているかのように身体がぎこちない。
 ここへやってきたことは、確かにフューリーという男から依頼された任務の内の一つだった。だが今ここに立っているのは、頼まれたとはいえ自分自身が決めたことだ。人と人とのやり取りで、報酬が出るような仕事とは違う。

「そういえば、嫌になったらすぐに投げ出せるんでしたね」
「そうだ。僕たちは困るが、つまりはそういう関係だ」
「……少し気が楽になりました」
「それはよかった」

 小さく笑って部屋を出る。歩き出した身体は先ほどのそれとは大違いで、よく知る自分の物へと戻っていた。廊下を通り、先程までガラス越しに見ていた部屋へと入る。

「スタークさん」
「僕は離れていた方がいいんだろう? わかってる。一度部屋を出るが、君に危険が及んだらハルクを攻撃するようになってる。くれぐれも、僕に彼を傷つけさせないでくれ」
「……了解」
 
 彼が反対側の扉から外に出るのを見守る。ハルクもそちらを見ていて、私に横顔を向けている。私はその大きな彼に声をかける。

「こんにちは。また会ったわね」

 ハルクとの、三度目の対峙が始まった。
 驚きこそ少しは減ったとは言え、やはり恐怖はある。しかし、今回は攻撃を受けていないからだろうか。それとも博士が自主的に変身したからなのか、此方へと向けた視線に、以前と比べて怯えのような色は見えなかった。
 だから、少し大胆に彼に距離を詰める。すると、ぐっと彼の拳に力が入り、ピリついた緊張感が走った。慌てて後ずさる。

「ごめんなさい、もうこれ以上は近づかないから」

 距離を取れば、危害を加える気がないとわかってくれたのか拳の力が緩む。ほっと胸を撫で下ろす。

「そう、落ち着いて。ハルク、協力してくれてありがとう。疲れたでしょう? もうゆっくり休んでいいのよ」

 手を開いて何も隠し持っていないことを示しながら、ゆっくりと労う言葉を投げかける。

「休みましょう。ね?」

 彼の出方を伺うように、静かにその大きな瞳を見つめる。ゆっくりと私へと近づき、それからその黒い瞳が私を見つめ返す。彼を受け入れるようにそっと腕を伸ばす。
 すると彼は顔を歪ませて、私から離れようとした。身体が変化する時に起こる反応だ。よし、今回も成功だ、と思った。
 しかし彼は一度此方を振り返り、口を開く。

「……お前は誰だ」
「えっ」

 聞こえた言葉に耳を疑った。
 今まで唸ったり叫ぶ姿しか見たことがなかったため、勝手にそれが彼の本来の姿だと思い込んでいた。知性的に会話する姿も想像していなかった。

「ハルク、あなた話せたの?」

 問い詰めるような私の言葉に答えることなく、彼の姿はどんどん博士の物へと戻っていく。思わずその場に立ち尽くす。彼は言語を理解していたのか。

 一連の様子をガラス越しに見ていたであろうスタークさんが、出て行った時と同じ扉から入ってきた。スーツは片付けたようだ。

「何度見ても凄いな、君は」
「ねえ、ハルクは人の言葉を喋れるの?」
「ああ。知らなかったのか?」
「知らなかった……、資料には何も」

 どうやら彼が話ができるのは周知の事実なようだ。それもそうだ。S.H.I.E.L.D.が知らないはずもない。それでは、どうして資料に記されていなかったんだろう。

「ふむ、普段から僕らにもそういう態度で接したらいいのに」

 そういう、とはなんだ。と疑問に思ったがすぐに気がついた。ハルクが話せたことに驚いていたせいか、ビジネスとしての話し方を忘れていたのだ。
 小首傾げて言う彼にばつの悪さを感じて目線を外して小さく咳払いをすると、そのまま伏せっているバナー博士へと移した。

「……失礼。博士は大丈夫でしょうか」
「素直じゃないな」

 博士のシャツを拾いに行ってから、彼の元へと駆け寄る。フッと笑いを零しながらスタークさんもゆっくりと歩を進めた。
 横たわる彼にシャツを掛けて、傍にしゃがみ込む。そこにいるのはいつもと変わらない彼の姿。これで人体に影響がないのだから、なお不思議だ。
 改めて人の姿を眺めていると、彼が小さく声を漏らして身を捩った。

「博士、お疲れ様でした。大丈夫ですか?」
「……ああ。いつも通り、最悪だ」

 身体を起こしてシャツを羽織ると、博士は頭を数回掻いた。私へ視線は殆ど向けずに、床を見つめながらスタークさんに問う。

「データは取れたのかい」
「勿論だ。後でデータを見せよう、それからスーツを考えるんだ。忙しくなるぞ」

 博士とは対照的に、満足のいくデータが取れたのかスタークさんの表情は極めて明るい。その言葉からするに、きっとこれからまた彼はラボへと篭りペッパーに心配かけるのだろう。そんな未来が簡単に予測できて、私は乾いた笑いをこっそりと浮かべた。

「だが、彼女の方はさっぱりだ。ハルクがナマエに話しかけたくらいか」
「彼女に?」
「ええ。お前は誰だ、と。答える前に博士へ戻られたので答えられずじまいでしたが」

 次は私へと話題が移る。とはいえ、これといった進歩は彼らにはないのだろう。
 しかしどうやら、この間も博士は私の方を見ようとしないが、彼もハルクが私へ声をかけたのは少し意外だったようだ。
 それからスタークさんは、少し考えてからこう続けた。

「僕の考えなんだが、君たちさえ良ければ何度かハルクトレーニングを続けたい。もしかすると、ハルクと親しくなれるかもしれない」

 そういう彼は、なんだか嬉しそうに見えた。
 これで親しくなれるかはわからないが、もう一度ハルクと会いたいと思ったのは私も同じだった。
 好奇心か、それとも。理由はわからないが、ハルクが私を気にしているというのは、もしかすると一つの鍵になるかもしれない。

「私も、ハルクと話してみたいです」
「怪物と話したいって? 随分と変わった趣味をしてる」

 私の言葉に、漸く彼がまともに此方へと視線を向ける。それは決して好意的なものではなく、自虐を含んだ嫌味まで付いている。彼としては信頼に値しない私にこう何度もあの姿を見られるのは良い気分ではないのだろう。
 少し考えて、彼を一番納得させられると思った言葉を吐き出す。あなたの為に、なんて話しても今はきっと信じてくれない。だから、私の利益になる理由を。

「任務終了への近道になるかもしれませんので」
「……なるほど」

 そう告げると、彼は腑に落ちたのか再び私から目を背けた。彼の目に私はどう映っているんだろう。それ以降、彼は私に何も言ってこなかった。


 タワーへ帰ると、どっと疲れに襲われて泥のように眠った。頭では少しは慣れたかと思っていたが、やはり対峙している間は精神を消耗しているのだろう。
 目を覚ますともう部屋は真っ暗だった。夕食の準備を思い出し、慌ててキッチンへと向かった。すると、そこに立っていたのはペッパーだった。コトコトと何かが煮える音がする。

「あら、今から声をかけに行こうと思ってたのに。お腹空いたでしょ、ご飯にしましょう」

 あなたに頼りっぱなしだったからあんまり自信ないんだけど、と付け加えた彼女の笑顔に、へたりと座り込んでしまった。じんわりと目元が熱い。
 改めて、自分が今日という日を不安に思っていたのだとわかった。そして、今はとても安堵している。
 私を見て驚く彼女に平気だと告げると、今度は腰を抜かしたことが可笑しくて声を出して笑った。心がすっと軽くなった気がした。

 後になってスタークさんから次のハルクトレーニングの予定日を告げられた。博士がトレーニング継続を承諾してくれたということだ。
 身体の疲れは眠りが、心の疲れはペッパーが癒してくれる。私は大丈夫、そう思った。

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