9と4分の3番線であなたを


 その人に出会ったのは、城を吹く風が夏の気配が感じ始めさせた頃のことだった。

 休みの日はいつも部屋に籠っている友人を置いて一人、休日の城を散策していた。
 そうは言ってもあまり人には会いたくない気分だったのだ。休日らしい賑やかさを避け続けながら、広大な城の敷地を、人の少ない方を選びながら進み続ける。誰もいない温室を通り、すっかり人の気配すらしなくなった辺りでふと我に返って足を止めた。
 そういえば授業の時にしか訪れたことのなかったそこは、様々な植物や薬草が管理されている割に鍵すら掛かっていなかった。特別興味もなくて授業で必要な分しか見たことのなかったその部屋を、何となくじっくり見て回ってみる。こういうのに勝手に触ると想像もしないような碌でもない目に遭うことくらい知っているから、適度な距離を保ったままだ。
 ふと顔を上げると、奥のドアが一つ開いていた。⋯⋯流石に、不用心過ぎやしないか? 微かな風を通しているそこになんとなく引き寄せられ、足を進める。だけどそのドアは、出た途端目の前に城の壁があるだけだった。換気用か、それとも外に出す必要がある植物の為にでも作られたのだろうか。狭いその空間は、けれども何故か少し落ち着くように感じる。
 辺りには奇妙なほどの静けさが広がり、時々どこかで鳴いている鳥の囀りがやけに響いていた。まるで、風さえも息を潜めているようだ。残り一年と少しの学校生活だが、思いがけずいい隠れ場を見つけたかもしれない。
 そう口端を上げて一歩踏み出そうとした瞬間、横から物音がした。慌てて顔を向けると、一人の青年が、どこかから持ってきたかのようなその場にそぐわない素朴なベンチに腰掛けていた。俺を見つめて目をまん丸にしているその人は、どうやら本を読んでいたらしい。名前も顔も知っているが、話したことは無い相手だ。
 思いがけない先客に嘆息し、軽く会釈だけして引き返そうとする。ドサ、となぜか焦ったように本を落としながら半歩踏み出したその人の、艶やかな黒髪が揺れた。

「⋯⋯⋯⋯っ神山くん!」

 思わず踏み出そうとしていた足が固まった。話したことすらないのに、どうして誰も知らないはずの名前を知ってるんだ? 振り返った俺と目を合わせたまま、彼はすぐに本を拾い上げた。やけに分厚く重そうな本だが、遠くて表紙の文字は読み取れない。
「⋯⋯あ、日本語分からん? のやんな」
 顔をひきつらせながら、彼──重岡さんが尋ねてくる。ゆっくり首を振ると強張っていた表情が柔く崩れ、この人はこんな風に笑うのかと、少し驚いた。
「しゃ、喋れたんや。知らんかった」
「⋯⋯一応⋯⋯。で、でも使うことはないので、黙っておいてもらえると⋯⋯えっと、シゲオカさん? ですよね。その⋯⋯邪魔しちゃってすみません」
「や、ええよそんなん。俺の場所ちゃうし……」
 沈黙が落ちる。彼は笑っていたが、気まずそうに視線が泳いでいた。俺は俺で、久方ぶりに話した言語が間違っていやしないか、普段全く使っていない方の名前をなぜこの人が知っているのか気がかりで、顔が固まっているのが分かる。そのままこの場を離れる気はすっかり削がれてしまい、こくり、唾を飲み込んだ。
「⋯⋯なに読んでたんですか?」
 今度こそ本当に驚かせてしまったらしい。彼は笑顔のまま数秒固まった。
「あー、えっと、すごい分厚いなぁって」
 慌てて補足する。この学校においてあの程度の厚さの書籍はなんら珍しくなかったが、そんなことはどうだってよかった。しばらく逡巡するように俯いていた彼が顔を上げ、とんとん、と控えめに自分の隣を叩いた。それに少しほっとして息を吐き、足を踏み出す。すぐ近くでまた、鳥がさえずる。
 その人のことを俺は何一つ知らなかった。だけどあの、深い青とブロンズを掲げ、叡智を何よりの宝と呼ぶ寮に属した一つ年上の先輩であることは頭の片隅にあって。

 つまり彼は、目前に迫った夏に卒業を控えていた。

*


 早足で廊下を通り抜ける。片手に昼食のデザートの甘いカップケーキを持って。
 何度か人にぶつかりかけながら向かう先は、城のすぐ傍に佇む大きな湖だ。取る授業を自分で決められる最後の二学年。お互い空いているのを確認したコマ全部に約束を取り付けたのは、俺だ。
 目当ての人影が遠くに見え、自然と足取りが軽くなる。
「⋯⋯ダイキ!」
「おっ、⋯⋯なに、走ってきたん?」
「いや、まぁ⋯⋯ま、待たせたくなかっただけ」
「そんな言い訳みたいな言い方せんでええやん。ほら、はよ座り」
「⋯⋯うん」
 走って行った先で、彼は大樹の木陰で幹に背を預けて本を読んでいた。今まさに将来に響くとても重要な試験中のはずのこの人は、その割にはこうして自由に過ごしている。それは元々特別勉強をする必要がないほど成績優秀なことと、あの試験の結果が大きく響く職に就くつもりもないからだ、とこの前話してくれた。
 昨年度大きな試験に多少苦しめられた自分はそれを聞いた時顔を顰めたものだが、一切嫌味を感じさせない淡々とした表情を見ているとそれが事実であるとスッと胸に落ちてきた。
 本を閉じた彼の隣に腰掛け、ナフキンに包んで持ってきた二つのカップケーキを広げる。ん、と差し出すと、彼はそれ見て何度か手を払った後「おおきに」と笑った。未だに慣れないその方言に、胸がむずむずする。
「⋯⋯あま。とも、ほんま甘党やなぁ」
「そう、やね」
「ふは! 俺の方が方言なんやから合わせんでいいって言ってんのに。そんな関西弁気になる?」
「だって、初めて話すようになった日本人だ、や、し⋯⋯」
 ⋯⋯それに、あなたの使う言葉だから。口に出せない理由を、甘いカップケーキと一緒に飲み込む。


 正真正銘かの極東にある国から来た彼と違って、俺は日本人ではない。
 この学舎で出会い、そのまま結婚したという両親。父は生粋の英国人で、母が、その国から来た魔女だった。母親によく似た顔で生まれた俺は、けれどそれなりの名家だった父の家の方針もあり、一度もその国を訪れることなく育った。教養程度に言語は母から教わっていたが、それをこうして実践として使ったのはこの人が初めてだ。
 俺が持つ日本名は、母が「もしかしたら使う日が来るかも」と産まれた時つけてくれたものと旧姓を組み合わせただけで、普段はイングリッシュ・ネームしか使わない。当然学校に登録されている名前だってそっちで、だから彼が俺を母の旧姓で呼んだあの瞬間、心臓が飛び出すほど驚いたのだ。
 ⋯⋯そう、それが出会った日のこと。彼は俺の顔色を伺いながら、自分について、両親ともに非魔術師で、かろうじて祖母が魔法を使えるだけだ、と語った。それはつまり俺の家や所属寮では少し見下されるような存在ということで、かつての俺も、見下すとまではいかなくとも完全に同じ生き物だとは正直思っていなかった。だけどそれは幼い頃からの刷り込みや周囲の影響だったのか、それともあの場の独特な空気のせいか、俺は何の嫌悪も感じずあっさり「へぇ」と呟いていた。
 あの日話した時間はほんの僅かなもので、彼は自分のそういった出自や何故俺の名前を知っていたのか(その手段はまるでニンジャのようだった)を必死に弁明してすぐ、それじゃあ、とそそくさ立ち去ろうとした。
 その背を咄嗟に呼び止めた理由が見つけられないまま、俺たちはもう何度もこうして時間を共にしている。


「⋯⋯それ、前と違うけどまた魔法薬学?」
「そう、おもろいで〜。ともは興味ないんやっけ?」
「ないかなぁ⋯⋯そもそも、特別好きな教科とかないかも。仕事も、どうせ決まってるようなもの、だし」
 あぁ、今のは「もの」じゃなくて「もん」か。強いて言えばあなたの言葉遣いが学びたい、って言ってみたら、どんな顔をするだろう。
 彼と出会ってから急に価値が薄く感じるようになった自分の家柄や未来に、なんだか肩身が狭い。だけど彼は綺麗な歯を見せて優しく笑い、俺の頭を撫でた。一つしか歳は変わらないのに、この人はやけに俺を年下扱いしている。
「なんでそんな顔すんねん。それに見合うだけの成績とかちゃんと取ってるんやし、立派なバッジ、付けとるやん。大体運も実力のうちやろ。お父さん、何してはるんやっけ」
 彼が指差した俺の胸元には、昨年もらった監督生の証が飾られている。だけど特別思い入れを感じたことのないそれは無視し、滅多に顔を見ない父のことを思い浮かべた。
「⋯⋯外交。だから、ほとんど家には居ないよ。休暇で戻っても会うことはあんまりないかな」
「へーえ、外交かぁ⋯⋯ええな。色んな国行けるって、夢あるわ」
「そう?」
「うん。でも、俺が想像してんのとはちゃうんやろな」
「⋯⋯ふは、それはそうだと思うよ。それなら、母親の故郷に行くことすら許されてないわけがないし」
「⋯⋯⋯⋯そうやなぁ。興味、ある?」
 思わず顔を上げると、ずっと撫でていた俺の髪から手を離し、木の葉から覗く空を仰ぎながら彼は自分の過去や故郷について語り始めた。
 幼少期から祖母同様に魔法の発現があったにも関わらず、祖母が通っていた母国の魔法学校から招かれることはなかったこと。そんなある日届いたこの学校の入学通知書を見て、家族揃って「なんやこれ」「英語やん」「どこ?」と首を捻っていたら、一人だけワナワナしていた祖母に英国からの手紙であることを知らされ、全員でひっくり返ったこと。
 住んでいたという地域の食べ物、人々、文化の独創性。賑やかで、派手で、皆がうるさく好きに過ごしている街。クセの強いそれらが、時折無性に恋しくなること。
 耳を傾けながら、自然と身体を乗り出していた。
 ほとんど地球の裏側にあるその世界はあまりに俺の生きてきた場所と違いすぎて、想像すらできない。だけど今まで全く興味のなかったそれが、突然色を持って、自分の中に確かに流れるルーツとして浮き上がってきたような気がしたのだ。
 俯いて本の背を弄りながら語っていた彼の視線が、ちらと俺の方へ向く。目が合うと、彼は真っ黒な瞳を優しく細めた。
「いつか、オトンの許しが出るかそれが要らんくらい大人になったら、行ってみ。あ、初めてが仕事じゃなかったらええなぁ」
「⋯⋯うん」
「なにその顔、不服そうやん」
「別、に⋯⋯」
 一緒に行こうとは、言ってくれないんだな。だけどそんなの当たり前だ。分かってる。俺とこの人は、何もかもが違いすぎる。客観的に見れば、至極当然だって分かる。それなのに、どうしてそれがこんなに悲しいんだろう。
「⋯⋯なぁ、それ見せて」
「ん?ええけど」
 彼の手元から本を奪い取り、パラパラと捲ってみた。学年や成績の差を考慮しても何の話だかさっぱりわからない文字列に、思わず笑みがこぼれる。
「これほんとに魔法薬学? こんなん、聞いたことすらないけど」
「まぁ授業でやるような内容じゃないからなぁ⋯⋯この本も、図書館のじゃなくて先生に貸してもらったやつやし」
「え、仲良いの?」
「いやぁ、どうやろ。目かけてもらってはいるけど……入学した頃から薬草学と魔法薬学に首ったけやったんよ、俺。そらある程度贔屓はしてもらえるわな」
「へーーー⋯⋯レイブンクロー、すご」
「ふは、寮関係あるんかなぁ?」
 書いてあることはさっぱり分からないけど、この人はこの学びを何年も愛しているんだと思いながら、一応目で追ってみる。聞いたこともない薬草に、かろうじて聞いたことはあるような⋯⋯ないような感じの、魔法薬。覚えるだけでいいから楽な教科だと思ってたけど、こんなに奥深く学んでる人もいたんだな。
 ふと気づくと、彼は隣でローブをまさぐっていた。
「なにして、⋯⋯てん、の?」
「⋯⋯ふっ⋯⋯」
「笑うな!」
「や、ごめんごめん。可愛くて」
「かっ⋯⋯!?」
 可愛い。可愛いって、俺の知ってるあの「かわいい」か? あ、あれって、男に向けるような言葉だったっけ?
「見てこれ。⋯⋯とも?」
「え!? あ、な、なにそれ。鍵?」
「そう、先生から好きな時に見ていいよって合鍵もらってんねん」
 ちゃら、と音を立てて目の前に翳されたのは、少し古びた黄金色をしていた。すぐローブのポケットへ仕舞いながら、彼はヘラりと笑う。
「まぁ、あんな特別貴重なもんもない温室の鍵なんて簡単に開けれるんやろうけど、俺は堂々とお咎めなしに入れるねん。この前ともが来た日もそれで入ってて、うっかり締め忘れとってんな」
「⋯⋯すごい信頼されてるんだね」
「うーん、ハハ。まぁ有り難くはあるで。夜に寮で本読んでて急に実物見たくなった時とか、何回も行かしてもらったし」
「へぇ⋯⋯ん? 夜なら別の理由でお咎めあるんじゃ⋯⋯」
「ないよ。バレんかったら、な」
 立てた膝に肘をつき、彼はいたずらっ子みたいに笑った。思わず、本のページを摘んでいた指先に力が籠る。⋯⋯そんな顔、初めて見た。
 知り合う前も今も、城内で遠くから見かけた時、この人はいつも分厚い本片手に難しい顔をして一人で歩いていた。それだから、真面目で堅物な人なんだろうなぁと勝手に思い込んでいた。彼がこんな風にも笑うってこと、他に誰が知っているんだろう。
「⋯⋯とも?」
 彼が呼ぶようになってから急に形を持ち始めた自分のもう一つの名が、鼓膜を揺らす。
 顔を覗き込んできた彼の前髪から覗いたおでこをピンと弾き、顔を隠すように本に目を戻した。内容どころか、何て書いてあるのかすら頭に入ってこなかったけど。
「なんやねん、そっちだって何回かくらいはしたことあるやろ? 真面目な寮ではないやん」
「俺は一回もしたことない。周りは、知らないけど」
「⋯⋯まじか。とも、真面目なんやな⋯⋯あ、まぁ監督生ってそういうもんか」
「そうでもないよ。うちと⋯⋯あっちに限っては」
 深紅と黄金を翻す、所謂ライバル寮の存在を思い浮かべながら呟いた。別に特別意識してはいないが、周りがああだからか、やっぱり、良い印象は無い。
「そうなん? うちの監督生はクソ真面目やなぁ」
 意外そうに彼が呟いてすぐ、城の方で鐘が鳴った。次の時間はお互い戻らなきゃいけなかったはずだからすぐ立ち上がり、地べたに座っていた部分を軽く払う。そうしたら、彼のローブから今まで気づかなかった微かに金属の擦れる音がした。
「いこか、とも」
「うん」
 並んで早足で城へ戻りながら、いつだって曇りの空を見上げた。
 寮生の仲間に何度か誘われたって何の興味も湧かなかった、ルール破りの外出。だけど、いつかどこかの夜。この人もベッドを抜け出して夜の城を隠れ歩いていたことを知った途端、それがとても美しく儚いものに思えた。あぁ、寮の点数がどうとか先生とか親の目とか気にしてないで、一度くらい着いていってみればよかった。そうしたら、偶然この人に、もっと、もっとずっと早く、出会えていたかもしれないのに。
「なぁダイキ、次から夜抜け出したくなった時は俺も誘って」
「⋯⋯自分の寮、どこにあってどんな奴らが居るか知ってて言ってる?」

*


 翌日、授業の移動中に見かけた彼の姿に思わず「あ」と声を漏らした。試験があるらしく、眉間に皺を寄せたいつもの難しい顔で大広間に入っていく彼が俺に気がつくことはなくて、そのまま姿が見えなくなるまでぼうっと見送る。隣で黙って立っていた友人が、鼻を鳴らした。
「あれ? 最近気に入ってるレイブンクローの七年って」
「⋯⋯まぁ」
「地味な奴だね。⋯⋯噂になってるよ。喋れないはずのお前が、よりにもよってマグル生まれの日本人と仲良くしてる⋯⋯ってね。今ならまだ、お父上の耳には入ってないんじゃない?」
「⋯⋯そう。ありがとう」
 つまり、さっさと辞めとけ、ってことか。言い方に棘はあったが、これが俺を取り巻く環境の当たり前だった。
 並んで歩き始めた俺たちも、生活の多くを共にする寮生も、皆がいつだって少し距離感を持って過ごしている。放っておいても自分に害はないそれをわざわざ忠告してくれたことが、ここではつまり友人だということなのだ。
 それくらいが居心地がいいと、つい最近まで思っていた。肩が触れ合うほどの距離で座る暖かさなんて、考えたこともなかった。
「⋯⋯どうして、わざわざ嘘をついてまで喋れないことにしてたんだ? 家柄を考えれば、話せる言語が多いことは寧ろ長所だろ」
 珍しく踏み込んできた小声の質問におどろいて視線を向けても、相手は眉一つ動かさず前を見つめていた。少し悩んでから、同様に聞こえるかどうかの声で返す。
「見ての通り、僕は母の血が色濃く見目に出てるから。将来が決まってる以上、ある程度分別のつく歳になるまでは寧ろ誰より英国人らしいくらい、“らしく”育てたかったんじゃないかな。そうでなきゃ、いくらある程度名の通った家名を持っていようときっと苦労する⋯⋯というか、もう既にしていただろうね」
「あぁ⋯⋯納得した。確かに、その顔できみがハーフであることを忘れることはよくある」
「へぇ、随分お人好しになったんだね」
「⋯⋯⋯⋯」
「ジョークだよ」
 笑いもせず肩を竦めると、横で小さく舌を打つ音が聞こえて思わず口角が上がった。自分の家とある程度近しく、だけど少し低い地位の彼は、入学後組分けが終わってすぐ俺の傍にスッと寄ってきていつの間にか共に過ごすようになった。
 腰巾着を引き連れるほど大きな家の子供でない限り、大体はこうして立場の近しいもの同士で連れ立つのが常だ。その方が楽だし、わざわざ何かしでかして嫌われるリスクを背負ってまで立場の高い人間に近づくのはリスキーで、馬鹿のすること⋯⋯というのが、口にこそされないものの皆が思っていることだから。偶然何かの機会で気に入ってもらうようなことがあればラッキー、程度のものだ。
 「狡猾」。「巧妙」。陰口のように言われることも多い、首にかかったエメラルド・グリーンに込められた意味をなぞりながら息を吐く。忘れないように、見失わないようにしないと。本来の自分も、自分を取り巻くすべても。ふと中庭から来た風が廊下を通り、そこに混じる夏の気配に目を細めた。
 だけどもう、夏がやってくる。あと、ほんの少しで。だから少しだけ、もう少しでいいから、許してもらえないだろうか。⋯⋯あぁ、だけど。彼の肩の温もりを知ってしまった自分は、これからあれ無しで生きていけるのかな。
「ままならへん、なぁ⋯⋯」
「⋯⋯今の、日本語?」
「君は本当にクールだ、って意味だよ。忠告ありがとう」
「⋯⋯滅相もない」


*


 その日の夕方、試験時間と場所を考えて廊下を通りがかれば、簡単に彼とすれ違うことができた。向こうも俺に気づいていたが、周囲に人がいるときは話さないように自然としていたから彼はすぐ手元の本に目を戻した。その肩に、できるだけ自然を装ってドン、とぶつかる。
「っえ、あ、だ、大丈夫?」
「⋯⋯いえ。こちらこそ、持ち物を汚してしまってすみません。⋯⋯失礼」
 授業終わりの廊下には大勢人がいて、俺はその視線が自分達に注がれているのを横目で確認しながら、差し出せれた手を無視して立ち上がった。
 丁寧に他所行きの笑顔を作って彼が落とした本を手渡し、返事は待たずにそのまま早足で通り過ぎる。すぐ表情を消して手を払うことも、忘れずに。
 適当なページに挟み込んでおいたメモには「会う場所を変えたい」としか書かなかったが、きっとそれで全て伝わるだろう。この時間ならもう、そのまま夕食に向かった方がいいかな。そう考えながら、俺は自己嫌悪に塗れた心を握り潰すように固く手を握り締めていた。


 そうして迎えた深夜。ベッドで夕方の自分と驚いていた彼の顔を思い返しながら、俺は、石造りの天蓋を睨みつけている。
 仕方ない。あれは、必要な事だった。あの時周りにいた人間の中には、同じ色のローブを羽織った奴らも大勢いた。彼との時間を守る為には、必要なものだった。⋯⋯だけど、だけどあんな冷ややかな本来の自分を見て、彼はどう思っただろう。彼との時間を守るどころか、もう嫌われてしまって、返事すら来ないんじゃないのか。いや、別にそれでも良くて、むしろ自分はそうあるべきなんだけど、でも⋯⋯。
 纏まらない考えを延々と繰り返していた俺の目の前に、突如小さな白い何かがふわりと現れた。
「⋯⋯⋯⋯っっっ!!?」
 出そうになった悲鳴を、口許を抑えることで何とか堪える。俺の頭上でふよふよ浮いているそれは明らかに紙で、だけど人を簡略化したような形をしている。悪意は感じないそれにしばらく迷った末恐る恐る触れてみると、途端にふわりと溶けてただの四角い紙になった。だけど、この学校で主に使われている羊皮紙ではない。不気味に思いながら見ていると、ぼんやり文字が浮き上がってきた。

『びっくりさせた? これ、ばあちゃんが教えてくれたあっちの魔法やねん。これ以外誰にもバレずにすぐ返事出す手段浮かばんかったわ、ごめんな。会う場所についてやけど、もちろんいいよ。むしろ、もっと早く気づいてあげられんくて悪かった』

「⋯⋯⋯⋯!!」
 す、すごい。こんな魔法、初めて見た。国によって扱う魔法が違う場合があることは当然知っていたけど、そうか。彼のような人は、複数のそれを扱うことが出来る可能性もあるんだ。最後に付け加えられた優しさに、いつの間にか詰めていた息が漏れる。あぁ、全部わかってくれたんだ。
 それらがふっと消えて次に浮かんだ文字では、場所についてのいくつかの提案と、この紙を彼の元へ飛ばし返す方法が書いてあった。
 慌ててベッドサイドのテーブルからペンを取って紙を裏返し、彼が出してきた候補を順に思い浮かべたのち一つ選んで小さく書く。次いですぐ返事をくれたことへの礼と夕方の件への謝罪、今度この魔法について絶対教えてほしい旨を並べ、ペンをしまった。慎重に彼に言われた通りの手順を踏むと、簡単に元の人型に戻ったそれはひらりと窓の隙間を通り抜けていった。一瞬にして見えなくなった小さな白を呆然と見送り、感嘆の息を吐く。
 信じられない。何度も会っていろんな話をして、彼についてかなり知ったつもりではいたが、それでもこうして俺の知らない世界を見せつけてくる。「色んな国行けるって、夢あるわ」。そう言った彼の言葉の意味を、ようやく少し理解したように感じた。
 もう一度横になり、さっきよりは落ち着いた心で天蓋を見つめる。俺はきっと、数年後色んな国を回ることになる。だけど魔法省の外交官として訪れる俺が見る景色と、同じ場所を訪れた彼が見る景色はきっとかけ離れているんだろう。
 ⋯⋯そんなの、嫌だな。俺はどうすれば、今から少しでも彼に近づけるんだろう。クッションを抱いて横向きになり、目を瞑る。もう、あのちいさな手紙は彼の元へ届いたのかな。次会った時、あの魔法について教えてもらえるかな。そんなことを考えている間に夜は更け、自然と眠りに落ちていく。


 ⋯⋯夢を見ていた。どこかの村で見たこともない人たちと彼が喋っていて、あのやさしい目で、手に持った幾つかの小瓶についてあれこれ話している。聞いていた者のうちの一人が手を挙げ、彼からそれを受け取るのと引き換えに金貨を渡した。それを何度か繰り返し、夕暮れ時に彼は村のどこかの家に招かれてゆく。しばらくして、夜が明ける前に彼は住民に手を振りながら箒へ跨って飛び去った。
 星が降ってきそうなほど綺麗な、この国ではあまり見ない空を彼は気持ちよさそうに飛んでいる。その肩には重そうな鞄が下げられていて、隙間から様々な小瓶が見えた。
 ふと、彼が何か思い出したような顔をする。美しい空を仰ぎ、小さく何かを呟いた。二文字のそれを、とても尊い何かのように──、


「僕に毎朝起こしてもらうのが趣味なんだっけ?」
 
「⋯⋯まぁ、寝起きに見るにはうってつけの顔だね」
 朝から嫌味を浴びながら目を覚ますと、外はすっかり明るくて他のルームメイトも既に居なかった。割といつものことだが、いつも通り、まずい。飛び起きて着替えている俺を友人は何か言いたげに見つめていたが、結局その口が開くことはなかった。


*


 滅多に人の通らない城の奥、使っている人がいるのかも知らない戸口からさらに反対に折り返して森に抜けた先で、念の為遮音の魔法まで掛けてからようやく腰かける。そうしてまるで隠れた逢瀬のように会うようになってから、数日が経っていた。

 この辺りの森は薄くて、その先の湖が木立の合間からよく見える。いつ来ても暗くてじっとりとしたそこは、人と会う場所としては余り好まれはしないだろう。だけど俺は毎日暮らしている寮のお陰でそんな空気には慣れていたし、彼も特に嫌そうな様子はなかった。まぁそもそも、この場所を提案したのだって彼な訳だが。
「⋯⋯うーん、やっぱり出来ない。出来る気すらしない」
「まぁ頑張ってるほうよ。ともには分からんやろうけど、ちょっとだけ反応はしてる。でも動かすのは無理やろなぁ」
「そっかぁ。俺だって、一応半分は混ざってるんやからできるかと思ったのに」
 そう嘆きながら手元の紙をいじくっていると、すっと取り上げられた。
「でもとものお母さんが呼ばれたのはここ、やろ? 俺だって、ばあちゃんの血が混じっててばあちゃんが教えてくれんかったら出来なかったと思うで」
 まぁ、それもそうか。目の前でするすると人型を取っていく、さっき何度挑戦してもただの紙でしかなかったそれをじっとり眺める。杖すら使わないその力はこっちのものとは随分違って、出来るようになったらかっこいいと思ったのに。
 差し出されたそれをそっと手のひらに乗せ、折り畳んだ。
「⋯⋯これ、前と同じやり方で飛ばしたらダイキに届くの?」
「うん。俺の魔力が込められてるから、それを辿って飛びやるよ。まぁ、離れ過ぎてたら無理やけど」
「それってどれくらい?」
「さぁ、試したことないから分からんわ。今から俺の実家に飛ばしてみよか?」
 ニヤ、とした笑いに「出来ないって分かってて言ってるな」と溜め息を吐く。彼が意外にも表情豊かな人であることにだって、ようやく慣れてきた。
 折り畳んだそれをさりげなくローブのポケットにしまいながら、湖の方へ目を遣る。城を取り囲んで時折涼しい風を流してくれる暗い湖は、今日はいつもより明るい色をしているように見えた。
「⋯⋯もう、夏やね」
「そうやなぁ。試験もとうとうあと二? 三? 教科で終わりやし、言うてる間にこの学校ともお別れや」
「寂しい?」
「⋯⋯そうやな。世界で一番知識の詰まった場所やから、まだまだ勉強したかった悔いは残ってるわ。でもこんなとこ、何年居ったって学びきられへんのやろなぁ」
 そう朗らかに笑う彼は、どこまでも真っ直ぐな人だった。この人がここで過ごした七年間は、きっと誰より濃密だったんだろう。それを思い返すように宙へ向けられていた視線が、ふと俺を見下ろす。なに、と首を傾けると、彼はまた優しく俺の頭に触れた。その笑顔は、さっきと違って少し儚い。
「それに、ともの関西弁が下手くそじゃなくなるとこも見たかった」
「⋯⋯⋯⋯み、せる、よ。いつか。す、すぐ」
 震えかけた声でそう言っても、微笑むだけで応えてくれない。魔法界の多くの職業で基準にされるあの試験を重要視していないという彼が卒業後どこで何をするつもりなのか、全く教えてもらえないままに、どんどん夏が迫ってきている。
 俺がもうどんな言葉でも誤魔化せないほどあなたを大切に思っていること、きっと気づいているのに。あまりにも立場の違う自分たちが知り合いでい続ける方法くらい、きっと今のこの森みたいに、探せばきっとあるのに。
 夕食前の僅かな時間。暮れ始めた陽が、木に囲まれたこの辺りを一足先に夜へ誘っていく。
「⋯⋯あのさ、実は俺な。ともに⋯⋯一目惚れ、したんよ」
 ひゅう、とまた湖から風が吹く。一気に暗くなり始めた空が、俯いているこの人の前髪に大きな影を作って、表情が見えない。
「組み分けの時やなぁ。出てきて椅子に座ったの見た瞬間、アジア人や! て思うのと同じくらいの早さで好きになっとってさ、もう、どんだけタイプの顔やってん、って感じで」
 辛うじて見える口許は笑っている。だけど俺が口を挟む間は与えず話し続ける彼はもう自分の中で結論が出ていて、話し合う気はないんだ。
「でもさ。とも、覚えてる? 帽子が頭に乗った瞬間スリザリン! 言うてさぁ、本人も当然のようにそっちのテーブル行って、一年生やのになんか上級生にも知ってる人とかいそうな素振りで、あぁこの子は簡単に近づいたらあかん人なんやな、ってすぐ分かった」
 そう、だっけ。覚えていない。だけど確かに、自分が入る寮を不安に思っていた記憶はなかった。それがどこで、どんな場所かも、きちんと聞かされていたから。
「やからしばらくは様子見とってさ、さりげなく近く通ったり、広間で話盗み聞きしたり、先生に一年生の話聞いてみたり⋯⋯って、この話は前もしたか。まぁ、それでともがええとこの子で、ハーフなだけで言葉すら分からん、って知ってさ、俺、すぐ諦めてもうたんよ」
「だ、だい、き」
「なんでやろなぁ。今思えば、もうちょっと、もうちょっと機会を伺って待ってみたら、こうして知り合って話すことだって出来たかもって、思うんやけど。ビビっとったんかなぁ、好きになった子に否定されること。迷惑かも、とか色々考えとったけど、今思えば全部自分を守るための建前やわ」
 もう辺りは真っ暗で、影しか見えない。咄嗟に手を伸ばして彼のものに重ねても、握り返してはくれなかった。
 顔も名前も知っていたのに、どうしてそれ以上の興味を抱かなかったんだろう。母と同じ国から来たのか、と彼の存在を知った日に思ったこと、覚えているのに。
「ごめんな。ずっと意気地なしやったくせに、最後の最後、あの瞬間に欲が出てもうた。こんな風になるならいっそ、知り合わんまま、遠くから眺めてるまま卒業すればよかったんや」
「だいき、俺の話も⋯⋯」
「とも」
 スッと手が引き抜かれ、暗闇で、彼が立ち上がる気配がした。呆然と宙へ手を伸ばしたまま、だけどどこか冷静に「あぁ、終わるのか」と受け入れている自分がいる。
「ごめんな。でも、元に戻るだけやから」
 そんなわけ、ないだろ。
「狡くて、ごめん。でもやっぱり、ともと最後に喋れて、とものこと、⋯⋯想像だけじゃなく直接名前呼べて、幸せやったわ。⋯⋯俺、ほんま勝手やなぁ。俺なんかのこと、受け入れてくれてありがとう」
 そう告げて、彼は歩き始めた。少しずつ遠ざかっていく足音を聞きながら、固まっていた身体を無理やり奮い立たせ、叫ぶ。
「⋯⋯っい、意気地なし! 分かってるなら、後悔してるなら、今からでもビビるのやめたらいいんやん! こうやって一緒には居られなくたって、きっと、きっと幾らでも方法なんて、」
「ないよ。もう、二年生と一年生やったあの頃とは違うねん。ここから出たらともは将来の用意された良家の子息で、俺はただの『穢れた血』の異国人や。そんなんと、たとえ近くでなくても繋がりを持ち続けることがどれだけ自分や家に良くないか、ともなら分かるやろ? やから俺たちは今ここに隠れてるんやし、ほんまは話せた言葉も、その為にあんなに徹底して隠してたんやろ? 名前まで知っとったのに、話せることはあの瞬間まで知らんかったもん、俺」
 暗闇で、彼が自嘲気味に笑う。喉がカラカラに乾いて、何か言って引き留めたいと思うのに言い返す言葉が何一つ思い浮かばない。俺よりずっと頭がいいこの人は、きっと既に準備していたんだ。俺と区切りをつけるための、言葉を。
 ⋯⋯だけど。聞き慣れたはずの、今まで特に何も思わなかったはずのその言葉が、深く胸に突き刺さって頬を涙が伝う。
「けがれてなんか、ない⋯⋯」
「⋯⋯?」
 彼が生まれ育った世界、話に聞いたやさしい家族。俺にも、この学校の誰にも真似できない不思議な魔術。彼が教えてくれた、彼を形作るそのすべてを、こんなにも尊いと思うのに。

「だいきの血が、穢れてるわけ、ないやろ⋯⋯!」
「⋯⋯っ、⋯⋯とも⋯⋯」
「絶対、絶対⋯⋯どこで生きてようと、誰がなんて言おうと、⋯⋯俺とお前が、何もかもが違ってたとしても! お前の血は、穢れてなんかない⋯⋯!」

 暗闇に慣れ始めた目が、彼を見つけ出す。城に戻ろうとしているんだと思っていたその姿は、離れた木に隠れるようにして立っていた。
 苦しげに顔を歪めている彼の元へ走り、体当たりみたいに抱きついた。そのまま砕けるように尻餅をついた背へ固く腕を回して、胸元に顔を埋める。堪え切らない涙が溢れて、彼のシャツに滲みを作っていく。
 悔しくて、悲しくて、やるせなくて堪らない。彼に自分自身へあんな言葉を向けさせたのは、俺が俺であるからなのかもしれないのだから。

「⋯⋯泣きなや。いつもの澄ました優等生のお坊ちゃんはどこ行ったん?」
「そんなん、だいきと二人の時に居たことなかった、やろ⋯⋯」
「⋯⋯そうやなぁ。俺が遠目に見ながら思ってた何倍も、お前は無垢で真面目で、優しい子やったわ。いっつも気張っとったんやなぁ」
「ちがう、それは、それが当たり前で、あれも間違いなく俺、で⋯⋯だいきに出会ったから、おれは⋯⋯なぁ、だいき、おれ、」
 ふっと何かが唇を塞いで続きは言えなかった。すぐに彼のものだとわかったそれは、柔らかくて、少し、涙の味がする。伝えたいのに、このまま俺を置いてどこかになんて行かないでほしいのに、何度も角度を変えて啄んでくるそれが、許してくれない。頬に彼の指が触れて、涙の跡をなぞった。
 こういう時、もっと泣き喚いて縋れば、この体温を失わずに済むのかな。だけどそんな事ができるようには、俺という存在は作られていなかった。
 気がつけば辺りは完全の夜に包まれていて、梟の鳴く声が聞こえる。きっともうとっくに夕食は始まっていて、急いで行っても間に合わないかもしれない。だけどそんなこと、どうでもよかった。何一つ口に出せない代わりに、俺たちはただ抱きしめあったまま、唇が痛くなるほどずっと触れ合わせていた。
 どれほど時間が経ったのだろう。そっと身体を離した彼が、懐から懐中時計を取り出して笑った。
「⋯⋯ふは、すごい時間。飯抜きどころか、寮まで走って戻らなあかんわ」
「ん⋯⋯」
「⋯⋯でも、ちょっと休んでから行こか」
「え?」
「とものそんな顔、他のやつに見せたないから」
 いつものように髪を撫でながら、低い声で彼が囁く。酸欠でぼんやりしていた思考に更に追い打ちをかけられ、俺は顔を隠すようにぽすんと彼の肩に倒れ込んだ。抱きしめながら黙って俺の首筋に顔を寄せるこのひとも、俺も、互いの匂いや体温に狂っていた。
 初夏の夜が更けていく。⋯⋯ああ、これが最初で最後、なんだ。



 規則の時間スレスレに寮へ戻った俺を友人が談話室で待ち構えていたが、目が合った途端彼は苦々しげに顔を歪めた。さっさと寝ろ、とベッドに押し込まれ、カーテンを閉められる。
 憔悴しきった心で、そっと唇に触れてみた。微かに腫れているように感じるそれに、グッと胸が締め付けられる。たとえばそれに壮絶な痛みなんかが伴ったとしても、ずっとこのままだったらいいのに。ポケットから彼にもらった紙を取り出し、そっと広げてみる。今頃彼は、寮のベッドで何を思っているんだろう。与えられたものが数えきれないほど沢山あって、だけど俺は彼に、何を残せたのだろう。

 浅い眠りで迎えた翌日も、その翌日も、あの場所に彼が姿を見せることはなかった。試験が終わり卒業を待つのみの七年生である彼を城内で見かけることも、なくなった。
 休暇を前に皆が浮き足立っていて、それぞれが思い思いに時間を過ごしている。俺と友人は二人きり寮の部屋に篭ったまま、互いに読書をしたりたまにはチェスをしたりして、適当に暇を潰していた。何をしていてもどこかぼうっとしている俺に、友人は何も聞いてこなかった。

 そうしている間に、最後の夜がやってきた。ついさっき終わった学年末パーティで寮杯が手に入らなかったからか、明日の朝には列車に乗り込むことになるからか、皆特に騒ぐこともなく荷造りに忙しそうにしている。暇潰しがてら時々その準備を進めていた俺たちはすぐに済んでしまったから、彼はベッドで最近覚えようとしている魔法の練習をしていて、俺は窓から見える湖の、時折通る魚や魔法生物を眺めていた。
 分厚い石壁を通して届く水の音が心地よくて、どこまでいっても自分はこの寮の魔法使いなんだと思い知らされる。そういえば、他はどんな部屋なんだろう。場所くらいは辛うじて知っていたけど、興味を持った事がないし特別仲の良い相手もいなかったから、六年目が終わる今になっても全く知らない。彼はここでの七年間を、どんな部屋で過ごしていたのかな。トントン、と肩を叩かれてゆっくり顔を上げる。
「暇なら、飲み物でも入れに行かない?」
「あぁ⋯⋯いいよ」
 連れ立って談話室へ行くと、多くの寮生が荷造りに追われているのかほとんど人はいなかった。数人がソファに腰掛け、静かに本を読んでいる。
 七年生はもう出ているから下級生ばかりなその様子を眺めている間に、二人分のグラスを持った友人が戻ってきた。別に序列なんてないつもりだが、こういう時はいつも彼がやってくれるし、俺もなんとなく任せているからそうなのかもしれない。
 空いていたスペースに腰掛けると、ちらとそれを見た下級生が読んでいた本を閉じて出て行った。誰だっけ、何か関係のある家の子だっけ、そうぼんやり考えても全く頭が回らない。
「気を遣わせたかな。お前、目立つ仕事はしてないけど一応監督生だもんね」
「⋯⋯そっちか。何か関係のある家の子かと思ったよ」
「へぇ? そういうの、忘れるわけないだろ」
「そうなんだけど⋯⋯」
 呟き、そっとグラスに口をつける。そうか、人前に立つ仕事はいつも他のメンバーに任せきりだし、与えられた特権だってほとんど使ってなかったけど、次年度は最高学年だから流石にもっと色々しないといけなくなるだろう。⋯⋯次年度、か。
 結局同じところへ辿り着く思考に、思わず溜息を吐いた。
「来年からは、少しくらい監督生らしくしないとね?」
「⋯⋯今、全く同じことを考えてたよ」
「そうだな。⋯⋯まずは、せっかく許されてるのに君はほとんど使ってないあの豪華な浴室を使ってみる、とか」
 思わず顔を上げた。目が合っても相手は肩を竦めるだけで、すぐ視線を逸らす。視線の先にある談話室の大時計へ目を向けると、外出が禁止される時間まではまだ余裕があった。
 七年生だけで静かに行われるという卒業の儀式は、軽く耳にした程度で詳しくは知らない。しばらく手元のグラスを見つめて逡巡したのち「そうだね」と囁き、中身の残ったそれを置いて立ち上がる。彼も、黙って本を読んでいたもう一人の下級生も、何も言わなかった。


*


 自分の足音しかしない深夜の階段を上がってゆく。こんな時間に自分の事情で寮を出るのは、六年間過ごしてきてほとんど初めてのことだった。昨年その権利を与えられてから数回しか使ったことのない監督生用の施設に向かうことはせず、そのまま廊下を何度か回って外へ出る。すぐ目の前の温室の鍵は、開いていた。

「⋯⋯来ると思っとった」

 初めて会った日と同じ椅子に腰掛け、彼はやさしく微笑んだ。その手には珍しく何の本も持っていなくて、代わりに大きなトランクが無造作に地面へ横たえられている。黙って歩み寄って隣に腰掛け、そっと肩にもたれ掛かった。
「初めてやで。こんな時間に外出したの」
「ふは、その変なイントネーションも最後やと思うと惜しいなぁ」
「ええよもう、下手で。開き直ったからめちゃめちゃ使うたるねん」
「ちょ、やめてやめて、腹痛い」
 唇を尖らせながら横を見ると、彼は大口を開けて笑っていた。あの夜もこの数日間の空白もまるでなかったかのような空気に、嬉しいのか寂しいのかわからなくて感情が忙しい。
「⋯⋯何時なん? 確か、船で出るんやんな」
「あ、知ってるんや。さすが監督生。実はなぁ、もう時間過ぎてんねん。だからはよ行かな卒業できひんかも」
 なんでもないように告げられた言葉に思わず目を見開き、立ち上がった。目が合っても、彼は平然と笑っている。
「そ、は、早く行かないと⋯⋯! ていうか俺が来なかったらどうするつもりで、」
「言ったやろ、来ると思っとってん。それに、これ渡しときたくて」
 そう言ってローブのポケットから彼が取り出したのは、いつか見せてもらったここの鍵だった。チャリ、と音を立てたそれを呆然と掌に乗せ、見つめる。
「まぁ、実際そこそこ信頼されとったから。信用できる子にあげていいですかーって聞いたらあっさり許してもらえたんよ。だからそれ、好きに使い。ただ一人になりたい時に来たっていいし、まぁ俺は、もうちょっと薬草とかに興味持ってもらえたら嬉しいけど」
 そう笑って渡されたそれは小さくて軽くて、だけど彼がここで得た信頼や努力の証だ。俺には余りに勿体無いそれをぎゅっと握りしめてみても、彼が言ったようにここで過ごす自分を思い浮かべても、ただ寂しさが募るだけだった。
 彼は座ったまま、真っ直ぐな目でじっと俺を見上げている。そこに映った俺の目は、きっと子供みたいな縋る色を浮かべていることだろう。でも、⋯⋯でももう、我儘も泣き言も言わない。その整理をつける為に、この数日間があったんだ。
「こんなん、意味ないやん。だいきが居らんなら」
「⋯⋯⋯⋯」
「でも、ありがとう。責任持って、大事にする」
「⋯⋯おう。まぁ監督生やからなぁ。俺も先生も、心配してへんよ」
「そ、っか」
 そんなもの、偶然俺の代には大きな名家の子がいなくて、問題も起こさずある程度模範的だったから回ってきただけの称号だ。だけど彼が、どれだけ成績や態度が良かろうときっとそれには届かなかった人が大切そうに言うから、最後の一年くらいはもう少しそれらしく振る舞ってみようと思えた。
 本当に時間がまずいのだろう、時計を見た彼が黙って立ち上がり、トランクを手に取る。咄嗟に倒れ込むように抱きつくと、すぐドサリと大きな音を立ててそれを落とした腕が、キツく抱きしめ返してくれた。
 ふわりと自分を包む、この数週間で俺に染み付いてしまったあたたかさ。泣かないよう、必死に目を瞑りながら彼の体温を、匂いを、その全てを身体と心に焼き付ける。忘れないように。いつだって何度だって、思い出せるように。

「なぁ、だいき」
「ん?」
「後悔、せんとって。俺に出会ったことも、一回諦めたことも、ここで出会ったことも、あの夜も、今抱き締め合えてることも」
「⋯⋯うん」
「俺、だいきのいる世界を知れて、よかったわ」

 目を見て、ようやくちゃんと作れた笑みでそっと口付ける。そうしたら彼は見たことないくらい、顔をくしゃくしゃにして俯いた。

「はは、何その顔。それ我慢してる顔なん?」
「うっさい、ぼけ⋯⋯くそ、好きや、大好きや⋯⋯せっかくカッコつけてそのまま居なくなろうと思っとったのに⋯⋯」
「そんなん許さんよ、どんだけ振り回されたと思ってんねん。⋯⋯ほら、はよ行って。俺は留年してくれてもいいけど、嫌なんやろ?」
「⋯⋯そう、やな。⋯⋯⋯⋯はーー! 行くかぁ!」
「うん。気を、⋯⋯気ぃ、つけて」
 トランクを渡しながら言うと、彼は「まぁ及第点かな」となんだか切なそうに笑って、最後にもう一度だけ俺の頭を撫でてから彼の七年間が詰まった荷物を手に掴んだ。俺は一歩も動かず、温室の扉へ向かう彼を見送る。
「ほんなら、⋯⋯さよなら、やな」
「うん。だいき、」
「ん?」
「⋯⋯どうか、ずっと幸せで」
 夏の夜風が、あの日と同じように彼の黒髪を揺らす。一瞬面食らったような顔をした彼は、すぐ顔を解けさせ、歯を見せて笑った。
「おう! ともも、真面目すぎるとこあるから、あんま無理すんなよ」


「⋯⋯⋯⋯うん」
 誰も居なくなった小さな空間で、呟く。トランクのせいか重そうな足音が走り去るのを聞きながら、とさ、と二人掛けのベンチに崩れ落ちた。空を見上げ、零れそうな涙を堪える。
 いつも通りどんよりと重い空の下。悲鳴をあげている心臓に手を当て、笑った。心って、こんな風にも痛むんだな。痛くて、苦しくて、だけどほんの少し、あったかい。

 その夜、初めて来た時と同じように小舟へ乗って彼らは七年間過ごした学び舎を去り、それを見送ったホグワーツ城は無事その一年を終えた。


*


 翌朝、俺と友人はいつも通り低いテンションでホグズミード駅へ向かう馬車に揺られていた。どうせ何度か会うだろうから、長い休暇に感じる寂しさも無い。
「⋯⋯そういえば、上手くやったよね」
「ん?」
「噂だよ。すぐに聞かなくなった」
「あぁ⋯⋯」
 上手く、やったのかな。あれだけの人が見ている前であの態度をとったのだからそうかもしれないが、その程度で消える噂ならどうせ皆本気で信じてはいなかったのだろう。それが、俺の六年間の一応の功績だったのかもしれない。
 いつもは乗らない監督生用のコンパートメントに行くから、と彼と別れ、乗り込む。人前に立つ仕事を嫌う俺の代わりによくやってくれている同学年のもう一人の監督生が俺を見て驚いたような顔をしたけど、軽い嫌味を言われただけですぐ親しげに話してくれた。口や他所への態度が悪いだけで、結局同胞意識の強い奴が多いのだ、本当に。

 長い列車旅はなんだかんだ雑談をしている間に終わり、来年の抱負を言い合って彼女と別れた後はすぐ、駅で待ってくれていた母と合流した。
「おかえりなさい」
「ただいま戻りました、母上」
 形式だけの堅い挨拶をし、そのまま大層な実家へ戻る。父はいつも通り仕事らしく、恭しく挨拶してくる屋敷しもべ妖精以外、誰もいない。家に入った途端表情を柔らかくした母が、今どこの国にいるのかくらいしか連絡は来ないのだと嘆く。その分自由でいいけど、とも。
 キッチンで趣味の紅茶を入れているその背中を見つめ、そっと口を開いた。
「⋯⋯なぁ、母さん」
 途端にパッと勢いよく振り返った母の目はまん丸に開かれていて、思わず笑ってしまった。いくら何年も使っていなかったとはいえ自分が教えたくせに、面白い人だ。
「実はな、休暇中に一週間くらい日本に行ってみようと思ってて」
「え、⋯⋯え? ほ、本気で言ってるの? もう十七なんだから私は良いけど、お父様が知ったらなんて言うか⋯⋯」
「言われへんよ。バレんかったら、な」
 彼を真似してにやりと笑うと、呆然としていた母は次の瞬間砕けたようにケラケラと笑った。どうせ帰ってこないし、来たとしても上手く誤魔化してあげるから行ってきなさい。それだけ言って何も聞いてこなかった母にやさしく送り出され、数日後には俺はかの国を訪れていた。


 彼の出身地は、言っていたように本当に友好的でお喋りな人が多く、母にそっくりの顔なのに余所者なのがバレていたのか俺は何度も話しかけられてあわあわと困惑した。街並みも、どうしてそうなったのか過程も意味もわからないくらい派手で目がチカチカする。賑やかに過ぎる街を半ば呆然と、引き気味に眺めながら歩いていると、遠くにいた一人の男に目が引かれた。
 相手も俺に気づき、何か考えている顔でじっと見てくる。出来るだけ馴染める服を着たつもりではいたが、やっぱり魔法使い同士は互いに見ると、わかる。
 結局向こうから話しかけてきて何故か簡単に打ち解けられたその人には、この国の魔術や魔法学校について興味深い話を沢山聞けた。世界最高峰と名高い我が校についても当然興味を持たれ、色んな話をした。俺をこの国へ誘った、一人の聡明な男のことも。
 仲良くなった結果あちこち観光案内までしてくれたその人と別れ、一週間の旅を終えて俺は実家に戻った。やっぱり父は一度も戻らなかったらしく、母は嬉しそうに「どうだった」と訊ねてくる。母の入れてくれた美味しい紅茶を傾けながら、俺は微笑んだ。
「良いとこやったよ。それに、あっちで知り合った人には神山、って名乗った」
「本当に? ふふ、こんな日が来るなんて。嬉しいなぁ⋯⋯ところで、どうして学校から戻ってから関西弁なの?」


 部屋に戻り、荷物を簡単に片付けてから俺は机に向かった。何度か手を止めながら、羊皮紙に彼への手紙を書き綴る。
 あなたの故郷に行ったこと、そこで同い年の友人が出来たこと、聞いていた料理はだいたい全部食べてみたこと、友人からあの国の魔法学校について沢山聞けたからもう俺の方が詳しいかも、なんてこと。⋯⋯だけどやっぱり、本当はあなた自身と行きたかったこと。思いつくままに書き続けたそれは、随分長くなってしまった。ペンを置いてしばらく眺めたのち、クルクルと纏め、梟に託す。
「見つからなかったら、無理せず戻っておいで」
 そう言いつけてから窓を開け、飛び立つ姿を見送った。
 それからは休暇らしくまったりしたり、勉強したり、時にはそれらしく社交の場に顔を出し、当然来ていた友人にこっそり日本土産を押し付けて本気で驚いた顔に笑ったりしながら、過ごした。それでも心はいつもどこか、彼に囚われている。
 そんなある日の夜、自室で机に向かっているとコンコンと窓が鳴った。梟が帰ってきたんだ。その爪に掴んでいる手紙は俺が書いた物のままで、苦笑した。分かってた、つもりだったのにな。
「⋯⋯長い間、よく頑張ったね。ありがとう」
 背を撫でてあげると、疲れたのかすぐ眠たげな目をさせたから止まり木へ連れて行って扉を閉めた。
 届かなかった手紙をしばらくじっと見つめ、机の引き出しを開ける。わざわざ空っぽにしたそこには、彼が作ったあの人型の紙がぽつんと大切に保護して置いてある。これを使う手もあったが、あの子がこれだけの期間探して見つけられなかったなら、きっと届くような距離には居ないんだ。
 それに、彼が俺に残してくれた形あるものは温室の小さな鍵とこれだけ。だからこれはまだ、いいや。
 俺の目の前でただの紙をふわりと変えてみせた彼の横顔を思い浮かべ、目を細める。隣に手紙を並べてそっと引き出しを閉め、鍵を掛けた。


*


 休みなんて、長いようであっという間に終わる。一度だけ顔を出した父に変わりないことを報告したら、堅いお褒めの言葉を告げたその人は翌朝にはもうどこかの国へ飛んでいた。忙しない人だね、と母と笑い合う。約束もしてないのに教科書を買いに行った先でバッタリ会った友人にお互い渋い顔をしながら、なんだかんだ連れ立って買い物も済ませた。最後の一年が、始まる。
 大荷物を抱え、いつもより少し遅い時間に駅に着いた。監督生用のコンパートメントに座るなら、早く行って席を確保する必要はないからだ。別れを惜しんだり忘れ物に騒いだりと賑やかなホームで自分も母と簡単に挨拶を交わし、トランクを手に取る。そうして、ふと顔を上げた。
 人でごった返すホームをどれだけ見つめても、彼の姿は無い。どこにもいない。だって彼は卒業したし、今はどこか、手紙すら届かないほど遠くにいて、俺はそれを何も知らないのだから。


 発車を知らせるベルが鳴り、何人もの生徒が慌てて飛び乗っていく。
 どうしたの、と心配している母に黙って笑みを返し、俯いた。勝手に諦めて、そのくせ最後に微かな、だけど強烈な思い出だけ残していなくなってしまった人。⋯⋯好きだった。俺には言わせてすらくれなかったけど、大好きだったんだ。

 彼と別れを告げた最後の夜から初めて、ポタリと涙が落ちた。薄汚れたホームに落ちたそれを足で踏み、顔を上げる。最後の最後に及第点を貰えた言葉で、俺は笑った。

「⋯⋯ほんま、ズルい人やなぁ」


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