悪魔の夜想曲


 
「おい、重岡ーーーっっっ!!」

 石造りの建物全体を痺れさせるような大声に、思わず仕事中の手を止めた。周りの連中も一瞬顔を上げたけど、いつものことだからかすぐ視線を目の前の書類へ戻していた。自分もそうしようかとペンを唇に当て⋯⋯だけど、手元に残った仕事は残りの時間を余らせるほど進んでいる。
 いつも通り上司の怒りを買っているらしい親友に、ちょっと助け舟でも出してやりに行こうかと席を立った。

 ここは天界。人間という生き物の死後与えられる三つの行き先のうちの一つだ。死んだ人間がまず行く先は冥界で、大半の人間はここで死者として永遠を過ごす。
 しかしその人生において大きな善や悪を行ったと判断されたものが、ここ天界と、対になるもう一つ──魔界へ振り分けられることになるのだ。
 つまりこの広大で美しい天界は善人ばかりなのかといえば、案外そうでもない。それはここに暮らすもののほとんどが、この地で産まれ育った『天使』⋯⋯つまり人間ではない違う種族だからだ。些細だが時には争い事だって起こるし、少数派である『元人間』をよく思わないやつもいれば、真面目に仕事をしないやつもいる。俺はいわゆる『元人間』側で、数百年前にここでの生活を許された。
 生前大した徳を積んだ覚えはないが、永遠に冥府を彷徨うよりはよっぽど有難いや、と思いながら始まった生活。露骨に差別を受けるわけではないが友人ができやすいわけでもない⋯⋯。そんななかで初めて出来た友人が、あいつだった。



「⋯⋯お、いたいた」

 窓から顔を覗かせると、ちょうど最上階の廊下を駆け抜けている友人とそれを追う『上司』⋯⋯この大きな建物で一番偉いお方である、上流天使の中間さんの姿が見えた。身分も立場も大きく違うはずのあの二人は、何故かああしていつも仲良く鬼ごっこをしている。
 ひとまず眺めていると、友人が最上階の窓からひょいと飛び降りた。そのまま回廊の方へ飛び抜けようとしたのを、すかさず中間さんが指を動かして引き止める。たった指一本で動きを封じられた友人は、空中でもがきながら卑怯だなんだと騒いだ。悪戯好きで仕事嫌いなこの男は、話し掛けることすら少し気が引けるほど高貴なこの人を毎日怒らせては楽しんでいる。

「うっさ⋯⋯ほんま、逆によう飽きひんな」

 大きな翼を翻し、中間さんが溜息を吐く。友人はブスくれて黙り込んだ。こんな綺麗な世界で産まれ育って俺より数倍長く生きてるくせに、なんて顔をしてるんだか。思わず口角が上がり、自分も窓枠を超えて二人の方へ羽を動かした。

「⋯⋯ん、中島?」
「お疲れ様です、中間さん。今日も賑やかですね」
「け、健人! 助けて、冤罪! 冤罪やねんて!」
「⋯⋯と言ってますが」
「あほ。嘘に決まってるやろ。毎回毎回仕事の邪魔ばっかりしよって⋯⋯今回は流石にやり過ぎや。もうアウトやで」
「だから俺ちゃうって!」

 そう叫ぶしげを見下ろす中間さんは無表情だ。いつもより随分声色が冷たいし、普段見ないほど眉間に皺が寄っている。あれ、これはいつも通りじゃないかも? 何やったんだか、と目を向ければ、友人⋯⋯しげは、悔しそうに歯を食いしばっている。この顔も、いつもと違う。普段なら悪戯がバレたあとのこいつは、どれだけキツいお仕置きを喰らおうが愉快そうに歯を見せて笑っているはずだ。
 もしかして、何があったか知らないが本当にこいつはやってないんじゃないのか? そう思うものの口を挟める空気ではない。

「じゃあ、今日午後までに管理部に提出予定やった書類全部にインク掛けたのは? あん時お前が俺の執務室から出てくんのこの目で見たからな」
「そ、それはやった! それはやったけど、あそこのトップの人と淳太仲ええやん! だからええかと思って⋯⋯でも他のは違うって!」
「仕事に仲も何も関係あるか! 大事な書類にインクぶちまけんなって言うてんねん! ⋯⋯はー、もういい。アウトや。お前、今日から三ヶ月謹慎な。また人間界でバイトでもしてこい」
「そ、まっ、また!? 一年前も行ったとこやん!」
「自分が悪いんやろ!」

 大騒ぎするしげを無視し、中間さんは指一つでその身体を浮かせたまま移動し始めた。黙ってその後をついていきながら、また数ヶ月友人が居なくなることにひっそり落胆する。だけど『インクぶちまけ』は流石に、助け舟の出しようがない。それにどうも罪状はこの一つではないようだし。
 横柄やパワハラやと騒ぎ立てる天界一の問題児を連れ、俺と中間さんはあっさり大門に到着した。仕事の都合上、この建物は天界の入り口すぐ近くにあるのだ。大仰な割にやる人がやれば触らずとも開くこの門から蹴り飛ばされるだけで、俺たちはあっさり人間の住まう世界へ落っこちてしまう。
 扉の向こう、空中にしげを浮かせたまま、中間さんが呟く。

「⋯⋯反省の言葉は」
「⋯⋯⋯⋯アホボケクソ淳太。三ヶ月毎日小指ぶつけろ」
「ほんなら謹慎頑張れよ」

 最悪な捨て台詞を吐き、しげの身体からふっと力が抜けた。一瞬目が合い、慌てて「待ってるね」と口の動きで伝えると、友人は渋い顔のまま「おう」と呟いて落ちていった。⋯⋯まさか、一年ぶりの謹慎になるとは。席を立っておいてよかった。数ヶ月とはいえ会えないのだから、見送りができなかったら惜しい。
 重い音を立てて閉まった扉を背に、中間さんが暗い息を吐く。

「⋯⋯そんなに大事な書類だったんですか? 毎日追いかけっこしてるのに、謹慎までやるなんて一年ぶりじゃないですか」
「追いかけっこちゃうわ。⋯⋯まぁ実際、あいつの言うようにインクの書類は顔見知りが相手やから謝ればどうとでもなるし、そもそも別に絶対今日である必要はなかってん」
「じゃあどうして⋯⋯」
「問題は他のことや。あいつは違うって言い張っとったけどな。⋯⋯ちょうどええわ。お前、このまま仕事手伝ってくれるか? 野次馬しに来たんやったら自分の仕事もうほぼ終わってるんやろ」
「はぁ、勿論いいですけど」

 バレていたらしい。特にやりたいこともないし友人の一年ぶりの謹慎の理由も気になったから、彼に続いて最上階にある執務室まで飛ぶ。窓から中に入ると、数回仕事の都合で訪れた記憶通り執務室とは思えないほど重厚な部屋だった。⋯⋯机中に撒き散らされたインクを除けば、だが。
 どこからか上質そうな机と椅子を出した中間さんが「それ使って」と疲れた顔で言う。ありがたく礼を言って腰掛けると、すぐ手元に何枚か書類が飛んできた。目を通し、これなら自分にもできそうだと安堵する。サラサラと羽ペンを動かしながら視線をやると、中間さんは片手で眉間を揉みながらトントンと指で机を叩いていた。

「⋯⋯訊きたいんやろ? あいつが何やったか」
「え!? あ、はい⋯⋯」

 あくまで仕事を続けながら頷くと、手元にもう一枚書類が飛んできた。それは既に全て必要事項が記載されてあるように見えるが、上からガリガリとガラスペンのようなもので力強く落書きされている。書類の方式からして明らかに他の課宛てじゃなさそうなそれに、背中を冷や汗が伝った。ま、まさ、か⋯⋯。
 恐る恐る、酷い落書きの隙間にじっと目を凝らす。宛て先の欄にうっすら残っていた『魔界』の文字に、俺はヒュッと声にならない悲鳴を零した。

「⋯⋯⋯⋯な?」
「⋯⋯これは⋯⋯アウトですね⋯⋯」

 魔界。よりにもよって、魔界。これは流石に擁護のしようがない。

「あいつ、やっていいことと悪いことのラインは分かってると思ってたんやけどなぁ。だからある程度自由にさしてたんやし」
「そ、そう、ですよね」

 書いた後が凹んでいるほど強い筆跡と、「他のは俺じゃない」と叫んでいた顔が浮かんで首を捻る。これは、本当にあいつがやったことなのか? だけど⋯⋯、

「こんなんやる奴、あいつ以外に居らんよなぁ」

 考えていたことは同じだったらしい。椅子の背もたれに身体を預け溜息を吐くその姿は悲壮感が漂っていて、改めて事の大きさに嘆息する。
 ──『魔界』。行ったことも無ければ詳しく聞いたこともないが、こちらと違い純粋にそこで産まれ育った魔族のみが業務をしているというそこは、人間だった自分にとっては絶対に行きたくない恐ろしい世界で、天界で働く自分にとっては、できれば一度だって関わりを持ちたくない場所だった。
 だけど立場上、この人はそこの役人とも頻繁に仕事をしているのだろう。そんな相手との書類がこんな有様になって、直接は関係のない俺にまで心労が移ってくるようだ。何て言葉を掛けるべきか分からず黙っていると、疲れた顔で目を瞑っていた彼が不意に立ち上がった。

「しゃあない。今回の案件は全く関係ないから申し訳ないけど、あいつに間取り持ってもらうしかないか」
「⋯⋯あいつ?」

 俺の質問には答えず、中間さんは執務机の引き出しから黄金色のダイヤル式電話機を取り出した。明らかに人間界のそれを模した懐かしい形状だが、コードはどこにも見当たらない。俺が何か訊く間も無く中間さんが受話器をあげようとした瞬間──大きな音を立て、呼び出しのベルが鳴った。揃って一瞬呆然としたものの、すぐ彼は受話器を取り上げる。

『⋯⋯と、智洋?』

 トモ、ヒロ? 聞いたことのない名前だな。会話口の声はよく聞こえなくて、だけど中間さんの表情やその言葉に思わずゆっくりと席を立つ。

『⋯⋯は? し、重岡が?』
『え、あぁ、ありがとう⋯⋯や、ちゃうちゃう。アホやりよったから謹慎で人間界に落としただけのはずやねん』
『俺もわからんわそんなん⋯⋯こんなこと初めてやろ、なんでや⋯⋯?』

 “人間界に落としただけのはず”? と言うことはあいつは今、違う場所にいるのか?
 しばらく会話が続いて、『トモヒロ』さんはどうやらついさっき中間さんが頼ろうとしていた魔界の知り合いであることがわかった。じゃあつまり、今あいつは……。いやまさかそんな、そんなこと今まで一度だって聞いたことがないし、そもそもありえないはずじゃ⋯⋯。
 チン、という音にハッとして顔を上げた。話は終わったらしく、電話機を仕舞いながら彼は今日何度目かもわからない溜息を吐いている。

「っど、どういうことですか? あいつ今、魔界にいるんですか?」
「らしいわ。魔界にも一人だけ最近仲良くしてる奴がおるんやけど、何でかそいつの目の前に急に落っこちてきたらしい。⋯⋯あいつがおる前で、ほんまによかった⋯⋯⋯⋯そうじゃなかったらあんなヘボ、すぐ食べられとった⋯⋯」

 中間さんが軽く震えた手をぎゅっと握り込む。よろよろと後退り、壁に背中が当たった。た、食べられる? 魔界って、そんな場所だったのか? あくまで三つの世界の一つの範疇だとばかり思っていたのに。

「お、落ちたって、そもそも魔界も冥界もここと地続きなんかじゃないはずじゃ⋯⋯」
「そうやで。人間界と違って、この世界同士は互いにちゃんと手続き踏まな入るどころか場所すらわからんはずやねん。それがなん、で、⋯⋯っ」
「中間さん?」
「⋯⋯クソ、訳分からんことばっかりで頭痛なってきたわ。この程度の件じゃどうせあそこは入れてくれんし、ひとまず、下手にあいつに手順踏んで帰ってこさせるより原因が分かるまで智洋に預かっといてもらうのが一番安全やって話になったから、しばらくそうするわ。俺そっちにかかりきりになるかもしれんから、この件片付くまでは毎日手伝いに来てもらっていい? この話、俺とお前よりほかに漏らしたくないねん。明らかにイレギュラーやのに、うっかり外界に落ちる可能性があるなんて噂になったら大門使えんくなるやろ」
「⋯⋯わ、わかりました⋯⋯⋯⋯」

 勢いに押されて頷いたが、正直納得はいっていなかった。
 この人がそう言う以上強いことは間違い無いんだろうけど、俺はそのトモヒロという人のことを知らない。それにそもそも魔界なんていう、願わくば一度だって関わりたくない場所に親友を放置するだなんて⋯⋯。
 だけどこの人がそう言うなら、俺に反論する手段はない。きっと俺が思いつく数百倍のことを既に考えているのだから。あまりの頭痛に机へ倒れ込んでしまった彼を隣にある応接間へ運んでソファに寝かせながら、想像すらできないほど遠くへ行ってしまった親友の無事を祈った。





 ドスン。毎度上手くいかない着地で激しく尻を打ちつけた俺は思わず呻き声をあげて地面に転がった。
 いてぇ、クソが。ほんまに俺じゃないって言ったのに、クソ淳太め。日頃の行いのせい? 知らん知ら⋯⋯。

「は?」

 視界が暗いことに気がついてパッと起き上がった。おかしい。天界から人間界に降りるときは、その時の互いの時間に関係なく昼間だと決まっているはず。だけど今俺を照らしているのは眩しい太陽ではなく、禍々しいほどにやたらと大きな月だった。見たこともないそれを呆然と眺めていると、辺りも明らかに人間界とは違うことに気がつく。
 紫と灰と黒を筆で混ぜ合わせたような空。骨の芯まで冷やすようなひんやりとした空気。どこかから漂う鉄のよう、な、匂い⋯⋯。⋯⋯血だ。血なんて、もう百年は見ていないから忘れていた。
 ゆっくり辺りを見渡すと、どうやら今自分は黒と白を基調にした城のような建物の中庭にいるらしいことが分かった。ふと視界に影が差し顔を上げると、上空を見たこともない大きさの鳥が飛んで⋯⋯と、り? 鳥じゃない、なんだあれ、ここは一体──、

「⋯⋯だれ?」

 顔を向けると、一人の青年が目をまん丸にして俺を見下ろしていた。それも、見たことのないほど綺麗な。
 少し灰がかった金色の髪、吸い込まれそうな、幾つもの色が詰まった硝子玉みたいな瞳、そして、⋯⋯頭には大きな、角。山羊によく似た大きなそれが二本、金色の髪から突き出している。
 ⋯⋯あぁ、まずい。絶対に人間界ではないところに来てしまった。それも多分、一番来てはいけないところに。父さん、母さん、姉ちゃん、健人、……あとクソ淳太。俺はこれまでみたいです。今までありがとうございました。でもこんな綺麗な子に殺されるなら俺、本望かも。瞬間的に死を覚悟した俺に、もう一度高い声が、さっきよりも息を潜めて落ちてくる。辺りを見渡しているその様子は、焦っているようにも見えた。

「だから、誰? 名乗って。今すぐ」
「ぇ、え? し、重岡大毅です。天界産まれ天界育ち今大体五百歳くらいで家族構成は父母姉、上司はクソ中間クソ淳太。人間界に行くはずがなんでか気づいたらここにおって⋯⋯」
「待って。⋯⋯なんでか、気づいたら?」
「そうです、俺もなんでこんなことになってんのか、」
「⋯⋯淳太⋯⋯話はわかった。ちょっとこれ被って今すぐ着いてきて。俺の腕絶対離すなよ」

 どこからともなく真っ黒なローブを取り出した彼が、俺に返事する隙間すら与えず頭から被せてスッと立ち上がった。慌てて袖に腕を通し、カツカツと歩き始めた彼の腕を後ろから掴む。
 俺より少し背が低くて幼い顔をしていたそのひとは、だけどこの厳かな城を堂々と早足で闊歩している。
 時折明らかに違う種族のものと何度かすれ違ったが、皆彼の姿が見えた瞬間から通り過ぎて角を曲がるまでずっと膝を折って頭を下げていて、俺になんて目もくれない。こんな可愛らしい見た目をしているのに、この子は位が高いのだろうか。俺のものとは比べ物にならないほど大きな黒い翼を生やしたその背中を、月明かりが照らしている。
 厳かな廊下の窓から見える外では、さっきも見た鳥のような何かが何匹も大きな音を立てて飛んでいた。

「⋯⋯あんま見ん方がいいよ。外の人には良くない」
「っえ? あ、わかった⋯⋯」

 俺の方を見もせずにそう言った以降黙ったままの彼の腕を掴んでしばらく歩き続け、次第に誰かとすれ違うこともなくなった。そうして何度も廊下を曲がって階段を上がり、来た道がわからなくなった辺りでようやく彼が足を止める。
 目の前に現れた大きな扉は、俺にとって『一番豪華』の基準だった淳太の実家のそれよりよほど大きかった。

「⋯⋯ここ、俺の部屋。入って」
「え、は、はい⋯⋯…うわ」

 彼が近づいた途端勝手に開いた扉の奥には、異世界のような部屋が広がっていた。一応幾つか燭台は置かれているものの部屋全体が薄暗いし、広大な部屋にある物全てが暗い色をしている。まるで、俺たちの世界の色をそのまま反転させたみたいだ。
 呆然としていると、ふわりと翼を無視してコートを脱いだ彼が視線もやらずにラックへ飛ばし、それはそのまま勝手にハンガーへ掛かって収まった。⋯⋯薄々勘づいてはいたが、この子、強い。魔界の生き物の仕組みや能力なんて全く知らないものの、すれ違った周囲の反応や今見た光景だけで分かる。

「重岡さん、って言ったよな」
「っあ、うん、ハイ。でも皆しげって呼ぶし、なんか君の方が偉そうやし。適当に呼んで」
「⋯⋯しげ」
「うん」

 頷くと、ずっと難しい顔をしていた彼がふっと口元を緩めた。その可愛らしさに思わず目を奪われる。
 魔界って、もっと恐ろしいバケモンばかりがいる世界なんだと思っていた。それにさっきすれ違ってこの子に頭を下げていた奴らは実際そう見えた。あんな奴らに頭を垂れさせるこの子は、こんな暗い場所なんて似合わないほどあどけなく見えるこの子は、一体何者なんだろう。
 視線で促されて大人しく豪奢なソファに腰掛けると、彼は大きなキャビネットから何か⋯⋯小さな機械のようなものを取り出した。なんだか人間界で見たことがあるようなないようなそれを片手に載せ、上に乗っかっていた持ち手みたいなものを耳に当てている。
 どうしよう、何をしてるんだかさっぱり分からない。ひとまず黙って見つめていると、彼が突然喋り始めた。

『⋯⋯あ、淳太くん。お久しぶりです』
「淳太!?」

 思わず大声が出て、パッと口元を押さえた。こちらに視線を向けた彼が、目元だけで薄く笑って人差し指を立てている。

『はい、いえ、そうではなくて⋯⋯あの、そちらの重岡さん? って方が今ここにいて、あなたの部下だって仰ってるんですけど、間違いないですか? ⋯⋯そうです。中庭に急に落ちてきて。あ、今は僕の部屋で保護してるので無事ですよ。それより彼、なんか怒ってましたけどまさかわざとじゃないですよね? ⋯⋯そうですか⋯⋯じゃあどうしてですかね』

 どうやらこの子は淳太の知り合いだったらしい。クソ上司ではあるが、魔界にまで、しかも明らかに位の高そうな相手に繋がりを持っているあたりやっぱり凄い人だ。難しい話はわからないから彼の端正な横顔や見慣れない角をぼうっと眺めていると、いつの間にか彼は焦ったように口調を変えている。

『い、いやそれは流石に困りますよ。危ないですし、ここの食べ物は良くないですし、彼に今から人間界へ行ってもら⋯⋯……あぁ、それは確かにそう、ですね⋯⋯あのひと、そんなに弱いんですか?』

 なんだか聞き捨てならない言葉が聞こえた。が、問題はそれより前のような気もする。もしかして俺、ここで謹慎する話になってたりする? それは流石に怖いけど、面倒なことばっかりで汚い人間界と、危険だけどこの子のいる魔界。もうどっちが嫌なのか分からなくなってきた。

『⋯⋯わかりました。原因が分かるまでですね? ⋯⋯はい、まぁそれは問題ないです。彼、僕のいうことは聞いてくれそうなので⋯⋯淳太くん、なんでそんな嫌われてるんですか⋯⋯ふ、ごめんごめん。はい、じゃあ食べ物だけよろしくお願いします』

 わら、った。かわいい。キュッと細まった目元に釘付けになっていると、最後に何か小難しい話をしていた二人の会話は終わったらしく、彼は持ち手を元の位置に戻す。
 チン、と可愛らしい音を立てたそれを仕舞い直した彼がこちらを振り向いた。さっきより随分柔らかくなっている表情で真っ黒な翼を揺らしながら、彼は俺の隣、肩が触れ合うほど近くへ腰掛けた。近くで見たその子はやっぱり綺麗な顔をしていて、特にその瞳に釘付けになる。
 深い緑を基調に様々な色が混じり合った硝子玉の真ん中には、黒い逆十字が小さく刻まれていた。俺たちより長く鋭く伸びた耳に刺さった幾つものアクセサリーを揺らしながら、彼は俺の顔を覗き込んでくる。

「……というわけで、原因が分かるまでしげの謹慎はここで俺の仕事を手伝ってもらうことになった。淳太くんとは顔見知りやから、そのよしみで期間中は責任持って俺が絶対ちゃんと面倒見るけど、異論ある? あってもしげの力じゃ帰られへんけど」
「⋯⋯ないです。全然全くこれっぽちも、ないです」
「それならよかった。俺のことはともひろって呼んで。こっちの名前は、その⋯⋯食べ物と同じで、他所にはあんまり良くない響きやから。これ、淳太くんと仲良くなった時つけてくれた名前やねん」
「淳太がぁ? それ、気に入ってる?」
「え。⋯⋯気に入って⋯⋯るんかな。意味知らんから、わからん」
「じゃあ苗字は? ないなら俺つけていい? それで呼ぶから」

 奥の大きな窓から差す月明かりで逆光になって、彼の表情は良く見えない。だけど目を凝らすと少し困惑したような、嬉しそうな顔をしたように見えた。小さな口の端がゆっくりと上がり、鋭く尖った牙が覗く。

「⋯⋯いいよ。なんてつけてくれんの?」
「んー⋯⋯⋯⋯かみちゃん、とかどう? 神山からとって、かみちゃん。俺のこと助けてくれたから。他に神ってつく苗字浮かばんし。どうやろ」
「⋯⋯神、な⋯⋯ここがどこで、俺たちが何か、分かってて言ってる?」
「や、多分あんま分かってへんけど。でも本物なんか会ったことないし、あのままあそこに居ったら死んでた俺のこと助けてくれたのは自分やもん。救いをくれた人を呼ぶにはそんな間違った名前じゃないと思うけど。⋯⋯まぁ、嫌やったら他に考えるよ。よく考えたら、そっちにとっては敵みたいなもんか」

 呟き、ソファの背にもたれて頭上で腕を組む。他に何か浮かばないか考えてみるが、一度しっくりきてしまったものを考え直すのはなかなか骨が折れる。それに『神山ともひろ』って響き、何だか気に入ったしこの子にも似合っているように感じるのだけど。
 ふと視線を感じて天井に向けていた目を下ろすと、いつの間にかソファに手をついて前のめりになった彼がすぐ近くで俺を見つめていた。硝子玉が煌々と揺れている。真っ黒な逆十字の浮かんだ瞳を細め、彼は微笑んだ。

「もう一回、呼んで」
「⋯⋯かみちゃん」
「ふ、あは⋯⋯⋯⋯うん、気に入った。ええよ、それで呼んで。苗字なんて貰ったの、俺だけかも」
「そうなん?」
「⋯⋯? うん。あれ、そんな事も知らんのや。まぁ秘密主義的やもんなぁ、うち⋯⋯。苗字なんて、この世界の誰も持ってへんよ。だから俺、うれしい。ありがとう」

 俺なんかよりよっぽど天使みたいに微笑み、彼⋯⋯かみちゃんは、俺の目元を撫でた。真っ黒で尖った爪が当たらないよう優しく何度も撫でられるそれに思わずうっとりして、目まぐるしい状況の変化にも疲れていたのか瞼が重くなる。
 ゴーン、と何処か遠くで重々しい鐘の音が聞こえた。

「⋯⋯まぁ、もう寝てもいい時間か」

 ふわりと身体が浮いた。重い瞼を上げると、かみちゃんが俺を抱き込むように浮かべている。淳太は指一本で物みたいに扱ってきたし、この子の方がよほど優しい。もしかして魔界って、酷い偏見をもたれているんじゃないのか。だとすればそれはこの子が言うように『秘密主義的』なせい、だが。
 広大な部屋の一番奥、窓際に置かれている天蓋付きの大きなベッドにそっと下ろされた。ちょっと待ってて、と言ったかみちゃんが部屋の棚を開けて回っているのを横目に、すぐそばの立派な窓へ視線を移す。やっぱり不気味なほど大きな月がさっきより更に近くに見えて、この部屋が随分高い位置にあることに気がついた。
 そっと身体を起こして外を覗き込むと、俺が落っこちてきた中庭が遥か下に見えて思わず目を丸くする。確かに何度も階段を上がったけど、こんなにだったか?

「しげ、これ着替え」
「あ、ありがとう。⋯⋯こっちって、建物も服も黒とかばっかりなんやな」
「あぁ、言われてみれば⋯⋯。別にそう決まってるわけじゃないけど、皆基本明るいものは嫌いやから」

 そう呟き、かみちゃんは大きな窓から見える月にチラリと目をやった。思わずつられて目を向けると、確かにこの世界全体を照らすようなそれ以外、見える景色はほとんど真っ暗だ。これでは生活しにくいように思えるが、そのうち目が慣れるのだろうか。
 受け取った寝衣にありがたく袖を通させてもらうと、信じられないほど肌触りが良くて驚いた。いつの間にか自分も着替えていた彼はスルスルと翼を仕舞い込み、二人でも広すぎるほど大きなベッドで当然のように俺の隣に潜り込んでくる。⋯⋯この子、敬語を使ってはいたけど絶対淳太より高位だし金持ちだ。帰ったら散々いちびってやろう。そう決意している俺の顔を、彼が目の前でじっと見つめている。

「⋯⋯その角、横向きに寝ても痛くないん?」
「しげだって綺麗な輪っかついてるやん。⋯⋯て、あれ?」
「これ、実体ないからな」

 頭に被さるようにして浮いている天界の存在である証は、なぜか本人すら触ることができない。そういえば蛍光に近いほど明るいスカイブルーをしているはずだから、この子には明るすぎやしないかと心配になったが、かみちゃんは嫌がる様子もなく手を伸ばし、スカッと通り抜けるだけのそれに目をまん丸にした。

「へー⋯⋯知らんかった。邪魔そうやなぁって思っとったわ」
「はは、それこっちの台詞やで。その言い方ならそっちは実体あるんやろ?」
「あるある。でもちゃんと痛くないように自分でしてるよ。ほら」

 そう言って彼は一度頭を浮かせ、もう一度ゆっくりと落とした。その僅かな瞬間、ぐにゃりと奇妙に枕の質感が歪んでいる。

「え、え? なにこれ、どうやってんの?」
「んー⋯⋯色々組み合わせてるから詳しくは言えんけど、錬金術とか⋯⋯魔術の一種かな。だから俺以外の人がどうしてるかは知らん。枕使い捨てなんちゃう? 知らんけど」
「ひぇー、かみちゃんすっご。錬金術なんか実在したんや。うちでも研究してる人居るって噂には聞いたことあったけど、絶対エセやと思っとった。あ、なぁなぁじゃあさ、」
「もう、眠いんやろ? 今日はおしまい。明日からはほんまに仕事手伝ってもらうから、はよ寝るで」
「⋯⋯わかった」

 大人しく目を瞑ると、そっと頭を撫でられた。薄目を開けると、かみちゃんは何故か嬉しそうに俺を見つめている。

「誰かと一緒に寝るなんて、初めてや。淳太くんに感謝せな」

 きゅっと手のひらが握られた。長い爪が当たらないように柔く掴まれたそれとか、勝手に想像してしまったこの子の孤独に胸が苦しくなって、思わず目を一度瞑って眉を顰める。
 知らなかった。最悪なはずの偶然でうっかり落ちてこなければ、この子のことをずっと知らないままだった。こんな大きなベッドで一人、毎晩月を眺めていた綺麗で寂しいイキモノのことを。

「⋯⋯なぁ、これ眩しくない?」
「え? うーん⋯⋯まぁちょっと、眩しいかな⋯⋯綺麗やけど」
「じゃあなんか被るもんも貸して、我慢せんでいいよ」
「⋯⋯優しいな、しげ」

 そう言ってベッドを出たかみちゃんが、しばらくしてこれまた高価そうな黒い掛け布を持ってきた。それをそっと頭に掛けられると、帽子等を被れば貫通することなくちゃんと隠れるようになっている俺たちの“角”は見えなくなったらしい。また目を丸くしているかみちゃんに、「この仕組みはまた明日な」と笑う。
 手を引いて近くに引き入れ、大きなベッドで不必要なほど寄り添った。
 会ったばかりなのに。魔界なんて怖い場所だと思っていたのに。俺はこの明らかに違うイキモノな青年の不思議な引力に、強く心を惹かれていた。


*


 重々しい鐘の音にふと瞼が上がる。だけど辺りは暗いままで、早く目が覚めたのかと二度寝しかけ⋯⋯勢いよく起き上がった。
 そうだ。今自分は魔界にいるんだった。まだ寝ている様子のかみちゃんを起こさないようそっとベッドを出て近くの出窓を開けてみると、長く寝た感覚があるにも関わらず外の様子は寝る前と全く変わっていない。もしかしてとは思っていたが、これは本当に⋯⋯。

「⋯⋯しげ?」

 慌てて窓を閉めてベッドへ戻ると、重いカーテンの隙間からかみちゃんが目を擦りながら顔を覗かせていた。

「かみちゃん。おはよ⋯⋯なぁ、もしかして今って朝?」
「あさ? ⋯⋯あぁ、一日の始まりって意味ならそれに当たるかな⋯⋯」
「⋯⋯まじかぁ」

 『みんな明るいものは嫌い』。昨日のこの子の言葉を思い出す。言葉通りだったんだ。この世界に太陽は昇らない。
 ここではこれが当たり前なんだろう、驚いている俺をよそにかみちゃんは何か呻きながらころころとベッドを転がっていた。綺麗な瞳を隠してギュッと目を瞑ったまま、眠気と闘っているように見える。この様子だと寝起きは悪いタイプなのかもしれない。
 昨日のしゃんとした姿とのギャップに頬を緩めながらベッドへ腰掛け、金糸のような髪に手を伸ばす。

「⋯⋯かみちゃん、まだ起きんで大丈夫なん? さっきの鐘は?」
「始業⋯⋯」
「やばいやん!」
「うぁ、大声やめて⋯⋯俺は皆と仕事違うから関係ないねん。どっちみちそろそろ起きなあかんけど⋯⋯」
「⋯⋯へぇ」

 何もかもよく分からないけど、大丈夫ならいいかとひとまず頷いておく。唸りながら起き上がったかみちゃんが指先を一度揺らすと、部屋の燭台全てに火が灯った。
 俺には正直大して変わらないそれを眩しそうにしながら、彼はのそのそベッドを這い出てくる。かわいいな。

「あ、ご飯いるんやった。淳太くん送ってくれてるかな」
「んぇ?」

 妙な言い草に首を捻っている俺を無視して、かみちゃんは部屋の奥にある錠付きの棚を開いた。こっちからじゃあまり中は見えないが、小さく「へぇ」と呟く声が聞こえる。

「しげ、用意したげるから支度しといで。そっちのドアの先がバスルームやから。確か天界って毎食歯磨いたり風呂入ったりするんやろ?」
「⋯⋯⋯⋯うん」

 色々突っ込みたくなる言葉だったが、黙って従うことにした。そっち、と指差されたもの以外にも扉は幾つかあって、改めて彼が与えられている場所の大きさや立場に引け目を感じながら重いドアノブを捻る。バスルームはどこもかしこもピカピカで、まるでほとんど使っていないみたいだった。まぁ、あの様子ならまた指先一つでピカピカにできてしまうのかもしれないけれど。
 勝手に火の灯った燭台を見上げながら、勝手に現れた新品のブラシで歯を磨く。なんなんだこれ、まるでフィクションの魔法の世界じゃないか。魔族とは言っても俺たちが『善』なら向こうは『悪』、くらいにしか思っていなかったが、こんなのまるきり別の生き物だ。
 天使なんて大半が空を飛べるだけだし、特別な力を持つ上位存在に当たる淳太と比べたって明らかにレベルが違う。周囲が魔界を嫌っていたのも、淳太が「魔界とだけは揉めたくない」みたいなことをいつかに言っていたのも、これが理由なんだろうか。
 だとすれば何故、魔族はその強さを『秘密主義』なんて言葉で隠してこんな世界に閉じこもっているんだろう。

「⋯⋯⋯⋯“ご飯、いるんやった”?」

 ぴた、と手を止め泡だらけの口元で呟く。なんだ、この違和感。まるで普段はいらないみたいで、だけど昨日確かに『こっちの食べ物は良くない』みたいな話をしていたはず。しばらく宙を眺めて固まった後、どうせ考えてもわからんし直接聞けばいいや、と泡と共に吐き出した。
 汚れひとつない鏡の中では、居心地悪そうに浮かんだスカイブルーの輪っかが暗い部屋を照らしている。黙って数秒それをじっと見たあと、通り過ぎた。

「かみちゃーん、準備終わりました」
「ん、こっちもご飯できてるよ。淳太くん、きっちり一週間分説明付きで食材送ってくれとった。正直食材だけじゃどうしたらいいかわからんかったから助かるわ」
「え、どうやって⋯⋯うわ、なにこれ! こんなんあっちでもなかなか食べれんようなやつやん。あいつもしかして引け目でも感じてんのかな」
「そうかもなぁ、今必死で原因探してくれてるみたいやし。あんまり早く分かっちゃったら俺は寂しいけど。⋯⋯ほら、早く食べて。仕事行かなあかんから」
「え、⋯⋯あ、うん。⋯⋯かみちゃんは何も食べへんの?」

 滅多に口にしない高級肉に朝からかぶりつく俺を、かみちゃんはテーブルに肘をついてただ眺めている。
 曰く、魔族は種族にもよるが基本食事を必要としない身体らしい。嗜好品として楽しむ奴が多いからあるにはあるけど、とても外のものに食べさせられるものではない、と。その嗜好に興味がないらしいかみちゃんはもう何年も食事なんてしていないと笑った。
 興味がないなら別に構わないんだろうが、なんかそれ、寂しいな。食事が楽しみの自分には、目の前で俺が食べている様をただにこにこと眺めているだけの青年が可哀想に見えてしまう。これは、エゴなんだろうか。

「⋯⋯じゃあ、かみちゃん他になんか趣味ないん?」
「趣味? 服かなぁ。あと、これ」

 ふ、と綺麗な顔が傾いた。長い耳にこれでもかと付けられた装飾品がジャラリと音を立てて揺れる。
 幼い顔立ちなのに何故か似合っている沢山のそれは、全部で⋯⋯七、八個ほどついていた。アシンメトリーというやつか、左耳にだけ、耳たぶと真ん中あたりの二つのホールを繋いだ真っ黒なチェーンが垂れている。
 天界ではアクセサリー自体つけてるやつなんてほとんど見かけないから、不思議だ。思わずじっと見つめていると、左耳の尖った先端を貫通させているピアスがこれまた逆十字をしていることに気がついた。
 俺、これでも天の使いのはずなんだけど。よくこの子とこんなに長時間一緒にいて何ともないものだ。案外関係ないものなのか、あるいは、俺が天界生まれ天界育ちのくせしてさほど信心深くないからかもしれない。
 だって相手は会ったことも見たこともなければ本当に居たかも知らない存在だし、何かに祈り縋るほど強い願いや不安を感じたことなんて今まで一度もなかった。

「⋯⋯たのしい?」
「えっ? あ、ごめん見過ぎやんな。珍しくて、つい」
「へえ、珍しいんや」
「珍しい。ていうか、ほぼ見んかな。こっちはそもそも規定の服装がゴチャゴチャ仰々しいからなぁ。アクセサリーなんて要らんねん。俺はその仰々しいやつほぼ全部ほっぽって楽な格好で仕事行くから、毎日淳太にしばかれてるけど」
「⋯⋯ふふ。確かに、毎日一日中あの重そうな礼服じゃ俺も息詰まるやろなぁ。何回かしか見たことないけど、全員あれなんやろ?」
「そうやねん。偉い奴だけ着とったらええのに、違うの色とか装飾の模様だけやで。んなもん誰が違いわかるねん」
「まぁまぁ。じゃあ、少なくともこっちにいる間は楽かもな。ほらこれ、しげに着てもらう服。あとは上にローブ羽織って頭だけ隠しといてくれたらいいよ」

 ちょうど食事を終えた手元に、どこからかスイと綺麗に畳まれた洋服一色が飛んできた。広げてみると、シンプルなシャツとベスト、それから人間が着るスーツみたいなズボンだけだった。そういえば、昨日かみちゃんが重厚なコートの下に着ていたのもこんな服装だった気がする。

「俺は好きやからわざと袖余らせてアームバンドとか色々付けてるけど、今の話ならしげはピッタリでよかったやろ?」
「うん! え、まじでこれだけでいいん!? めっちゃ楽やん!」

 早速灰色のシャツに袖を通し、かなりハイウエストになっている珍しいデザインのズボンを穿いてみる。確か昨日かみちゃんはこの部分に綺麗な装飾が施されたベルトを巻いていたけど、それもお洒落の為だったのだろう、俺のものは完全にサイズが合わされていてベルトなんて必要なかった。最後にベストを羽織って四つ飾られた金色のボタンを留めれば、それだけですぐ着替えは終わった。見て! と思わず腕を広げて振り返ると、かみちゃんは既にこっちが恥ずかしくなるほどじっと俺を見つめていた。
 さっきまで寝衣だったはずなのに、いつの間にかこの子も昨日と同じ、今は俺とも同じの服になっている。段々驚かなくなってきたけど、着替えまで自分でしないでいいのだろうか。

「え、っと。変じゃないっすか」
「まさか。⋯⋯きっとあっちのより似合ってるで、見たことないけど」
「ふは。確かに、俺が珍しく礼服フルセットで着てったら友達にアホほど笑われたから、ほんまにそうかも」
「⋯⋯⋯⋯とも、だち」
「ん? うん。まぁ俺にも一人くらいは友達おるよ、この前まで人間やったやつで⋯⋯、⋯⋯かみちゃん?」
「ごめんしげ、もう流石に仕事行かなあかんわ。俺の後ろ絶対離れないこと、誰かに話し掛けられても絶対応えないこと、俺がいいよって言ったもの以外触らないこと、わかった?」
「あ、お、おう」

 もしかして、何か機嫌損ねるようなこと言ってしまったかな。すっと立ち上がったかみちゃんはお仕事モードに入ったのか昨日みたいな少し冷たい表情をしていて、慌ててフードの付いたローブを羽織る。
 スカイブルーの輪が隠れたことを確認して、かみちゃんはコツコツとショートブーツの踵を鳴らして歩き始めた。

「⋯⋯そんな緊張せんでええよ、しげがやる事なんてないから」

 振り返った彼がふと表情を和らげる。やる事が、ない? 黒革の手袋に包まれた手が差し出され、何も考えずそれを握った瞬間、ギュンと身体ごと空間が歪む感覚がして咄嗟に目を瞑る。
 やがて収まったそれにおずおずと目を開ければ、俺は数百年生きてきて見たことも想像すらしたこともない、この世の悪をすべて詰めたような場所にいた。だけど直感的に、ここが魔界の『仕事場』だと理解する。


「⋯⋯これが俺たちの世界。俺たちの生きる場所。人に罰を与える、その為の存在」


*


「ウ、オェ、⋯⋯ぐ、ゲホッ、ぅ、うぇ⋯⋯ッ」
「そうそう、全部出しちゃい。気持ち悪いな、しんどいな」

 情けないことに、彼の“職場”を見始めて一時間もしないうちに俺は道端でさっき食べた豪勢な朝食を全部吐き出していた。
 知っていたはずなのに。魔界の仕事、それはつまり生前悪を行った人間の断罪だと。

 想像を遥かに上回っていたそれは、毎日書類にペンを走らせているだけの俺たちとは何もかもが違った。あちこちから聞いたこともないような悲鳴が飛んできて、もう吐くものもないのにグルグルと視界が回る。どうして魔族がその強さをこんな地獄の底で隠しているのか、どうして周囲が魔界を嫌うのか、ようやく理解した。
 閉じ込められたんだ。その強さと邪悪さ故に、断罪の役割と共にこの世の底へ押し込められたんだ。昨日まで存在すら信じていなかった、彼に。
 ⋯⋯⋯⋯帰り、たい。昨日までの自分の、あまりに甘い考えが脳を震わせる。本当に、ここに三ヶ月もいるのか?
 だけど隣でやさしく俺の背をさすっているかみちゃんは、さっきから何もしていない。ありとあらゆる手段で行われている断罪の現場を、ただ順に見て周っているだけだ。理由は分からないけど、少し、安堵した。仕事とはいえあんな事をするこの子は、出来ることなら見たくない。

「⋯⋯落ち着いた?」
「う、ん⋯⋯ごめん、汚いとこ見して」
「こんなん汚いうちに入らんよ。⋯⋯天界のやつなんかが見たらこうなるのは分かってたことやのに、朝食取らせた俺が悪いわ。自分が食べないから、そういうのすっかり忘れとった。⋯⋯ごめんな、しんどい思いさせて」
「や、か、かみちゃんが謝ることちゃうよ、これが仕事? なんやろ⋯⋯?」
「あ、いや俺は⋯⋯」

 ちら、とかみちゃんは辺りを見渡した。明らかにかみちゃんと種族の違う、獣みたいな姿をした魔族たちは黙って仕事に勤しんでいるが、聞き耳を立てられていることくらいは俺にも分かる。ふいにかみちゃんがそのうちの一人に目を止め、やさしく声を掛けた。

「なぁ、⋯⋯うん、自分。ちょっと水差し取ってきてくれる? うん、水差し。よろしくな」

 俺も、言われた相手も、不思議そうに首を傾げていた。水差しなんて、この子ならきっと指先一つで出せるだろう。だけど俺に背を向けたままかみちゃんが彼と目を合わせた途端、周りの空気がまるで氷のように張り詰める。
 黙って首肯した彼が建物の方へ消えたのを見届け、やっぱりかみちゃんはどこからかすっと水差しを取り出した。差し出されたそれに黙って口を付け、喉を潤す。だけど辺りの空気は明らかに一変していて、さっきまで感じていた聞き耳を立てられているような感覚は一切しなくなっていた。何故か、それが逆に居心地が悪く感じる。

「立てる? じゃあ次行こか。悪いけど他も見て周らなあかんねん。それに、淳太くんから謹慎として受け取ってる以上あんまり甘やかしてもあげられへんし」
「あ、う、うん⋯⋯でもかみちゃん、さっきの人は」
「しげが気にすることちゃうよ。仕事しただけ」
「え⋯⋯?」

 またコツコツと踵を鳴らしてかみちゃんは地獄の底を歩いてゆく。慌ててその後を追えば、今ここにいる誰よりも圧倒的に大きな翼が目の前で揺れている。


 俺たちの世界は「天使」か「元人間」かだけだが、ここには明らかに幾つもの種族が存在する。苗字を持たないというこの子は──彼らは、一体どこからやってくるのだろう。もし本当に魔族をここへ落としたのが『彼』なら、つまり魔族の元は⋯⋯。
 背中に突き刺さる幾つもの視線に、思わずキュッとローブの裾を握りしめた。


*


 窓辺のソファに腰掛け、禍々しい月を眺める。きっと、この月と俺たちの知る月は別物なんだろうな。だってあそこに兎さんがいるなんて、到底思えない。

 紅茶淹れれた、と無邪気な声がした方へ首を傾けると、少し嬉しそうな軽い足取りで自慢げな顔をしたかみちゃんが綺麗なティーセットを連れていた。ふわりとテーブルに着地したそれからは、少し懐かしい、だけど俺が知ってるものより遥かに上品な香りがする。

「今日しげ、しんどかったやろ? 何かしてあげられへんかなと思って、これ、自分の手で淹れみてん。術使った方が味は間違いないけど、なんか、喜ぶかなって⋯⋯。ティ、ティーセットもな、持ってなかったから上司におねだりしたんよ。普段そんな事全然せんから凄いびっくりされてん。⋯⋯どう? 綺麗、ちゃう?」
「⋯⋯綺麗。それに、いい匂い。ありがとうかみちゃん」

 ゆっくり笑みを作ると、かみちゃんの綺麗な瞳には明らかに安堵が浮かんだ。やさしいな。気にしてくれてたんだ、昼間のこと。あくまで謹慎なんだから、この子が気に病むことなんて何もないのに。
 昨日より少し距離を置いて座った彼の視線を感じながら、そっと紅茶に口をつける。魔術なんて使わずとも笑えるくらい美味しいそれに、思わず嘆息した。だけど次の瞬間、赤く透き通った紅茶の水面に昼間見た惨状や悲鳴が映って、視界が揺れる。

「⋯⋯どう?」
「⋯⋯うん、めっちゃ美味い。かみちゃん、自分でも飲んでみ? あ、でも俺ミルクティー派やから入れていい?」
「ミルク? あぁ、えっと、淳太くんが送ってくれてるはず⋯⋯はい」

 棚からヒュンッと飛んできたそれに思わずちょっと笑ってしまいながら、何気なさを装って紅茶へミルクを注ぐ。乳白色になったそれにこっそり安堵していると、かみちゃんは恐る恐るといった顔で自分のティーカップに口をつけていた。

「美味しいやろ?」
「んー⋯⋯よくわからん。何か口に入れたの自体久しぶりやし⋯⋯なぁ、そうやって色々足していくもんなん?」
「ん? うん。そのまま飲む人もいるし俺みたいにミルク入れる人もいるし、砂糖足して甘くする人もおるで」
「さとう⋯⋯それならこっちにもあるかも。でも俺は持ってへんなぁ。こんな事ならもっと色々揃えとくんやった」

 きゅ、とかみちゃんは色の薄い唇を尖らせた。幼い、可愛らしい仕草。だけどその下に鋭い牙が隠れていることを、知っている。怒号と悲鳴の轟くあの地獄の底でこの子が平然としていたのを、ずっと見ていた。
 冷酷な彼と今ここで唇を尖らせているこの子のギャップに、脳が揺れている。

「じゃあ明日、上司に今度は砂糖ねだり」

 紅茶を口に含んで軽く笑いながら、視線を部屋の奥の棚へやる。『何か口に入れたの自体久しぶり』だと言っていたのに、そこには幾つもの真っ赤なボトルが並んでいた。
 俺が落ち着いていることに安堵したのかちょこちょこと昨日のように距離を縮めてきながら、かみちゃんが視線の先を追う。

「⋯⋯? あぁ、あれ、仕事の褒賞として上司に貰った奴やねん。全部かなり貴重なんやけど、飲まんから飾るしかなくて。どんどん溜まっちゃってるねんな。しげ、お酒飲むん?」
「ううん、天界は上流階級以外酒禁止やねん。あれ酒なんや」
「そう、ワインっていう⋯⋯葡萄とかで出来てるやつ」
「葡萄!? うわ、じゃあ俺らが庭で育てて貢納させられとったやつ絶対そのワインってやつになってるやん。腹立つな〜」
「⋯⋯天界って、意外とまっさらな場所でもないんやな」
「中間淳太って知ってる?」
「なぁ、淳太くんいい人やん。なんでそんな仲悪いんよ」

 ころころとかみちゃんが楽しそうにわらった。飲み終えたカップを置いてそれを横から眺めながら、窮屈そうなアームベルトに手を伸ばす。シュル、と音を立てて簡単に外れたそれに、かみちゃんは目を丸くした。

「え、⋯⋯な、なに?」
「んや、せっかく寛いでんのにそんなん付けてたらしんどくない?」
「あ、あぁ……そう、かな。ごめん」
「なんで謝んの。勝手に触ったの俺やし」

 さわ、と落ち着きなく袖を撫で、かみちゃんは反対のベルトも外した。手を伸ばし、上質なシャツ越しにその腕に触れてみる。俺が何をしたいのかわからない、って顔でそっと見上げてくるかみちゃんはやっぱり昨夜と同じ、何処か無垢で、ただ少し不思議なだけの子だ。
 友達なんて言葉に表情を固まらせたこの子は、仕事になった途端冷酷な表情を作ったこの子は、今まで何百年こうして一人で生きてきたんだろう。

「……かみちゃん、なんか俺にして欲しいこととかない?」
「し、して欲しいこと?」
「なんでもええよ。ほんまに、なんでも」
「……なん、でも」

 ふと、かみちゃんが俯いた。その口元は少し微笑んでいるように見えて、緩く首を傾げる。
 そっと俺の手に遠慮がちに青白い手を重ねられた。迷わず手を返して握り返すと、頬を赤くしてかみちゃんはわらった。夜に包まれて生きている彼は異様なまでに肌が白くて、少し血色が出るだけでこんなにも分かりやすい。それがどうしようもなく可哀想で、可愛い。

「じゃあ、今度の休みか、仕事終わって時間ある時に買い物付き合ってほしい、かな……。俺の趣味、知りたいって言ってたやろ? それに、しげにこっちの服選んであげたいし。毎日働く訳ちゃうからな」
「あぁ、なるほど……そんなんでええの? 勿論いいよ、楽しみにしてるわ」
「……うん。嬉しいな、自分の好きな物の話するのなんて初めてや。しげ、どんな服が似合うかな」

 弾んだ声で笑い、かみちゃんがとすんと俺の肩にもたれかかってきた。昨夜の枕のように一瞬自分の肩が歪んだことにギョッとしながら、それでもこの子がもたれられるならいいか、と気にしないことする。
 近くで見ると、少しくすんだ金髪から生えた山羊を模したその角は、どこかで見覚えがあるような気がした。
 ⋯⋯この子は、明らかに高位の存在だ。だからもしかすると、有名な存在と何か関係があるのかもしれない。だけど天界の学舎に通っていたのなんて何百年も前だから全く覚えていないし、探るようなこともしたくない。
 そっと髪に指を通し、梳くように何度も撫でてやる。そうしたら彼は元々赤かった頬だけじゃなく顔全体まで真っ赤にしながら心地よさそうに目を閉じたから、全部どうでもよくなってしまった。

「……そういえばかみちゃん、牙生えてるけど吸血鬼とかとは違うん?」
「牙? あぁ、違うよ。魔族はみんな生えてるから……なんで?」
「や、それなら俺のあげようかと思っただけ。何も食べてないって言ってたから、魔族のは嫌なんかなって」
「…………しげ、優しすぎるのは良くないで。この世界じゃ優しさなんて食い物にされるだけやから」
「分かってるよそんなん、かみちゃんにしか言わん」
「……そう」

 小さく呟いたきり、かみちゃんはただじっと握り合った手を見つめていた。証明するようにもう一度強く握り直すと、彼は「怪我させちゃうからやめて」と力なくわらった。


*


 それから数日が経った。相変わらず朝らしくない朝を迎え、一人だけ朝食をとった俺とかみちゃんが向かう仕事先は毎日違う。
 どうやら決まった職場があるわけではなさそうな彼の毎日にも、時折目にする凄惨な光景にも、ようやく慣れてきた。そんな中でも今日向かった先にあったのは、いつもと更に雰囲気の違う大きな門だ。

「……これが今日の仕事? かみちゃん、もしかしなくてもかなり特殊な立ち位置やんな」
「察し良いな。……この門の先、冥界やけど。行ったことは?」
「め!? な、ないない。会ったことすらない。話くらいは聞いたことあるけど、俺マジでただのヒラ天使やから」
「そっか。俺、あそこの人相手やとちょっと冷たいけど、引かんとってな」

 珍しく憂鬱そうな顔をした彼に何かを言う間もなく、大仰な扉が開いていく。手袋越しに俺の手をしっかり握ったかみちゃんに引っ張られ、人間界に突き落とされる時以外通らない『世界を繋ぐ』為の門を潜る。一瞬視界が眩い白に覆われ、だけどすぐ元いた場所のように暗くなった。パッと顔を上げれば、魔界とよく似た暗い空が広がって……いない。空が、ない。

 冥界は、聞いていた通りの大きな洞穴のような世界だった。
 その一番高い場所に作られたらしきこの門からは天井が良く見え、ボコボコした岩のそれからは時折水が滴っている。
 門から先は延々と一本道が曲がりくねりながら下の方へ続いていて、そこらに青白い火の玉のようなものが浮いていた。灯り? だろうか。底が見えないほど長く続いているが、空間が大きいのか、人の話し声や気配は軽く反響して聞こえてくる。どこからか大きな犬の遠吠えのようなものが聞こえ、思わず肩を跳ねさせた。なんや今の。

「……ほら、居らん。冥府は役人も元人間ばっかりやから人間くさくてやりづらいし、平気で時間も守らんこと多いねん。明るいのは嫌いやけど、天界の方がよっぽどマシや」

 隣でかみちゃんが重い溜め息を吐いた。俺は物珍しさに何も感じなかったけど、そういえばこの子にとっては慣れた仕事なんだ。確かにこの性格なら、人間くさいという冥界は合わないかもしれない。
 というか隣の子があんまりにも特異だから忘れていたけど、魔界からの使者を待たせるなんて、うちなら有り得ない失態だ。

「……まぁ確かに、俺も人間は好きじゃないなぁ。善と悪が混じり合っててよく分からんくて、気持ち悪い。うちに来るのは善に強く寄った人間やから尚更、人間界行くとそういうのがぐちゃぐちゃしてて気持ち悪なるもん」
「やろうなぁ。こっちも反対なだけで同じやで。だからこそ冥界は元人間が取り仕切ってるんやろうけど⋯⋯あ、来た」

「どうもっす! やー、待たしちゃってすんません! でもこっちでは時間通りのはずなんやけど、ズレでもあるんかなぁ」
「おい、下手に言い訳すんのやめとこってさっき話してたとこやん。すんません、この通りなんで」

 何やらグダグダ言いながら、二人の男が走ることすらせず坂を登ってきた。その背には翼も、それらしき特徴も何一つとしてない。本当に人間だ。揃って腰を折った二人にまた小さく溜め息を吐き、かみちゃんが手を差し出す。

「……いいです。人間がどういう生き物かはよく知ってますから。で、モノは?」
「あー、はいはい。ちょっと待ってな……」
「相変わらずかわいい顔して怖いなぁ。ていうかなんですかそれ、……人間? ペットにでもしてんの?」
「おい望、怒らせてんねんからあんまちょっかい掛けんな」

 や、ヤバい。何一つ言葉を発してないけど、隣でフツフツとかみちゃんの怒りゲージが溜まっていってるのを感じる。わざと神経を逆撫でしているようにしか思えない。
 だけどいくら見た目が可愛らしいとはいえ、仕事で他所への行き来をするのなんてどこの世界だろうと高位の存在だけだ。この子が魔界のそれであること、流石に分からないわけがないだろうに。

「や、だって長く生きなあかん存在は暇潰しも大変そうやなって……自分、いつ来ても退屈そうな顔してたけど今日はちょっと様子違いますね。ソレのおかげ?」
「…………そっちこそ、今日はよう喋るな」
「そらだって、いっつも同じ、一人で来る魔界のお偉いさんが誰か連れてるなんて初めてやからな。はい、これです」

 返事をしたのは大きな鞄をまさぐっていたもう一人の男だった。
 冷たい顔のままその小瓶を受け取ったかみちゃんが、ガラスのようなそれの中で赤黒い火の玉が跳ね回っているのをじっと見つめている。しばらくそうしてから少し目を見開き、かわいい顔を不快そうに歪めた。

「こんなんなんで振り分けで見抜けんかったん? 怠慢やろ」
「ちゃうねんって、ほんま人間汚いわ〜。俺もそうやけど。とはいえこんな小瓶一つのために来させちゃってすんません」
「……仕事やから。そっちは特に変わりない?」
「ないよ。あ、最近上司が人間界への慰安旅行計画立ててるで」
「ええっ、あんなとこにぃ?」
「しげ。……色々相変わらずやな。じゃあ、帰るわ」

 かみちゃんがそう言った途端、ギィ、と音を立てて扉が勝手に開いた。許可なく喋ってしまった口を抑えている俺の腕を引き、かみちゃんはその仕切りを大股で跨ぐ。引っ張られているせいで最後まで二人と目が合ったまま、俺はその光に飲み込まれた。




「…………人間ちゃうな、あれ」
「ちゃうなぁ。顔の割にかったい人やと思っとったけど、なんかオモロいことなってるやん。なぁ、次来た時もアレ居るか賭けてみる? 俺は明後日には食べられてると思う」
「いやぁ、あいつ何か食べんでも充分過ぎるくらい強いやろ。俺は次も来ると思う……けど、ちょっと違うんちゃうかな」
「……? なにそれ」
「ふは。……早く次があったらええなぁ。わざとなんかミスするか」
「絶対バレるって、それ。流石にその類はタダじゃ済ましてくれへんで」
「そうかぁ。まぁどうせ大して長い命じゃないから惜しくもないけど」
「確かにな〜……あ、ていうかあの子に同時に殺してもらったら次も同じ時代に産まれれるんちゃう?」
「ふ、どんな確率やねん。……あー、この坂なっっっが!! ほんま門の場所変えてくれへんかな」


*


 重い音を立てて閉まった扉を背に、かみちゃんは完全に無言だった。まだ一週間にも満たない付き合いだが、何となくわかる。
 これは疲れている。それも、物凄く。数秒黙って宙を見つめた後、彼は誰に言うでもなく「報告行かな……」と呟いて歩き始めた。か、可哀想。もっとこう、あのノリに適正のあるやつとか居らんのか。いやそんなやつ魔界にいるわけがない。きっとこの子で傷害事件に発展しないギリギリのところなんだ。
 モヤモヤしながら連れて行かれた先は見上げないとどこが上が分からないほど大きな扉で、俺でもすぐに分かった。これ、本当に偉い人の部屋だ。流石にこれは外で待機かな、と思ったら当然のようにあっさり腕を引かれてしまった。本当にどんな状況でもかみちゃんの傍を離れてはいけないらしい。
 真っ暗な部屋にいくつか燭台が置かれただけのその部屋は、こりゃ確かに俺が入っても何の問題もないだろうってほど真っ暗で何も見えなかった。だけどかみちゃんは当然見えているのだろう、上司らしき人と話をしている。さっきの仕事の報告と、それから俺についてらしき事。聞いていてもよく分からないそれにポケーっとしていると、突然強烈な視線を感じてバッと目を見開いた。⋯⋯見られている。それも、物凄い圧で。
 しばらく続いたそれに身体を硬直させていると、地を這うような低い声が「いいだろう」と言ったのがわかった。

「有難うございます。では本日はこれで……あ、」
「……?」
「あの、砂糖ってどこにでも売ってるものなのですか?」


*


 普段より随分早く終わることになった仕事に「これなら買い物行ける」と軽い足取りをしたかみちゃんに付いて歩きながら、俺はさっきまで浴びていた圧力にゲンナリしていた。

「……かみちゃん、度胸あるね」
「そう? あれが上司やし、産まれた時から目の前に居ったからなぁ」
「産まれた時から?」

 手を繋いで城を出ると、かみちゃんは何台か止まっていた馬車に手を挙げた。それに乗り込むと、窓から初めてちゃんとした城の全景が見えて思わず息を飲む。途方もなくデカい。こんな大きな城、初めて見た。かみちゃんの部屋は……、あの辺りだろうか。全然分からない。

「俺たちはな、人間界から集めた人間の悪意の澱みから産まれてくるねん。それがあの人の御前にあって、産まれた瞬間どんな存在かをあの人が見極めて身の振り方が決まる……って感じ。大半を占めるのがあそこで見たような獣人とかで、吸血鬼みたいな労働に向かない種族なら僻地に領地を持たせて好きにさせる。だから俺たちは家族を持たないし、持ってる名前は生まれた時にあの人に与えられるものだけ」
「へーぇ……かみちゃんは何の種族なん?」

 窓から見える景色は、ただ荒涼とした森が続いているだけだった。ひとつも葉のついていないそれがどうやって生きているのか不思議だが、魔界の植物には魔界の仕組みがあるのだろう。
 返事がないことに振り返ると、かみちゃんは黙ってじっと俺を見ていた。

「…………魔人」
「まじん?」
「そう。この世界の一パーセントにも満たない希少な種族。魔人が産まれた日はあの月が真っ赤に染まるし、産まれた瞬間には特別な地位が約束されてる。まぁ俺は、その一パーセントの中でも特殊やけど」
「……もしかして、これ以上あんまり聞かん方がいいやつ?」
「ふは。やっぱりしげ、変なとこで勘良いよなぁ。ちょうどええわ、街、見えてきたで」
「えっほんまに?」

 ガタガタと揺れる馬車の窓から、小規模な街並みが近づいてくるのが見えた。相変わらず暗い彩りの建物ばかりだが、ちゃんと店らしく読めはしないが文字で色んな売り文句や看板が出ている。その数の多さを見る限り、少なくとも天界より娯楽の種類は多そうだ。

「なぁ、ここで店持ってる人はそれが与えられた仕事なん?」
「ちゃうよ。自分で給料貯めて、それでこういう事したいってちゃんと申請して許可が降りた奴らの集まり。だから色んな種族がいるし、知能も高い奴が多いよ。カモられんようにな」

 ニヤ、とかみちゃんが目を細めた。面白いなぁ〜なんて気楽に考えていた俺は途端に背筋が冷えたけど、ここの金なんてそもそも持っていないことに気がついて息を吐く。からかわれた。かみちゃん、こういう所もあるのか。
 広場のようなところで降ろしてもらい、かみちゃんは金貨をジャラジャラと御者に渡した。その数に目を見開いた御者は、だけど俺の姿をちらと見たあと黙って小さな麻袋いっぱいにそれをしまいこんでいる。

「……じゃあ行こか。まずは俺の馴染みの店でいい?」
「もちろん! たぶん俺何見ても珍しい珍しい言うで」
「ふふ、楽しみ。こんなに要らんと思ってたけど、お金いっぱい貰っててよかったわ」

 そう笑って歩き出したかみちゃんに、すれ違う人皆が通り過ぎる間ずっと頭を下げている。やっぱり俺の存在は気にされてすらいなさそうだ。彼が連れている限り、冥界の奴らが言っていたようにペットだと思われるのだろうか。
 そんな周囲なんて全く気にしていないかみちゃんが真っ先に向かったのは、どうも装飾品を売っている店らしかった。
 カラン、と音を立ててドアを開けた途端、奥から老いた見た目の男がスっと出てくる。

「⬛︎⬛︎⚫︎・⬛︎⬛︎⚫︎⬛︎さま、お久しぶりですね。そのご様子ですと、今日はお仕事からそのままいらっしゃったのですか?」
「えぇ、まぁ。嫌な仕事やったんで、良いもの見て気分を変えようと思って」

 ……な、なんだ? 彼がかみちゃんを呼んだはずの名前が、全く聞き取れなかった。「食べ物と同じでいい響きじゃない」って初めて会った日に言ってたけど、そもそも聞き取ることすら出来なかった。

「それはそれは、光栄なことです。……今日はお連れ様もご一緒で?」
「はい、今日は彼にも一つか二つ、似合うものを選ぼうかと」
「そうでしたか、それではごゆっくりどうぞ」

 静かにそう言い、店主は下がっていった。彼もまた俺の方を一度も見なかったが、それは外で感じたものとは少し違って……どこかかみちゃんを気遣ってのもののように感じた。人の大切なものを不躾に見ない、みたいな。いやいや、大切なものって。たかだか謹慎の身分で自分で何を言ってるんだか。
 この子に向けられている畏怖や敬意を、脳がまるで自分の事のように勘違いしてしまっている。この子の傍を少しでも離れたが最後、俺はあいつらに一瞬で食べ尽くされてしまうだろうに。

「ここ、俺が一番よく来てる店。今日付けてるのも殆どがここのやつで……しげ?」
「ん!? あ、う、うん。確かに、かみちゃんっぽいのが多いな」

 慌てて陳列棚に目をやると、高級品に慣れていない俺の目でも分かるほど細やかで上質なものばかりだった。真っ赤な石が嵌め込まれた指輪を覗き込むと、どろりと溶け落ちてしまいそうな感覚に陥る。なんの石なのかかみちゃんに聞こうとし、やめた。録な言葉が返ってこなさそうだ。
 次に目に付いたのが、さっきのよりは明るい深緑の大きな石が飾られたネックレスだった。かみちゃんが毎日仕事着の首元に付けているものと、よく似ている。

「……あ。それ、俺が付けてるのと同じ石やな」
「やっぱり? 似てると思った。俺これがいいなぁ。かみちゃんと同じの付けたい」
「そうなん?」
「うん。……ほんまにペットみたいになっちゃうかな」

 自嘲気味に笑うと、かみちゃんはグッと顔を歪めた。

「あんなん、……あんなん、気にせんでいいよ。周りにどう見られてるかも、しげが考えることじゃない。付けたいなら付ければいいねん。これ、俺と同じようにブローチに作り直してもらお」

 言うが早いか、かみちゃんは店の奥へ消えていった。黙ってその背を見送りながら、いつの間にか詰めていた息を吐く。
 冥界のあの二人に言われた言葉、彼の上司に受けた圧、さっきの路地で俺を包んでいた空気。……らしくない事を言ってしまった。他人にどう思われるかなんて、いつもの俺なら気にしないのに。どんどん分かっていくあの子の身分の高さに、無意識に気が引けていたのだろうか。

「しげ、頼んどいたよ。三十分もしたら俺と全く同じように作り替えてくれるから」
「あ、ほんま? 楽しみ。かみちゃんとお揃い嬉しいわ」

 首元で輝く緑を撫でながら笑うと、かみちゃんは一瞬俺を見つめたあと安堵したように目を細めた。

「じゃあ次は俺が選ぼうかなぁ、しげに似合うやつ。ピアスは穴開けてないやろ? それならイヤリングか被せるだけでいいやつか……あ、手綺麗やから指輪も似合いそうやな」

 ブツブツ呟きながらかみちゃんは店を物色し始めた。俺は珍しいその姿を眺めていようかと思ったけど、ふと思い立ち店内を見回す。俺も、この子に何か選んでみようか。何かを選ぶ事においてはあまり自信が無いけど、正直こんな良い店に並んでいる物ならなんでもあの子には似合いそうだ。
 残念ながら自分で買って贈る事は出来ないが、お金のことは気にしないで良さそうな口ぶりだったし、俺が選んだらあの子は喜んでくれるような気が、する。
 高級そうな物ばかりな棚に当たらないよう慎重に見て回っていると、一つの指輪が目に止まった。細い植物のような細かい装飾で丁寧に輪を型どっている銀色のそれは、彼の真っ白な手によく映えそうに見える。あぁでも、普段の彼はいつも分厚い皮の手袋をしているんだった。だけど一度目についたらこれが気になって仕方な……、

「それ欲しいん?」
「っっわ! び、びっくりした。や、俺じゃなくて、かみちゃんに似合いそうやなって……」
「おれ?」

 意外そうに目を見開き、かみちゃんは顔を近づけてじっとそれを見つめた。自分から言い出したとはいえ、やっぱり本人に見られるのはドギマギする。しばらく黙ってそれを見つめていたかみちゃんが振り返った時、彼はその目元を赤く染めてうれしそうに微笑んでいた。

「じゃあこれ、買う」
「⋯⋯ええの? いつも手袋してるやん」
「うん、だからしげと二人の時だけ付けるわ」

 幸せそうに細められた硝子みたいな瞳が、眩しい。逆十字がどうだとかもう気にもならなくなってきたそれにそっと手を伸ばし、赤い目元に触れた。
 胸が苦しいのは、魔界に長くいるからだろうか。それとも、目の前の存在があまりに美しいからだろうか。

「……失礼しても? ご注文の通り仕上がりましたが、ご確認頂けますでしょうか」
「あ、うん。……いいね、ありがとう。あとこれも」
「畏まりました。いつもご贔屓有難うございます」

 淡々と店主と話しているのを聴きながら、ついさっきまで彼に触れていた指先を眺める。冷静な自分が、魔界の存在にこんな感情を持ってどうするんだって、必死に訴えていた。……こんな、感情。そう、そうだ。お前のおかげで気づいてしまったよ。

 俺はあの子に、恋をしている。それももう、手遅れなほどに。


*


 彼の部屋に着き、一日羽織っていたローブをようやく脱いで息を吐く。外を眺めると、毎日同じに見えるここの空にも少しずつ違いがあることに気がついた。
 今日はなんだか……雲が多いように感じる。それも「感じる」程度のものだが。
 視線を下にやっても、回廊も庭も、誰も歩いていない。思っていた何倍も大きかったこの城は、その割に歩いていてもあまり誰かに会わない。かみちゃん曰くある程度の地位を持つ役人だけが居住することを許されているらしいから、殆どが使われていないんだろう。
 こんなに大きくて立派な城なのにもったいない、と思うが、昼間謁見したあの人も住んでいるというこの城は、魔の気が強すぎて普通の魔族では落ち着いて生活なんて出来たものじゃないらしい。え、じゃあ俺は? と当然尋ねたが、俺とずっと一緒にいて俺の部屋で俺と寝てるからな、と答えになってるんだかないんだか分からない言葉が返ってきた。
 もしそれの意味することが自分の領域みたいなものを持っていることだとすれば、この子、強すぎやしないか? ⋯⋯そんなことを考えられているとも知らない当の本人は、ご機嫌で紅茶を淹れている。

「……出来た。砂糖って俺、初めてやなぁ。まずそのまま食べてみようかな、それかやっぱり紅茶に入れるのが普通?」
「まさか。砂糖なんて何にでも使われるで。入れてみて好みじゃなかった方が勿体ないし、先食べてみ?」

 昨夜と同じように自分以外は浮遊させたまま隣に腰掛けてきたかみちゃんは、昼間買ったばかりの大きな瓶入りの角砂糖を長い爪でそっと手に取り、色の薄い唇に含んだ。みるみるその表情が明るくなっていくのを、目を細めて眺める。どうやらお気に召したらしい。

「お、美味しい! 俺これ好きかも!」
「へー、甘党なんかもな。好きな物見つかってよかった」

 ポットから二人分のカップに紅茶を入れ、自分はストレートのまま口をつける。何かが気に入ったのか、今日店で別の茶葉も幾つか買っていたこの子はしばらく紅茶に執心することになりそうだ。そっと彼の分のカップをソーサーごと押す。

「あ、ありがとう。これ、そのまま入れたらいいんやんな」

 ポチャポチャ、と角砂糖を躊躇なく複数落としてティースプーンで混ぜている横顔は嬉しそうで、別に自分の功績でもなんでもないのに頬が緩んだ。やっぱり、愛しい子には何か食べたり飲んだりして幸せそうにしていてほしい。勝手なのは分かっていても、生まれ育った環境もあってどうしてもそう願ってしまう。

「美味い?」
「うん。しげは今日ミルク入れへんの?」
「日によるねんな、今日はストレートの気分やねん。それよりかみちゃん、服とかいっぱい買ってもらっちゃってごめんな、ありがとう」

 別のソファに積まれた大量の箱や紙袋に目をやりながら言うと、かみちゃんはなぜか照れたように笑った。

「いや、俺がしげに着て欲しいの多くて選びきれんかっただけやから……しげ、何でも似合うねんもん」
「そうかぁ? 俺には全部服に着られてるようにしか見えんかったけどな」
「そんな事ないよ。あ、明日休み貰ってるから、早速着てな」
「へぇ、休みなんや」

 ポットから二杯目を注ぎながら、かみちゃんがうなずく。俺がポケーっとしていたあの謁見の時、今日の仕事の疲労が目に見えて伝わるから明日は休んでいいと言われたらしい。なんだか、天界よりよほど優しい気がする。

「まぁ俺の仕事って変則的やから。逆に数週間以上休めない時もあったりするし、休める時に休んどけってこと……あ、しげ夜ご飯食べてへんやん!」
「え? ……あぁ、ほんまや。すっかり忘れとった」
「ごめんごめん、すぐ支度するな」

 慌ててカップを置いて立ち上がったかみちゃんが例の棚から色んなものを引き出し、空中で勝手に料理を形作り始める。相変わらず高級そうなそれらを見ても、初日ほど心は動かなかった。
 慣れだろうか、日に日にこれらの食事に感じる魅力が薄れていくような気がする。それとも、唯一共に過ごしている存在のかみちゃんが何も口にしないからかもしれない。
 飯って、誰かと食べる方が美味いって聞くし。実際今は、この子と一緒にゆっくり紅茶を飲む方がよほど幸せだ。

「ん、用意できたよ」
「おおきに、いただきまーす……なぁかみちゃん、休みの日って何して過ごしてるん?」

 香草の載った柔らかい肉を頬張りながら目線を上げる。相変わらず目の前でただ俺を見つめているだけのかみちゃんは、顎に手を当てうーんと唸った。

「いつもなら休みに買い物行ったりするけど、もう今日行ったし。あとは部屋でのんびりしてるだけかなぁ……娯楽も色々あるにはあるけど、あんまり興味なくて。しげがあるなら行ってみる?」
「や、かみちゃんが好きじゃないなら俺もええわ。ほんなら明日は一緒にのんびりやな」
「…………うん」

 やけに甘ったるかった声色に顔を上げると、かみちゃんは目元を紅くしていた。あぁ、きっとこれも初めてなんだな。
 言われずとも分かるようになってきたそれに思わず手を伸ばし、テーブル越しに髪を撫でる。慣れてきたのか自然に伏せられた目元に、長い睫毛が影を作る。
 せっかく用意してくれた食事がどうでも良くなってしまって、思わず席を立った。目を丸くしているかみちゃんに歩み寄り、そっと抱き締める。何も言わずゆっくりと体重を預けてきたその背は、翼が立派に過ぎること以外ただの一人の青年で、頼りなくて、ただ、愛おしい。
 視線を上げると、奥の壁の大きな鏡に映った自分の首元で緑色のブローチが月の光に揺れていた。唯一自分から頼んで買ってもらった黒いキャスケットが、スカイブルーを覆っている。

「……かみちゃん、指輪見して?」
「ん? ……ん」

 少しだけ身体を離して差し出された青白い手には、綺麗な細工の施された銀色が輝いている。真っ黒で尖った爪先からそこまでをゆっくり撫で、目を細めた。

「やっぱり似合ってんな」
「……ありがとう」

 もう、何か食べる気にも喋る気にもならなかった。手を取り合ったまま黙ってベッドに潜り込み、二人でただじっと見つめ合う。寝衣に着替えても被ったままの帽子に手を触れさせ、かみちゃんが苦笑する。

「……助かるけど、これはこれで綺麗やのに。俺、好きやで?」
「分かってるよ。でもなんとなくやから、気にせんといて」
「……そっか」

 彼を飾る装飾品を全部外したかみちゃんも、指輪だけは付けたままだった。自然と指先同士を握り合わせ、視線が絡まる。何もかもが違うイキモノの俺たちは、だけど今だけは一つになったみたいだった。






「…………何か分かりましたか?」
「……情けないけど、まったく」


 空が明るくなり始めたばかりの早朝。まだ人気すらない建物の執務室で、中間さんは既に親友の件について頭を悩ませていた。
 その周りには沢山の資料が散らばっていて、片付けようかと伸ばしかけた手を引っ込める。こういうのは下手に手を出さない方がいい。どこにヒントが落ちているのか分からないし、後で何か思い出す可能性だってあるのだから。

「……だけど、しげの無事は約束されてるんですよね?」
「おう。毎日智洋から夜に連絡が来てるし、最後にアイツがなんか遠くで悪態ついてくることもあるから元気でやってんのは間違いないわ。……ほんま、こっちは必死で帰る方法探したってんのに」
「そ、うですか。元気なんですね」

 よかった。あいつが魔界に落ちて、もう一週間になる。未だに原因は分からないままだが、少なくとも“智洋”さんは本当にちゃんと親友を守ってくれていて、それだけの信用に値する人らしい。魔界にもそんなひとがいたなんて、自分の無知と偏見に少し恥を感じる。

「……そういえば、そろそろ食事を送る頃合ですよね?」
「あぁ、もう昨日の夜送っといた。ムカつくから先週よりは質素にしたったわ」
「はは、慣れてる食事の方があいつも安心するかもしれませんよ。あいつに高級肉なんて似合わないですし」
「そうやなぁ……っうあ」
「中間さん? また頭痛ですか?」

 慌てて駆け寄ると、頭をコンコンと叩きながら彼は苦々しげに頷いた。あいつが魔界に落っこちて以降、この人はたった一人で周囲に漏らさないよう気を配り、通常の業務もこなしながらその原因を探り続けている。明らかに過労状態だ。

「まだ誰も来てないですし、始業まで休んでてください。今日の仕事も俺にできる範囲は済ませておきますし。⋯⋯大丈夫、そんなに焦らなくたって殺したって死なないようなやつじゃないですか。それにあなたのせいでも無いんですから。ね?」
「……優しいな、お前。じゃあそうさしてもらうわ」

 すっかり休憩室になっている応接間によろよろと向かう背を見送り、床に散らばった資料をそっと手に取ってみる。
 びっしり並んだ文字列には、ここに来てすぐ三年間通った学舎で学んだ魔界についての基本的な知識や、聞いたことのないその成り立ちについてが並んでいた。こんなに根本的なところから見直していたのか、と感心し、悩んだ末に結局資料を纏める。他の資料に隠して棚にしまおうとした時、一枚だけがヒラリと抜けて床に落ちた。
 拾おうとしゃがみこみ、そこにはっきり描かれた肖像画のような物に思わず顔を顰める。

 それは、昔存在したという悪魔の一種についての古い解説だった。所々掠れた文字を、指でなぞる。

「……バ、フォ⋯……」






「かみちゃぁん、いま何時?」
「いま……昼過ぎやな」
「そっかあ…………俺ら、このまま根っこ生えそうちゃう?」
「……そうやな……」

 かみちゃんの、つまり俺たちの休日。部屋でゆっくりすると決めた俺たちは、それはもう酷い有り様だった。なんでかって、まだ一歩も天蓋付きのふかふかのベッドから出ていない。
 だって小腹が空いたらかみちゃんが棚から適当な果物ヒュンしてくれるし、水もヒュンしてくれるし、トイレは、今のところ行きたくなってないし。そんな事を考えてる間にも、何かうにゃうにゃ言いながらかみちゃんが擦り寄ってきた。かわいい。もう猫にしか見えない。こんな立派な角が生えてる猫も探せばいるかもしれないじゃないですか。

「……でもさすがにぐうたらし過ぎやんなぁ……」
「そう? いつもこんな感じちゃうの?」
「や、普段は休みでも昼前には起きてるよ。しげが居るからベッドがあったかくて抜け出されへんねん……」
「あ、俺のせいにしようとしてますねこの子」

 眠たげに細められた目元を親指でなぞる。にや、と笑ったかみちゃんはきっと確信犯だ。俺がどんどんこの子に甘くなってること、分かっている。

「まぁええやん、起きたってすることないし」
「そうやなぁ……あ」
「ん?」
「あるかも、すること」




 それからしばらく後、目の前で始まった光景に、摩訶不思議なこの世界に慣れてきていた俺でも流石に叫んでいた。

「えええーーーーーーっっっっ!!!?? そ、それ、それ産まれつきちゃうん!!?」


「ちゃうよ。産まれつきなのは形だけ」
「う、う、うそやろ……」

 そう、なんと彼は今丁寧にその長い爪に黒を載せていた。お洒落で爪を塗るなんて概念天界には無いから、当然産まれつきなんだと思い込んでいた。だけど思い返してみれば、今まで見かけた他の魔族の手がみんな黒かったかといえばそんなことはない。だけどそれこそ普段ずっと手袋で手を隠しているくらいなのに、どうしてわざわざそんな事をするのだろう。

「趣味やからやけど」
「こ、声に出とった!?」
「いや顔に書いてた。ふふ、しげ分かりやす過ぎんねん。言っとったやろ、趣味はこういうの、って。こうやって自分を飾ることも、それに入ってんねん。自分で見るだけで満足やったし」

 そう言って指差されたのは、ベッドを出た途端吸い付くようにして彼を飾った装飾品達だ。休みの日だって殆ど出掛けない彼が時たま街に出る度買い込むという大量の私服も、それらも、仕事中は手袋で見えもしない爪も、全部が趣味だったのか。……だけど好きなもので自分を飾ったこの子はきっととても綺麗だし、装飾品なんて見られてこそだろうに。

「じゃあさ。今日俺に全部見してや。服も、飾りも。俺ならいいやろ?」

 ふ、と爪に息を吹きかけ、かみちゃんがゆっくり俺の目を見る。一瞬で乾いたそれをゆっくりと撫でながら俺を見つめる瞳は、まん丸だ。

「いい、けど……興味ある?」
「かみちゃんが好きな物なんやろ? それならある」
「……じゃあ」

 そう言って、彼はこの部屋の幾つかある扉の一つを初めて開けた。四人くらいなら平気で暮らせそうな広さのその部屋にびっしり並べられた大量の服を見て、俺が文字通りひっくり返ったのは言うまでもない。



 彼がこの数百年で溜め込んだ大量の服を一つ一つ着て見せてもらっている間に、休みの一日は終わった。今朝届いていたという新しい食材で出来た夕食を取る俺を眺めているかみちゃんは、いつもより数段満足げだ。

「おいしい?」
「うん。……でもなんか、前回より質素になったな。まぁこれくらいが落ち着くけど」
「そうなん? なんでやろ⋯⋯」

 見た目だけじゃ違いは分からなかったらしい。首を捻って何か考えている姿すら可愛らしい目の前の魔人を眺めながら、見慣れた食事を口に放り込む。実家を思い出すようなそれは、だけど懐かしさは感じなかった。まぁ、一週間程度じゃそりゃそうか。
 うーん、と唸ったかみちゃんが首を反対に捻る。

「もしかしたらやけど、淳太くんが想定してたより長期になりそうなんかもな。俺は普通に元々の謹慎期間⋯⋯三ヶ月やっけ? は居ってもらうつもりでいたけど、淳太くんは原因が分かり次第天界に戻したいんやろうし」
「……ふぅん?」

 ぱくり。見慣れた野菜を口に含んだ。正直その辺りの事情がよく分かっていない俺に、彼は苦笑している。

「だから、淳太くんはこんな所にあんまり長いこと居させたくないねん。しげは……天使、なんやから」
「え、⋯⋯」
 俯いて作られた柔らかな笑みは、悲しさと寂しさと諦めを全部混ぜ合わせたような、この子の複雑な感情がすべて詰まった表情だった。
 最近減るばかりの食欲で量を少なくしてもらっている食事ですら手が止まり、俺は何かこの子に言おうとして、だけど結局口を閉ざす。
 なんだかんだ暖かい家族や友人に囲まれて生きている俺は、この子の抱えた孤独に何か言える立場なんかじゃ、なかった。

「……ていうか、これってそんなデカいことなん? 俺一人で帰るのがあかんなら、淳太がかみちゃんみたいに門通って迎えに来たらいい話……やん。……嫌やけど」
「うーん。しげが落ちたのが冥界やったらそれで済んだんやけどな。しげ、上にいた時、ここの話噂でも聞いたことある?」

 質問の意味に一瞬首を捻り、もぐもぐと咀嚼しながら宙を見つめる。ここの、話。そりゃ、『死者のその後』という仕事を分け合う存在なんだから名前を聞く機会は多くて……、だけど、言われてみればそれだけだ。冥界がどんな場所かは何度か聞いた事があったし学舎の教科書にも絵が載っていた覚えがあるが、ここは、違う。

「……ない。全くない。なんとなくイメージで怖いとこ、とは思ってたけど、それもなんか、考えてたのとは違ったし」
「やろ? うち秘密主義やから、よっぽどの事じゃないと他所の人が入れるのなんて許可が降りないし、どんな場所かも他には知られないようにしてるねん。だから用がある時は俺みたいなのがこっちから出向いてんねんな」
「なる、ほど……?」

 頷きかけ、違和感に固まる。秘密主義? 他所の者が入ることなんて、滅多に許可が降りない? ゆっくり視線を向けると、かみちゃんはいつの間にか旋毛しか見えないほど俯いていた。

「……あ、の。あれ、じゃあ俺、その魔界のことめっちゃ見てもうてるけど⋯⋯?」
「そう、やな」
「え、あれ……? ……それってつまり、」
「……うん。だから、帰る時にはほとんど全部忘れてもらう事になる」

 ガチャン、と大きな音を立ててフォークが皿に落ちた。思わず立ち上がった俺を無視してかみちゃんは、いつも俺が食べている姿を楽しそうに肘ついて眺めてたかみちゃんは、顔を逸らして俯いている。固く握り締められた手に嵌められた銀色の光が、呆然とした視界で光って揺れていた。

「……黙ってて、ごめん。こんなに、……こんなふうに、なるなんて、なれるなんて、思ってなくて……ただ淳太くんの部下をしばらく預かるだけやって……」
「…………わ、わすれる、って……」

 ほとんど? ほとんどって、どこから、どこまで?
 絵の具で混ぜたみたいな空の色、禍々しいほど大きな月、凄惨なこの世の底、人の澱みから産まれるというこの世界のひとたち、それから、……それから、この、優しくて愛しくて寂しい、たった一人のイキモノの、こと……。

「そう、全部忘れる。自分が魔界にいたってこと以外忘れてもらうことになる。それが、あの人がしげを生かしておくことに出した条件やねん」
「……そん、な…………」

 そんなご丁寧なことが出来るのか、なんて馬鹿なことはもう思わなかった。魔族は、強い。きっとたとえこの子一人でも、その程度の魔術簡単に出来るんだろう。だけど、だけどそんなこと。
 無意識に手が首元に伸び、彼とお揃いにしてもらった美しい緑の石を握り締める。さっきまで俯いていたかみちゃんが、その手にそっと自分のものを重ねてきた。

「しげ、……大丈夫、今すぐじゃないから。言ったやろ? 淳太くんが思ってるより長引きそうなんかも、って。下手したら三ヶ月でも済まないかもしれへんやん。まぁ、淳太くんに限ってそんなこと無いやろうやけど」

 ふふ、と全然楽しくも嬉しくもなさそうにかみちゃんが笑った。その優しく細められた目元に、長い睫毛が作る影に、堪らない気持ちが溢れる。
 失うのか? この気持ちも、この子の存在も、手を握り合って一緒に居た時間も、確かにここに、俺の中にあるのに?
 全部全部自分はすっかり忘れて、この子にだけ覚えさせて、置いていくなんて。一度温もりを覚えさせて、また一人にするなんて。だけど、……だけど言われなくたって分かる。きっと俺達だけじゃどうしようもないことなんだ。この大きな大きな世界で、俺はただのヒラ天使だし、この子はとても高位な存在だけど、それでも上には上がいて、どうしようもない、千年以上続いてきた『世界の決まり事』なんだ。
 震える手でそっと抱きしめると、黙って優しく寄りかかってきた。いる。ここに、確かにここに、この子はいるのに。

「……かみ、ちゃん……」
「うん、居るよ。大丈夫、きっとまだ時間はあるから。ずっと一緒にいて、いっぱい喋って、毎日一緒に寝よ。おれ、大丈夫やから。その思い出だけで、これから先何百年でも生きていけるから」
「か、かみちゃん……かみ、ちゃん……っ」

 長い睫毛に、落ちることのなかった滴が浮いている。震える手でそれを指に乗せると、ゆっくり上げてくれた顔の目元が赤くなっていた。だけどそれは、いつもとは違う。
 涙に揺れた硝子玉は悲しいほどに綺麗で、俺はその目元にそっと口付けた。ずっと触れ合うほど近い距離にいて、だけどこんな事をしたのは、初めてだった。

「……ほら、また幸せが一つ増えたやん。この気持ちも記憶も全部、あの角砂糖みたいに全部瓶に詰めて置いとけたらいいんやけどな」
「……っそう、やな……」

 ギュッと強く抱きしめ、首筋に顔を埋める。彼からは優しい香りがして、涙が止まらなかった。どうして、何で。せめてこの子も俺みたいなどこにでも居るばかなやつの事なんて忘れてくれればいいと思うのに、きっとこの子はそれを望まない。
 また半分以上残してしまった食事を指先一つで片付け、彼は俺諸共ふわりとベッドへ飛んだ。

「しげ、今日はもう寝よ。まだまだ先はあるし、明日は普通に仕事なんやで?」
「…………うん」
「……大丈夫、大丈夫やから。……ほら、目瞑って」
 優しく瞼に触れられ、そのまま視界を閉じる。すると、ふと目元に柔らかな感触がした。涙が溢れそうになって、だけど必死でそのまま目を瞑っていた。握り合った手に伝わる冷たい指輪の温度すら、悲しい程に愛おしい。


「……おやすみ、しげ。やさしいひと」


*


 翌朝、いつも通り先に起きた俺はかみちゃんの寝顔をぼうっと眺めていた。時折うにゃうにゃと何か寝言を呟いているのに微笑み、そうっとベッドを抜け出す。

「…………しげ……」

 ぱっと振り返っても、かみちゃんは眠ったままだった。寝言か。この子が起きるにはまだ早すぎるし、起こしたわけじゃなくて良かった。寝言で自分を呼んでくれたことから必死で思考を逸らしながら、バスルームへ向かう。
 ここへ来てからというもの、何故か全く汗をかかないし入りたいとも感じないから風呂に入る頻度はめっきり減っていて、だけど今朝は湯船に浸かりたい気分だった。
 窓辺に置いてある大きな浴槽に近づいて手を触れると、勝手に湯が溜まり始める。それを確認して寝衣を脱ぎ、被ったまま寝ていた帽子を取った。

「……ん?」

 そうして鏡の前を通り過ぎた瞬間、なにか違和感を覚えた。一歩二歩、と下がり、鏡に目をやる。映った自分はいつも通り、真っ黒な髪にスカイブルーの輪っかを載せていた。かみちゃんが持つそれの半分程度しかないクリーム色の翼も、いつも通りだ。なんだったんだろう。首を捻りながら、そのままシャワーの元へ向かった。




「っし、しげ?」
「あ、かみちゃーん! 風呂風呂!」


 しばらくして聞こえてきた声に慌てて彼を呼ぶと、勝手に開いたドアから彼が文字通り飛び込んできた。部屋の中で翼を使っているのを見たのは初めてで、思わず目を見開く。

「ぁ、び、びっくりしたぁ……。朝から風呂なんて、珍しいな」
「お、おう。俺も今びっくりしたわ。そんな焦らんでも、勝手に部屋出たりせんよ」
「それは分かってるけど、寝てる間に解決して淳太くんに連れてかれちゃったんかも、とか、思って……や、流石にそれは起こしてくれるやんな。恥ず」

 照れ臭そうにかみちゃんは角をかいた。かくとこそこなんや、とちょっと面白くなりながら、手招きする。首を傾げて近づてくる姿はいつもと違って寝ぼけていないから、よほど大慌てで起きたんだろう。かわいい。ちら、と窓から外の大時計を見ても、まだ時間には余裕があった。

「たまにはかみちゃんも入りぃや、せっかくこんな立派なんもらってるんやから」
「えぇ、まぁいいけど……え、一緒に?」
「別に嫌やったら出るけど、昨日ずっと一緒にいよって自分で言うたやん」
「い、う、……うん」

 なにか言いたげにムッと唇を歪めたものの、大人しくかみちゃんはシャツを指でなぞりスルスルとボタンを外した。
 初めて見る素肌をじっと眺めていると、顔を赤くして黙って背を向けられてしまう。⋯⋯もしかして、彼の素肌を見たのは“あの人”のほかに、俺だけなのだろうか。肩甲骨の窪みから生えた翼は改めて見ると本当に立派で、キッチリした仕事着も何も纏ってない彼には少し不釣り合いなほどだった。
 ふわ、と飛び上がってそのまま俺の向かいに飛び込んだかみちゃんがその立派な翼を仕舞う必要も無いほど、この湯船は大きい。

「……久しぶりに入ると案外気持ちいいんちゃう?」
「や、あつい……温度下げていい?」
「ええけど、へぇ……熱いの苦手なんや」
「苦手っていうか、魔族はみんな嫌いやねん。汗かかないし、特に俺みたいに物食べないやつは代謝もないから基本身体汚れないし、仕事で汚れたってこんな面倒なことせんでもすぐ綺麗にできるもん。こんなん、たぶん建てる時にどっかの真似して作っただけのお飾りみたいな施設やで」
「へーぇ、もったいな」

 すい、と軽く泳ぎながら呟く。今日は紫が強い空と月に照らされた水面は美しくて、手に掬ってじっと眺めてみる。ゆらゆら揺れるそれに自分が映り込むのを見つめていると、指の隙間から水が落ちきってしまった。

「でもしげだって、最初ははしゃいでたけど結局数える程度しか入ってへんやん」
「や、そうやねんなぁ。上にいた頃は毎日入っとってんけど、確かにここに居るとなんか入る気せえへん。どんだけ走ろうと動こうと汗かかんし、なんか汚れた気もせんし」
「やろ? そういう風に出来てんねん、俺たち」

 ちらと視線をやると、真っ白な肌を赤くしてかみちゃんは気だるげに目を閉じている。本当に好きじゃないんだな。たかだか遊びでこんな豪勢な浴室を造るなんて、魔界って金持ちなのだろうか。

「……じゃあこれだけは腕に刻み込んででも覚えて帰ろ。魔界の奴らは風呂入らん、って」
「っな、はぁ!? なんか俺たちが汚いみたいやん!」
「毎日入る側からしたらそうやけど?」

 にやりと笑うと、かみちゃんは子供みたいに口をパクパクさせた。こんなにも強くて皆に頭を垂れさせるこの子の怒り方がこれって、釣り合ってなさすぎるだろう。

「ちゃうわ! ていうか毎日入らなあかんってことは、それくらいそっちが汚いってことやろ。はー、人間のこと言われへんやん」
「あ、言うたな?」

 咄嗟に手を組み、ピシャ、と水を掛ける。昔姉と毎日風呂で戦ってきたから、狙いはバッチリだ。
 顔のド真ん中に水を掛けられたかみちゃんは一瞬目をぱちくりさせ、次の瞬間、俺は頭から滝みたいな湯を浴びせられて危うく溺れ死ぬところだった。




「あーーー、疲れた……」
「誰のせいやねん。もう、今日から絶対仕事忙しいのに」
「え? ……あ、そっかあの時期か」

 人間界の多くに、死者が元いた場所に戻ることを許される期間というものがある。それは地域や宗教によって時期が違うが、つまり多くの人間が属しているそれの期間は、俺たちにとっての繁忙期にあたるわけだ。
 天界では当然ほとんどの元人間が里帰りを許されるわけだが、それはこっちも同じだったのか。⋯⋯んん?

「……え、こっちに来るようなヤツら、帰して大丈夫なん?」
「そら勿論、生前やったことの重さとこっちでの態度で判断せなあかんけど……まぁ半分くらいは毎年帰ってるよ」
「へぇ……じゃあ絶対うちより忙しいやんけ。こっち人間なんてほとんど居らんし」
「まぁな。それでも冥府よりはよっぽどマシやろ。だからあいつらこの前慰安旅行がどうとか言ってたんちゃうかな」
「はー、なるほど」
「……だからさ、これからしばらくは三つとも繁忙期なわけやん? 淳太くんも、忙しいやろうな」

 俺の前で踵をカツカツ鳴らして歩きながら、なんでもないようにかみちゃんは呟いた。誰も見ていないのに、俯いて小さく微笑む。キャスケットの鍔を摘んで被り直し、「よっしゃ、働くぞー!」と腕を伸ばした。
 まだ、いつ終わるとも決まっていない。淳太のアホが、百年くらい原因を見つけられないかもしれない。
 だったらしみったれず、来た時のままの俺で、この子が何百年でも何千年でも幸せに思い出せるような俺で、いたい。絶対に言えなくなってしまった愛の告白の代わりに、その全てを形にして瓶に詰めて置いていくんだ。それがきっと、俺に出来る愛なんだ。

 ひら、と足元に黒い羽が落ちる。思わず足を止めると、かみちゃんが空を見上げて呟いた。

「……ガーゴイルやな。また躾直しとかな」


*


 それから数週間。かみちゃんはそれはもう忙しそうで、ほとんどやれることなんてない俺なりに一生懸命手伝った。

 問題児ばかりのここの人間の里帰りなんて、手放しで放出できるわけが無い。かみちゃんは常に大量の水瓶に囲まれ、それを順に覗き込んで監視し続けたり、問題を起こしたやつがいたらすぐさま人間界に飛んでって引き摺り戻してそのまま地獄の湯釜に放り込んだりと大忙しだ。
 そのほとんどがこの子にしか出来ない⋯⋯というかこの子がやるのが一番早い仕事らしく、ついて回っているだけの俺ですら魔界の人員不足にゲンナリしてしまう。適当な罪深い人間をその澱みとやらに放り込んだら魔族になってくれないんだろうか。ならないんだろうな。
 なんとか一番の山場を越えてあとは少しずつ戻ってくるのを見張るだけ、という段階になってようやく、他の役人だけでも回せるからとかみちゃんは自室に戻って眠ることが許された。それまで約数週間。数週間だ。こんな事を毎年一人でやっていたなんて、信じられない。

「……かみちゃん、お疲れ」
「ん……しげも、付き合わしてごめんな」
「そんなん、俺なんて傍に居っただけで何も手伝えなくてほんまに申し訳なかったわ。せめてもっと強かったら良かったんやけどなぁ」
「…………」

 ソファでぐったりしている彼の足元に膝をつき額を撫でていたが、紅茶でも淹れてあげようと思い立って傍を離れる。
 買い込んである紅茶の仕舞われた棚を開けた時、そう言えば自分もほとんど食事をしていない事に気がついた。ほと、んど? いや、いつから……何日前から、俺は何も食べていない?

「……しげ?」
「あ、ごめんごめん。今紅茶淹れたるからな。……なぁかみちゃん、俺もう何日も何も食べてないし食べたいとも思ってないんやけど、これって良くないかなぁ」
「え? あぁ……そういえばそうやな。何日も俺の部屋戻ってなかったから、気にあてられてたんかも。ここに居ればそのうちお腹空いてくるやろうから大丈夫よ」
「ほへぇ」

 すぐに沸いたお湯をティーポットに注ぎ、ぶわりと広がる茶葉を眺める。食べることが楽しみだった自分がこんな風になるなんて、魔界の気って凄まじいものなんだな。だけど食事をしないでいいって、腹さえ空かなければ時間を使いやすくていいもんだ。
 三杯分くらい注いだポットに蓋をし、砂時計をひっくり返す。さらさらと落ちてゆくそれをぼうっと見つめながら、今のところ全く湧いてこない食欲に腹を摩った。






 すっかり慣れた重厚な扉を開けると、久しぶりに見るちゃんと開いた目で中間さんはペンを走らせていた。辺りには何やら資料と紙が散乱している。

「……何か分かったんですか?」

 親友が何かの異変で魔界に落ちて、もう一ヶ月。彼の代わりに年に一度の繁忙期の仕事を請け負っている自分は満身創痍だが、この所ずっと顔色の悪かったこの人が何かいい事を見つけられたならそれに越したことはない。

「はっきり分かったとは言えんけど、あいつの何かが魔界に引き寄せられたのは間違いないわ。偶然じゃないし、世界の繋がりで起こった異常でもないねん。あいつ自身が、何かで縁が繋がってしまったんやわ。それさえ探し出してこっちから断ち切れば、あいつを引き戻せる。思ったより時間はかかってもうたけど、あいつ程度の行動範囲やったらどこで何とうっかり縁繋いでもうたんかきっとすぐ見つけられるわ」
「ほ、本当ですか!? よかった……じゃあ、もう時間の問題ってことですよね」
「そう、やな……はぁ、ほんまに良かった。智洋には頭上がらんわ」

 長い息を吐き、彼は執務椅子にもたれかかった。
 確かに、一ヶ月とはいえ魔界という場所で天界の存在を守ることがどれほど大変なことなのか、想像もつかない。この人と顔見知りならこっちに仕事で来ることもあるのかもしれないし、その時は俺からも礼が出来たらいいのだけれど。

「……あ、中間さん。お疲れのところすみませんが、食事だけ送ってもらえませんか? あれだけは俺には出来ないので……」
「あぁ、ほんまやな。今すぐ……、」

 ふ、と彼の言葉が途切れて固まった。思わず首を傾げ、何度か名前を呼ぶ。

「……ぁ、悪い。ちょっとぼぅっとしとった。今日夜通し調べ物しとったから、流石に疲れが来てるわ。飯も、昨日送っとったのすっかり忘れとった」
「あ、そうだったんですか? 流石ですね。じゃあ今日は休んでください。こっちの忙しさも落ち着きそうですし。……あ、頭痛、まだ治ってないんですよね? 帰りに医療部寄るの、忘れちゃダメですよ」
「おう、そうするわ。いつもありがとうな」

 覚束無い足取りで彼が執務室を出ていく。まだ色々と心配は尽きないが、ようやく終わるんだ。
 安堵して目を逸らそうとした時、閉まりかけた扉の隙間から彼の後ろ姿にまとわりつく黒いモヤのようなものが見えた。呼び止めることも叶わないまま、バタンとやけに大きな音を立てて扉が締まる。

「…………え?」


*


 カチャ、と静かにソーサーを置くと、ゆっくり目を開けたかみちゃんが「ありがとう」と囁いた。

「ん。こんなちゃんとした紅茶淹れることあんま無いから、上手く出来てるか分からんけど……」
「しげが淹れてくれただけで嬉しいよ。それよりしげは? 食欲、どう?」
「うーん、今んとかないかなぁ」

 カップに口をつけながら、かみちゃんが顔を顰めた。味を尋ねれば律儀に頷いてくれるけど、その顔は心配そうだ。数週間も休みなしに働き続けた直後だというのに、どこまでも優しい。

「変やな、もう俺の部屋来てしばらく経つのに……あ、食欲なくても果物くらいなら食べれるやろ? それ摘んどき」
「分かった。ごめんな、心配かけて」

 かみちゃんがいつも食材を取りだしている棚に向かうと、それを後ろから見ていたのか頼むまでもなくカタンと鍵を開けてくれた。その中を初めて自分で覗き込み、思わず言葉を失う。……食事が送られてくるのって、週に一回だったはずだよな?

「しげ?」
「……ほぼ、空っぽやねんけど」
「え? そ、そんなわけ……」

 ふわりとソファから飛んできたかみちゃんが、ほとんど中身の無いがらんとした棚を見た。同じように言葉を失っている彼と顔を見合せ、首を捻る。

「……数週間は経ってるよな?」
「うん」
「淳太くん、そんな忙しいんかな」
「いや、天界なんて帰るやつそんな居らんし見張る必要も無いから、こっちよりよっぽど楽なはずやけど……あ、俺の事?」
「そうやけど、でもそれで食べ物送り忘れるなんて本末転倒やんな……」

 ぶつぶつ呟いて何か考えているかみちゃんを尻目に、残っていた果物を口に放り込む。今の食欲じゃこれだけあれば充分だし、そんなに気にすることでもない。皺のよってしまった眉間を撫で、ソファの方へ促す。

「まぁ、こんだけあれば今の俺ならしばらく大丈夫やし気にせんでいいよ。ほら、冷める前に紅茶飲んじゃお」
「……うん」
「疲れてんのはかみちゃんなんやから、俺の事なんて気にせんとって。今日は何も考えんとゆっくり休んだ方がええよ」
「そう、やな。ありがとう。はぁ、ベッドで寝れんの久しぶりや……」
「ほんまやなぁ、なんか按摩でもしたげよか?」
「⋯⋯? なにそれ。知らんけど、疲れてるのはしげも一緒やん」
「うーん。……やさしいね、かみちゃん」

 嫌な予感がしていた。送られていない食事。来ない定時連絡。淳太は、答えに近づいているのかもしれない。下手すれば明日や明後日には、もう。
 ……嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。離れたくない。忘れたくない。明日なんて、来ないでいい。
 好きなんだ。大好きなんだ。どうにか出来ないのか、何とかならないのか。ソファに背を預けたまま寝息を立て始めた愛しいひとを見つめながら、必死に涙を堪える。力任せにキャスケットを被り直すと、そこからヒラリといつか見た黒い羽が落ちた。

「…………ガーゴイル?」

 いや、いるわけがない。ここはかみちゃんの部屋だ。外から飛んできたのだろうかと身体を起こして窓の外を見ても、一羽も飛んでいなかった。


*


「しげ、起きて」
「ん……?」
「ふふ、しげの方が遅いの珍しいな」

 目を覚ますと、かみちゃんが俺の顔を覗き込んでいた。慌てて起き上がると、可笑しそうにくすくす笑われる。いつの間に朝になっていたんだ。

「自分はいっつも見てるくせに」
「え、バレとったん!?」
「そりゃ俺、魔人ですから。ていうかもしかして昨日、俺ソファで寝ちゃってた?」
「うん。でも気づいたら俺ごと一緒にベッドに吸い込まれた。もういちいち驚かんくなってきてたけど、流石に叫んだわ」
「ふ、あはは! そっか、そうやった。見たかったなぁそれ。⋯⋯よし、さっさと用意して仕事行くで。今日からはもう帰ってくんの見張るだけやから楽なもんや。は〜、しんどかった」

 よく寝られたのか、かみちゃんは綺麗な瞳をすっきりさせて伸びをしている。ズレていたキャスケットを慌てて被り直し、仕事着に着替えながらその横顔を眺める。当然これもバレていたらしく、スッとこちらを向いた硝子玉と目が合った。にんまりとわらい、「なに」と揶揄うように彼が囁く。胸が苦しくて、声が掠れる。

「……綺麗やなって、見てただけ。かみちゃん、綺麗やから」
「ふぅん、そっか。俺って綺麗なんや」
「うん、綺麗。誰より、何より……」

 俯いてシャツのボタンを留めながら呟くと、いつの間にか目の前に来ていたかみちゃんが顔を覗き込んできた。そっと握ってくれた手には、俺の選んだ銀色の細工が輝いている。

「そんな顔で言われても嬉しないけど?」
「そう、やんな。ごめん。でも、だって。だって……」


 ジリリリリリ、と空間を引き裂くように呼び出し音が鳴った。ざっと血の気が引く。淳太だ。咄嗟に引き留めようとした俺の手をすり抜け、あの子は平然とそれを、きっと俺たちの全てを終わらせる言葉を、取りに行ってしまう。

「ま、まって、かみちゃ……!」


『はい、淳太くん? もう、連絡も食事も来ないから心配して……………………あ。そう、なんや。⋯⋯はい。じゃあ、上司にも話をしてすぐ折り返します。はい。うん、元気です。ありがとうございます。では』


 チン、と音を立ててかみちゃんが機械を置く。その背が全てを物語っていた。あぁ、やっぱりそうだった。⋯⋯見つけてしまったんだ。

「……………⋯」

 沈黙が落ちていた。かみちゃんは、機械に手を触れさせたまま一度もこっちを振り返らない。俺は震える手で歯を食いしばり、涙を堪えるのに必死だった。

「……淳太くん、分かったって。しげが戻る方法」

 ギリ、と奥歯を噛み締める。そんなこと、頼んでないのに。元々謹慎だって三ヶ月って、言ってたのに。もっと何年も何百年も時間をかけたって、よかったのに。

「聞こえてる?」
「…………聞い、てる」
「うん。じゃああの人のとこ一緒に行こか。ちゃんとお礼、言うんやで。あの人の許可が無かったら、いくら俺が傍に置いてようが無駄やってんから。な?」

 俺に背を向けたまま、かみちゃんはあくまで淡々と話し続けている。この子は、受け入れられるっていうのか。なんだかんだ言って結局一ヶ月そこらで終わってしまったこの時間を。全て忘れて出て行く俺と、全て覚えたまま置いていかれる、自分を。

「受け入れられるとか受け入れられないとかさ、そういう問題じゃないねん。そういうもんやねん。子供みたいなこと言わんとって」
「⋯⋯っ」

 また心を読まれた。前は「顔に書いてる」なんて笑ってたけど、今は俺の顔なんて見ちゃいない。きっとこれすらあの子の持つ力の一つだったんだ。きっとまだ、俺の知らない力を隠し持っている。そんなに強くて、どうして『そういうもの』に従う必要があるんだ?
 グッと拳を握り締めてつかつかと歩み寄り、肩を掴んで無理やり振り向かせた。硝子玉からぼたぼたと大粒の涙を落としながら、無表情でかみちゃんは床を見つめていた。顔を隠すようにゆっくり俯こうとするそれを、頬を掴んで抑える。

「なぁ、……一緒に上とか、行かれへん? そんだけ色んな力あって、ほんまに出来ること一つも無いん? 俺に出来る事あるなら何でもするから、かみちゃんの為なら俺、何でもするから。だから俺……これっきりなんて、嫌や……」
「…………無理や。出来ることなんて、なんも無いよ。この一ヶ月で分かったやろ? 俺たちは生き物として違いすぎるねん」
「それは……そうやけど! でもそれだけやん! かみちゃん、仕事で他所回ることあるって言ってたし、淳太とも知り合いやん! こっち来た時会えれば、」
「会いに行ったってしげは俺の事なんて覚えてないねん。恐ろしい魔界の使者なんかがなんで俺の所に、って思うだけ。それにきっと、今回の件で魔界を警戒してる淳太くんが許さへんよ」
「〜〜っっ淳太のことはどうでもいいねん!! 覚えてなくても、また仲良くなれるかもしれんやろ! また一から、今みたいに……」
「そんなん俺が嫌や!!!」

 俺の肩を突き飛ばし、かみちゃんが叫んだ。呆然と突っ立った俺の目の前で、手元の銀色を握り締めながらかみちゃんが初めて怒りを顕にしながら涙を飛ばしている。

「俺は全部、全部全部覚えてるのに! 初めて手繋いで寝た夜も初めて貰った名前も一緒に過ごした時間も全部忘れてるしげになんか、会いたくない! 俺にこれを選んでくれたしげとそのしげは、別人やん……! 分かってて、俺に会いに来いって言ってんの!?」
「……か、みちゃ…………」

 力任せに涙を拭い、かみちゃんは悔しそうに顔を背けた。
 ……そうだ。自分で考えたことのはずじゃないか。来た時のままの俺を、この子が何百年でも何千年でも思い出せるような幸せな思い出を……って……。
 それなのに、今俺は自分のことしか考えていなかった。期限が来た途端、この子と会えなくなる恐怖、この子を忘れてしまう恐怖に溺れて、自分の欲しか見えていなかった。置いていかれるこの子の方が余程辛いこと、分かっていたはずなのに。
 どさ、と音を立てて膝から崩れ落ちる。

「……ごめ、ん……ごめん、俺、自分のことしか……ごめん、ごめん……」

 後ろの棚に勢いよく腰をぶつけ、キャスケットが床に落ちた。これを買ってもらった日のことが、あの指輪を俺が選んだ時のかみちゃんの笑顔が、絶望と共に視界を埋め尽くす。
 かみちゃんは黙ったまま、俺に背を向けて外を眺めていた。黒い翼が、ふるふると震えている。泣いているのだろうか。泣かないで欲しい。俺なんかのせいで、その綺麗な心を痛めないで欲しい。
 どうして好きになってしまったんだろう。どうしてこの子は、俺なんかにこんなにも心を許してくれたんだろう。

「かみ、ちゃん……」
「…………」
「ごめん、な……うっかり落ちてきて、ごめん。近づきすぎて、ごめん。……好きになって、ごめん…………」

 大きな月に照らされた後ろ姿は、いつも通り羽の先まで綺麗だった。その頭に生えた角をぼんやり眺めながら、あぁ、悪魔だ、と思い出す。そういえば習ったんだった。
 昔、彼と対をなす存在がいたと。それを、彼が地下に封じ込めたのだと。それに関する何かを此処に落ちてから一度も見ていない。この世界における上位の存在、それがつまり何なのか、何故か一度も考えなかった。
 開こうとした唇が戦慄いて、だけど俺は、声を出した。俺が与えた彼の名前を、呼んだ。

「…………かみちゃん」
「……なに?」
「俺⋯⋯何でもする、から……」
「⋯⋯」
「だから、頼むから傍に居さして……俺だって、ここでの日々も、かみちゃんのことも、忘れたくないねん……」

 涙の浮かんだ瞳に、彼を映した視界が揺らぐ。膨大な感情で震える手を握り締めた。

「……しげ、俺と居たいん? 上と違って太陽も青空もない、こんな所に?」
「う、ん。ここに⋯⋯居たい。かみちゃんと、居たい。どこでもいいねん。かみちゃんと一緒に居れるなら、俺なん、て……?」

 ガクン、と脳が激しく揺れるような感覚がした。
 突然指の一本すら動かなくなった身体で視線だけなんとか上げると、かみちゃんはさっきと変わらず翼を震わせている。だけどゆっくりと振り返ったその顔は、泣いてなんかいなかった。悲しそうに眉だけ下げて、だけどその口元ははっきりと笑っている。

「……ふ、あは、あはは……っ! ほんまに上手くいってもうた。あほやなぁ、かわいいなぁ、しげ。自分が口にしたこと、分かってる?」

 カツカツと踵を鳴らして、かみちゃんが、俺の知らない顔をしたかみちゃんが、歩み寄ってくる。その翼はいつの間にか床に引き摺るほど大きくなっていて、角もグロテスクに変形していた。

「俺たちみたいな存在にとって“言葉”がどれだけ大きな存在か、習わんかったわけないやんな……? 優しさなんてここじゃ食い物にされるって俺、言ったよな?」
「ぁ、うぁ、かみ、ちゃ……? っあ、ああ……っ」

 背中に激痛が走った。慌てて視線をやると、棚に押し付けられていた自分の翼がボロボロと崩れ落ちている。

「かみちゃ、こ、これ」
「うん、最初から崩れてたよ。分からんように、俺が幻覚見せとっただけ。食べ物にこっそりこっちの混ぜとったから、来て二日目にはもう落ち始めてたで」
「え、え……? かみちゃん、何言って……」
「しげさ、一年前にも謹慎で人間界落とされたって言ってたやん? 一年前。……そう、もう分かるやろ? 俺も仕事で行ってたんよ。今年と同じで慌ただしかったけど、そん時偶然しげの事見て、好きになってもうてさ……。太陽なんて眩しくて暑くて大嫌いやのに、太陽みたいで綺麗、天界にはこんなんが居るんや、ってびっくりして⋯⋯」

 俺の手を取ったまま綺麗な目を細め、かみちゃんは美しい記憶を辿るように語っている。その間にもぼろぼろと崩れ落ちていく俺の翼には、ここ数日何度か見掛けていた黒い物が混じっていた。

「『絶対欲しい』、『何が何でも堕としたい』って………でも、案外簡単やったな。人間じゃないんやし、もっと追い詰めないと口にはしないと思ってた」

 ようやく動くようになった手で、呆然と背中を掻きむしる。そこには今までの柔らかな羽根なんてほとんど残っていなくて、ただ堅い別物の何かが時折手に当たるだけだった。

「大丈夫、すぐこっちのが生えてくるよ。ここんとこ、黒いの落ちとったやろ? 段々しげにも見えるようになってきちゃってたから、誤魔化すのも無理あったよな」

 そう言って、まるでいつもみたいにへにゃりとかみちゃんが笑う。手の震えが、止まらない。

「そんな顔せんとってや。悲しむこと? 俺のこと好きなんやろ? 俺と一緒に居たいんやろ? 俺が何かももう、気づいてるんやろ? 全部分かってて言ったんちゃうの?」
「ち、ちが、俺、何か差し出してでも一緒に居たいって思っただけ、で⋯⋯ま、まさかこんな事になるなんて、」

 酷い頭痛がして、無意識に頭へ手をやる。毎日帽子で隠していたからすっかり見ていなかった天使の証の輪はどこにもなくて、何か堅いものが手に当たった。まさ、まさか。
 焦って顔を上げた俺とは対照的に、かみちゃんは平然とした顔で俺の頬を撫でている。その瞳に確かに刻まれた逆十字に、耳のあちこちに飾られたそれに、初めて恐怖を覚える。

「あぁ、そういうこと……秘密主義って、こういう時には便利やなぁ。⋯⋯でもしげ、きっとこっちの方がたのしいよ。こっちなら、仕事なんて今までみたいに俺の手伝いだけすればいいし、しげのこと責める人なんて誰も居らん。今まで黙ってたけど、俺、上司なんてあの人しか居らんねん。だーれもしげのこと悪く言わへんよ」
「で、でも⋯⋯お、俺にだって一応、あっちにも居場所とか仕事とかあるし、と、友達とかも……」
「そんなん、いくらでも代わりなんて居るよ。でも俺にとってお前の代わりは居らんねん。……好き、だいすき、やで。自分の全部を使ってでも、引き摺り降ろしたかったくらい」
「す、き⋯⋯?」
「そう、好き。初めて見た日から、お前の⋯⋯しげのこと、考えない日なんてなかった。⋯⋯愛、してるねん」

 呆然としていると、かみちゃんが俺の頬にそっと両手を添えて口付けた。冷たい。悲しいほど冷たくて、だけど柔らかい。ジリ、とさっきとは違う呼出音が鳴った。
 そういえば、動揺していて気付かなかったけど毎晩鳴っていたのはこれだった気がする。じゃあさっきのは、何だ?
 片手を俺の頬に添えたまま、かみちゃんが僅かに指先を動かす。テーブルの上にあったナイフが勢いよく飛んで棚に突き刺さり、次の瞬間棚ごとバキバキと音を立てて崩れ落ちた。思わずそれを追っていた目線すら、頬を包む優しい手に無理やり合わせられる。
 目が合ったかみちゃんは、こんなにも強くて俺のことなんてきっとどうとでも出来るのに、なぜかその瞳に僅かな不安と縋るような色を浮かべていた。それすらももう、信じていいのか分からないけれど。

「なぁ、ずっと、ずっと一緒にいてや……俺、誰かを想うなんて想像もできないままこの世界で何百年も生きてきて、こんなん初めてやねん。こんな気持ちになったの、お前だけやねん。しげ、しげ……」

 長い睫毛からぽたぽたと涙が落ちる。もう俺は、何を信じて何を疑えばいいのか分からなくなっていた。だけど手が勝手に、その綺麗な目元に手を伸ばしている。そっと涙を指に乗せて拭うと、かみちゃんはいつもみたいに目元を紅くして俯いた。
 俺の代わりなんて、この子の言うようにいくらでもいるのかもしれない。だけど、家族や友人は違う。俺を大切に想ってくれているそれらを、全部投げ捨てていいわけが無い。
 でも帰り方なんて分からないし、淳太からの連絡が嘘だったなら、きっと帰してもくれない。
 それに、この一ヶ月でどうしようもなく好きになってしまったこの子が、嘘をついて陥れてでも自分を傍に置こうとした事だけは事実で、⋯⋯目の前の存在が何なのかに気づいていて、それでも何かを差し出してでも一緒に居たいと口にしたのは間違いなく、自分だった。
 一ヶ月見てきたはずのこの子がどこまで本当だったのかすら、もう分からない。だけど、もし今自分が頷けば、これからもっと色んな、本当のこの子が見れるのか? ⋯⋯この子を、この広大な部屋に一人置いていかなくて済む、のか?





「……っアカン、通信自体壊しよった! くそ、縁ってもしかして、やとしたらまさか、まさか全部、俺と近づいたことすら……最近記憶が途切れてたのも、体調が悪かったのも、疲労じゃなくてまさか全部、あいつが……で、でもなんであいつが重岡なんかに、くそ、どういうことや……」
「な、なかまさん……? あの、な、何がどうなって……」
「俺も分からん!! クソ、あの書類ほんまに重岡がやったんじゃなかったんや! とにかく今すぐ魔界に要請出すわ! 流石に自分とこのが他所のもんに手出ししようとしてるって分かったらあの堅物も許可だすや、ろ……っ」
「っ中間さん!?」





「でも、でも俺、そんなふうに思ってもらうほどのやつ、じゃ……」
「誰がそう言ったって俺にとってはちゃうよ。だって、お前に会うためだけにここまでしたんやし……一ヶ月一緒に居っても、気持ちは変わらんどころか増すだけやった。なぁ、しげ……」

 ふわ、と棚の上から赤いボトルが降りてきた。確か、ワインってやつ。絶対ただの酒じゃないと思ってたけど、やっぱりそうだよなぁ。だって、葡萄から出来ているというには、それは、赤すぎる。
 勝手にクルクルと栓の開いていくそれを、ぼうっと眺める。

「大丈夫、怖くないから。同じになるだけやから」
「……おな、じ」

 いつの間にか手元にあったグラスに彼が真っ赤なそれを注ぐと、ぶわりと濃い香りが広がった。指先に小さな痛みが走り、かみちゃんの鋭い爪に刺されたそこから自分の血がぷつりと噴き出して滴っている。
 それを何滴かグラスに落として目元に翳し、かみちゃんは目を細めてじっと眺めた。

「……綺麗」
「……変わ、てんな⋯⋯」
「ふふ、しげも俺に何回も言ってきたやん」

 グラスを降ろし、そっと身体を寄せてきたかみちゃんが至近距離で俺を見つめている。

「…………一緒に、なってくれる?」

 逆十字の浮かんだ瞳を細め、目の前のイキモノがやさしく微笑んだ。沢山の色が入り混じったその硝子玉に一瞬天界のすべてが過り⋯⋯、だけど目の前のだいすきな⋯⋯悪魔を宿したひとに、塗り潰された。
 きれい。かわいい。愛も友情も知らないままにこんな大きな力だけ持ってずっと独りで、可哀想。
 そっと頷くと、かみちゃんは柔く微笑んだ。少し手を震わせながらグラスを傾け、口に含んだそれをそのまま俺に口付けて流し込んできた。抵抗もせずにそれを飲み込むと、心臓が一度ドクンと大きく揺れ、激しく血が逆流するような感覚に襲われる。呼吸が浅くなって震えた手を、かみちゃんが包み込むように握った。
 しばらくすれば身体の異変は収まって、ただ穏やかな違和感を背中に覚える。そっと視線をやると、かつてのそれより長くて羽根の数も比べ物にならない程多い真っ黒な翼が生えていた。

「……やっぱり、こっちの方が似合うと思った」
「こ、……これ、かみちゃんの力、なん?」
「まぁそうやけど……なぁ、そんなんいいからさ、抱いて?」

 そっと手を引かれ、ふらつく足で立ち上がらされる。立ち上がったことで鏡に映った自分の頭にはもうあの眩しい光はなくて、代わりに彼と同じもような角が生え始めていた。……魔族、そのものだ。
 ドサリとベッドに雪崩込むと、かみちゃんは俺の手を取り、そっと遠慮がちに自分の身体へ触れさせた。

「お前を初めて見た時から、この瞬間だけを夢見とった。……気持ち悪い?」
「⋯⋯ふは⋯⋯何、言ってんねん⋯⋯……俺、ここに落っこちてきて初めてかみちゃんを見た瞬間、こんな綺麗な子になら殺されてもええわって思ってんで? ⋯⋯そんな子にここまでされて、こんな事言われてさ、嬉しくないわけないやん。……その顔じゃ、俺のこの気持ちは作りもんじゃなかったんやろ?」

 言葉の途中から、かみちゃんは腕で顔を覆っていた。爪の伸び始めた指で傷つけないようそっと開かせると、真っ赤になった顔で目を逸らしながら、ちいさく彼は頷いた。癖で目元を撫で、その言葉を待つ。

「……しげが俺のこと好きになってくれなかったら、諦めて、でももう帰してあげられる身体じゃないから殺すつもりやった。埋葬してもどうせ誰かに食べられるし、それならいっそ俺が、食べようって……」
「ふは、おっかないなぁ……でもおれ、会ってすぐ好きになっとったから関係ないわ」

 これ以上この子が何か言う前に口を塞いでしまう。初めて絡め合った舌まで冷たくて、だけどいつの間にか心地よくなっていたその冷たさに目を細めた。

 夜が明けることのない世界で二人の影が重なるのを、真っ赤に染まった月だけが見ていた。



*



 今日は灰がかっている空を眺めながら、俺はひんやりとした人気のない廊下でぼうっと突っ立って恋人の戻りを待っている。
 なんとまぁ複数の悪魔から力を与えられて産まれたという彼は、この世界の次点に立つひとだった。そんな千年に一度あるかないかだという存在から直々に力を譲り受けた形の俺は、当然のように彼に次ぐ三番目に収められている。ハッキリとした実力主義のこの世界で、俺がそれに何かを言われたことは無い。

「……あ、かみちゃんおかえりぃ。報告にしてはなんか長かったな?」
「うん。淳太くんから文句がたっぷり詰まった書状が毎日来てることの愚痴聞かされとった。堕としたい奴が上にいるの言った時から好きにしろって許可出しとったの、自分やのに」
「ふは、そうなん? あんな人でも愚痴とか言うんやな。聞いてみたかったわ」

 二人分の足音しかしない廊下に、小さな笑い声が響いた。前屈みになって俺を見上げてくるかみちゃんは相変わらず可愛らしくて、無邪気で、⋯⋯邪悪だ。
 彼が『名前』という糸を媒介にしてかつての上司に行った仕打ちのことを、今の俺は全て知っている。

「じゃあ次は一緒に入ってみる? 数百年仕事一辺倒やった俺がここまで気に入ってる存在のこと、気になってはんで。あの感じで子供みたいな好奇心たまに出すから」
「いやいや、親みたいなもんやからってノリ軽すぎやろ……。あの圧はしばらく受けたないわ」
「ふぅん。でもしげ、俺の次なんやから。どのみちいつかは話せるようにならなあかんで」

 うーん、と唸りながら長い螺旋階段を降る。存在も言葉もちゃんと分かるようになってしまったこの世界の主に会うのはまだ少し怖くて、気が引ける。そんな俺を笑いながら、同僚でもある恋人が腕を引いてふっと城の一階まで空間を飛ばした。
 今日はまだ見廻りの仕事がある。自分もそうなったことで気付いた事だが、俺たちのような存在はただそこを歩いているだけで仕事になるらしい。人間の悲鳴にも、凄惨な“罰”にも、もう何も感じない。
 地下へ向かう為にのんびり回廊を歩いていると、ふとかみちゃんが足を止めた。振り返ると、眉をひそめて横目で空を睨んでいる。

「どうしたん?」
「……まだ分からんか。今、淳太くんに見られてるわ。あんだけ食い散らかしたったのに、天使のくせして強いなぁ、あのひと」
「へぇ、そうなん? ……じゃあ世話になったし、挨拶しとこかな」
「え?」

 薄く笑い、影になっていた回廊から庭に出た。
 相変わらず絵の具で混ぜたような空を見上げれば不思議と目を合わせる方法が分かって、いつもの笑顔を作って数秒見つめる。⋯⋯なぁ淳太、頑張ってくれてるとこ悪いけど、もうええよ。
 別れの挨拶は、まだ使いこなせてはいないこの力でちゃんと届いただろうか。まぁ、そんなものもうどうだっていい。軽く手を振り、かつてより数倍大きく、この世界の色を垂らして染め上げたような翼を翻した。後ろで黙って待っていた彼の目許にそっと口付け、膝を折る。

 振り返って浮かべた笑みは、自分でも分かるほど邪悪だった。


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