彼女 -side:Bruce-


 彼女の顔が見たくなかった。

「……失礼しました」

 小さく細い声の後、彼女の足音が遠ざかるのを待ってから漸く僕は振り返った。彼女を避けるためだけにつけたオーディオの電源を落とし、持ってきた料理に視線を移す。
 スパゲティが盛られた皿が二つ。トマトとガーリックのいい香りがする。

 初めは彼女が作った料理を口にするのも躊躇った。例え毒が入っていても死ぬことは出来ないけれど、もう一人の僕が怒るのには十分だ。
 だが、それに気づいたスタークは、毎回両方の皿に手をつけて毒味をするようになった。もしも本当に毒が入っていたら、そう思って慌てて制した僕に、彼は大袈裟なくらい笑った。

「犬の餌入れじゃないんだ。僕らの皿には名前が書いてない」

 それからは、時々彼女の料理も口にするようになった。初めは彼に言われてだったが、今では彼女は何かを盛るつもりはないのだと自分でも思っている。それに彼女が料理上手だということもわかった。

 でもそれ以外、彼女のことはわからなかった。目的や腹の底で一体何を考えているのかが見えてこない。

 彼女はもう一人の僕を、ハルクを何度も見ている。危険が及ぶことだってあったはずだ。それなのに、彼女の態度は依然として変わらない。
 彼女はエージェントでもヒーローでもない。普通ならきっと怖くなって逃げ出すに違いない。それなのに、そうしないのにはきっと裏がある。動物学者だというのさえ疑わしくなる。
 彼女が僕に普通に接すれば接するほど、僕は彼女が信用できなくなっていった。

 特に今日は、彼女の声を聞くと胸の奥底が騒いで落ち着かなかった。僕の嫌悪感や猜疑心ではないそれは、あくまで推測に過ぎないがもう一人の感情かもしれない。それが何を訴えかけてるかまではわからなかった。
 ただその騒めきさえ気分が悪くて、感情に任せて彼女に酷いことを言ってしまいそうだった。だから彼女の顔を見たくはなかった。


「ナマエは少し休ませることにした」

 翌日、スタークに会うと開口一番にそう告げられた。
 休ませると言ってもS.H.I.E.L.D.が決めたことではないから、僕から離れるわけにはいかないらしい。結局のところハルクの実験をするのを止めるということだ。
 何も驚くようなことじゃない。寧ろやっとかとさえ思う。

「やっぱりか。怖くなったんだろう」

 モンスターの相手なんて誰だってやりたくない、と自嘲と共に付け加えると、スタークと進めている対ハルク用スーツの開発へと取り掛かろうとした。
 モニターへ近づくためにスタークの横を通り過ぎると、スタークはジャーヴィスと一言名前を呼ぶ。呼ばれた有能な執事は、僕が触れようと思ったモニターだけではなく、全てのデータにロックをかけた。
 どうやら、話が終わるまで作業をさせるつもりはないらしい。僕の前へと周る彼の顔は、いつもより少し怖い。

「そうじゃない。わからないのか?」

 スタークは彼女を認めているようだった。一緒にモンスターを討伐したからだというと、その時も彼はモンスターなんかじゃないと、少し怒った。
 スタークは良い奴だ。だが、ハルクが僕を守っているだとか、彼と仲良くなりたいだとか、発想が流石は天才科学者のそれで、つまりは理解できないことが時々ある。今回だってそうだ。

「彼女は君たちのために悩んでいるんじゃないか」
「僕のためだって?」
「そうだ。始まりはどうあれ、今は君と、そしてハルクとの関わり方について悩んでいるんだ。どうすれば君たちのためになれるか」

 スタークは彼女は僕のために働いているというけれど、僕には理解できない。少なくとも僕にとっては心地よい存在ではなかった。

「残念だけど、僕はそんなこと頼んでないよ」

 ここで作業ができないなら仕方がないと踵を返すと、僕はラボを後にした。
 仮にもしそうだとしても、僕には関係ない。怖くなったのなら、嫌になったのなら、勝手に逃げ出せばいい。そっちの方が僕にとっても平和だった。


 自室へ戻る途中、考え事のせいか口渇感を感じてキッチンへ立ち寄った。彼女と出会わないように中の様子を伺うも、幸い物音は聞こえない。きっと休むといっていたくらいだから自室にいるのだろう。

 冷蔵庫の中から水の入った瓶を一本手にすると、振り返って思わずぎょっとした。ダイニングの隅、窓に寄り添うようにして彼女が膝を抱えて眠っていたのだ。

 なんでこんな所で。そう思いながらも彼女を起こさないように、静かに離れようとした。
 しかし、横に落ちている一冊のノートに目が止まった。開いた状態で、文字が細かく書いてある。アナログ媒体で残すのは情報を漏らさないためか、なんてかなり馬鹿なことを考えた。

 ノートに書かれていたのは、記録だった。
 動物たちの身体検査や、ちょっとした行動の変化などが書き留められている。
 例えば、「今日は少し興奮気味で落ち着きがなかったので気になった。やっぱり左脇腹に小さな傷があった。大好きな遊具にささくれがあったから多分原因はこれ。検査したけど傷口からの感染症などはなさそう。遊具は修繕済み。」それから動物と一緒に撮った写真が貼ってある。僕は見たこともない、良い笑顔だ。
 本当に動物が好きなのだという、彼女の動物への愛情が伝わってきた。

 そうして、僕はやっと気がついた。静まり返ったこの部屋に鳥の鳴き声が聞こえる。座り込んだ彼女が影になって見えなかったが、彼女の横には窓ガラスを挟んで一羽の鳥が止まっていた。
 一羽の鳥に近くために、この広い部屋のこんな片隅に身を寄せているのだとわかると、どれだけ彼女が動物を恋しく思っているか考えさせられた。

 自分ばかりが嫌な思いをしていると思っていた。だが、彼女もそれは同じことだった。
 スパイだなんだと疑うことばかり考えていたが、もしも本当に動物学者で、本当にハルクを気にかけてる変わり者だとしたら。

 彼女は自分のせいで、ここに縛り付けられている。一人の被害者だ。
 それは僕が頼んだことではないにしろ、僕のせいで一番好きなものと引き離されているのは確かだった。

 あれだけ見たくなかった彼女の顔に視線を向ける。ちゃんと顔を見たのは久しぶりのように感じる。以前に比べて顔色が悪い。疲労もあるが大部分はストレスだろう。
 ちゃんと彼女と向き合えば、彼女が化け物と顔を合わせても平気なのではなく、僕の前では平然と振る舞おうとしただけなのだろうと簡単に気がつけたはずなのに、僕はそれを一度もしなかったのだ。

「……ごめん」

 ノートを元あった場所に戻すと、固まったみたいに眠っていた彼女の瞼がぴくりと動いて、そして開いた。
 ぼんやりとした寝ぼけ眼は、まだ状況を把握できていないらしく、夢現つで僕の顔を見つめる。それから漸くピントがあったのか、目を見開くと咄嗟に頭を後ろに引くものだから、後頭部を凭れていた壁に派手にぶつけた。声にならない叫びと共に彼女は顔を歪めて頭を抱える。

「だ、大丈夫か?」
「大丈夫、です。……あの、えっと、博士はどうしてここに?」

 驚きと痛みと、それから焦りを色濃く映した瞳と目が合う。ああ、彼女はずっと僕を見て話をしてくれていたんだ。そんなことすら今知った。
 君を疑ってノートを盗み見ていた。などと言えるわけもなく、僕は咄嗟に嘘をつく。

「ええと、外出……そう、外に用があって」
「え、ええ、わかりました。すぐに準備します」

 そんな僕のでまかせに彼女は一瞬戸惑った様子を見せるもすぐに頷き立ち上がる。すると驚いたのか、窓の外の鳥がバサバサと飛び去っていった。

「僕はロビーに。急ぎじゃないから慌てなくていい」

 ぱたぱたと駆け足でダイニングを出て行く彼女の背中に付け加え、一人になれば目頭を抑えて考えを巡らせる。咄嗟のこととは言え、自分の口から出た提案に驚かされた。

 そういえば私用では久しく外出していない。かといって、本当は出掛けなければならない予定もない。それならば、これが本当に彼女のためになるかはわからないけれど、行きたい場所がひとつだけある。

『同情だって一つの情です』

 このとき僕の頭には、あの時の彼女の言葉が思い浮かんでいた。

- 9 -
|