You make me wonder.


1.


 研究職、なんて言えば響きは格好いいかもしれないが、その実仕事は地味且つ端的なものだ。

 好きで就いた職。当然熱意はあるが、寝食を削りとる毎日では活気なんて出るわけがない。出るとすれば、珍しい数値が浮かんだ時くらいのものだろう(その瞬間の研究室を包む熱気はある種狂気的ですらある)。そんな訳で死んだ目をした人間の多いこの職場だが、その一員である俺は、一年ほど前からある一つの楽しみに出会っていた。それはもう、「生気を研究室の換気扇に吸い込まれたとばかり思っていたお前の目が最近生きている」と、同僚に不気味がられるくらいには。
 コンコンと控えめなノックの音がして、片付いた試しのない我が研究室へ事務職員が顔を覗かせる。

「重岡さん、います? 彼来てますけど」
「っあ、分かりました! 行きます!」

 本来事務室が受取を行うはずの宅配をわざわざ報せに来てくれるのは、他でもない俺がそうするように頼んだから。
 机の隅に置かれたブレスケアタブレットを慌てて引っ掴み、同僚の視線を背に早足で部屋を出る。泊り込みも珍しくないデスクには携帯用歯ブラシを常備しているし、忘れさえしなければ毎食後ちゃんと歯を磨いているが、それでも、一応。
 ロビーに向かいながらザラザラと掌に散らした数粒を口に放り込めば、大袈裟なレモンの味が口内に広がって……、俺はそのまま噎せた。

「あ、重岡さん」
「……ッッゲホッ、か、かみちゃん!? なんでなか居んの!?」
「受付の人が暑いから入っててええよって。だめでした?」
「い、いいいいいや、ええけど……びっくりしただけ」

 普段は建物の外で待っている宅配会社の制服が、無機質なロビーで所在無さげに突っ立っている。慌てて駆け寄ると、綺麗な細い金髪からぽつりと汗を垂らし、朗らかな笑顔でその青年は「ほんならよかった」と笑った。

「……あ、なんか、飲む?」


*


 時折研究室へ荷物を届けに来る配達員の彼──かみちゃんは、今年三回生だという大学生で、出会いは昨年の秋に遡る。
 普段事務が受取を行っているから会うことのない配達員に初めて遭遇したのは、休憩がてら外の空気を吸いに出た時だった。そんでもって彼は当時そのバイトを始めたばかりだったらしく(今思えば一人くらい付いてきてやれよ、という話なのだが)、初めて訪れた規模だけはそれなりの研究施設を前におどおどしていた。
 ぼうっと玄関の脇に突っ立っていた俺。デカいダンボールを手に様子を伺っていた彼。そりゃまぁ、目が合うに決まっている。
「あの」
 制服の帽子から覗く暗めの赤い髪。耳元でチリチリ揺れるピアス。見た目に反して低い声で、青年は話しかけてきた。彼越しに輝く太陽も相まって、眩しいなぁ、なんてくたびれた社会人の俺は思ったものだ。

*


「重岡さん、また髪伸びたな」
「そぉか?」

 放ったらかしの頭に手をやり、首を捻った。人気のないひやりとしたロビー。
 買ってあげたアイスココアを紙コップから啜っているかみちゃんは、さっきまで首筋を幾筋も伝っていた汗がすっかりひいている。さすが、体力に溢れた若者は落ち着くのも早い。今の俺では、外で運動なんてしようものなら三時間は動けなくなるだろうに。
 いつも時間が余るという随分仕事が早いらしい彼は、毎度最後にここへやって来ては俺と話して少し時間を潰していく。最初こそ「重岡さん仕事ええの」なんて気にしていたものだが、俺の生活リズムの凄惨さを知った今では積極的に休息させようとしてくる。派手な見目をした彼が意外にも随分世話焼きな気質を持っていることを知ったのは、話すようになって少し経った頃だ。

「そろそろ切りに行かなあかんかぁ」
「色は? 染めへんの? あ、こういう所ってあかんのかな」
「いやー、うちは多分染めていいはず……結構明るい人おるし」
「ほんならやってみてや」
「いやいや、ないわ。似合う気せんし」
「えぇ、そんな事ないのに」

 金色の髪を弄りながら、かみちゃんは不服そうな表情を浮かべた。コロコロと頻繁に髪色を変えるこの子からすれば、俺の真っ黒で無造作な頭はさぞかし地味に見えることだろう。

「かみちゃん、髪染めるの好きやんなぁ。見るたび変わってるで」
「だって、いつも同じとかおもんないやん。たぶん今しかできひんし」

 そう言うとかみちゃんは真っ黒なカバーのスマホを手に取り、何かいじったかと思えばぱっと画面を見せてきた。映っているのは、大学の授業中らしき彼の姿。隣の席から隠し撮りされたであろうその写真に映るかみちゃんの髪は、真っ青だ。

「これな、この前急に青やってみたくなった時。さすがに青は怒られるやろうから、バイトない時にやってん。だから重岡さんに見せれんかった」
「おぉ、すっげぇな……こんなん似合う人おるんや」
「似合ってるやろ?」
「うん」

 素直に頷けば、かみちゃんは目を細めて笑った。
 素朴で愛らしい顔立ちをしているのに、なぜかこの子は派手な髪色や凶器じみたアクセサリーがよく似合う。耳元で揺れているピアスだって、思い切り刺せば指から血でも出そうなデザインだ。

「まぁこれは極端やけどさ、やってみたら案外なんでも似合うと思うで? 重岡さん、かっこいいし」
「はぁ? やめてや、かみちゃんみたいな人に言われたら恥ずかしいわ」
「なんでや、ほんまに言ってんのに」

 ココアを啜りながら、かみちゃんがにんまり笑う。なんでも似合う、というのは流石に買い被りだと思うが、それでもおしゃれなひとに褒めてもらえるのは、お世辞だろうがまぁうれしい。

「ほんならかみちゃんが選んでぇや。俺おしゃれとか何も知らないんすよ」

 空になったカップをゴミ箱に投げながら、笑う。カン、とゴミ箱の縁で音を立て、床に転がった。あぁ、外れた。腕時計を見れば、軽い休憩とは言い難い時間が経っていて慌てて立ち上がった。何も聞いてこないのが逆に気味の悪い、同僚達の生暖かい顔が頭に浮かぶ。
 帰りを促そうと目をやれば、かみちゃんは紙コップを握りしめたまま真顔でじっと俺を見上げていた。

「ええよ。今度一緒に買い物いこ」
「……お?」
「だから、買い物」
「……俺と、かみちゃん……で?」

 時間が止まったようだった。断れると思っていた、とかではない。もとより本気で言ってなどいなかったのだ。


*


 賑やかな音は、一人暮らしの部屋ではなぜか寂しさを助長する。BGMにもならないバラエティ番組を聞き流しながら、仕事を終えて帰宅した俺は大の字で床に寝転がって天井を眺めていた。
 安い給料で適当に借りた部屋。シングルベッドの他にはスペースなんて男一人がぎりぎり横になれるほどしかないが、幸いそれに不幸を感じる性格ではない。使い始めて二年になる少し古い機種のスマホを照明に翳し、ぼやく。

「"tomo”……ともき、ともや、とも……だけの可能性もあるんか」

 まぁるいアイコンには、甘ったるそうな、街中で女の子が片手にしているのを見かける飲み物を持ったかみちゃんの横顔が収まっている。ホーム画像は対照的になんだか渋い、どこかの温泉地に見える写真だった。橋の袂で並んで立っている、浴衣姿のかみちゃんと友人らしき男。……それも、やけに男前な。遠目の写真でもわかるほど本当に男前だ。そのうえ、雑誌の浴衣紹介ページかと疑うほどスタイルがいい。かみちゃんも相当顔の整った子だと思っていたが、類は友を呼ぶというやつなのだろうか。
 ひとしきり彼のアカウントを眺め、いつの間にか詰めていた息を吐いた。左上のバツ印をタップして画面を閉じると、自分のアカウントを開く。「重岡大毅」。何一つ弄っていない、四文字の羅列。社会人であればむしろ当然だろう。
 俺の持つかみちゃんについての知識は、神山という苗字とわざわざ指定されたあだ名くらいのもの。だが、かみちゃんは俺が時々首にぶら下げているネームタグで俺の名前を知っていたはずだ。だからまぁ、名前はひとまず置いておいて。問題は写真。そう、俺のアイコンにしている画像は、俺の仕掛けた悪戯に百点のリアクションをしてくれた瞬間の職場の先輩の顔だった。ホーム画像は、遠い学生時代に友人と登山に出掛けた時に山頂で撮ったものだ。
 整った顔をクシャクシャにして驚いている先輩の顔は最高に可笑しくて、もう何ヶ月もアイコンから変えていなかった。が、これをかみちゃんに見られていると思うと妙に恥ずかしい。「いい大人が」。「インキャ臭いのに」。「ていうか誰やねんこれ」。そんな風に思われていたらどうしよう。先輩が聞いたらブチ切れそうな事を悶々と考えながら、寝返りを打つ。
 促されるまま連絡先を交換したのは、今日、ついさっきのことだ。今アイコンを変えたって意図が分かりやすくて逆に恥ずかしいだけだろう。……そうだ。何を恥じることがある。この瞬間の先輩は本当に面白くてそれはもう、今見たって思わず頬が緩んでしまうくらい、


『tomo:重岡さ〜ん』

「オアッ!」

 突如画面上部に浮かんだ通知に、思わず大きな声が出た。
 送り主は「tomo」。かみちゃんだ。恐る恐る、いい歳して恥ずかしいのは分かっているがこればかりはどうしようもなく、トーク欄に移動し、一番上にある見慣れないトークルームの名前をじっと見つめる。

『tomo:なぁなぁ、買い物いつ行きます? 次休みいつなんよ』
『tomo:シフト半月ごとに申請やから融通きくし、もう夏休み入るから割と暇やで』

 次々切り替わるメッセージ。……打つのが、早い。既読を付けたところで会話のペースについていける自信がなく、しばらく放置することに決める。床にスマホを伏せて目を瞑った。
 どうやらかみちゃんは本気らしい。本気で、このくたびれた地味なアラサー男に大学生の貴重な時間を割いてくれようとしている。思っていた以上に面倒見がいいのかもしれない。……そう、面倒見がいい。それだけなんだ。彼は明るくて、きっと友人も大勢いて、その全てに、分け隔てなく優しいんだ。
 放り出していたスマホを再度手に取る。tomoさんからのメッセージはさっきの件を最後に止まっていたがそれには手を付けず、時折やり取りをする友人とのトークページを探して開いた。高校の頃転校してきたことで出会い、同じ大学に進学して卒業までつるみ続けたそいつは今東京に戻って企業人をしていた。

『重岡大毅:なぁ、諸事情あって二十一の男子大学生から買い物に誘われてるんやけど、これ犯罪?』
『重岡大毅:同性やしセーフかな』
『重岡大毅:なんでこんなんなってるんか、自分でも分からんのやけど』

 ぽん、ぽん。思いつくままに文字を打って送り付ける。珍しく既読がつくのは早かった。

『Kento Nakajima:それって例のかみちゃんのこと?』

 固まること、一秒弱。少ししか話していなかったはずだが、まぁこいつの察しの良さはいつもの事だ。

『重岡大毅:そう。なんかふざけて、じゃあかみちゃんが服選んでや〜って言ったらいつの間にか連絡先交換してた』
『Kento Nakajima:へぇ、積極的』
『Kento Nakajima:若いってすごいね』

 いや、そういうことじゃなくてですね。ゴロンと今度は反対側に寝返りを打つ。

『重岡大毅:行かん方がいいよな。男とはいえ、六個差ってなんか、あかんやん』
『Kento Nakajima:そんな事ないでしょ。叔父甥関係とかだったら、有り得るかもじゃん』
『重岡大毅:おいお前流石に失礼やぞ』
『Kento Nakajima:うん冗談だけど』
『重岡大毅:(スタンプ)』
『Kento Nakajima:それしかスタンプ持ってないの?』
『Kento Nakajima:まぁとにかく、六歳差なんて別に何の問題もないと思うよ』
『Kento Nakajima:俺、高校の時仲良かった二十代の先生と出掛けたりしてたし』

 え、それはアウトじゃね? ていうかお前、そんな仲良い先生なんかおったっけ? 半笑いでそう打ちかけ、やめた。自分の首を絞める事になりかねない。

『重岡大毅:まぁそうか……男同士やもんな』
『Kento Nakajima:何も問題ないでしょ。そりゃ、下心があるなら同性でもハンザイだと思うけど』
『重岡大毅:あるかんなもん』
『Kento Nakajima:ふーん。その割に、あの子と知り合ってから死んだ魚の目が若干生き返ったなって思ってたけど』
『重岡大毅:お前までそれ言う……』
『重岡大毅:若い子のエネルギー貰って元気になってんねん』
『重岡大毅:それこそ先生とかよう言うてたやん。高校で教師してると、エネルギー貰ったり逆に吸われたり忙しいって』
『Kento Nakajima:先生は俺に下心あったよ?』

 ゴン。踵が壁に激突した。

『重岡大毅:……え、誰?』
『Kento Nakajima:ほら、若い先生いたじゃん。古典の』
『重岡大毅:ま』
『重岡大毅:まじかよ……まじかよお前……』
『Kento Nakajima:まじ。でもこれ以上は秘密です』
『Kento Nakajima:だからまぁ、俺からは正直なんとも言えないけど、気になるなら行けばいいんじゃない』
『Kento Nakajima:あ、暑くなってきたし体調気をつけるんだよ』

 最後にオマケのような可愛らしいスタンプが送られてきたが、なんと返事すればいいか分からないままだった。十年越しに知った衝撃の事実、と、結局答えの出なかった悩みの種。
 黙ってトークルームを閉じ、同僚や友人からぽろぽろと届いている連絡に返事を送っていく。全部返しても、たった十分しか経っていなかった。再度スマホを置いてため息を吐く。そもそも、こんなに悩んでしまう時点で軽く答えなんて出ているのだ。下心なんて言える程でなくとも、俺はかみちゃんと出かけることに対してある程度後ろめたい気持ちを持っている。その正体に気づいてしまったら、それこそハンザイですけど。

「……偶然知り合った大学生。同性。弟みたいな感じ。服買いに行くだけ。……よっしゃ、ええわ行ったれ」

 吹っ切れた。よいしょ、と起き上がり、スマホを手に取る。アイコンのかみちゃんは変わらず、愛らしい飲み物をご機嫌そうに傾けていた。

『なら、来週午前で上がる日あるんやけど、どう?』


*


 昼間で人の疎らな地下鉄の車窓に映る私服姿の自分は、いつも通り地味だ。いや、そもそも窓に映る自分の姿なんて気にしたことがなかった。書架の片隅でコソコソと着替えて職場を出た自分を眺める同僚の好奇の目を思い出し、明日何を言われるのかと溜め息を吐く。そうなることが分かっていても、やけに早く目が覚めた今朝、悩んだ末に結局私服を鞄に詰めてしまったくらいには浮かれているのだ。
 今更下手に弄るのは諦めた為、服装はいつも通り、友人と会う時と同じようなものにした。無理に背伸びしたところで恐らくかみちゃんには、バレる。落ち着かない気持ちでなんとなく髪型だけ整えてスマホを開けば、tomoさんから『着いたで〜』と連絡が入っていた。慌てて腕時計を確認しても、まだ待ち合わせ時間まで十五分はあった。早い。きっちりしている子だとは思っていたけど。

『次は、梅田、梅田──』

 ハッと顔を上げる。『ごめん俺ももう着く』とだけ返事を送り、スマホをポケットに突っ込んだ。


*


「かみちゃん!」
「おぉ、予想通りの私服」
「あ、……かみちゃん、も、やな……」

 大きな駅。三番出口の下、と決めた待ち合わせ場所に着いたのは時間の十分前のこと。それでもかみちゃんはスマホを弄りながらそこに立っていた。思っていたよりずっと、派手な服装で。

「……個性的、っすね」
「ひひ、そうやろ」

 にっと歯を見せ、かみちゃんは目を細めて笑う。かわいい。大学生というのは眩しいものだ。伸びた髪をいじるふりをしながら、脳裏に浮かんだ二文字の単語を打ち消すように首を振った。

「えーと、どこ行くかとか決めてくれてる、んやんな? お金だけはちゃんと落ろしてきましたよ」
「おぉ、さすがシャカイジン。ほんならはよ行こ」

 ひらり。派手なシャツを翻してかみちゃんは歩き始めた。一瞬その背中をぼうっと眺める。だって、間違いなく今までの人生で隣を歩いたことがないタイプのひとだから。ふらっと足を動かして隣に並んだら、そんな俺をちらりと横目で見上げてかみちゃんはニンマリ笑った。あぁほら、やっぱり、かわいい。

「楽しみにしててん、人に服選ぶの好きやから。……重岡さんは?」
 細まった目を見つめて少し考える。何考えてるか知らんけど、弄ばれてんなぁ、とか。動揺が表に出にくいのは多分、職業柄だ。

「俺、は……。服とかよく分からんから、かみちゃんといつもよりいっぱい話せんの、楽しみにしてたよ」

 頭に並んだ文字列から正解を探りながらなんとかそれだけを告げたら、かみちゃんは大きな目をまんまるにして俺を見つめた。おかしな事は言っていない、はず。若造に翻弄されてばかりなのも癪だし、少しは仕返しになっただろうか。
 きゅる、きゅる、と何も言わずに目線を彷徨わせたかみちゃんが、結局それには触れず「行こか」と呟く。

「はーい。ガイド、よろしく頼んますわ」

 そう言ったら振り返ったかみちゃんが目元を紅くして笑ってくれたから、きれいだなぁ、なんて思ってしまった。まぁ、結論なんてとっくに出ていたんだ。今日はそれの検証に来ただけ。開始五分で実験は終わってしまったから、あとはもう、純粋に楽しむとしよう。

「社会人やし、値段はそこまで気にせんでもいい?」
「そらもう、アホみたいなんじゃなければ多少は大丈夫です。安月給やけど使う当てもないしな」
「そうなんや。休みの日とか何してんの?」
「えー……大体、寝てる、か部屋片付けたり、料理したり……気ぃ向いたら走りに出たり?」
「へぇ、意外と健康的やん」

 意外と? どんなイメージを持たれていたのかと首を捻りながら、迷いなく進むかみちゃんに引っ付きながら辺りを見回してみる。この辺りの所謂ショッピング街も、もう少し若い頃は来ていたような気がするが随分様子が変わっていて分からない。そもそも若い頃からずっとお洒落には疎かったのだ。
 さほど混みあっていない平日夕方のショッピング街。グレーの看板の前でかみちゃんが足を止める。

「……あ、ここ……とか、どうやろ。似合いそう」
「ここっすか」

 爽やかだな、というのが初めに感じた印象だった。(今日の服装を見る限り)ゴテゴテした派手なものが好きそうなかみちゃんからは、かなり違ったイメージの洋服がならんでいて、少し安堵する。奥から店員さんが会釈しながら出てこようとしたのをかみちゃんが同様に会釈で制して、陳列された服を品定めし始めた。

「うん。うん……似合いそう、やけど」
「なんかあかんの?」
「うーん、俺はもうちょっと、こう……重岡さんには濃い色も似合うと思うねんなぁ。一番は爽やかなんやと思うけど」
「ほぉ」

 なるほどねぇ。よく分からないがとりあえず呟いておく。わからないと言っても、かみちゃんが着ているような派手なものが似合わないことくらいは理解している。派手の反対はシンプル。つまり爽やか。こういうことでいいだろう。

「うーん、ここはあかんわ。次いこ」
「ほい」

 じっとかみちゃんに見つめられていた白いポロシャツがラックに戻される。確かに、自分でもこの店にいてピンとくるものはなかった。値段は比較的リーズナブルに感じたが、致し方なし。
 あーだこーだと「重岡さんに似合いそうな服」について語ってくれる先生の話に耳を傾けながら、普段なら絶対に入らないような小洒落た店を通り過ぎていく。所々覗いては、なんか違う、ちょっと違う、とボヤくかみちゃん。随分こだわりの強いことで、なんて笑いながウィンドウショッピングを続ける。
 自分の服を選んでいるわけでもないのにやけに楽しそうなかみちゃんはかわいいし、若いなぁ、なんて微笑ましくもあったが、いつだったか僅かな会話の中で大の甘党だと漏らしていた彼の為に必死に下調べをしておいた穴場のケーキショップからどんどん離れていっていることだけが、少し気がかりだった。


*


「うわこれ! これや! めっちゃ似合う!」
「ほんまに? おしゃれやけどちょっと……若ない?」
「いやいける全然いける。重岡さん童顔やん。普段はまぁ……あれやけど。今日はちゃんとヒゲ剃ってるし、髪型もうちょい変えたら絶対大学生くらいに見えるもん」
「えぇ……流石に上げすぎやろ」

 何件目かも分からない店で試着室のカーテンを開けた途端、かみちゃんはぱっと顔を輝かせた。今までで一番の反応。かみちゃんはプラスな感情はガンガン顔に出す子だから、きっと本当に似合ってはいるのだろう。……それにしたって学生は言い過ぎだと思うけど。

「重岡さんどんな大学生やったん」
「うーん、典型的な理系引きこもり学生……?」
「まぁそれが本分ですからね」

 これは買いだ。カーテンを閉めて着替えながらタグを確認すると、これまた意外に安かった。倹約家だと自負している為普段ならあまり使わない額ではあるが、自分の記憶では洋服はもう少し高価なもの、という印象がある。
 大人になったなぁ、なんて勝手に感慨深くなりながら荷物を持ってカーテンを開けたらかみちゃんは他の服を物色していたようだから、声はかけずにひとまず会計を済ませた。

「かみちゃーん、なんかええのあったん?」
「あ、会計終わった?」
「おう。……ピアス?」
「そうやねん。ちょっとかわいない? 重岡さんはピアス開けて……へんな」
「開ける理由がなかったんで」

 きらきら、幾つか並んだアクセサリーのなかで、かみちゃんの目は一つのピアスに釘付けになっていた。それは丁寧に色んな形で細かく作り込まれたチェーンが何センチか垂れているもので、ピアスと聞くと耳朶に埋め込むような形しか思いつかない俺にとって、少し不思議に見えた。例えば、……ラーメン食う時邪魔じゃないんかな、とか。

「かみちゃんこんなん似合いそうやん」
「そう、やな……ロングは重いし気になるからあんまり付けへんねんけど、これは好きやわ」

 へぇ、重いのか。お洒落って、本当に我慢が必要なものなんだな。

「色々あんねんなぁ」

 興味深げに弄るふりをしながら、ちょこんと付けられた小さな値札を確認する。それだけでしゃらんと美しい音を立てたそれは、さっき俺が会計をしたばかりのシャツよりも高価だった。なるほど、そういうことか。

「これ、買うたるわ。ちょっと待っとって」

 壊さないよう慎重に手に取って告げると、かみちゃんは目を真ん丸にして驚いた声を上げた。この流れで買わんことある? と思うが、どうやらこの子は本当にねだるつもりはなかったらしい。

「ちょ、いや、そんなんええって! ほんまにそんなつもりで言ったんちゃうねん!」
「気に入ったんやろ? こんなくたびれたモサい男の服選ぶの付き合ってくれてんねんから、お礼さしてや」
「でも高いし、ていうか重岡さんそんなこと、」
「かーみちゃん」
「……なに」

 不服そうな顔。童顔なのも相まって、駄々をこねる子供みたいだ。手に取ったピアスをかみちゃんの耳元に持っていってみれば、しゃらんと音を立てたそれはこの子のつるんとした肌や綺麗な金髪によく映えていた。

「似合ってるやん。あー、ほら。これ付けてるかみちゃんを俺が見たいねん。あかん?」
「……重岡さん、そんなこと言えるんやな」
「え」

 俺、そこまで恥ずかしいこと言ったか? ちゃんと聞き返したのにそれには返事をせず、かみちゃんは俺の手からピアスを奪ってレジに向かってしまった。「今付けるんでタグ外してください」なんて店員さんと話しているのが聞こえる。若い子はよう分からんなぁ、と頭をかいていたが、あかく染まった耳に気づいて思わず頬を緩めた。

「……ほら、はよ来てや。財布さん」
「さっ……! そ、そういう言い方は誤解を招くからやめてくれへん?」


*


 分かりやすく頬を緩めながらケーキを頬張るかみちゃんの耳元で、細やかなチェーンがしゃらしゃら揺れている。

「おいしい?」
「うん」

 器用なものだ。長いピアスが邪魔にならないよう首を傾けて口に運ぶ様を眺めながら、自らもレモンがふんだんに載っけられたタルトを味わう。ピアス自体付けたことがないから想像も出来ないが、俺なら既に下から三番目の飾りくらいまではクリームで汚していただろう。視線に気づいたのか、かみちゃんは目を細めて片手でしゃらんとピアスを鳴らした。かわいい。買ってあげてよかった。
 あの店を出てからも店を巡り、足元には幾つか大きな袋が並んでいる。こんなに洋服を買ったのはいつぶりだろう。そわそわと落ち着かなくて、家に帰って開けるのが楽しみな気持ちと、折角選んでもらったものをちゃんと着こなせるか不安な気持ちとがせめぎ合う。それを見透かしたように、かみちゃんがちらりと紙袋を見遣って苦笑した。

「重岡さん、買ったやつちゃんと着てや」
「ん? あぁ、おう……まぁ普段は一応スーツやしなぁ」
「休みの日とか出掛けへんの」
「……たまにジム行ったり、とか?」

 ジム! と意外そうな声が上がった。ほんの少し自慢げな表情を作りながらシャツの袖をまくり、腕の筋肉を見せてみる。身体を鍛えることは唯一と言ってもいい趣味であり、日頃の激務を乗り越える為のものでもあった。

「へー、服着ててもなんとなく鍛えてるんやろうな〜くらいには見えてたけど、思ったよりすごいなぁ。なんか運動やってたん?」
「高校までな。一応サッカー」
「あ〜、似合う」
「かみちゃんは?」
「うーん……特にない、かな」

 一瞬宙を仰いだあと、かみちゃんはへらりと笑った。誤魔化すようなその笑みに、一瞬たじろぐ。意外だ。運動が得意そうに見えるし、社交的だし、勝手に多趣味なイメージを持っていた。だけどまぁ、大人なので。明らかに聞いて欲しくなさそうなそれは受け流すことにする。
 そのままかみちゃんはケーキを頬張り始めたから、この話題は終わりかと判断してフォークを握り直した。まぁ、色々あるのだろう。

「うまい?」
「うまいです。甘いの、好きやねん」
「うん、言っとったもんな」
「……あ、言ったか俺! それで連れてきてくれたん?」
「まぁ、そうです」

 肯定すると、かみちゃんは力が抜けたように仰け反って笑った。してやったり。思わずにんまり笑うと、かみちゃんは「その顔ムカつく!」と顔を覆う。うーん、いい気分。絶対ナメられてるから、少しくらい仕返しをしてやりたかった。

「なぁんや、重岡さん今日すごいスマートやん。全然思ってたんとちゃう!」
「わはは、こんなんでも一応大人やからな。大学生の好きにはさせないっすよ」
「ずっる〜……ほんまに彼女おらんの?」
「おらんおらん。おるわけないやろ」

 サク。ケーキにフォークを突き立てながら笑う。カノジョなんて、最後にいたのはいつのことだろう。高校時代まではともかく、大学に入ってからは勉強勉強でそんな時間も余裕もなかったし、加えて、制服で隠されていた私服の地味さを存分に発揮していた当時の俺に声を掛けてくる女の子なんてほとんどいなかった。つまり、当然こうして洒落たカフェでケーキを口にする機会もないわけで、深夜の自室で良さげな店をネットで探しながら、はっとしたものだ。おいしいケーキの店を調べる日がくるなんて、と。

「かみちゃん、大学ではなに勉強してんの」
「ん? んー……いちおう学部は商学やけど…なんかいろいろ、適当」
「……そんなもんなん」
「そんなもんですよ、大学生なんて大体。重岡さん理系やろ? ならまぁ、あれかもやけど。文系は適当なやつの方が多いで」
「……ふぅん」

 淡々と話していたが、そこには少しの後ろめたさが見て取れた。真面目なんだなぁ、とは思うが、口にしない。言ってもその気持ちを強めてしまうだけだ。

「おいしい?」

 尋ねると、かみちゃんは目を細めて頷いた。いい笑顔。若い子には笑顔でいてほしいものだ。それが自分にとっての光であれば、尚のこと。


*


 おねだりを覚えたかみちゃんに負けてケーキを追加注文し、バイトの話を聞いたり、やたらと興味を持ってくれている自分の仕事の話をしたりして、店を出る頃にはすっかり暗くなっていた。揃ってそれに驚き、顔を見合わせる。まさかこんなに長居してしまうとは。

「うわぁ、真っ暗やん。かみちゃん、駅どこ?」
「地下鉄で二駅」
「え、近いな!」
「うん、下宿やねん」
「ほー、それなら安心や」

 そう言うと、かみちゃんは「子供ちゃうぞ」と目つきを鋭くさせた。分かっちゃいるが、オトナとしては訊いておかなければいけないのだ。……あまり世間体の宜しくない感情を自認しているからこそ。
 改札まで送る、と言って辿り着いた場所が自分の乗る路線と同じであることに内心冷や汗をかきながら、手を振った。爽やかに笑い返してくれたかみちゃんが降りていく階段の行き先は、俺と同じ方面のホーム。……かみちゃんの家は「地下鉄で二駅」。俺は、三駅。参った。つまり隣の駅じゃないですか。
 ぽりぽり。頭を掻き、少し時間を潰してから帰ろうと改札を離れる。取り出したスマホにはtomoさんからのメッセージが入っていた。

『tomo:楽しかった!ありがとう!ピアス大事にします』
『tomo:なぁ、まえ重岡さん○○駅って言ってなかった? なんか用事でもあったん?』

「……泳がされてるやんけ」




2.


 親友から「来週末大阪行くんだけど会えない?」と連絡が入ったのはあれから二週間後の事だった。
 二つ返事で了承し、適当な居酒屋で久しぶりの乾杯をする。それぞれの仕事の話でしばらく盛り上がって酒も進んだ頃、分かっちゃいたがあの子についての探りが入ってきた。

「……で、どうなってるの? 例の子とは」
「どうもこうも、今まで通りやで。選んでもらった服は着てるけど休みの日に会うことないから、写真だけ送ってる」
「へぇ、会おうとは言ってこないんだ。意外」
「そうかぁ? あんなん、気まぐれで付き合ってくれただけやろ」
「……あんまり自意識が薄過ぎるのも考えものだね」

 ム、と顔を上げても、友人──健人は肩を竦めてグラスを傾けた。こいつ以外許されないであろう、その美しい動作に口をへの字に曲げながら、ツマミを口に運んで誰にも言えない文句を吐く。

「あんなぁ、分かってる? 相手大学生、しかもキラキラ系やねんで? 惚れてもうてるのは事実やけど、傷つくの分かっててなんでぶつかりにいかなあかんねん。もう勢いだけで動いていい歳ちゃうねんぞ。……大体あの子、優しいし。それで申し訳なさとかマイナスな気持ち残させんの嫌やろ」
「だからそこから……ていうか何もかも違うんだって」
「は〜〜?」

 大袈裟に溜め息を吐かれた。会ったこともないくせに随分分かったような言い方をしてくれるものだ。だけど往年の友人で、普段から悩みがあれば言い合う関係でもあるのは事実だから一応黙って耳を傾ける。口に放り込んだ唐揚げはレモンが多く掛かっているやつだったのか、少し酸っぱすぎて目を顰めた。完全に面白がられているんだとばかり思っていたが、目の前で言葉を紡いでいる健人は真剣そのものだ。

「大学生大学生っていうけどさ、もう三回生でしょ? 社会に出てないだけで年齢的には立派な大人じゃん。そんな子が考え無しに、たかだか沢山あるバイト先の一つで偶然会うだけの人を休みに誘うと思う?」
「…………まぁ、そうかもしれんけど」
「でしょ? 何考えてるのかなんて本人にしか分からないけど、あんまり否定するのはその子にも失礼だよ。向こうこそ、自分がかなり歳下だからあんまりグイグイいって引かれたくないのかな〜とか思ってるように俺には見えるけどね」
「……何それ、経験談?」
「それは黙秘かな」

 そう言って口元を緩めるこいつは相変わらず美人だ。男に向けるには珍しい言葉だと分かっているけど、そうとしか言いようがないのだ。何でも知ってるし何でも知られていると思ってたのに、俺が知らないこいつの時間があの日々の中にはあったんだな。
 視線を落とし、あれ以降も変わらずバイト終わりに立ち寄ってくれる彼の笑顔を思い浮かべる。俺たちは何も変わっていない。何かが違うからこそ、あの日いつもとは違う場所でいつもとは違う格好で会ったこと、お互い分かってはいるのに。すっと目の前に差し出されたのは、二枚の紙切れだった。見覚えはよくある、だけど親近感は無いそれに、思わず顔が歪む。……おいこれ、まさか。

「これ、今週の水曜指定で買ったチケット。しげ、この日休みだって言ってたよね」
「いやいや、俺はそうやけど絶対あの子大学あるやん! ていうか俺こんなこと行かんって!」
「真面目に勉強してる風でもなかったんでしょ? なら一日くらい平気で休むよ、大学生なんて。大体、他に思いつくことあるの? 映画にでも誘うわけ? それこそ柄じゃないでしょ。寧ろこういう場所の方が、向こうは楽しみ方にもきっと慣れてるし勝手に巻き込んでくれるからお前が頭悩ませなくて済むよ。……で、ここまで言ってもお前は渋るだろうから「友達に貰った」って言い訳が通じやすいようにわざわざ平日指定で買ってあげた。どう?」
「…………」

 近所にある有名なテーマパークのワンデーチケットを二枚握らされ、俺は呆然と目の前の親友の綺麗な顔を見つめていた。なんだこいつ、今の仕事辞めて心理学者にでもなった方がいいんじゃないのか。言われてみれば、俺があの子をどこかに誘う道なんてもうこれしかない気がしてきた。で、でもこんな所。最後に行ったのなんて小学生だし、絶対ノリが違うし、そもそもあんな場所で俺なんかとあの子が釣り合うわけないし、今どんなんかも知らんし……、

「テーマパークで色々被り物とか付けてはしゃぐかみちゃん、年相応で可愛いだろうね。お前といる時はちょっと背伸びしてるだろうから」

 ……はしゃぐかみちゃんは絶対、かわいい、し……。
 もう何も口に出来ず、たぶん口もちょっと開いたまま健人と目を合わせる。優しい友人は首を傾けて微笑み、「あとは自分でがんばって」と笑った。




 酒の勢いでその場で送った誘いには、なんとたった二分で返事が送られてきた。

『行きたい!授業全部飛ばすしバイトも代わってもらう!』

 嬉しそうな文面には不穏なことしか書かれていなかったけど、この子がいいならまぁ、いいんだろう。親じゃないんだし、そんな事に口を挟む立場じゃない。家のクローゼットを眺めて彼が選んでくれた服の中からどれがテーマパークに相応しいのかをぼんやり考えながら、いつの間にか上がっていた口角に気づいて勢いよく頬を叩いた。


*



「重岡さん!」
「あ、かみちゃんおはよぉ。……今日はまた一段と派手やな」
「そらだって、遊園地ですから」

 お互い数駅しか距離のないそこには当然現地集合になって、開園の十五分ほどにした待ち合わせ時間ぴったりにかみちゃんは改札から走ってきた。
 平日なのもあり人は疎らで、テーマパークの人の多さを嫌っていた自分は「なるほど平日に来ればよかったのか」とアホな感想を抱く。横で見るからにたのしそうに歩いているかみちゃんの足取りは軽く、思わず頬が緩んだ。

「晴れてよかったなあ」
「な! あ、もう開いてるで。ほんまここ開園時間守らんよなぁ」
「え、そうなん?」
「はよ行こ! 俺まず重岡さんに被り物選びたいねん。下調べしてきたから」

 自然に手を引かれ、それに驚く間もなく走り出していた。最後にいつくぐったかも分からない派手な門を抜け、既にオープンしていたそこに飛び込んでいく。頭上を通り抜けたジェットコースターから聞こえる楽しそうな悲鳴に気を取られて空を見上げると、現実とはあまりに遠く離れた空気に何故かツンと鼻の奥が痛くなった。


*


「……かみちゃん、真面目に選ぶ気あります?」
「だっははは!!! これ、これネットで見て絶対被ってもらおうと思っててん、ごめんごめん。ちゃんと選びます。……でも一枚だけ写真撮っていい?」

「あ、ジェットコースター苦手なんや。意外やな」
「うーん……でもまぁ乗れんわけじゃないし、重岡さん久しぶりなんやったらほぼ知らんやろ? 折角やし乗ろ」
「いやええよ、そんなん楽しくないやん。かみちゃんが楽しそうなところ見たいねんから。二十年ぶりに来た人の無知がジェットコースターだけやと思ってる?」
「……ありがとう」

「うわ、こんなん出てたんや! 見てこれ、めっちゃ可愛くない? ……すご、めっちゃふかふかする!」
「ん〜? ほんまや、ちょっとかみちゃん被ってみてや」
「……どう」
「分かってて言ってるやろ。めちゃくちゃ似合ってるわ、買ったげるから今からそれ付けてて」
「へへ。じゃあ今からずっと「バナナ」で喋るわ」
「え?」

「すっご、めっちゃリアルやなこれ。食べんの可哀想やん」
「しかもそれ中イチゴのクリームやろ? てことは、……っあ⋯⋯」
「食べ物やから。食べられてこそよ」
「……かみちゃん、意外とそういうとこあるよな……」

「ふ、はは、たぶん今日来た人の中で一番このエリア似合ってへんな……」
「やばいって、俺のせいでエリアの雰囲気壊しちゃうやん。ローブ買おかな、でも映画観てへんねんなぁ」
「俺も観てへんわ。けどなんかテンション上がるから凄いなぁ。ローブって高いん? 着てる人結構おるやん」
「知らんけど多分高い。通うレベルの人じゃないと買う価値無いんちゃうかな」
「そっかぁ。…………でも俺このエリア興味あるし、ちゃんと観て回りたいから隣でずっと雰囲気壊されんの普通に嫌やな……」
「そっ、そこまで言う!? 別に買ってくれるならええけど!!?」

「…………」
「重岡さん、3Dって知ってる? 知っててこのリアクションなん? ていうかこれは昔からあるやつやん」
「……なんか俺が知ってるのと全然迫力ちゃうかってんけど!? ていうか最後、最後にスパイディが「はいチーズ」言うとったやん! あん時俺ちゃんとピースしたのに!」
「あれ信じる人おるんや……俺この写真、買っとこ」

「うわぁ、もう日暮れてきたなぁ。一日はっや」
「な。……この時間って、子供の頃からずっと寂しいねんよなぁ。重岡さんはそんな事ない? 俺まだ子供なんかな」
「……や? たしかに寂しいよ。こんなん何年振りやろ」
「そうなんや、……よかった」

「な、最後にあれ乗ろうや。大阪全部見渡せるらしいで」
「えぇ? 怖いんちゃうの」
「怖いけど全く乗れんわけちゃうから! 夜景観たいやん、ドリカム聴きたいやん!」
「うーん……じゃあ行こか。怖なったら並んでからでも言うんやで。……ていうかドリカム聴くってなに?」


*


 開園から閉園まで遊んだ純粋な疲労。頻繁に来る訳でもないくせに目に付くままに買ってしまったグッズで埋まった重い両手。キラキラと夜に輝く地球儀を眺めながら、俺とかみちゃんはゲンナリしていた。

「……はしゃぎ過ぎたな」
「おれも、そこそこ来てる方やのになんかめっちゃはしゃいでもうた……でも流石にこれの前で写真は撮ろ」
「しゃしん……写真ね、はいはい」

 慣れた手つきで腕を伸ばしたかみちゃんに距離感に戸惑いながら近づくと、キュッと寄り添ってきた。上手く撮るためだと分かっていても動揺してしまう俺に、かみちゃんがカメラ見てや、と囁く。カシャ、と鳴った画面を確認している横顔は疲れているものの満足げだ。

「よく撮れてる。これ、今度SNS載せといてもいい?」
「え? お、俺はええけど、かみちゃんこそ友達とか、いいん?」
「? もちろん。あんなんみんな自分のこと見せたいだけやから。……はー、帰ろかぁ」
「……帰りますか……」

 足取りが重い。行きはあんなに近く感じた駅までの道すら、遠く感じる。揃って最寄りは電車で数駅なんだから贅沢だと分かってはいるんだけど。
 ふと、エントランス付近から空に向けて幾筋ものライトが飛んでいることに気がついた。雲にまで届いていて、綺麗だけど不思議な演出だ。近所にこんな別世界があったなんて、知らなかったなぁ。そのまま目線を下ろそうとし、すぐ傍にそびえ立っているホテルの存在に気がついた。……そうか、テーマパークなんだから、そりゃ付属のホテルがあるに決まっている。
 重い足取りでそれをじっと見つめ、いやいや、と首を振る。かみちゃんが不思議そうに見てくるのを感じながら必死に頭を回した。俺もこの子も、駅にさえ着けばたった数駅乗るだけで最寄りに着く。でも疲れた。脚クタクタや。買いすぎて荷物重い。でも明日は仕事やのに外泊なんて、ていうか下心あんのに宿泊誘うのあかんなろ普通に……。

「重岡さん? なんか忘れ物でもした?」

 隣を見ると、未だに可愛い被り物をつけたままのかみちゃんが少し疲れた表情で、だけどそれを出さずに俺を見ている。勝手に動いた口に、俺は誰にともなく言い訳をしていた。今まで全然遊びもせず貯金ばっかりして働いてきたんやし。この子、立派な成人やし。

「……なぁかみちゃん。疲れたし、荷物多いし、そこ泊まらん?」


*


 平日なのもあって日帰りの人が多かったのだろう、突然飛び込んでも部屋は普通に空いていた。
 荷物を置き、ソファに腰掛けると揃って重い息が漏れた。本当に、いい歳してよく遊んだものだ。フカフカのベッドに飛び込みたい衝動に駆られるが、夏も終わりが近いとはいえ一日遊んだあとの身体では気が引ける。かみちゃんも同じことを考えていたようで、ソファに倒れ込んだまま「今すぐ風呂入ろかな……」とボヤいた。いつも元気いっぱいにこにこしてるいるこの子の珍しくぐったりした姿に、不穏な感情が働くのを感じる。いやいや、落ち着け。大人やろ。

「先浴びてきていいよ、俺明日午前休取れんか連絡しとくわ」
「え、今日も休みやったのにそんなん出来んの?」
「特殊な仕事やからなぁ。今うちのチーム暇なんよ、だから休みなんて取らされたんやし」
「へ〜。じゃ、お言葉に甘えて……浴衣とかあるやんな、どこやろ……あ、なんやパジャマやん。でもなんかこれ、旅って感じでテンション上がらん?」
「ほんまやなぁ。……ごめんな、ちょっと電話するで」

 チーム長である先輩に電話を掛けると、途端にかみちゃんは目を見開いて忍び足でバスルームに向かっていった。そんな事しなくなって絶対聞こえないのに、かわいいなぁ。
 訝しがられたものの無事確保できた午前休に安堵し、たった一日遊んだだけとは思えないサイズの買い物袋を眺める。まぁきっとあの子は俺よりかは遊びに来るだろうし、無駄にはならないはず。大きな窓へ目をやると、偶然パーク内が見える部屋が空いていたお陰で眺めは最高だった。もう閉園しているのに、その園内はきらきらと輝いている。
 迷うことなくパジャマを持って行った後ろ姿を思い出し、「荷物置いたらご飯食べに一旦出よか」と言っていた予定は無かったことにしてルームサービスでも取ろう、と笑った。


 後から風呂を出ると、ちゃんと髪まで乾かして完璧なお泊まり姿になったかみちゃんがベッドの上でグッズを広げていた。ほとんど俺が買い与えたそれを順に眺めながら、「やっぱり買ってもらいすぎたなぁ」と渋い顔をしている。相変わらず、真面目な子だ。風呂に入っている間に届いていたらしいルームサービスの食事を待っていてくれたところも。

「……なぁ、やっぱり宿泊費半分出さしてや。こんな買ってもらっちゃったんやし」
「あんなぁ……かみちゃん、先月バイト代いくらやった?」
「……九? くらいやったかな」
「やろ? ほんで、俺は言うてもそれなりに貰ってるし特に趣味もない社会人。それで折半なんかして、ほんまに平等やと思う? 俺の立場が無いわ」
「…………そっか。じゃあ、ありがとうございます」
「いーえ、俺が誘ったんやしやりたくてやってんねんから、気にすることちゃうよ。それより飯食お」

 タオルで頭をガシガシ拭きながら綺麗に乾かされた金髪を撫でてやると、かみちゃんは不服そうなまま頷いた。きっと子供扱いされてるとでも思っているんだろう。本当に子供だと思えていたら、今俺の心臓はこんなに音を立ててなんかいないだろうに。

 パークを眺めて一日を振り返りながら楽しい食事を終えたら、疲れもあって変な空気になんて一切なることなく揃ってベッドに飛び込んでいた。後でちょっとお酒でも飲もうか、なんて話していたけど、思っていた以上に疲れていたらしい。昼からだという明日の授業に面倒くさそうな顔をしているのに苦笑しながら、部屋の電気を落とす。
 そうして俺の夢みたいな一日は終わりを告げた。目を閉じて意識が薄れていく瞬間まで、これがつい一年前まで毎日髭を剃りもせず職場と家の往復だけを繰り返していた自分の人生だなんて信じられなかった。


*


「おーい、もうそろそろやばいで〜」
「待って待って、忘れもんないかな……よし、オッケー! いこ!」

 チェックアウト時間ギリギリにホテルを出ると、昨日と同じ晴れ空が広がっていた。今から遊びに行くらしい人たちをなんとなく羨ましく感じながら、波に逆らうように駅へ向かう。やってきた電車はそれなりに混んでいて座ることは出来なかったけど、一泊したおかげで俺もかみちゃんも元気なもんだ。

「はー、昨日と同じとは思えんくらい身体も荷物も軽い。ほんまありがとうございました」
「いえいえ。荷物多かったし、やっぱ泊まってよかったわ。折角楽しかったのに疲れて帰んの嫌やもんな」
「うん。でもすごい贅沢やんなぁ、この距離で泊まるなん、て……」
「かみちゃん?」

 揺られていた電車が速度を落とす。駅のホームに目を止めていたかみちゃんの視線を辿ると、ちょうど開いた扉から彼と歳の近そうな男が乗り込んできた。ぱ、と向こうもこっちを見てきた瞬間、あぁこの子の知り合いだ、と察してしまう。だって、……とても綺麗だったから。

「あれ、かみちゃんやん!」
「の、のんちゃん……。大学今から?」
「そうやねん、俺二限からやから……隣の、言ってた人?」
「あっ、う、うん。そう」

 ちらと俺へ目を移した目の前の友人相手に、かみちゃんはやけに焦っていた。俺は俺で、ホーム画面に映っていた彼とはまた違うタイプの男前を前に顔が固まっているのが分かる。この子、周りに綺麗な男しかいないのか? ていうかほんまもんの陽キャだ。本当に何で俺なんかと居てくれているのか、わけが分からない。背中を滝のようにビシャビシャと冷や汗が流れていく。

「どうも、こたきです。かみちゃんがお世話になってます」
「あぇ、は、はい。丁寧にどうも……」
「何なんその親みたいな言い方」
「いやぁ、だって結構歳上なんやろ? ていうか何その大荷物。昨日急に全飛びしたと思ったら遊びに行っとったん?」
「あ、うん。か、買ってもらっちゃって……」
「……で、泊まり?」
「……うん」
「なんかパパ活みたいやな」

 はは、と悪気は無さそうに彼が笑う。だけど、口にしないだけで俺もこの子も内心思っていたそれを面と向かって言われ、空気が凍るのを感じた。彼もすぐそれに気づいたようで、焦ったように「じょ、冗談やで? 友達って聞いてますし」と弁明してくれている。そうか、かみちゃん、俺の事なんて話してくれていたんだ。しかも、友達だなんて。
 ふ、と自嘲ぎみな笑みが漏れる。浮かれていた心が、急速に過去の自分に乗っ取られていく。

「まぁ、似たようなもんやしそんな謝らんでいいよ」
「……は?」
「だからさ、俺なんかにかみちゃんみたいなキラキラした子の時間使わせんの、ずっと申し訳ないと思っとってん。そらそう見えるよな、俺自身も何でか分からんし。色んなもん買ってあげたくなるのも、無意識にそういう気持ちが出とったんかもしれんわ」
「ちょっ、ちょっと待ってくださいよ! ほんまに俺が口滑らせただけで、かみちゃんはそんな事……」
「うん、知ってるで。かみちゃんはそんな子じゃないよな。俺がこういう奴なだけやねん。……じゃあ俺、駅次やから」

 急に重くなったように感じる荷物を持ち直すと、目の前に俺よりもっと大きな袋が勢いよく差し出された。ゆっくり視線を上げると、かみちゃんが大きな目を鋭くさせてギッと俺を睨みつけている。

「そんな事言うんやったら、もう二度と重岡さんには何も買ってもらわんわ。これも折角買ってくれたけど、……俺はほんまに嬉しかったけど、そんなこと思ってたんやったら要らん」
「……あ、そ」

 電車が止まる。目を逸らして彼の手から大きな袋を受け取り、そのまま黙ってホームへ降りた。無心で足を進めて背後で電車の動き出す音を聞きながら、汚い床を眺める。一日中ずっとずっと楽しかった夢みたいな記憶も、閉園後まで綺麗なパークを観ながら食べた飯も、眠たげに目を擦って「おはよぉ」とわらった猫みたいな彼の笑顔も、全てが虚しく思えた。
 あんな顔、初めて見た。俺はどうして、何を、言ってしまったんだろう。ついこの前の健人の言葉全てが頭を過る。……彼に、失礼。そりゃそうだ。あの子がどうして俺なんかとこれだけ時間を共にしてくれているのか分からないけど、きっと軽い気持ちでこんな特殊な人付き合いをする子じゃない。俺の言葉は、彼への侮辱に他ならない。
 ⋯⋯だけど、だけど俺の気持ちだって。誰か一人くらい分かってくれないだろうか。
 あんなにも輝いていて、人生で一度だって関わったことの無いような存在の大学生が、地味で何の取り柄もない自分に時間を割いてくれることの恐ろしさ。どうしたって何かを勘繰ってしまう、自信の無さ。並んで立っている俺たちを見て彼の友人がどう思ったかを想像するだけで、どれほど居心地が悪く感じたのか。
 かみちゃんも、その友人達も、健人にだって。綺麗でお洒落で自分に自信のある人間になんて、分かるわけが無い。俺のような人間にとって、自分に自信を持つことがどれほど難しくて辛いことなのか。彼らのような人が、どれだけ別世界の人間に見えているのか。……だけどそれは、五つも六つも歳下のあの子を、誰かを傷付けていい理由にならない。知っている。そんな事、全部全部分かってる!
 頭を抱えて蹲りたくなるのを抑えながら、ただ無表情で重い両手を引きずりながら人気のない駅を歩いていた。


*


 なんとか午後からの仕事を終えて帰宅すると、適当に置いていったテーマパークの大袋が幾つも目に入った。無感情に一日を終えた瞳にじわりと涙が浮かびかけ、ゆっくり目を閉じて押し戻す。目に入れないように部屋の隅に押しやり、買って帰った惣菜を手早く食べ終えてシャワーを浴びた。そうしたらあっさりやる事もなくなってしまって、向き合わざるを得なくなったそれをぼんやり眺める。幾つもの細いナイフで突き刺されたように痛みが、心臓を。
 プルル、と遠くから着信音が聞こえてふと意識が戻った時には、帰宅してから数時間が経っていた。のそりと立ち上がって取りにいったそれの画面に浮かんでいる名前は、親友のものだ。きっと、完璧なまでにお膳立てしてくれた『デート』がどうなったのか気になっているんだろう。しばらく眺めていると切れた着信音の後に確認すれば、先にメッセージも何件か届いていた。それすら目を通す気力が湧かず、スマホをそのままぽとりと落とす。
 合わせる顔も、声も、返す言葉も、あるわけがなかった。




3.


「……すみません、荷物の受取についてなんですけど」

 翌朝、事務室の人と話をして宅配は一年前のように事務の担当に戻してもらった。大人げない。そんなことは分かっている。だけど疲れていた。一年以上柄にもなくはしゃいでいた分、反動が全て押し寄せてきたかのように疲れ果てていた。
 それから数日経った頃、あの子から何かメッセージが届いていた。気づいてはいたけど、中身は見なかった。見ようとも思わなかった。日を追う事にぽつりぽつりと増えていくそれも、掛かってくるようになった電話も、ただただ怖くて、苦しい。それから更に数週間ほど経ったある晩、わざと画面に焦点を合わせないようにして視界をぼやけさせながら俺は彼の連絡先をブロックした。
 自己嫌悪と、はしゃいでいたこのたった一年間の自分への羞恥で折れかけた心を守るためには、そうするしかなかった。

「…………どうしちゃったの、お前」

 金曜の夜、突然鳴ったインターホンに相手も確認せずドアを開ければこの前会ったばかりの親友が立っていた。酷い顔をしている自覚はあったから、何も言えず俯く。話なんてしたくなかったけど、ここまで俺を想ってくれてわざわざ東京からこんなアパートまで来てくれたこいつを追い返せるわけがない。
 黙ってドアを開けたまま、中に入れた。飯はまだ済ませていないけど、二人分何かを用意出来るほど冷蔵庫の中身はない。出前でもとるか、と考えていると勝手に冷蔵庫を開けたあいつは分かりやすく溜め息を吐いてそのまま俺を見上げた。

「だと思った。駅弁と適当なツマミと酒、買ってきてやったからその分くらいは話聞かせてくれる?」


*


「…………なるほどね」
「……」
「まぁ、その友達に会っちゃったのがツイてなかった、っていうのが一番かなぁ」
「……怒ら、へんの」
「怒るわけないじゃん。そりゃ言いたいことはあるけど、こんなボロボロになってるお前をこれ以上追い詰めて何になるわけ。俺はその子とどうこう以前に、何よりお前自身が大事なんだから」

 そう微笑み、健人は缶ビールを傾けた。お互い強いわけでも弱いわけでもないから普段から酒は適度にしか呑まないが、今日のこいつはよく呑んでいるように感じた。口に出さないこいつの色んな思い遣りや優しさを考えれば、背中を押した責任なんかも考えてしまっているのかもしれない。……俺たち、お互いの事好きやなぁ。ぼんやり考えながら、中身の空いた缶を持って立ち上がる。
 いつもより呑んでいるのに回らないアルコールが、くるくると思考を回す。普段の自分なら飲み終わるのに一ヶ月は掛かりそうな本数を買ってきたことに口元だけで笑いながらまた一本取り出し、ぽつりと呟いた。

「ごめんな。ずっと連絡くれてたの無視してたのも、折角お前が作ってくれた……チャンス? ドブに放り捨てたのも。やっぱり、俺なんかには無理やったわ」

 開けたままの冷蔵庫からピーッと何度も音が鳴る。いつの間にか隣にしゃがみこんでいた健人がそれを閉め、優しく俺の肩を叩いた。

「まぁ、あの子について考えるのは一旦やめてさ、謝ることじゃないよ。俺はただ、お前が思うほどお前はみっともなくなんてない事を知って欲しかっただけなんだけど、むしろ自信を奪うことになっちゃったね。俺の方こそ、お前のことよく知ってるんだからもっと慎重になるべきだった。傷付けて、ごめん」
「……っなんで健人が謝んねん……っ」

 ぼたぼたと、あの日から初めて涙が零れ落ちた。情けなくて、申し訳なくて、恥ずかしくて、居なくなってしまいたい。こいつは、どうしてこんな俺に優しくしてくれるんだろう。

「……ほら、こんな所座り込んでたら冷えるよ。戻ろ」

 促されるまま廊下から部屋に戻り、薄いマットに腰掛ける。ふと思い立って少ない収納に向かい、もうずっと開けていない一番端のクローゼットを開いた。ボスボスと勢いよく落ちてきた袋の山に背後で息を呑む音がして、涙を呑みながら、ゆっくり振り返る。

「……これ全部、要らんって言わせちゃったやつ。思ってた何倍もあるやろ? ほんま、はしゃいどってん。楽しかったんよ、お前のおかげでさ……ほんまに、俺の人生とは思えんくらい楽しくて……」
「……しげ」
「見んくても、ここにあるって思い出すだけで苦しくなんのに捨てられへん。捨てられる気もせえへん。なぁ、お前、俺とあんなとこ遊びに行ってくれる? 他の誰かと使えば、少しは忘れられんのかな」

 ぽた、と耐えきれなかった涙がまた落ちた。健人が、悲しそうに顔を歪める。

「……お前がそれで少しでも楽になるなら、いくらでも。毎週でも、こっち会いに来てあげるよ。年間のやつ買わなきゃね」

 色んなものを飲み込みながらそう笑った親友に、グッと奥歯を噛み締めて俯いた。自分がどれだけ酷な事を頼んでいるのか、分かっている。それでも、本気でこんな事を言ってくれているんだ。

「ねぇしげ、俺、お前が思ってる以上にお前のこと好きなんだよ。本当は大学で東京に戻るつもりだったのをこっちにしたのだって、お前と大学生活を過ごしたかったからなんだよ。そんな相手が間接的とはいえ俺のせいでそんな傷ついて、言われなくてもわかるくらい自分のこと見失ってるのに、放っておけるわけないじゃん。……だからそんな顔しないで」
「…………あり、がとう」
「……うん。お前のこと今すぐ助けてあげられるのはきっと俺じゃないけど、せめて元のお前に戻れるように、幾らでも一緒に居てやるから。だからもう少しでいいから自分のこと愛してやってよ。少なくともここに一人、お前のこと何より大切に思ってる友達がいるんだから」
「……おまえ、変わってんな……」
「そう? 俺は人生で一番の出会いだったと思ってるけどね」

 綺麗な声で笑い、健人は俺をベッドに座らせて淡々と袋を整理し始めた。出来るだけそれを見ないようにしながら、そっと目を瞑る。考えるのは、もうこの数週間で同じことを何周も何周も繰り返した。今日くらい、この優しい男に甘えて頭を空っぽにしてもいいだろうか。ゆっくりと瞼を上げ、息を吐く。

「……ていうか、俺がこんだけ全部さらけ出してんから、お前も高校ん時の古文の先生とやらの話しろや。酒はまだまだあんねんぞ」

 ちょうどクローゼットを閉めたところだった肩がびくりと跳ねる。忘れてへんぞ、と笑えば、健人は安堵と「どうしよう」が入り混じったような表情で視線を逸らした。それに笑いながら、少し汗をかきはじめていた缶ビールをカシュ、と開ける。久しぶりに、ちゃんと笑えた気がした。


*


 当然のように俺の狭い部屋に泊まったあいつは翌朝「じゃあ早速行く?」と笑いかけてきたが、それには頷かなかった。流石にまだ日が経っていなさ過ぎてキツいだろうし、今の自分が土曜日のテーマパークの人混みに耐えられるとは思えない。悩んだ末に服を選んで欲しい、と頼むと、不思議そうに目を見開いたもののすぐに頷いてくれた。


「うわ、梅田久しぶり。でもこっちはちょっと若者向けっぽくない?」
「そうやなぁ、ちょっと歩くけど反対の方行くか」

 そうして繰り出した同じ街で、彼と来た時とはかけ離れたビルに入った。年相応の服を年相応に選び、簡単な気回し方なんかも教えてもらう。見たいものがある、と連れていかれた百貨店では、俺でも聞いたことのある有名ブランドのコーナーに立ち寄らされた。流石に居心地が悪い。

「ここ、香水が好きなんだよね。しげ、何個か試させてもらいな?」
「えー……」

 流石にこんな所のは、いくら貯金が趣味みたいな生活をしていたとはいえ先日紐を緩めまくった財布には厳しい。だけどそれを伝えたくて目が会った瞬間、分かった。こいつ、買ってくれようとしている。何か言おうとしたけど、その瞬間カウンターから「お試しされますか?」と声を掛けられてしまって俺は白旗を上げた。


*


 流石に今日はホテルを取った、という健人と別れ、地下鉄のホームに向かう。今月は大赤字だ。両手を塞いだ荷物の中にはあいつが送ってくれた二本の香水も含まれていて、それぞれ有名なブランドの、かつての俺なら絶対渋い顔をして断っていたであろうものだった。だけど今はなんとなく、家に帰って包みまで煌めいていたそれを開けるのが楽しみに感じる。ホームの壁の小さな鏡に映った自分を眺め、髪でも切ろうかな、と前髪に触れた。
 今日あいつに服を選んでもらったのも、貯金が趣味の自分が大赤字を許容してまで沢山服を買い込んだのも、すべて「少しは自分を愛してやれ」と言ったあいつの為だった。見た目が全てだなんて思わないが、俺が無意識に自分を低く見てしまうことにはきっと、それが大きく含まれている。

 今まで興味を持たなかったのは自分のくせに、綺麗に着飾った人へ劣等感を感じたり、自分自身を見下すことをもう何年も当然のように思っていた。そしてそれは、時には自分を大切に思ってくれる相手にも失礼になることなんだ。

 やってきた電車に乗りこみ、いつも通り座ることは出来ない車内の端に突っ立った。今日の礼くらい連絡しておかないと、とポケットをまさぐっていると、動き出した電車の窓から階段を駆け下りてくる見慣れた姿が見える。思わず、目が釘付けになった。向こうは俺に気が付かなかったようで、間に合わなかった電車を残念そうに見送っている。
 すぐ速度を上げた電車はバッと地下のトンネルに入り、彼の姿の代わりに呆然とした顔の自分が映った。ゆっくりと視線を下ろし、スマホを開く。……何を、しようとしてたんだっけ。あぁそうだ。健人に今日の礼がしたかったんだ。トークルームを開いたものの、全く集中できなくてすぐに閉じた。本当に世話になっているんだから、あとでちゃんと落ち着いてからにしよう。
 ポケットにしまい直してもう一度顔を上げると、真っ暗な窓に映った自分は、初めてかみちゃんと出掛けたあの日に比べて随分マシな姿をしていた。……こんなに、簡単なことだったんだな。

「……引っ越すか」

 ぽつり、呟いた。轟々と音を立てている地下鉄の車内ではどうせ誰にも聞こえない。
 ただ安いし中心地に近いという理由だけで選んだ狭いアパートだったが、この大きな街では似たような物件なんて幾らでもある。今は車で通勤しているが、今度は運動がてら徒歩やチャリで通えるところを選んでみてもいいかもしれない。とにかく、あの子と鉢合わせる可能性のある場所には住んでいたくなかった。
 合わせる顔が無いし、それはきっと俺にも、辛い。格好悪いのもケジメがつかないのも分かっていたが、俺はそっとスマホを取り出して物件探しのページを開いた。大人って、狡い。その言葉の意味を、初めてちゃんと実感したような気がした。




4.


「お前、引越しでもしたん?」
「……なんで分かったん」
「敬語使えや。今まで車で来とった奴が急にチャリになったら、そらそう思うやろ」


 数ヶ月後。社食の窓から見える木々が風が吹くたび葉を減らしていくのを眺めていると、隣に腰かけたチーム長が珍しく探りのようなものを入れてきた。俺が黙ってコンビニ弁当に視線を戻すと溜め息を吐かれたが、だって、たかが引越しだ。話す事なんて何も無い。

「まぁ、プライベートに口突っ込む気はないけど、なんか俺に出来ることあったら言えよ」
「…………ないなぁ」
「ちゃんと考えた上で無いんかよ」

 ふは、と気の抜けたようにチーム長は笑った。この人に頼れるものなんて金銭関係くらいしか思いつかないが、生憎とカネで解決できる問題ではなかった。不思議なものだ。世の中にはそっちの方がよっぽど多いだろうに。
 ちらと時計に目をやる。彼が来るのは、いつも夕方前だった。今日は来るのだろうか。昨日は来ていたのだろうか。気にしないように引っ越したはずなのに、俺は結局いつだってあの派手な姿を、柔らかな笑顔を、探している。すん、と横で鼻を鳴らす音がした。

「お前、香水なんかしてんの?」
「あ、うん。キツい?」
「いや? なんとなく気づいただけ。ええやん。お前っぽい匂いやし、多分ちゃんとした所のやつやろ。違う?」
「うわぁ、流石金持ち。友達がプレゼントにって選んでくれてん。最近俺死んどったから」
「死んどったなぁ。へぇ、ええ友達持ってるんやん。安心したわ」

 え? と顔を上げる前に上司は席を立っていた。そういえばいつも昼は外で済ませているあの人がここに居るなんて珍しいし、何も食べていなかった。まさか、職場の人間にまで心配を掛けていたのか。俯き、頬をかく。「ええやん」の一言で済まされた、俺になんて勿体ないと思っていた香り。「なんか最近スッとしましたね」と軽い言葉で褒めてくれた後輩の女の子。
 大きく、高く見えていたハードルは、越えてさえしまえば案外簡単なもので、周りや社会からすればなんて事ない些細な変化だった。

「……あ、お前元気なんやったら今日残って今やってる検査のチェックとレポート書いて帰って。お前が死んでる間他のメンバーで回しとってんぞ」
「……わかった。すんません」
「謝んのは代わってくれた奴らな。ま、そのためのチームなんやから気にすんな」

 入社から五年。初めてかっこよく見えた背中を眺めながら、弁当の最後のおかずを口に突っ込む。
 戻り始めた日常と、だけど元通りでは無い自分を見下ろしながら、ゆっくりと一つ瞬きをした。ひとつ空いた席で自作らしい弁当を摘んでいた件の後輩の女の子が、ぽつりとつぶやく。

「ちなみに今日、私も担当なんで宜しくお願いします。三日連続ですよ」
「…………今度何か奢るわ」
「ほんとですか? やったぁ。ていうか最近ほんまに重岡さんシュッとしましたよね。香水って、どこのですか? 聞こえちゃったんですけど。私香水好きなんですよね」

 これ幸いとばかりに話し掛けてきた数少ない女性職員のお喋りに苦笑して付き合ってあげながら、弁当の蓋を閉じた。


*


「……終わり?」
「終わりですね。はー、疲れた」
「じゃあさっさと帰るかぁ」

 伸びをして席を立つころには、時計の針は十時を回ったところだった。こんな残業、そういえば久しぶりだ。本当に気を使わせてしまっていたんだな。仕事だというのに、申し訳が立たない。これからしばらくは積極的に担当を申し出た方がよさそうだ。

「電車やんな? 駅まで送るわ」
「あ、すみません、ありがとうございます。でも最近重岡さんチャリで来てますよね? 遠回りさせちゃいません?」
「そうやけど、もうこの時間なら今更やろ」

 笑って研究室の電気を消す。幾つかチェックをして警備室に鍵の返却と挨拶をし、二人並んで裏口から真っ暗な外へ出た。ちょっと待っとってな、と言い残して駐輪場からチャリを回収して戻り、駅への道を歩き始める。残業に文句を言いながらも結局今進めている治験についての話になっていた辺りで、彼女がふと足を止めた。正面玄関の方を向いているその視線の先を追い、息が止まる。
 十九時には施錠されて灯りも消される正面玄関の脇で、見慣れた小さな青年が座り込んでいた。一気に冬の気配が濃くなった夜の空の下、膝に顔を埋めているその子がこちらに気づく様子はない。

「あ、あの子、よく来てる宅配の子じゃ……」
「かみ、ちゃ……かみちゃん!!」

 叫んだ声は、静かな道路でよく響いた。パッと顔を上げた彼が俺の顔を見て口を開いたあと、隣の存在に気づいて表情を凍らせる。彼女だってほとんど毎日来ている配達員の顔くらい知っていたのだろう。チャリを引き連れている俺よりよっぽど早く、寒空の下座り込んだ青年に駆け寄った。

「な、何してんの!? きみ、配達来てる子やんな!? ちょ、し、重岡さんなんか暖かいものとか持ってません!?」
「え、あ、や、……な、ない」
「どうしよう、えっと、私そこのコンビニで何か買ってきます! 重岡さんは見といたげてください!」

 荷物から財布だけ取りだし、鞄を放り出して彼女は走って行った。その瞬間まで何も言えず呆然としていた俺は、その時になってかみちゃんが全身を震わせていたことに気がついた。……何を、してるんだ。彼女はすぐ気がついていたのに。

「……しげおかさん、久しぶりやな。……やっと会えた……」
「…………あ、の。だ、大丈夫? とりあえずこれ、着て」
「ありがとう。……なんか、雰囲気変わったな。これもいい匂いするし。……さっきの人、彼女?」
「え、いや、ただのこうは……」
「はぁっ、か、買ってきました! きみ、えっと、なにくん? ココアとカフェオレとコンポタとぜんざいあるけど、どれがいい?」
「……ふは、自販機みたい。ココアがいいです。ありがとうございます」

 走って戻ってきてくれた後輩が、重そうな袋から大量のホットドリンクを取り出した。それにかみちゃんは柔く微笑んでいて、俺は否定するタイミングを失ってしまった誤解をどうすればいいのか、必死で避けていたのにこんな所できっと何時間も俺を待っていてくれたこの子をどうするべきか、パニックになっている。
 そうしている間にも後輩は残りの缶をハンカチに包んでかみちゃんの頬に当てたり自分のマフラーを巻かせたりと、必死で世話を焼いていた。

「めっちゃ冷えてもうてるやん、大丈夫? ここで待ってたってことは荷物のことでなんかあったん? それなら明日で大丈夫やから、タクシー呼んだげるから今すぐ……」
「いや、そうじゃなくて…………でも、もういい……です。これとか色々、ありがとうございます。ご迷惑おかけしました」
「え、ま、待って、こんな時間やしほんまにタクシー……」
「かみちゃん」

 呼び止めると、俺のコートを背にかけたままかみちゃんはゆっくり足を止めた。だけどその表情は見えなくて、後輩は全く状況が飲み込めていない目で俺とあの子をキョロキョロ交互に見ている。

「……ごめん、この子が待っとったの俺やねん。送ってあげられへんから、これ使って。駅の駐輪場停めといてくれたらいいから」
「え、…………わ、わかりました。……もしかして私、余計なことしました?」
「まさか。ほんまに気にせんとって」
「……じゃあお任せしますね?」

 最後まで心配そうにかみちゃんを見ながら、彼女は俺の自転車に跨って駅の方へ消えた。黙ってそれを見送り、突っ立っていたかみちゃんの腕を引く。その身体はココアなんかじゃ誤魔化せないほど芯まで冷えきっていて、唇を噛み締めた。

「引っ越してん。家、ここから十分くらいなんやけど、歩ける? 歩けないなら、背負って走るけど」
「……ふは、なにそれ……そんなん出来んの?」
「出来るよ。ほら、乗って。ほんまに冷えたんやろ」
「…………」

 しゃがみ込んだ背に、そっと遠慮がちな身体が乗ってきた。まだ悩んでいそうなそれを無理やり背負い込み、立ち上がる。慌ててしがみついてきた身体は当然成人した男のそれなりの重さだったけど、今この時のために俺はジムに通ってたのかなぁ、なんて笑いながら足を踏み出した。

「なぁ、重ない? 大丈夫?」
「重いけど、言うたやろ。鍛えてんねん。かみちゃんの為に今まで鍛えとったんかも。なぁ、さっきの、ほんまにただのクソ優しい後輩。どうでもいいかもしれんけど、ほんまに」

 家に向かって重い足取りで走りながら、呼吸の合間に呟く。泣きそうで、何もかも全部謝りたくて、だけどそれは今していいことじゃない。背中に乗った冷たい体温が、消えそうなほど小さな声で「そっか」と囁いた。


*


 帰って直ぐに湯を張った風呂から出てきたかみちゃんは、ようやく身体が温まったようで頬を赤くしていた。それに心底安堵しながら、冬用のベストを取り出して羽織らせる。

「ふは、大袈裟やなぁ……ありがとう。重岡さんは入らんの?」
「あー、うん……入っても勝手に出て行かん?」
「…………居なくなったの、自分のくせに」
「……そう、やんな。ごめん」
「冗談やって。ちゃんと待ってるから、入ってきて」
「……うん」

 引っ越した部屋は、中心部からは離れた結果ほとんど同じ家賃で前より一間以上増えていた。健人と選んだソファに彼を腰掛けさせ、買い置きしてある冷凍食品をレンジに入れる。

「腹減ってるやろ? ごめんな、こんなんしか出してあげられへんけど、食べて待っとって」
「うん、ありがとう」

 そう言って笑うかみちゃんは前と同じように見えるが、やっぱり、違う。おれも、あの子も、どこかぎこちなくて、空気が重い。着替えを引っ掴んで風呂場のドアを閉めながら、漏れそうになった溜め息を呑んだ。


*


「あ、おかえり。これ、ごちそうさまでした」
「……ん」

 風呂を出ると、ソファでスマホを弄っていたかみちゃんがぱっと顔を上げた。僅かな緊張を混じえたその表情に思わず目を逸らし、飲み物でも入れよう、とポットの電源を入れる。
 時刻は日付を回るギリギリになっていた。いくら男で成人しているとはいえ、大学生だ。もう泊まらせるしか選択肢はないだろう。少しでも広い部屋に引っ越しておいてよかった。場違いな事を考えて気を逸らしながら、マグカップに二人分の粉末茶を入れる。黙って隣に腰掛けて差し出すと、かみちゃんは小さく「ありがとう」と囁いた。沈黙が、深夜のリビングを支配する。だけど、この子に先に何かを言わせてはいけないことだけは、分かっていた。

「……ごめんな。俺がしたこと、全部。失礼なこと言って傷つけたのも、謝りもせず逃げ出したのも、向き合おうとしなかったことも」
「……うん」
「かみちゃんがあんな事思ってないの、ほんまに分かってたよ。俺が昔からずっと元々、そういう風に考えてしまう奴やってん。……最近は、何とかしようと思ってるけど。いい匂いするって言ってたやろ? それもまぁ、そういう努力の一つってだけ。よく分からんやろうけど」
「……そう、やったんや。よかった」

 ず、と茶を啜り、一度瞬きする。……よかったって、何だ? だけど聞き返すことはしなかった。この子とどう距離感を取るべきなのか、もう完全に分からない。黙りこくっていると、隣ですぅっと深く息を吸う音がした。

「俺こそ、あんな職場の真ん前で待ったりしてごめんなさい。絶対、迷惑やったよな。噂になったりするかもやし」
「いや、それは別に」
「……でも俺、初めからそうなればいいと思ってた。だからあんな所で、帰る人皆んな俺の事見てたり話しかけてきたりするのを濁して、重岡さんが出てくんの待っとってん。そしたら女の人と出てきたから、びっくりしたけど」
「……は?」

 意味を咀嚼して反応が送れた瞬間、トン、と音を立ててかみちゃんがカップをテーブルに置いた。放心してそれを見つめている俺の肩を、誰かが掴んでぐっと自分の方を向かせた。誰って、決まってる。かみちゃんだ。
 彼は、いつもにこにこしていたこの子は、まるであの日のように真っ直ぐな目で俺を見つめていた。その視線の強さに思わずあの瞬間がよみがえって、心臓がどくりと音を立てて揺れる。

「俺、これ以上は謝らんよ。あの日のことは全部お互い様やから」
「え? う、うん」
「あれからずっと考えとった。……自分の気持ちしか考えてなかったんちゃうかとか、ほんまは迷惑なんちゃうかとか。でも、結局全部違うって思ってん。だって、俺と会う時いつも重岡さん楽しそうやったし、初めて会った時はくたびれたオッサンみたいやったのがどんどん明るくなって、俺には分からん色んな話してくれるようになって、歯見せて笑ってくれるようになって……。そのたびに、俺の影響って自惚れてもいいんかなって、大学でも、バイトでもずっと考えて、ずっとずっと重岡さんのことしか頭になくて、興味もない授業聞いて何個もバイト掛け持ちしてた色のない日々に楽しみが出来て……、なぁ、もう分かるやろ?」
「かみ、ちゃ……」
「なんとなく見つけた似合いそうな服をプレゼントするのにどんな理由を付ければいいのか、あほみたいに一生懸命考えてさぁ。あぁこれが恋なんやって、初めて、思ってん……っ」
「⋯⋯⋯⋯!」

 涙を堪えるみたいにぐっと顔を顰めながら、それでもかみちゃんは一瞬たりとも目を逸らさなかった。俺は自分の気持ちからも罪からも何度も逃げて、弱さを理由に開き直り続けてきたのに。

「なぁ、重岡さん。俺、俺あなたのこと、好きです。たぶん重岡さんが思ってる何倍も頭悪いし子供やし、中途半端に友達にも話してたせいで傷つけたけど、それでもやっぱり、このまま距離を置こうなんて諦められへんかった。だって、俺が重岡さんのこと愛したい。俺が、俺だけが照らしたいねん。重岡さんに出会って、日々の全部が輝いたから!」
「ちょ、か、かみちゃん! 待って!」
「待たへん! なぁ、逃げんとって、誤魔化さんとって! 元々そういう奴とか何とか言っとったけど、つまり自信ないんやろ? 俺、好きやから! 何言われようがどんだけ重岡さんが自分のこと好きじゃなかろうが、俺は重岡さんのこと好きやから! 俺が好きなら、俺の好きな人のこと信じて!」
「す、好!? や、あの、」
「好きなんやろ? 俺の事。だからほんまは受付でいい荷物をわざわざ取りに来て、俺に似合いそうなものいっぱい、買いたくなったんやろ? ほんまは全部分かってた。俺も、重岡さんが本気であんな事思ってなんかないの、分かってたよ。……なぁ、言って?」

 いつの間にか鼻先が触れ合いそうなほどの距離まで近づいていた綺麗な目が、長い睫毛が、一度ゆっくりと瞬きをする。めちゃくちゃになった感情でいつからか止めていた呼吸もそのままに、掠れた声で俺は囁いた。

「……好き、です。かみちゃんのこと、ずっと、好きやった」
「……うん」
「ごめん、逃げ回って、色んな言い訳して、」
「あーもう、謝んのは終わりって言ったやん。重岡さんの気持ちも分かるもん。だって俺こんな感じやし、五つ? 六つ? も歳違うし、そら色々考えるやんな、その賢い頭でさ」

 にや、と目を細めて笑い、かみちゃんはまるでそれが当然のように抱きついてきた。元々止まっていた呼吸が更にヒュッと肺に負荷をかけたが、これだけは大人の意地でなんとかゆっくり深呼吸をして背に腕を回した。嬉しそうに擦り寄ってくる俺より少し小さな身体は、暖かくて、何故か、甘い。
 ボヤけていた視界から一雫だけぽたりと涙が落ちて、俺の貸した部屋着の背中に染みを作った。

「……なぁ、あれ捨てちゃった?」
「す、捨てれるわけない、やろ……俺、あの日人生で一番幸せやってんから……」
「……そっか、よかった。あとで見してな。ほんでまたすぐ、何回でも遊びに行こ。服も、香水も、また俺が選びたい。重岡さんを笑顔にするのも、垢抜けさすのも、全部俺がいいねん」

 驚いて思わず顔を覗き込むと、かみちゃんは初めて目を逸らしていじけたように口を尖らせていた。見たことのない表情で、だけど信じられないほど愛らしい。ちらと目を合わせ、彼は尖らせた唇をそのままそっと俺の首元に押し当てた。その柔らかな感触に、目眩のような感覚を覚える。

「さっきの匂いも重岡さんらしくて好きやけど、違うの俺が選びたい。ほんで会えない間はずっと、俺が選んだ香り付けててほしい。周りにも、香水のこと聞かれたら恋人に選んでもらったってちゃんと言って」
「え、えぇ……」
「なに。あかんの?」
「あ、あかんくないけど、あれ一応、へこたれてる俺に親友が選んでくれたやつで」
「じゃあその人と会う時だけ付けたらいいやん。……おれ、結構独占欲強いから。やっぱやめるって言うなら今やけど?」

 首に腕を回し、たのしそうにかみちゃんが笑った。そんなこと出来ないしさせる気もないくせに、俺に言葉にして選ばせようとしてる。脳裏に『お前といる時はきっと背伸びしてるだろうから』と言っていた健人の顔が浮かんで、背伸びなんてもんちゃうぞ、と届かないテレパシーを送りながら、思っていた何倍も猫を被っていたらしいその子にゆっくりと唇を寄せた。


*


「…………というのが事の顛末です」
 途中からテーブルに倒れ込んでヒーヒー笑っていた健人を前に、赤くなった頬を隠すことは諦めてビールを呷る。律儀に高い頻度で会いに来てくれるようになった親友は、こいつの想定すら越えていた彼の内心を随分気に入ったようだ。

「やー、笑った笑った。すごい面白い子だったんじゃん。度胸も自信もあって、お前とは真反対だね。正直性格まではイマイチ分かってなかったからそこも心配だったんだけど、お前に合ってると思うよ。存分に束縛されな」
「あんなほぼ男しかいない職場で束縛されて何になんねん……」
「そういうことじゃないんだよ、分かってないなぁ。それ、その子の前で言っちゃダメだからね」
「言わん言わん。あの日はもうヤケクソになってたんか色々ぶちまけとったけど、普段はあの子もあんま口に出さん方やから心配かけたくないし」

 枝豆を摘みながら呟くと、健人は意外そうに少し目を見開いた。見た目も居る奴も賑やかで喧しい大阪の居酒屋で、相変わらずこいつは少し浮いている。

「へー……大事にしてるじゃん。俺、紹介して欲しいな。会ってみたいし、こいつの事宜しくお願いしますって言わなきゃ」
「誰目線やねん……でもそう言うと思って、というかあの子も会いたいって言っとったから、タイミングあったら呼んでって近くに来てやんで。カラオケで時間潰してるけど、呼ぶ?」
「……え!? 呼ぼう呼ぼう! 早く言えよ!」

 楽しくなりそう、とはしゃいでいる健人に溜め息を吐きながらスマホを取り出す。一番上に固定してある彼とのトークルームの横に浮かんだアイコンは、最近二人で出かけた時に撮ったものだ。端的に「おいで」と送ればすぐに既読がついた。
 嬉しそうなスタンプが送られてきたのを確認し、迎えに一度店を出る。すぐに走ってきた綺麗な金髪を撫でると、白い息を吐きながら歳下の恋人ははにかんだ。




4.


 すっかり冬になった寒空。肩を縮こまらせて歩きながら、いい感じに酔いの回ったかみちゃんはたのしそうにくふくふと笑っている。
「中島さん、おもろい人やな」
「やろ? あいつくらいやで、今でも付き合いある友達なんて」
「まさかあのチケットが意図的に用意されとったとは……流石に想定外やったな」

 付き合い始めてしばらく経った頃、かみちゃんは俺が住むマンションのすぐ近くに越してきた。少しでも長く一緒に居たいと言うこの子がその部屋に戻るのは朝くらいなもんで、それ以外の時間はいつも俺の部屋に入り浸っている。
 そのおかげで色々と鮮やかになった部屋や生活に感動する暇もないほど、この子との日々は目まぐるしいほどに充実していた。就職したら二人で住める部屋探そう、と決めたらしい彼は前より少し勉強や就職活動に精を出すようになって、始めるには周りより僅かに遅いそれを俺なりに一生懸命手伝っている。
 今日も彼の選んだ服を着込んだ俺を満足気に眺め、かみちゃんは満足気に目を細めた。季節もすっかり冬になった結果、俺が今着ている服はほとんどこの子が直々に選んだり買ってきたりしたものだ。

「あ、なぁなぁ、安いのでいいからさ、炬燵買わへん?」
「炬燵? ええけど置くとこ……あ、テーブルどければいいんか」
「そうそう、炬燵ってテーブルにもなるやん。ほんで一緒にぬくぬくすんねん」
「ぬくぬくかぁ」
「そう、ぬくぬくです」

 絶対にそれだけじゃ済まなさそうなその先を思いながらちらと視線を下ろすと、同じことを考えていたのだろう、健全な男子大学生の彼はにんまりと笑って繋いだ指を絡め直した。かわいい。し、もう何度も見たその痴態が脳裏に浮かんで思わず頭を振る。

「……あ、でも炬燵なんかテーブル代わりにしたらかみちゃん絶対レポートやりながら寝てまうやろ」
「そ、それはほら、重岡さんが叩き起してくれたらええやん」
「えぇ〜、俺かみちゃんにそんなん出来へんって」
「出た、ほんま俺に甘いよなぁ。……もうちょっと酷くしてもいいって言ってんのに」
「……だーー!! なに、ムラムラしてんの?! あかんからな!! 酔ってるから絶対途中で寝るやろ! ほんで俺置いてかれるんやろ!!」

 どろりと溶けた視線に耐えかねて叫ぶと、かみちゃんは途端に甘えた声で腕に巻きついてくる。

「寝えへん! 絶対!」
「いや絶対寝る!!」
「寝たらそれこそ酷くしていいから!! 引っ張たいて起こしていいから!!」
「いや俺それしたくないってさっきから言ってるやん!! どさくさ紛れに酷くされようとすんのやめろって!!」

 明らかに外で話すことじゃない内容を、酔いもあって堂々と言い合いながら部屋の鍵を開ける。ドアが閉まった途端分かっちゃいたが絡みついてきた身体を仕方なく抱きしめると、首に腕を回して少し見上げるようにしながらとろんと溶けた目で舌を絡めてくる。あー、エロい。
 自分で思っているよりずっと賢いこの子は、まだ数ヶ月も経っていないのに俺の火の付け方を覚えていた。簡単に熱のこもってしまった下半身に呆れながら、口端に垂れた唾液を舐めとってやる。

「……あーー、くそ。わかったから、身体洗ってき」
「もうやってる。カラオケじゃなくてネカフェにおってん。シャワールームあるとこ」
「はぁ!? ほんまこの子……冬場にんな身体冷えることすんなや」
「じゃあ重岡さんが温め、ッん、ふふ」

 諦めて口を塞ぐと、嬉しそうに細まった瞳と目が合った。今は酒で身体が勘違いしているだけで、絶対本当は冷えている。終わったらすぐ風呂に入れてやらないと。抱きついてきている身体をそのまま抱え込んでベッドにもつれ込み、布団を上から適当にバサリと被った。

「……ふは。重岡さん、かっこい」
「なにが?」
「別に。俺だけ知ってたらいいねん。なぁ、大好きやで。重岡さんに出会ってからおれ、自分のことちょっと好きになれた。仕事に真っ直ぐで毎日大変そうで、でも楽しそうに笑ってる重岡さんが、俺の光やった」
「……そん、なん」
「うるさいうるさい。俺の気持ちなんやから他の人に否定される覚えないねん。……な、はやく触って」

 俺の手を握り、一度全てを諦めて逃げたはずの相手が微笑んだ。促されるまま目の前の宝物に触れながら浮かべた笑みは、きっと不格好でめちゃくちゃだっただろう。
 色んな感情を全て呑み込み、そっと彼の綺麗な髪を撫でる。

「ありがとう、……俺のこと、諦めんとってくれて。俺も、かみちゃんが好きになってくれたから、もう自分のこと卑下すんのやめるわ」
「うん、当たり前やろ。……ふは、泣かんとってや」
「泣いてへんやん」
「でもそう見え、っあ、ちょっ、んん……ッ、じ、自分の都合が悪くなった途端……!」
「はいはい。ほんまに酷くされたくなかったら大人しくしとってや」
「で、できんくせ、に……ッ、ん、ふふ」

 たのしそうな笑い声ごと呑み込み、絡めた指をシーツに沈めた。この子に出会って全てが変わった世界で、途方もない幸せに包まれながら。


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