拒絶と葛藤


 今日でハルクトレーニングも四回目を迎えた。
 ハルクはトレーニングの度に、私に質問をするようになった。口数は決して多いわけではないが、私は出来る限り事実を伝えた。

 私はあなたが暴走してしまわないようにするためにそばにいること。スタークさんのスーツ開発に協力していること。スーツは間違っても「ハルクと敵対するため」ではなく守るためのものあること。
 スタークさんに言われて、彼はあなたの味方になりたいのだとも伝えた。そして、私の仕事はあなたをバナー博士の姿に戻すことだと。

 ハルクはなにかを聞くばかりで、それ以上は語らない。それでも少しずつ彼とのコミュニケーションにも慣れてきている気がしていて、彼のことも理解できるようになるのではないかと期待していた。ただその疑問が解消されて、彼がどう感じているのかまでは私にはわからなかった。

 今回のハルクの質問を聞くまでは。

「ナマエ、ずっとバナーでいてほしいのか」

 答えなどわかりきっている筈の問いに、私は答えることができなかった。
 今まで気付かないフリをしていた喉の奥に刺さった小骨を、ぐっと押し込まれたみたいな鈍い痛みに襲われて顔を顰める。

「どうした。なにか悩み事か」

 ハルクが眠った後、いつものようにスタークさんが入ってきた。なにかあったのか、なんて口振りだが例え防音ガラスを隔てていても彼が意図的にジャーヴィスをミュートにでもしていない限り、なんと言われて私が言葉を詰まらせたのかなんて筒抜けのはずだ。

「いえ、なんでも」

 しかし、今の私にはそれを口に出来るほど気持ちに整理がついていなかった。
 近寄ってきたスタークさんの顔も見ずに、博士のシャツを拾い上げると、半ば押し付けるみたいに彼へと渡す。シャツを受け取ったスタークさんは、明らさまに動揺している私を黙って見つめる。その視線に背を向けて歩き出す。

「すみません、先に帰ります」
「ナマエ。バナーのそばにいなくていいのか?」
「ハルクも休んでるはずです。それに、今はアイアンマンがついていてくれますし」

 トニーはなにも言わないが、背中に刺さる視線がなにかを訴えかけてくる。足が止まる。
 少し躊躇したが、振り返って彼を見る。眉間に皺が寄って、きっと険しい顔をしていると思う。

「お願い。一人で考えたいの」

 ずるい言い方だ、と自分でもわかっていた。
 日々彼は「畏まるのをやめろ」と私に言ってくる。それでも少し意地になって、半分は博士との関係の悪さがだけが浮き彫りになるのを避けるため、態度を変えないでいたのだが、時々気が抜けて砕けた言い方で物を頼むことがあった。
 すると彼は何故かいつもよりも意気揚々とそれに応えてくれる。スタークさん曰く、友人としての頼みだかららしい。

「……全く。気をつけて帰れよ、わかったな?」

 案の定、今回だって彼は小さくため息をつくも、それ以上はなにも言わずに私の我儘を許してくれた。
 

 シェルターを一人後にして、タワーへの道を歩く。少し距離はあるが、一人で考え事をするには丁度良い。そもそも一人で外を歩くのだって久しぶりのように思う。
 それなのに解放感は微塵も感じられない。それどころか気持ち悪いとすら感じる生ぬるい風に頬を撫でられる。頭を巡るのはハルクのこと。

 ハルクの言葉で、漸く気づいたことがある。いや、本当はハルクに触れて気づいていたのに知らないフリをしただけで、トレーニングを重ねれば重ねるほどに、私は痛感していたはずだった。
 ハルクは人間だ。どんな姿形をしていても、彼は私たちとなにも変わらない。
 でもそれは、きっと博士とは別の人。少なくとも今はそうだ。そして今日の言葉は、ハルクが自分ではない別の人格だと、博士のことを認識しているということだ。

 だとすると、今日のハルクの質問は私が今まで彼に残酷なことを言ってしまったということに他ならない。

「……ホント、最低」

 ハルクの言葉が何度も頭の中で繰り返され、苦虫を噛み潰したような顔で、地面に視線を落とした。

 この一件に巻き込まれた時、私はバナー博士のことを気の毒に思っていた。望まぬ力を手に入れ、自分でコントロールできない猛獣を飼うことになってしまったのだと。
 でもそれは違ったのかもしれない。今は博士がハルクをコントロールすることはできなくても、彼自身は落ち着いてさえいれば十分にコントロール出来ている。
 博士が望んでこうなったんじゃないのと同じように、ハルクだってこの状況を望んで得たとは限らない。
 それなのに私は彼に「博士に戻すために」と言ったのだ。博士でいるとき彼がどんな状況でなのか、何もわからないくせに。
 一体私の言葉をどう受け取ったのだろう。あの質問の真意を想像して、何度目かのため息を吐いた。

 結局帰り道だけでは、この散らかった考えは纏まらなかった。それでも、私がそばにいることは、果たして彼らにとって良いことなのか。自分の行いに、自信が持てなくなったのは確かだった。


「ナマエ、何かあったの?」

 夕食中、突然切り出したペッパーに思わずフォークを持つ手が止まった。先程まで楽しくおしゃべりしていたはずだが、とても真剣な表情をしていた。

「えっと、私そんな変な顔してた?」
「ええ、酷い眉間のしわ。それにこんな顔」

 彼女はそう言うと、眉間に皺を寄せながらこれでもかと唇を尖らせた。あの綺麗な顔を不恰好に歪ませる様に思わず吹き出して大笑いする。
 どう彼女に説明しようか悩みかけた心が、一気に軽くなってしまう。

「もう! そんな顔してないって」
「ふふっ、ごめんなさい。でも心配してるのは本当。トニーも気にかけてた」

 改めて、今度は心配そうに微笑んで彼女は優しい声で言う。彼女の言葉はなんて暖かいのだろう。

「……本当にこれでいいのか、わからなくなって。やっぱりこんなの、」

 その熱に溶かされたのか。どろり、と心に溜まった悩みが溢れ出した。しかしすぐに思いとどまって、栓をする。

「やっぱり自分で考えたいから今は話せない」
「そう」
「心配してくれたのにごめんね?」

 このまま彼女にどうしたら良いかわからないと縋り付けば今よりずっと私の心は軽くなるだろう。
 でも、そうはしたくはなかった。これは私の問題で、自分で決めなければいけない問題だ。誰かに言われたからと逃げることはできるけれど、それでは今と何も変わらない。
 私の表情を見て、彼女は静かに頷く。

「あなたがそうしたいなら、もう何も言わないわ。でもね、忘れないで。私もトニーもあなた達の味方よ」

 私たち。その言葉にハッとする。いつの間にか、私はこの問題を私一人でどうにか出来る、しなければと考えていた。
 でもこれは決して、私一人でどうにか出来る問題じゃなかったのだ。最後に自分の行いを決めるのは自分だけれど、私の考えだけでは決められない。

「ありがとう。……ちゃんと向き合ってみる」

 一度博士と話してみなければ。私の一存ではなく、彼の意見を聞きたい。
 食事を終えるとペッパーを見送りながら、多めに作ってある夕食を皿に盛る。ラボへと届けるのを口実に博士に会いに行くためだ。

 二人分の食事をトレーに乗せてラボへと向かう。覗いてみるも、人影は一つしかない。スタークさんは今はいないようだ。
 小さくノックの音を立ててからゆっくりとドアを開ける。扉を叩いたことで、スタークさんではないことには気づいたようだ。

「あの、夕食作ったので食べてください」

 私の声に博士の肩が小さく揺れる。入り口付近の机にトレーを置くと、博士の方へと改めて身体を向ける。振り返らず背中を向けたままだが、作業の手は止まっていた。立ち去らない私を不審に思っているようだ。
 少し躊躇ったのちに私が重い口を開く。

「……博士、少しご相談が」
「悪いけど今は遠慮してもらえるかな」
「ハルクのことなんですが」

 返ってきた彼の声はいつもよりも低い。
 それでも、私は彼に聞いてほしくて言葉を進める。今引いてしまったら、私たちはきっとここから進めない。
 しかし、彼は首を垂らして、手を机につくとため息を吐いた。振り返る様子は微塵もない。

「聞こえなかったかい」
「すみません。ですが、」

 食いさがる私を、突然流れ出した大音量のクラシック音楽が遮った。博士が机の上にあった小さなリモコンで、オーディオのスイッチを入れたのだ。

 私達の間には、特に決め事をしたわけではないが、一つの暗黙のルールが出来ていた。
 クラシック、それは彼がヒーリングのために聴く音楽だ。彼がそれを私の前で聞くことは、拒絶を示す合図だった。

 私をけん制するような音量から徐々に耳に優しいそれとなったオーケストラの演奏の中、彼はもう私などいないかのように自身の作業を再開して、こちらを見ることはなかった。
 どうやら私の顔すら見たくはないらしい。

「……失礼します」

 退室する際に小さく告げたそれは、音楽のか壁に阻まれて彼の耳には届かなかった。

 その足で自室に戻るとベッドの上へと半ば自暴自棄になりつつその身を投げ捨てる。ベッドのスプリングがギシと音を鳴らす。

「なんにも出来てないじゃない……」

 暗い部屋の片隅を見つめながら、一人呟く。
 何も出来ない自分が不甲斐ない。何か出来ると思っていた自分が恥ずかしい。

 ここに来てもうひと月は経つだろう。それなのに、一体私に何が出来た。
 ハルクトレーニングにしたって、何もきっかけは掴めない。それどころか、トレーニングを重ねるほど博士から拒絶される回数が増えた。
 彼との信頼関係すらまともに築けていない。大事な話一つ、まともに取り合っては貰えない。
 唯一上達しているのは家事手伝い。本当になんのためにここにいるのかわからなくなる。

 途端に自分が全部嫌になって、悩みに重く固まった身体が、どろどろと真っ黒に溶けていくみたいだった。

――みんな、どうしてるかな。
 声になったのかわからないその呟きを最後に、私は眠りについていた。

 真っ黒な場所はだんだんと白んで、気づけばそこは大好きな動物園。周りに見えるのは大好きな仲間たち。一番の友達だったレッサーパンダのキャムが私の脚に飛びついてくる。
 言葉なんてわからなくても、ずっと心を通わせる事ができる相手だ。落ち込んだ時、彼に何度救われたことだろう。
 そんな幸せな時間を、久しぶりに夢に見た。

 次の朝、目を覚ますと目元には涙の跡が残っていた。窓の外に目を向けると、眩しい朝日が目に沁みた。

「……帰りたい」

 瞼を擦りながら私は、次第に薄れていってしまう夢の中の出来事を繋ぎ止めようと必死にあの温もりを思い出していた。

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