ヒトはそれを終末と呼んだ







『⋯⋯⋯⋯あ、あー。テステス。⋯⋯えー、拝啓⋯⋯でいいと思う? なんやねんその顔。⋯⋯あ、えっと。拝啓、終わった世界。或いは⋯⋯何かの理由で蘇った世界。先に言っとくと、これは大した記録じゃないです。強いて言うなら、えっと⋯⋯こんな存在が言葉にするには歪かもしれへんけど、その、ただの⋯⋯⋯⋯愛の、記録です』










 何かが変わる日はいつだって唐突だ。予感、前触れこそあったものの、大きな気配や足音もなくそれはやってきた。誰もがいつも通りに朝を迎えたその日、俺たちの世界は終わった。



『続いてのニュースです。威嚇行為を続けているA国とその関連諸国について、昨夜各国の首脳が電子会談を行い──、』


「おーい、智洋! あっちの機材も頼める?」
「ん? あぁこれか、はいはい」
「はー、今どき自力でこんな重いモン運んでんの、馬鹿みたいだな本当」
「まぁあいつら高いからなぁ。たかだかインディーズバンドには雲の上の存在やで」
「ちぇっ、手伝いロボなんか要らないからあっち貸してくんない、かなぁ。よいしょ、っと。選ばせてくれりゃなんの文句もないのに」
「確かに、あれは俺も要らんなぁ⋯⋯自己管理も生活も自分でやれてた頃があるなんて、夢みたいやんな。俺、自分で料理してみたいわ」
 ブツ、ブツ。二人で文句を言いながら地下への階段を降る。俺とこいつは一緒に音楽をやっているバンド仲間で、こうして小さなライブハウスで毎週ライブをやっている。エレクトロが主流になった現代において古臭い楽器音楽は逆にある程度人気があり、メジャーデビューこそ叶わないもののこうして細々と活動を続けられるくらいには支えてくれる人達がいる。

『──臨時ニュースです。ただいま速報が入りました。A国及びD国に軍事行動の動きを捉えたと先ほど国家防衛庁が発表しました。庁職員と軍上層部への取材では数ヶ月以内の開戦の可能性が考えられると──』

 まだ客のいない地下ステージに浮かんだビジョンに、突然ニュース映像が映し出された。枠の中で喋っているのはさっき外の大型ビジョンで見たのと同じ人だ。ということは国家放送局が全電波に強制的に乗せたということだろう。ステージで準備をしていた他のメンバーとも並んでぼんやりそれを眺め、息を吐く。
 この手の話は数年前からずっとされているが、それでも少しずつその温度は上がっていっている。
「⋯⋯ほんとにキナ臭くなってきたなぁ」
「な。今更戦争なんて勘弁してほしいよ。地球ごと終わるだろ」
「昔みたいに殴り合いで決めたらいいのになぁ。⋯⋯本当にそんなことになったら、もうライブもやれねえじゃん」
「はは、ライブも何も俺ら全員死んでるだろ。気にした変わることじゃねえし。さ、じゃあ残り少ないライブの準備楽しんでこうぜ!」
「ふ、前向きなんはええことやな。⋯⋯っと、ごめん通信や。ちょっと離れるな」
 ピピ、と手首から通知音が鳴った。確認すると、文面ではなく映像通話だ。それも、恋人からの。ステージの準備に戻った皆の元から駆け足で離れ、通信の応答ボタンをタップする。途端にボウッと浮かび上がった小さな映像の中では、昨日相手の部屋で会ったばかりの恋人が顔を真っ青にしていた。
「しげ? どうしたん?」
『っか、かみちゃん、今どこ!?』
「どこって、箱やけど。今日ライブって言ってたやん」
『ら、ライブハウスっていつもの!? ま、まずい、遠すぎる、間に合うか⋯⋯!?』
「しげ? 何の話?」
『せ、説明してる時間ない!! とにかく今すぐそこ出て、最短でこっち来て!!』
「え!? い、今から!? ていうかしげの職場、俺なんか入られへんやん!」
『だから説明してる時間無いねん!!』
「おーい智洋、彼女かなんかかー?」
 振り返ると、機材を並べながらメンバー達が俺を見ていた。苦楽を共にしたその顔ぶれと残り少ないかもしれないライブ、それから明らかに様子のおかしい恋人の訴えを一瞬で天秤に掛け、俺は傍に置いていた自分のギターケースを背負った。
「そんなとこ。ごめんなんか今すぐ行かなあかんみたいやから、今日のライブ俺無しでやって! ほんまごめん!」
「え、は!? 智洋!?」
 驚いているメンバーの声を背に階段を駆け上がり地上へ出る。外は相変わらず大型ビジョンがさっきと同じ速報を流している以外いつも通りだ。歩いている人もロボットも、何もおかしな様子はない。だけど俺は自分の目より長年連れ添った恋人の言葉を信じていた。普段なら高額すぎて絶対使わない空路タクシーを呼び、すぐ行き先を告げる。恋人の職場であるそこは、都市の中心部から少し離れた地域に建てられた私設の研究所だ。
 恋人である自分は当然、親族にすら何を研究しているのか話してはいけないというそこは当然部外者なんて立ち入り禁止のはずで、だけどあいつが呼んだ以上ちゃんとした理由があるのだろう。
 滅多に乗らない空路タクシーから街を眺める。昼も夜もなくなった世界を行き交う人々はいつも通りで、自分はどうしたって馴染めなかったその社会をぼんやり眺めていた。


 目眩のする様な額を支払ってタクシーから降りると、それはすぐふわりと飛び去った。手首に浮かんだ支払額は覚悟していた数字すらゆうに超えていて血の気が引いた。さ、流石にこれは俺の百倍は稼ぎのある恋人に請求してもいいかもしれない。普段はある程度平等にさせているが、これじゃあ今月は毎日ひもじい暮らしに⋯⋯、
「かみちゃん!!!」
 生活費に背筋を凍らせながらふらふらしていると、大仰な門の外で既に恋人が待っていた。その顔はさっきより更に白くなっていて、思考がヒュンと飛んでいく。慌てて駆け寄ると、素早く腕を掴まれた。
「し、しげ、どしたんそんな顔して⋯⋯」
「よかった間に合った、早く!! 走って!!」
 絶対部外者を入れてはいけないはずの門をあっさり開け、しげは俺の腕を引いて走り出した。引っ張られながらもこれは只事じゃないぞ、と慌てて自分でも足を動かす。長い庭を抜けようやく分厚いガラスの玄関に辿り着き、しげが慌てた様子で何重にも掛かった生体認証をしている。それを待ちながら何か気配を感じて振り返ると、遠く、都市部の上の方の空で何かがチカッと光るのが見えた。
「⋯⋯なに、あれ⋯⋯」
「いけた、早く!!」
 後ろを向いたまま引っ張られ、玄関に飛び込む。分厚い扉が背後で閉まった瞬間、耳をつん裂くような爆発音が鳴り響いた。次の瞬間には俺たちは玄関ともども吹っ飛ばされていて、激しく地面に叩きつけられる。真っ白になった頭でしげに抱き抱えられていることだけが分かって、その隙間から慌てて後ろを見ると、さっきまで自分がいたはずの都市部の方で大きな噴煙が上がっていた。

『──なぁ、そんだけ誰にも言っちゃあかんような研究してて危険ちゃうの?』
『んー? まぁ研究者個人を狙われたらどうしようもないけど一応対策はしてあるし、施設に関しては目の前にミサイルが落ちてきたって玄関すら傷一つ付かんようにできてるで』
『えー、すっご! そんなんこの世にあるんや』
『まぁ一応、な』

「し、しげ⋯⋯これ⋯⋯っあ、だ、大丈夫!?」
 目の前にミサイルが落ちてきても傷ひとつつかないはずだった玄関扉は、粉々に破壊されていた。俺を庇うように覆いかぶさっていた恋人にはあちこちに生傷ができていて、血が溢れ出している。慌てて声を掛けると苦しそうに歪んだ表情で顔を上げ、だけどすぐに立ち上がった。
「ちょっ、し、しげ!」
「こんなん大丈夫やから、はよ行かな⋯⋯! これで終わりじゃないねん!!」
 そう言いながらも、しげは苦しそうに足を引きずっている。ロビーに入っても人気は無く、俺は一瞬逡巡した末彼を無理やり背負い上げた。
「ぅわ、ちょ、かみちゃん!?」
「走るから案内して!! 時間ないんやろ!?」
「⋯⋯わかった、そこ真っ直ぐ行って!! そしたらすぐ右!! ⋯⋯これ、また認証あるからちょっと屈んで!!」
 迷路のような研究所を走り回り、度々ロックの掛かった重い扉を背中にしげを背負ったまま押し開けながらなんとか通り抜ける。いつまで経っても、どれだけ走っても誰にも会わない。そして時折外で爆発音がしては堅固なはずのこの研究所を揺らしている。一体、何が起こっているんだ。ビジョンに浮かんでいた臨時ニュースが頭を過って、だけどそれでは数ヶ月以内だとか言ってたじゃないか!
「⋯⋯ここ! こっから地下に降りるねん。そこなら安全やし他の職員も皆おるはず。⋯⋯疲れたやろ? もう急ぐ必要ないから降ろしていいよ。ありがとうな」
「そ、そっ⋯⋯か⋯⋯。な、なぁ、これってまさか、」
「うん。⋯⋯始まってん」
「え、え⋯⋯!? そ、そういうのってこんな急に始まるもんなん!? そ、それにアラートだって鳴ってなかったやん!」
 大きな事件や有事の際はこの手首に国家からの報せが届くようになっている。今もなお沈黙したままのそれを呆然と眺めていると、しげは忌々しそうに自分の手首を見つめた後吐き捨てるように告げた。
「皆がルールを守ってたら、な。布告も宣言も無かったし動きは全部隠されとったんや。アラートが鳴らなかったのは国のシステムも落ちてくるその瞬間まで補足できてなかったから。これを管轄してるメインシステムももう今頃燃え尽きとるわ。流石に首脳部まで巻き込まれてるわけはないから国家は生き延びてるやろうけどな」
「じゃ、じゃあ⋯⋯」
 どこまでも続いていく階段を降りながら、バンドメンバーや街で見かけた人々、最後に会ったタクシーの担当者を思い出す。み、みんな、いなくなってしまったのか? みんな、⋯⋯⋯⋯。また遠くで爆発音が鳴り、いつだったか骨董屋で見た花火の映像を思い出す。
 いつの間にか揺れを感じることはなくなっていた。相当地下まで降りたのだろう。目の前で止まった足に顔を上げると、さっきの玄関の様な大きな扉の前にたどり着いていた。今までで一番入念な施錠を淡々とこなしているしげを後ろでぼうっと眺める。かちゃりと軽い音を立てて開いた扉の先は、思わず目を細めるほど明るかった。
「すんません、遅くなりました。多分僕で最後です」
「⋯⋯重岡くん、無事でよかった。だけど彼は? 入れていいのは親族四人までって話⋯⋯」
「はい、この子籍入れる予定やった恋人なんでもう家族ってことにしてください。家族はもういいんで。⋯⋯ていうか、間に合わんやろうし」
「⋯⋯そう、だね。見ての通り、実際家族を呼べた人の方が少ないから実のところ人数なんて何の問題もないんだ」
 そう周囲を見渡して呟いたその人も、近くに家族らしき人の姿はなかった。状況が分からないなりにそっと頭を下げ、様子を伺う。しげの同僚、つまり研究者らしき人と俺と同じ部外者の違いは分かり易くて、その数は研究者に対してかなり少なかった。本当に突然だったんだろう。通話口で真っ青な顔をしていたしげの顔と、そんな状況にも拘らず外で俺を待っていたことに唇を噛み締める。
 パン、とさっきの人が手を打った。若く見えるが、この場では責任者にあたるのだろうか、彼は重く沈んだこの空気の中皆を取り仕切り始めた。
「じゃあ、家族を呼べた人はまず非関係者用の居住区に案内して状況とこの施設の説明を。他の職員は今日はもう個室で休むように。何かしていた方が落ち着く人は研究スペースに行っても構わない。⋯⋯もう外に出ている職員はいないからここの鍵は完全に施錠する。⋯⋯異論は、ないね?」
 誰も何も言わなかった。静かに扉へ向かった彼が何か操作をしてすぐ、扉がビーッと大きくさっきとは違う音を立てる。きっと、あの扉が外から開くことはもう無いんだろう。何も言えず呆然としている俺の手を引き、しげが歩き始める。真っ白な廊下をしばらく歩いたのち、また施錠された扉にたどり着いた。だけど今度は生体認証じゃなく番号式だ。きっとここが非関係者の居住区というやつなんだろう。
 しげが告げた数字を繰り返して頭に叩き込み、中に入る。ずらっと並んだ扉の数に思わずあんぐりと口が開いた。こんなにも人が入ることを想定していたのか。だけど、実際入れた人数なんて俺を含めて両手で足りる程度だ。しかもそのうち一組は子供を連れた家族だったから、組で言えばきっと片手で足りてしまう。⋯⋯職員は、二十人近くいたのに。
「⋯⋯⋯⋯部屋、選び放題やな。俺も個室貰ってるけど、こっち使わしてもらお」
「⋯⋯うん」
 後ろから、件の家族連れがやってきた。軽く頭を下げ合い、しげはその家族を呼んだらしい女性職員と話をしている。嫌な予感がしたから夫の仕事も子供たちの学校も休ませていたという彼女に“女の勘”の凄まじさを感心しているしげと彼女は、大切な人を呼べたもの同士だからかさっきより少し表情を和らげていた。自分もこちらに住むつもりだという彼女たち一家と別れ、適当に見繕った部屋のドアを開ける。必要最低限の家具が置かれたその小さな部屋はけれど今の自分の部屋よりよほど広くて、当然のように人工の窓から光が差していた。
 他の人皆部屋離れてるからいつでもギター弾いていいよ、と隣に立ったしげが笑う。喜んでいいのか分からないそれに頷いた俺は、未だにこれが現実だなんて思えていなかった。今地上がどうなっていて、俺たちが何度も音楽をやったあの場所がどうなっているのか。考えようとするたび脳や視界がぐらぐらと揺れる。小さな一人掛けのソファに俺を促したしげは自分は壁に背を預けて立ったまま、指示通り『説明』を始めた。
 ここは知っての通り私設の研究所で、国に向けた表向きの研究内容とは全く異なる研究を日々行っていたこと。その独自のツテで今回のことが少し早く補足出来たこと。いずれこの日が訪れることを研究者は皆知っていたからいつでも逃げ込めるよう地下深くに研究施設を作っていて、国も検知できていないここに数ヶ月前から各々自分達の研究の場を移していたこと。地上の情報は今の所そのツテを通して入ってきていて、よほどのことがない限りそれは生きているだろうこと。⋯⋯今後、どれだけの期間になるかは分からないがここで研究と生活を続けること。
「⋯⋯飲み込めた?」
「た、たぶん⋯⋯」
 惚けながら頷くと、しげはくしゃりと顔を崩して笑った。ふら、と近寄ってきた身体を受け止めると、痛いくらいに抱き締められる。
「⋯⋯間に合ってよかった。かみちゃんを失ってたら俺、生きてく意味無いねん。でも俺のやってる事は他の誰にも触れさせちゃあかんから、あと一分待って来なかったら⋯⋯あ、諦めるつもりやった。あんな場所にかみちゃんを残して、おれ、俺⋯⋯」
「もう、間に合ったんやからやめてや。俺もお前を俺のいない世界に置いていかんで済んでよかった。ありがとう」
「⋯⋯おう」
 俺にしがみついて震えているしげは、国すら知らないような研究をしている存在なのにまるで子供みたいだった。その背を撫でながら人口の窓から差す光を眺め、地上を想う。⋯⋯あと少し、しげの話を信じると決めるのが遅かったら。金をケチって空路タクシーを使っていなかったら。俺はここにはいなかった。
 俺だって何も知らないわけじゃない。あいつらと話していたように、本当に始まったならきっと今頃世界中のあちこちが火の海になっていて、数日もしないうちにこの世界は終わるんだろう。そんな世界の地下深くで、俺たちはこれから何をして生きていくんだろう。誰にも自分の研究を触らせられないというこいつや他の沢山の研究者たちは、何を求めて目の前に向き合い続けるんだろう。
 ギターひとつになった自分の荷物と、小学生二人を連れていたさっきの家族を思い出す。持ってきていてよかった。あの子たちが俺の古臭い音楽を気に入ってくれたらいいなぁ。そうぼんやりと思いながら、ぽんと優しく背を叩いた。
「さ、しげ。手当てせな。ここは管理ロボおらんねんな」
「⋯⋯あぁ、なんか身体中痛いと思った」


*


「あ、どうも」
「神山くん! 珍しいね。一人?」
「はい、流石に部屋でぼうっとしてんのも暇なんで」
 なんとこの居住区は、子供が入ることも想定して遊具付きの公園が用意されていた。植わっている植物や差しているヒカリは当然人口だが、今の子供は人口じゃない光なんて知らないからなんの問題もないんだろう。
 父親である彼の隣に腰かけ、遊具で遊んでいる無邪気な姿を眺める。
「それ、まさかギター?」
「あ、はい。よくご存知ですね」
「僕の祖父が確か持ってたんだよ。いいなぁ、僕は芸術方面はからっきし何も出来ないから君みたいな人が羨ましいんだ。嫌じゃなければ、何か弾いてくれるかい?」
「も、もちろん! 今時そんなふうに言ってもらえることないから嬉しいです。何かリクエストとかありますか? 流行りの曲も一応やれますよ」
「まさか。今流行りの曲なんてせっかくのギターには勿体ないよ。君の好きな曲を聴かせてくれ」
「⋯⋯じゃあ」
 そっと目を閉じ、ギターを始めた高校生の頃よく弾いていた曲を奏でる。百年以上前のものだというそれは、当時足繁く通っていた骨董屋で見つけたCDに収録されていたものだ。なんとなく気持ちが惹かれて買ったはいいがCDを再生する機械なんて当然なくて、紆余曲折の末なんとかその中身を再生できた時、幾筋もの涙が頬を伝っていた。俺がギターを弾くようになったのも、自分が今の世界に馴染めていないことに気がついたのも、その瞬間からだった。
 気がつくと、遊具で遊んでいたはずの子供たちが目の前に座り込んでいた。慌てて隣を見ると、彼は目が合っているのにどこか遠くを懐かしむように見ながら優しく微笑んだ。
「時々、君の気が向いた時でいいから、聴かせてやってくれるかい?」
「⋯⋯もちろん」


*


「聞いたで。かみちゃん、あの家族の前で歌ったんやって?」
 隣に自分の部屋があるにもかかわらずわざわざ俺のベッドに寝転んだしげが不満そうに口を歪めた。思わず首を傾げ、日記を書いていた手を止める。
「あかんかった? 喜んでくれたんやけど」
「あかんくないけどさぁ、これからは俺だけがかみちゃんの観客になれるんやと思ってたのに」
「なんやねんその理由。観客なんて多い方がいいやん。特に子供らはこんな生活やし、音楽が少しでも楽しみになればそれ以上のことないやろ」
「⋯⋯まぁ、子供は確かに可哀想やな。状況もよく分からんやろうし」
 眉を顰めて寝返りを打ったしげから日記に黙って目を戻す。ここに来て数日経った頃、余りにも代わり映えのない毎日になんだか恐ろしくなりノートを一冊貰って付けるようになった物だ。字を書くことなんてめっきりなくなっていたから初めは自分の字の汚さに驚愕したものだが、続けるうちに少しずつ見られるレベルになってきた。
 こうしてほとんど同居のように過ごすようになったしげは以前のように朝八時頃研究スペースへ出掛けていき、日によって違う時間に帰ってくる。だけど食事は研究者も部外者も関係なく大きなエリアで食べているから、少しずつ話したことのある人も増えてきた。そこで毎朝俺達も含めて共有される外の状況は、日を追う事に酷くなっている。大方の予想通り世界中が戦地になった結果、まだ一週間ほどしか経っていない今、国家が形を保っているのは以前の半数未満らしい。
「⋯⋯なぁ、しげって何の研究してるん? 今でも言っちゃあかんの?」
 高校から突然人が変わったかのように猛勉強を始めて国のトップの大学に入ったこいつは、気がつけば何をやっているのかも分からない研究者になっていた。一度聞いて誤魔化されて以来訊いてこなかったが、こうなっては流石に気にもなる。ちらと俺に視線を向けたしげは、しばらく視線を彷徨わせたあと首を振った。
「もう誰も外出られへんし言ってもいいんやろうけど、俺が言いたくない、かな。今はまだ」
「⋯⋯そうなんや」
「他の人らも知らんし。俺、結構特殊な場所借りて特殊なことやらしてもらってるから。でもいつか言うよ、たぶんそう遠くないうちに」
「ふぅん、ならいいや」
 書き終わった日記をパタンと閉じ、小さな机に立て掛ける。そのまま立ち上がって寝転がっていたしげの元へ飛び込んだ。分かっていたのかあっさり抱き留めてくれた体温に安堵し、目を瞑る。トクトクと聞こえる心臓の音を数え、すぐに飽きて辞めた。
 そういえば、以前は毎朝起きるたび機械音に告げられていた自分の体温や心拍をここへ来てからめっきり知らなくなった。国が全国民に強制的に配布していた生活管理ロボットがここにはいなくて、その類の物を見るのは食事の時だけだ。それが思っていた以上に心地よくて、同時に地上に大量にいたはずの彼らがどうなっているのか少し気にかかる。
「⋯⋯何考えてんの?」
「え。⋯⋯ろ、ロボットどうなったんかなって⋯⋯あいつら人が簡単に死ぬ状況でも生き残るんやろ?」
「ああ、それならとっくに全部自爆させられてるはずやで。もしかしてフィクションみたいなロボット対人間みたいなん考えた?」
「⋯⋯ちょっとだけ」
「ふ、かわいいなぁ。流石に制御出来ひんもんは作らんよ。人間が制御出来ないのは人間だけや」
「あぁ、確かに」
「⋯⋯例えば欲求とかな」
 すり、と腰が撫でられた。目を上げると、細まって優しい瞳が俺を見つめている。たぶん、これ以上考えさせたくないんだろうな。不器用で、優しい男だ。了承の意を込めて口付けると、少しずつ熱を持ったそれが身体を重くしていく。
「⋯⋯かみちゃん」
「ん、っな⋯⋯に?」
 機械やコンピュータばかりに触れている俺より柔らかな手が素肌を滑る。同性で性交をすることも子供を生すことも当たり前になったこの世界で、俺たちは一度もその約束をしたことはなかった。未来を誓ったことだって、ないはずだった。
「嫌じゃない? こんな地下の奥底に閉じ込められて、苦しくない? あの時周りと一緒に⋯⋯って、思わん?」
 きっと真剣な話なのに、しげは手を休めるどころかどんどん俺を追い詰めていく。身体の穴すら一時間に満たない手術で増やせるようになったこの世界で、それを提案された俺が渋い顔をして首を振ったのに「そっか」と微笑んだあの瞬間のような顔で、こいつは俺を見つめている。
 いつの間にか液体を足されグジュグジュとひどい音を立てているそこに思わず目を瞑りながら、勝手に甘い声の漏れる唇で何とか言葉を紡いだ。
「お、思うわけ、ない⋯⋯っやろ⋯⋯! お、お前も隣にいたら、そらどうでもええけど⋯⋯っ、お前が生きてんのに、死ねるわけ、ないやん⋯⋯っ」
「⋯⋯⋯⋯うん」
「ぁ、あ、っなに? 話したいことある、なら」
「じゃあさ、かみちゃん。永遠ってどう思う?」
「⋯⋯ん、ぇ⋯⋯? っっあ!」
 ぐ、と弱いところを押されて思わず背がのけぞった。そうか、とようやく脳が理解する。真剣な話で、きっと真面目に向き合って話したところで俺にはよくわからないことだからこうして追い詰めて何も考えさせずに何かしらの本音を言わせようとしてるんだ。ならもうどうでもいいや、と思考を放棄する。
 こいつは、あの手術を提案したことだって理由は子供がどうとか衛生面がどうとかじゃなくただ『俺の負担を減らしたい』だけだったような男なんだ。今もきっと、俺のことを想って何か難しいことを考えて何かを選ぼうとしてる。
「え、えいえん⋯⋯? わ、わから、ん! ぅあ、も、っもっと分かりやすく、言って!」
「えっと⋯⋯だから、その⋯⋯ふふ、かみちゃんかわい⋯⋯気持ちい? そういえば久しぶりやな」
「き、気持ちいけど! な、なんか話あるんちゃうの!? なんやねん!」
「うん、ごめんごめん。⋯⋯だから、さ。文字通り。人もロボットも無くなった世界を見てみたいって、思わん? こんな偽物の空だけ見て命が尽きるまで閉じこもってるんじゃなくてさ、本物の空の下でずっと二人で笑ってたいって、⋯⋯思わへん?」
「は⋯⋯? そ、それができないから今、ここに⋯⋯⋯⋯」
 ふと言葉が途切れる。しげの声は、どこか縋るような色を帯びていた。
「⋯⋯っあ、あ、ああ⋯⋯っっ!」
 散々慣らされていたそこにしげのものが押し入ってくる。それを受け入れながら、回らない頭の中を今まで交わしたいくつもの会話が浮かんでは消えていく。


『⋯⋯かみちゃん、やっぱりあの手術せえへん? かみちゃんがそういうの嫌いなんはわかってるけどさ、俺、やっぱりかみちゃんの負担がちょっとでも減るならそうしたい』『うーん⋯⋯⋯⋯。しげのその気持ちは嬉しいけどな? 俺はやっぱり、出来るだけ⋯⋯産まれた時のままの人間でいたいねん』『そ、か。⋯⋯そうやんな』

『なぁ、しげの研究って何してんの? 言える範囲でいいから教えてや』『⋯⋯多分、かみちゃんはあんまり好きじゃないよ』

『かみちゃんを失ったら俺、生きてく意味ないねん』『でも俺のやってることは誰にも触らせちゃあかんから、⋯⋯』

『永遠って、どう思う?』『本物の空の下でずっと二人で笑ってたいって、⋯⋯思わへん?』


「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯っっ!!!」
「好き、やで。かみちゃん⋯⋯大好き、ほんまに、だいすき⋯⋯かみちゃんだけの為に生きてん、ねん⋯⋯」
「ぁ、お、おれ、も⋯⋯おれも、すき⋯⋯っ! し、しげが、一番⋯⋯!」
「⋯⋯ありがとう」
 快楽に呑まれ、それ以上は考えられなかった。ただ思っていた。あぁ、そういうことか、と。


*


 翌日の昼。勉強の時間だと言って自室へ戻った一家を見送り、誰もいない公園で人口の光に照らされながらギターを眺めていた。柔らかな芝生をいくら見つめようがふわりと浮いたままの思考は固まらない。腰を上げ、ギターケースを背負ったまま俺の立場で許されている範囲を歩き回ることにした。
 食堂では休憩に軽食を摂りに来たらしい研究員が一人だけいて、互いに軽く手を挙げて挨拶する。この研究所の人はきっと皆しげのように最高峰の大学を出ていて行っている研究も未来的だろうに、俺のような古臭い趣味の人間を見下すことも差別することもしない。外の世界で数えきれないほどそんな経験をしてきたものだから、本当に賢い人たちってすごいんやなぁ、と軽い感想を抱いたものだ。
 気がつくと、いつの間にか居住区の一番奥にたどり着いていた。それぞれが等間隔に距離を取ってもまだまだ空きはあって、確か奥の方は不便だからか誰も住んでいなかったはず。だけど行き止まりの廊下の壁には大きな窓があって、腰掛けられるようになっていた。黙ってギターを降ろしてそこへ腰を下ろすと、人口の光が柔くあたって暖かい。そっと目を細めた。考え事をするにはぴったりだ。
 あいつが、⋯⋯しげが熱心に勉強を始めたのは、高校に入ってすぐの頃だった。それまでは俺とさほど変わらない成績だったくせに、部活もゲームもやめて勉強ばかりするようになった姿に初めは別人かと驚いたものだ。だけど「どうしてもやりたい事ができた」と語る横顔は真剣そのものだったから、その時既にこいつと年齢分の友人関係にあってそこに数ヶ月前から恋人という関係性も加わっていた俺は、特に何も疑わず「へぇ」と呟いていた。「なんか手伝えることあったら言えよ」、とも。
「思い出せ、思い出せ⋯⋯⋯⋯」
 呟く。あの時、何があった? 『俺が好きじゃないような研究』。それはつまりきっと、AIやロボット関連のことのはずだ。あいつが何より大事に思ってくれている俺が嫌いだと分かっていて尚その道を選ぶほどの何かが、その時あったはずなんだ。何だ、何も思い出せない。そもそもニュースや世界のことに興味が薄かったんだ。覚えているも何も、知らないのかもしれない。

「神山くん?」

 顔を上げると、例の家族の父親が立っていた。勉強の世話を見ると言っていたはずなのに、彼は一人だった。
「⋯⋯ぁ、べ、勉強はいいんですか?」
「うん、今は休み時間。僕が居たら休みにならないかと思って、散歩に出てたんだ。⋯⋯難しい顔してたけど、何か考え事? それか悩みでも?」
「あ、え、っと⋯⋯悩みというか⋯⋯」
 慌てて横に詰めると、彼は「ありがとう」と優しく笑って隣に腰掛けた。バレないようにちらと横目で盗み見る。子供たちは確か、小学校の高学年と中学年だったはず。それらや見た目からして、彼は少なくとも三十代は超えているだろう。この人なら、あの時世界に何か大きな出来事がなかったか知っているだろうか。だけどそんなもの、どう訊けばいいのかすら分からない。
「⋯⋯何でも話していいよ。君もまだ若いし、そういう趣味なら今の世界はそもそ生き辛かっただろう。それが更にこんな生活になって、苦しいよね。それなりに今の世界に順応している自覚のあった自分でも、この生活は少し心にくる。妻や研究員の人たちは慣れてるみたいで平然としてるけどね」
「⋯⋯そう、ですね。あいつも、ここでの生活自体は何とも思ってなさそうです」
「重岡くんだよね。妻から聞いてるよ。ここに来るずっと前、彼が入社してすぐの頃からだ。『凄い子が入ってきた』ってね」
「え、そうなんですか?」
「ふは、急に顔が変わった。大好きなんだね、彼のこと」
「⋯⋯⋯⋯」
「そんな照れることじゃないよ。籍も入れる予定だったんだろう?」
「え、⋯⋯あ、⋯⋯⋯⋯はい」
 嘘をついた。あの瞬間まで、俺たちはその手の話をしたことなんて一度だってなかった。だけど俺がここにいられる理由がそれなのかもしれないから、それ以上は何も言えず俯く。
「詳しい話は当然聞いてないけどね。入って数年で妻を含めたほとんどの研究員より上の立場にまで昇進したんだろ? 専用の大きな研究室まで与えられて、羨ましいけど彼の努力や才能、熱意は他と比べ物にならないから不満はない、って明らかに不服そうな顔で言うものだから笑ってしまったよ」
「⋯⋯⋯⋯はは⋯⋯」
 何とか絞り出した笑い声は掠れていた。言葉からして特殊な立場にいそうだとは思っていたが、⋯⋯“ほとんどの研究員より上の立場にまで昇進した”? そんなの聞いていない。専用の大きな研究室がどうこうだって、ついこの前軽く言われるまで知らなかった。もしかして、俺が思っているよりあいつのやっていることや立場は大きなものなのか?
「⋯⋯大丈夫?」
「っえ、あ、大丈夫です! ⋯⋯あ、あの、変なこと訊いてもいいですか?」
「ん? もちろん。君の演奏にはいつも癒してもらってるからね。何でも話してくれていいよ」
「あ、あの⋯⋯え、永遠って、どう思います?」
「⋯⋯⋯⋯永遠、かぁ⋯⋯また随分大きな話が来たね」
「は、はは、すみません。こういう生活が続くとどうしてもそういうこと考えちゃって⋯⋯」
 慌てて考えた言い訳を並べると、彼は特に疑う様子もなく顎に手を当てて唸った。
「いや、分かるよ。実を言うと僕もよく考える。連れてきてくれた妻には悪いが、ここでずっと目的もなく生活を続けることが果たして本当に子供たちや自分にとって幸せなことなのだろうか、ってね。外で気づく間すら無く命を終えることと、どちらが良かったのだろう。⋯⋯妻を一人置いていくわけにはいかないから、彼女がここに勤めている以上選択肢はなかったけれど」
「そう、ですね。僕もそれは同じです。何とか間に合って、あいつを一人置いていかずに済んで良かったと思ってます」
「そうだね。彼のその熱意も、君のためだったんだと思えば納得だ。⋯⋯あの頃、あのたった一つの大きな発明から、世界はまるきり変わってしまった。だからこんな結末を迎えたのは科学者達が一番悲しいだろうが⋯⋯。まぁ、だからこそさ、ここでの生活だってずっと続くわけじゃないのかもしれない。妻や君の恋人を含めた彼らが毎日熱心に研究しているのは、発明によって壊れた世界を発明によって取り戻す為なのかもしれない」
「⋯⋯あの、頃?」
 キュッと息が詰まった。思い当たる節がない。⋯⋯きっと、これだ。動揺が悟られないよう緩く手を握りしめ、ゆっくり口を開く。
「あの頃って、何でしたっけ。⋯⋯すみません、ニュースとかに疎くて」
「え? あぁ、確かに君は嫌いそうな話題だね。あの頃⋯⋯そうだね、君たちくらいの歳なら高校生だったんじゃないか? 機械に感情や精密な判断能力を与える技術が発明されて、世界中で大きな議論になったんだよ。その時既に戦いはロボットやアンドロイドの担当になっていたからね。『感情がないからこそ任せられていたのにわざわざそれを与えるなんて人道的に間違っている』という考えと、『機械がもっと正確な自己判断を行えるようになれば人間が操作する必要すらなくなってむしろ人道的だ』という意見で世界は真っ二つに割れた。そして次第にそれは国同士の対立、派閥を生むようになった。⋯⋯結局『機械の反乱を招きかねない』と言う理由で反対が多数派になって実現こそしなかったが、まぁ当然納得はしていなかったんだろうね。⋯⋯⋯⋯その結果が、これだ。我々は道徳や倫理を議論しながら世界そのものを終わらせてしまったのさ」
「⋯⋯⋯⋯ぇ⋯⋯」
 言葉にならなかった。俺も、周りの友人も世界の情勢になんてさほど興味がなかったからその手の話題は一切していなくて、ただ世界がなんだかきな臭いことしか分かっていなかった。そんな大きなことが、もう何年も前から議論されていたのか。
 なんて、⋯⋯なんて、くだらないんだ。そんなことで、何億年も紡がれ続けてきたこの星の生命も歴史もすべて燃やし尽くしたのか? そんな事で、世界は終わったのか?
「⋯⋯あ、あれ? でもあの、国が配ってる管理ロボっていたじゃないですか。あれにそんな感情なんてなさそうですよね」
「うん、あの技術自体が発表から一日もしないうちに表向きは封印されたからね。⋯⋯可哀想な話だよ。あの技術を生み出したのは、ごく普通の小さな会社の小さな開発チームだった。『家庭用アンドロイドにもっと精密な感情を与えられたら、きっと今より暖かな世界になる』。そんな目的でひっそり始まって、世界の誰も想像すらしなかった夢物語みたいなそれを彼らは完成させたんだ。どれほど誇らしくて、嬉しかったことだろう。軍事利用されるなんて夢にも思わなかったんだろうね」
「⋯⋯⋯⋯」
 それが完成した時のその人たちや周囲、会社の人々のことを思って自然と視線が下がる。確かに、そんな小さな会社が開発したならそれがそんな大事になるなんて考えもしないかもしれない。
「発売後すぐに国がストップを掛けたけど、発売してしまっていた以上もう遅かった。世界中に幾つもばら撒かれてしまったそれらは各国の研究者によってすぐその仕組みを解明され、全世界の知るところになったのさ。そうして軍事利用どうこうレベルの議論になってしまった以上、一般的な技術としての利用は全面禁止とするほかなかった。一般人が技術を解き明かして悪用なんてしたらそれが一番最悪なケースだからね」
「な、なる、ほど⋯⋯」
「だから数日もしたらそれについてニュースで取り扱うのも禁止になって、ただ政治的な話の一部になったんだ。だから君みたいに知らない人もそれなりにはいたんじゃないかなぁ」
 そう言葉を紡ぎながらぼんやり遠くを見つめるこのひとは、その時何を思っていたんだろう。世界が大きく変わろうとしている音は、俺が古い音色に夢中になっていて聴いちゃいなかったそれは、どんなものだったんだろう。突然人が変わったように机に齧り付くようになった高校生のしげの姿が頭を過ぎる。⋯⋯『機械に、感情を』。『本物の空の下で、永遠を』⋯⋯。
「⋯⋯そういえば、ああいうのはとっくに自滅させられてるってあいつに訊いたんですけど。つまりうちの国は『反対派』だったってことですよね? じゃあ攻撃してきた国のロボットは今も⋯⋯」
「壊してるよ。こっちだって何も知らんかったわけちゃう。向こうが攻撃を仕掛けてきた時点で、あっち側の国の管理システムは全部破壊してあんねん」
「し、しげ⋯⋯!」
 どこで聞いていたんだろう。急に姿を見せた恋人は、長年連れ添ってきて見たこともないほど冷たい顔をしていた。慌てて立ち上がると、しげは目を合わせないままヘタクソに口角を上げた。
「だから今地上で起こってるのはほんまにただのアホな人間同士の争いってこと。⋯⋯かみちゃん、マジで全くニュース見てなかったんやな」
「い、そ、そうやけど⋯⋯嫌いなんやから仕方ないやろ」
「⋯⋯もしかして余計なことを言ってしまったかな」
「いや、⋯⋯俺の口からじゃどう言えばいいか分からんかったんで。むしろ助かりました。⋯⋯じゃあ、これで。かみちゃん、いこ」
 ふと腕を引かれ、慌ててギターケースを掴む。振り返って彼に軽く頭を下げると、彼はいつものどこか不思議な瞳でじっとしげの背中を見つめていた。
「重岡くん」
 名を呼ばれ、しげはぴたりと足を止めた。思わずつんのめった俺を無視し、しげはただ黙って俯いている。
「僕は妻の予想の範囲でしか君が見ている夢を知らないが、叶うといいと思っているよ。全部聞いていたんだろう? 僕はただ妻を置いていきたくなかっただけだ。家族一緒にいられるなら、最後なんてどうだっていいんだ。だから少なくとも僕たち家族のことは気にしないでいい」
 ばっと勢いよくしげが振り返った。何の話かさっぱり分からないで視線を彷徨わせている俺を置いて、二人はただ見つめ合っている。明らかに動揺しているしげを眺め、ふと彼が力の抜けたように笑った。
「誓って言うが、妻は何も見ちゃいないし知ってもいないよ。妻の予想を聞いて僕が更に予想しただけだ。⋯⋯そこの彼の存在と合わせてね」
「⋯⋯⋯⋯間違ってると、思わないんですか?」
「それは君たちで決めることだろう。僕は素敵な話だと思うよ。君たちが何をしてもいい。この世界を作り直しても、ただ旅をしてもいい。それを何より美しかったという本物の空から眺めているさ。その時にはもう、裁く人間なんて一人も残っちゃいないんだから。⋯⋯まぁ、大切な人への隠し事はあまりおすすめしないけどね」
 俺と目を合わせ、彼はニッと笑った。キュッと握る力が強くなった手に顔を上げると、しげは泣き出しそうな目で俺を見ていた。それになぜか安堵して、思わず笑みが溢れる。こいつは昔からずっとこうだ。色んな事を考えていて色んな人と関わっていて俺よりよっぽど見えている世界だって広いのに、なぜか俺のこととなるとすこぶる弱くなる。
 手を握り返し、笑った。他の何より大切に思っているのも、信じているのも、俺だって同じなのだから。
「そうやで。お前が何してようが何考えてようが、俺はまず聞きたいわ。どうせ全部俺の為なんやろ?」
「⋯⋯う、ん。かみちゃんの為に、生きてるから」
「ふは、⋯⋯うん。ありがとう。俺も、お前が本気で望む事なら何でも聞きたいって思ってるよ。生まれた時から、お前以外の誰かを特別に思ったことなんてないもん。お前の為だけに、大好きな故郷も離れてこんな嫌いなもんだらけの街にまで来たんやから」
 見つめ合ったまま微笑むと、しげの綺麗な瞳に薄く涙が浮かんだ。それにそっと指を伸ばし、拭う。人口の光を反射したそれは、だけどとても綺麗だった。
「⋯⋯僕が席を外そうかな。人払いはしてあるんだろう? それなら内緒話には持ってこいの場所だ。そろそろ子供たちの休み時間も終わりだしね」
「あ、⋯⋯ありがとう、ございます」
「いやぁ、僕は何もしてないよ。ただ、ここに来たことで君たちに出会えて、君のギターを聴けて、幸せだったんだ。君たちのこれからが幸福であることを祈ってるよ」
 俺のギターケースをポンとたたき、彼は真っ白な廊下の角を曲がっていった。しばらく黙ったままそれを見送り、息を吐く。相変わらず何か考え込んでいそうな様子の恋人に笑い、手を引いてさっきまでいた窓辺へ戻った。そこへ腰掛け、ギターケースを開く。
 ゆっくり隣に腰掛けたしげは、俺の指先がギターを奏でるのをじっと眺めていた。バンドでは作曲も担当していた俺の、まだ誰にも聴かせていない新曲を口ずさむ。足でリズムをとっていると、いつしかそれにしげのものも加わった。自然と頬が緩み、俺は大きく口を開けて笑いながら歌った。こいつの為だけに、歌った。『俺だけがかみちゃんの観客になれると思ったのに』と頬を膨らませた、ばかで愛おしくて大好きな恋人のために、柔らかな光の差す窓辺で歌った。大好きだったステージも何もかも焦土と化した地上の隙間風すら届かない、真っ白で無機質な世界で。
 観客なんて多ければ多いほどいい。そう思っていた。この古臭くて暖かな音楽の良さを、この世界を生きる一人でも多くの人に知ってもらえたらと思っていた。今から大人になっていくあの子供たちに少しでも何かを残せれば、そう思っていた。⋯⋯だけどもう全部どうでもいいや。

 俺は何も知らなかった。間違っていたのも、ズレていたのも、俺じゃなく世界の方だったんだ。アウトロを弾き終え、無機質な天井を仰ぎながら笑った。


「なぁ。こんな世界もう、なくなった方がええな。俺、ようやくお前が何したかったんかわかったわ」



 隣へ視線を向けると、しげは音楽に聴き入っていた目を開いて俺を見た。その瞳にもう迷いはなかった。そっと唇を寄せて軽く合わせ、囁く。
「ええよ。何考えてるんか知らんけど全部言う事聞くから、お前だけを俺の観客にしたるわ。⋯⋯永遠にな」
「⋯⋯かっけえなぁ、かみちゃん。自分が何されるかも分からんのにそんな事言えんの?」
「言えるよ、お前が俺にする事なら何でもいいもん。俺、色んなこと知らなさすぎたんやわ。ごめんな」
「謝ることちゃうよ。そういうかみちゃんを好きになったんやし、だからこそ⋯⋯かみちゃんの嫌がることはしたくなかった。もう気づいてるやろ? 俺の研究も今やろうとしてることも、多分かみちゃんが一番嫌いなことやで」
「うん、でもそれは知らん医者のやることやん。お前がやるんやろ? お前が俺の為に何年も求め続けた『夢』なんやろ? ほんなら嫌なわけないよ」
「⋯⋯そか」
 口元を緩めて微笑んだしげが俯こうとするのを頬を抑えて留めると、見たことないほど顔を真っ赤になった恋人と目が合った。思わず笑みが溢れる。あぁ、好きだなぁ。
「顔あっか」
「⋯⋯かみちゃん、かっこいいねんもん⋯⋯」
「ふは、しげほんま俺に弱いなぁ。な、聞かしてや。いつから、何を考えてたん?」
「えっと⋯⋯⋯⋯長くなるけどいい?」







 十年近く前。俺たちが高校に入ってすぐの頃だ。俺が昔の音楽の存在を知って放課後に骨董屋をうろちょろし始めていたちょうどその頃、世界を激震させるニュースが流れていた。
 “機械に高度な感情や判断能力を備え付けることが可能に”。各地のビジョンを覆い尽くしたそのニュースは、まだ昔ながらの建物が残っていた俺のいた場所には流れなかった。当時は、手首に埋め込まれた端末の機能も健康管理のみだった。だから俺はまるで奇跡のようにその一大ニュースを掻い潜ってしまったんだ。
 ぼうっと宙を眺めながらしげは薄く笑っている。部活終わりの帰り道にそのニュースを見たというこいつは次の瞬間には違和感を覚え、この大発見が大々的に世界へ発表されたことへ不安を感じたという。そしてその通りに、数日後にはその話題は軍事利用の可否への討論に移っていた。そこに開発者の思惑なんて、一欠片もありはしなかった。
 しかしいくら世界的は大発見とはいえ、ほとんどの高校生にとってはさして面白い話題でもない。一部の人たちが教室の隅でそれについて話していただけで、自分が思うほど話題になっていなかったとしげは語った。それが自分には不思議でならなかった、とも。そうして数日経った放課後、いつも通りの部活のロードワーク中、何故かずっと頭から離れないその発明についてぼんやり考えていた時ふと思いついたのだ。『それなら、逆だってできたりしないか?』と。
「⋯⋯⋯⋯ぎゃ、逆?」
「っはは! 予想通りの反応!」
「わ、笑うなや! 何やねん逆って!」
「だからさ、じゃあかみちゃん。“機械に高度な感情や判断能力を植え付ける”って、どうやってやると思う?」
 嘘だろ、分かるわけが無いのに問いかけてきやがった。流石に調子に乗りすぎ、とその脛を蹴ると、わざとらしく悲鳴を上げてしげは笑った。
「ごめんごめん。それまでは人工知能といえばこっちが知識を飲ませて教え込む、つまり一定のものしか生まれないのが当たり前やったわけやん。でもその発明は初めの手段からまるきり違ってん」
「⋯⋯ほう」
「まず誰か一人被験者の知能、つまり脳内を読み出してデータ化する。それをまっさらな状態の機械に埋め込み、同化させる。それを自分の感情って理解するほど自然にな」
「⋯⋯⋯⋯ん⋯⋯?」
「言うだけなら簡単やけど、そんなん今まで誰もやろうとしなかったくらい難しいことやった。特に後半がな。でもあのチームはそれを成功させてしまった。その被験者と全く同じ感情、自我、喜怒哀楽を持つ、だけどその人じゃない機械を生み出してしまってん」
「⋯⋯結果がわかった上で聞くと、明らかにやばいな」
「そうやろ? でもそれが家庭用アンドロイドに意図を絞ってたらどう? 毎朝単調に話しかけてきたあいつらがもっと人間らしかったらって思うと、どう?」
「や、それは夢あると思うよ。独り身の人も多いし」
「やろ? あの小さな会社の小さな研究チームが目指してたのはそんな些細な温もりを機械に与えることやった。考えもせんかったんやろうな。話題になったら、売れたらええなぁくらいのもんで、まさかそれがあんな世界的ニュースになって軍事利用までされるなんて、きっと誰も想像せんかったんやわ」
「⋯⋯さっきも思ったけど、可哀想やな」
 俯いて呟く。その人たちは今、どこで何をしているんだろう。なんだか訊くのが怖くて口に出せないその疑問を呑み込んで隣に目を向けると、しげは意外と何とも思ってなさそうな顔をしていた。
「まぁ気の毒ではあるけど、ちょっと考えたらとんでもない物を生み出したってわかるはずやで。俺がこの規模の研究所にいる人間やから思うことなんかもしれんけど、でも一端の高校生ですら「これヤバないか?」ってすぐ思ってんから。まぁ最初から「家庭用アンドロイドが感情を持てたら」って目的しか見えてなかったんやろうなぁ」
「うーん⋯⋯そう、かあ」
「⋯⋯話戻すで?」
「え? あ、⋯⋯『逆』」
「そうそう」
 頷き、しげは宙を仰ぎながら「えーと」と唸った。まぁ、簡単に説明なんて出来ないんだろう。この研究所でもこいつは上の立場らしいし、ましてや俺はなんの知識もない一般人な訳だし。
「だからその、機械がデータ化された感情を埋め込むことで限りなく人間に近づけるなら、人間側から同じことが出来んかってこと。例えば自分の脳をあの技術でデータ化して自分そっくりのアンドロイドに埋め込んだら、それってもう本来の自分と何が違うんやろうって思ってん」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯キッショ⋯⋯」
「っハハ!! 正直やなぁ」
「や、話だけ聞いたら出来そうやけどさ。実際もう人間と見分けつかん精密なアンドロイドいっぱい売ってるし。それの俺たち版を作って俺たちの脳味噌データ化して入れるってことやろ? そこだけ聞いたらなんなら全部他社の技術やもんな」
「そうそう。でも多分、あの研究と一緒で誰もやってないしやろうとも思わん話やねんな。あの人も言っとったやろ? 『君の見てる夢』って。そんな規模の話やねん。もう倫理がどうとかのレベルでもないしな」
「⋯⋯ふぅん。でもしげは完成させちゃったんや。あの人たちみたいに」
「まぁ一応、な。元々世に出すつもりはなくて実験もできてないから理論上の話でしかないけど。だからこんだけ時間かかったんやし」
「こんだけって。たった十年やん」
「でもギリギリや」
 ぽすん、と音を立ててしげが肩にもたれかかってきた。表情は見えないけど、安堵や不安の入り混じった複雑な空気を感じる。よくもまぁこんな大層な隠し事を何年も何年も続けられたものだ。俺は知らなかっただけでどんどん熱の上がっていく世界を見ながら、完成するかも分からない、他の人に漏らすことも出来ない研究に向き合い続けてきたのか。馬鹿なやつだなぁ。
「⋯⋯じゃあつまり、しげは高校の時あのニュースを見ていつか世界がこうなるって思って、世界中の誰もやらんかったそれをちまちま続けとったん?」
「おう。こらそのうち世界終わるぞって思って、でもその時にはこのことが頭から離れんくなってたから、むしろ希望すら感じた。世界が終わるまでにこれ完成させたら、誰もいなくなった世界でかみちゃんとずっと一緒にいられるんや、かみちゃんの嫌いな今の世界も無くなったこの星の元の綺麗な空を見られるんや、って。⋯⋯確かに夢物語やな、これ。俺はずっと本気やったけど」
「ふは、でも完成させたんやん」
 真っ黒な髪を撫で、そっと自分からももたれかかった。目を瞑ると、こいつの匂いが鼻をくすぐって心地いい。物心ついた時からずっとそばにあった温もり。匂い。それは俺にとって生きている意味に当たるほど大切で宝物みたいなものなんだけど、人間じゃなくなっても失うことはないんだろうか。それが少し気掛かりで、⋯⋯だけど、あぁ、やっぱり俺はこいつの全てが好きで、根っこに抱えた熱はどこまでも同じなんだ。もう今は、その『夢』に心が奪われて仕方がない。聞いたことしかない本物の空を、こいつと一緒に眺めてみたい。その時握り合った手に温度があったってなくたって、お互いのことを想えているならそれはきっと俺たちだ。
「⋯⋯なぁ、はよやりたくなってきた。今すぐ出来ひんの?」
 髪を梳きながら問いかけると、しげはちらと俺を見上げた後崩れるようにふにゃりと笑った。俺の、大好きな顔だ。
「悪いけどもうちょっと待って。万が一にも失敗したくないし、そもそもまだ成功したって外になんか出られへんわ。そうやなぁ⋯⋯半年も待てば残ってる国家なんてないんちゃう? ゲリラみたいなんは続いてるかもしれんけど、んなもん『人が簡単に死ぬ状況で生き残る』存在になった俺たちには関係ないしな」
「半年かぁ」
「半年。⋯⋯きっとすぐやで。成功すれば時間なんて無限になるんやし、この半年人間を謳歌しようや」
 そう言って屈託のない笑顔でしげは笑った。なんだか久しぶりに見たような気がするその笑顔に胸が熱くなって、その熱を抑え込むように微笑む。何が変わるのかなんて正直わからないけど、わからないなら全部焼き付けておこう。こいつのこの笑顔も、体温も、柔らかな匂いも。
 暖かな窓辺で肩を預け合い、俺たちは黙って目を閉じていた。







*







 深い水の中を揺蕩うような感覚があった。その腕を引き上げて水面に顔を出させたのは、柔らかく潜められた声だ。なんだか、聞き覚えがある。


「⋯⋯⋯⋯ど、う? かみちゃん、俺のこと、わかる?」

 ゆっくりと瞼を開く。目の前には不安そうな表情をした男がいて、手には幾つもの紙を併せてシワができるほどキツく握り締めていた。何度か瞬きを繰り返すと、『まるで』電気を通したかのように規則正しく順に立ち上がっていく思考回路。
 ゆっくり、口角を上げる。そう、口角。笑顔。わかる。ぜんぶ、わかる。

「⋯⋯重岡大毅」
「⋯⋯う、ん」
「二十八歳と八ヶ月十一日六時間三十二秒」
「⋯⋯⋯⋯かみ、ちゃ⋯⋯」
「体温正常、脈拍異常値あり。詳細を検査します」
「⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯検査結果、⋯⋯⋯⋯心配、し過ぎ!」
「っ、ぇ、あ⋯⋯!」

 入れられていたポッドから飛び出し、まだ体温のある恋人に抱きついた。

「か、かみちゃん⋯⋯!? ほんまにかみちゃんなん!?」
「そうやって! すごいなぁ、俺の意識ははっきりあるのに、俺じゃないこともわかる。知能も前と全然違う。ほんまに俺やのに俺じゃない! すごい! これなら同じこと俺もしげにやれるわ」
「ほんま!? っあ〜〜〜、よかった⋯⋯!」



 ──あれから、半年。俺たちはしげの『夢』を実行するに至った。あの時された説明はあまりに難しくて当時は完全な理解なんて到底できそうもなかったが、こいつが研究の最終調整をしている間に自分の中でゆっくり整理してみれば、それは案外単純な話だった。
 世界が壊れる前、既に一般販売されていた人間そっくりにオーダーメイドできるアンドロイドで『自分達』を用意していたというしげは、かの会社が生み出した特定の人間の知能をそっくりそのまま機械に埋め込む、という技術を利用して人間が自ら機械になる研究をしていた。⋯⋯改めて整理すると、本当によくもまぁそんな事を本気でやってみようと思ったものだ。
 はじまりは世界が変わったあの日。世界を揺るがせた、こいつに世界の終わりを見させた、世紀の大発明だ。その発明からこいつの頭にふと浮かんだ、小さくて途方もなく遠い『夢』。終わりの日が来るまでにそれを叶えられれば、俺に本物の空を見せられると喜びすら覚えたというんだから恐ろしい男だ。俺が嫌っていた今の世界がなくなったこのほしで、永遠に一緒にいられると。それでもこいつはそんな途方もない夢を、たった十年やそこらで現実のものにしてしまった。
 他の科学者が世界を取り戻そうと必死に話し合っている隣の部屋で、こいつは、この世界が壊れた後に俺と永遠を生きるためだけの研究を完成させてしまった。




「──大丈夫? なんか気持ち悪いところとかないか?」
「ふは、機械なんやからそんなんあるわけないやん。むしろほんまに自分が機械になったのかわからんくらい馴染んでるで。あの時人間の知能入れられたアンドロイドもこんな気持ちやったんかなぁ」
「さぁ、もうアンドロイドもほとんどおらんから分からんわ。⋯⋯でも今のかみちゃんが機械なのはほんまやで。ほら、あれ」
 指差された方を見ると、丁寧に毛布まで掛けられたかつての自分が台に寝そべっていた。施術前に今『自分』になっているこれを見た時にも感じたことだが、自分を完全に客観視するなんてなんだか不気味だ。恐る恐る近寄って触れてみると、それはまだ少し暖かい。
「⋯⋯これ、まだ生きてんの?」
「そらもちろん、失敗したらすぐ戻さなあかんからな。やり方、今の知能なら分かるやろ? 俺も一応同じようにしてな」
「うん。もう今すぐやる?」
「やってまお。みんなが寝てるうちに済ませな」
「よ、よし。任しとき」
「⋯⋯失敗するわけないんやけど、人格がかみちゃんやからなんか不安になんねんよな」
「なっ、や、否定はできんけど⋯⋯じ、人格ほんま俺やもんな⋯⋯しげ凄いわ」
「凄ないよ別に、狂ってるだけ」
 そう笑い、しげはもう一つの台にゆっくりと身体を寝かせた。その頬にそっと手を伸ばし、目を合わせる。後悔も、迷いも、もう無い。だけど生身の、出会ってから今までの二十数年を共に生きてきたこいつとはもう、サヨナラなんだ。
「⋯⋯俺、冷たい?」
「うーん⋯⋯ぬるい、かなぁ。そもそも限りなく人に近づけて作られたやつなんやし」
「そっか。じゃあ、お前の温度を感じられなくなるわけじゃないんや」
 たとえそれが毎日一定の、俺と寸分違わないものだとしても。そう考えながら呟くと、しげは俺の手に自分のものを優しく重ねて笑った。
「そうやで。それにこれからは、毎日違う、本物の気温も天気も感じられる」
「⋯⋯そっかぁ。楽しみやな」
「うん、楽しみや。ようやくかみちゃんに本物の空見せたげられる。ようやく、かみちゃんが思い切りありのまま生きられる世界に行ける」
「⋯⋯しかも、この世で一番愛してるやつと一緒にな」
「ぁえ、⋯⋯お、おう」
 途端に顔を真っ赤にした、きっと今世界で一番の天才で一番のばかでもある恋人に笑い、そっと瞼を下ろさせた。終わりじゃない。今から、始まるんだ。
 最後にもう一度だけ人生で唯一愛した人間の肌を指でなぞり、『俺』はポッドの電源を入れた。





 翌朝、大きな地響きと土煙、炎を上げながら地下に沈んでいく研究所を、崩れかけたビルの屋上から黙って眺めている俺たちがいた。
 あの場で過ごした半年間と出会った人々の姿が浮かび、失くしたはずの心臓が痛む。「僕たち家族のことは気にするな」と朗らかに笑った彼の細い目。俺には難しい色んな話をしてくれた、目元に隈を作りながら毎日何かを追い求めていた幾つもの眼差し。⋯⋯だけど、自分達で決めて覚悟もしていたことだ。
「ちゃんと、計画通りいったかな」
「間違いないよ。みんな苦しむどころか気づく間も無く死んでる。大丈夫。⋯⋯あとはこれを世界中のこういう研究所にして回るだけやなぁ。生き残ってるとこまだまだいっぱいあるで」
「ふは、テロリストやん俺ら」
「そうやで。かみちゃんが見たかったやつやん。ロボット対人間、ってやつ。まぁ勝負にもならんけど」
「いやだから、気になっただけで別に見たかったわけちゃうって!!」
 背負ったギターケースを揺らしながら抗議しても、しげは愉快そうに歯を見せて笑うだけだ。ふとその視線が俺の片手に止まり、じっと見つめてきた。
「どうしたんそれ。⋯⋯録音機? またえらい古臭いモンやなぁ」
「あ、うん。ほら、俺ちょっと仲良い研究員の人おったやん? あの人が休憩がてら作ってたんよ。俺の音楽を録って寝る前に聴きたい、古い音楽を録るなら機械も古くないと、ってな。⋯⋯それ、こっそり貰ってきた」
「あぁ、なんかおったなぁ⋯⋯。で、どうすんの?」
「んー⋯⋯なんでもいいから、残していこうかな。俺の歌でも、俺たちの旅でも、会話でも、なんでも。『届く宛のないメッセージ』みたいなん。どう? なんか良くない?」
「相変わらずロマンチストやなぁ。ええやん。じゃあ早速なんか一発目、どうぞ」
「え、今!? うーん。じゃあ⋯⋯⋯⋯」







*







 えーと、これで付いてるかな。録んのちょっと久しぶりやなぁ。
 ⋯⋯⋯⋯数百年? いや、もうどれだけ経ったのかなんて分からない。ほとんどの生き物がいなくなったこの星で、今日も俺としげは飽きずに歌を歌っていた。
 時折空を飛ぶ鳥を眺め、ほとんど水没した街のビルに腰掛け美しくなった空を仰ぐ。適当に拾った材料でキーボードを作った日から、俺たちはツーピースバンドになった。観客は、互いとあの空だけだ。そこでは誰かも見てくれている気もするんだけど、誰だっただろう。思い出せないそれも、けれどきっと大切でうつくしい。
「⋯⋯あ、魚や」
「ほんま? 久々に見たな。生命力強いなぁ」
「な。もしかしたら⋯⋯なんやっけ、太平洋? の方とか行ったら結構おるんかもな」
「や、確かあの辺ほど海やからって激戦地やったやん。でも時間なら幾らでもあるし、見に行ってみるか」
「はは、船もないのに?」
 飽きたらお互いの『核』を壊して終わりにしよう。そう約束して始まった俺たちの旅は、行きたい場所は、語りたい言葉は、百年経っても尽きないままだった。
 だから俺たちはそこらの廃材をかき集め、かつての思考なんて互いへの想い以外思い出せなくなった知能で簡単に船を作り出す。美しい空を映した水面を覗きこみ、潮風に目を細め、視線があったら笑い合う。

「今録ってるんやった?」
「うん。まだまだ遠そうやし一曲歌おか」
「よっしゃ、じゃあ俺の新曲でどうすか」
「いいよ。あれ好きやわ」
「かみちゃん俺の曲全部褒めてくれるやん」
「ふは、ほんまに好きやねんからしゃあないやろ」

 澄んだ空に響く笑い声。一人も人間のいなくなった世界で、二つの機械が愛を歌いながら船に揺られていた。










『────愛を、歌っている。投げ捨てられ壊されたすべてへの愛を。俺たちの「永遠」という、何より尊い奇跡への愛を。⋯⋯どうやろう。少しは、気が晴れましたか?』








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