Fall into a DMC-12



 呼び出したのは相手の方だった。

 互いに忙しい仕事の合間を縫った些細な時間。待ち合わせ場所は、時々利用している二人の職場にほど近いカフェだ。いつも通り時間より早めに着いた自分と、時間ぴったりに現れた相手。ビルの角から覗いた見慣れたはずの顔は、前に見た時より随分と酷い有り様になっていた。
 それを目にした瞬間グッと胸が締め付けられるのと同時に、努めて冷静な心で考える。⋯⋯今日が、覚悟を決める日なのかもしれないと。

「⋯⋯いつもごめん、な。かみちゃん。大事な昼やのに」
「ううん、俺もそろそろ会いたいと思っとったし。大体いつも言ってるやん。俺の部署、昼は割とそれぞれのタイミングで取るから緩いって」
「そう、やけど⋯⋯」
 俯いて指先を何度も擦り合わせているしげは、長年片思いを拗らせた幼馴染でもある男は、左手の薬指に嵌った指輪をそっと何度も撫でている。焦点の合っていない瞳で見つめられたそれは名の通ったブランドの一品で、持ち主の表情とは裏腹に光が差すたび上品な煌めきをチラチラと揺らす。俺はそれを無表情で見つめ、こくりと唾を飲んだ。
 ──こいつと出会ってもう、十年以上にはなるだろうか。小学校で出会い、それからずっと誰より近くで想いを募らせてきたこいつは、あるとき突然、知りもしなかった女と籍を入れた。会社の共通の友人の紹介で出会いそのまま流れるように交際に至ったという二人は、女側からの押しであっさり生涯を共にする約束を交わしてしてしまった。そんな相手の顔を見ることが初めて叶ったのは、式を挙げる一ヶ月ほど前になってようやくのことだ。
 あいつにはあまり似合わない、今風の小洒落たカフェ。当時はさほど好きでもなかったコーヒーをブラックで口に含みながら二人の馴れ初めを聞かされた時間のことを、今でも鮮明に覚えている。たった一度紹介されただけで相性が悪いように感じたその夫婦は、予想通り、結婚後間もないうちから関係を歪に変えていった。その結果が、これだ。
 かつて太陽みたいな笑顔を作っていたこいつの目元にはいつからか隈が消えなくなり、今日はそこに新しく赤い痣が浮き上がっている。痛々しいそれに、テーブルの下で手のひらをギリギリと握り締める。相性が悪そうだとは感じたが、女が隠し持っていた気性の荒さまでは見抜けていなかった。
「⋯⋯それ、また手出されたん?」
「え? ⋯⋯あぁ、うん。見苦しいよな、ごめん。でも大したことないし、それでちょっとでもあいつの憂さ晴らしになるならまぁ、俺が我慢すればいいだけやから」
「しげの気持ちは誰が守ってくれんねん⋯⋯」
 溜め息を吐き、運ばれてきてから手をつけていないコーヒーカップにようやく口をつけた。舌の上に広がるほろ苦さ。底の見えないまろやかなクリーム色の水面が揺れる。それをじっと見下ろした俺の冷たい瞳をちゃんと見ることもなく、しげはふにゃりと痛々しい笑みで微笑んでいる。
 こいつが俺と、⋯⋯いや、人とちゃんと目を合わせなくなって、どれほど月日が流れたのだろう。いつも視線は下向いていて、口を開けば一言目には「ごめん」と重い言葉を落とす。
「今かみちゃんが聞いてくれてるやん。こんな愚痴ばっかり毎度毎度聞かしちゃって申し訳ないくらいやで」
「俺がそれを面倒に思うようなやつやと思ってる?」
「⋯⋯ありがとう」
 ふとしげの目元が和らいだ。いつもよりは少し、マシな笑顔だ。だけど俺が好きになったものとも、十年以上見続けた愛しいものとも違う。次いで俺の前に運ばれてきたチョコレートケーキを見て、しげは「相変わらずやなぁ」と笑った。微笑み、フォークを差し込む。⋯⋯違う。お前も俺も、二人の間にあるものも、何もかもが別物になった。変わらないことなんてきっと、胸に抱えたこの想いくらいだ。
 本当は、ここ一年ほど身体のために甘いものは控えていた。だけどそれをこいつは知らない。何度も会っているのに、気がついていない。むしろこうして昔のように俺が振る舞うと、どこか安心したように笑うんだ。懐かしいなぁ、変わらんなぁ、と。
 きっととっくにこいつの中で時間は止まっていて、無意識で過去に戻りたいと願っている。だから俺が昔のように振る舞うだけで喜ぶんだ。誰にだって平等に時間は流れていて、こいつがどこの馬の骨とも知れない女といつの間にか将来を誓っていたように、俺はかつての真っ直ぐな自分へとうに別れを告げていたのに。
 フォークからとろりとチョコレートが流れ落ちる。ゆっくり口に運ぶと、久しぶりの甘さが重く胃にのしかかって思わず少し頬が緩んだ。⋯⋯案外、今の自分にはお似合いの味かもしれない。
「うまい?」
 しげが微笑む。そう信じて疑っていない瞳で。
「うん。一口いる?」
「や、ええよ。かみちゃん食べ」
「美味しいのに」
「ふふ、優しいなぁ⋯⋯かみちゃんはずっと、⋯⋯ずっと昔から、優しいまんまや」
「⋯⋯⋯⋯」
 どれだけ見つめても目は合わない。しげはずっと、俺を通してどこか遠くを見つめている。もう一口ケーキを口に運び、咀嚼する。口元についたチョコレートソースはわざと拭わなかった。
「しげ、最近どれくらい寝れてる?」
「ん? ⋯⋯さぁ、夜中まで話聞いたることが多いし、寝とっても何回も起こされるからなぁ。どんくらいかなんてわからんわ」
「そうやって話聞いたげてる時に殴られんの?」
「まぁ。⋯⋯なんていうんかなぁ。最初は穏やかなんやけど、ヒートアップしてくると手が出てまうねんなぁ。あいつはあいつでストレス多いねん。この春異動あったばっかりやし、上司キツいみたいやし、後輩も、なんか適当やねんて」
「ふぅん。それが人殴っていい理由にはならんと思うけど」
「⋯⋯まぁ、そうやけどさ。でも言うても女の力やから大したことないよ。そういうのも受け止めて支えたんのがさ、結婚するってことなんやろ」
「こんな痕作ってるくせに?」
 そっと目元に手を伸ばした。いつも丁寧に手入れしている指先で優しくなぞると、しげは少し目を見開いて、⋯⋯ようやく俺をちゃんと見た。ぱちぱちと瞬きを繰り返し、ゆっくりその頬が赤くなる。あぁ、こういう変なところで無垢で純真なのが可愛いんだよなぁ。
「び、びっくりした。そんな目立つ? なんか貼っといた方がええかな。でもそういうことするとあいつを刺激しかねんからなぁ」
「⋯⋯⋯⋯」
「ていうかかみちゃん、口チョコ付いてるで。取ったるからじっとしとって」
「うん。⋯⋯ありがとう」
 テーブルにナフキンがあるのにしげはわざわざポケットからハンカチを取り出し、そっと俺の口元を拭った。こいつの方から俺に触れてくるのは随分久しぶりのことだ。昔より細く骨ばったその手に自分のものを重ねると、大袈裟にびくりと跳ねてハンカチがテーブルへ落ちた。しげは目をまん丸にして俺を見ている。片手でハンカチを拾い上げ、優しく、愛しい男の細くなってしまった手のひらを握りしめた。
「これ、洗って返すわ。今日は俺の使って」
「ぁ、え。そ、そんなんええのに。ていうか手、」
「あのな? 俺さ、しげには幸せでおってほしいねん。いつも笑っててほしい。お前が甘いもの食べてる俺を見て嬉しそうにするのと同じように、俺もお前には昔みたいに歯見せて笑っててほしいねん。わかる?」
「⋯⋯ごめん。そうやんな。こんな会ったって愚痴しか言わんやつ、かみちゃん楽しくないやんな」
「ううん。しげ、ちゃうねん。そうじゃないねん。俺は昔からどんなしげでも大切に思ってるし、時間作って俺に会いたいと思ってくれるだけで嬉しい。でもそのしげが楽しそうに笑ってて、目に隈もなかったらもっともっと嬉しい、ってこと」
 鞄にそっとハンカチを仕舞い込む。空いた両手でしげの手を包み込むと、それをしげはぼんやりと、どこか呆けたようにして見つめていた。今、何を考えているんだろう。誰のことを想っているのだろう。心の芯をガリガリと限界まで削り取られたこの男は、きっと今軽く指先で押すだけで倒れてしまう。
 嫉妬と悔しさ、それから高揚感の入り混じった複雑な感情の渦にじわりと手が熱くなって、それを誤魔化すように何度もしげの細くてカサついた指をなぞる。
「⋯⋯言いたいこと伝わってる?」
「うん。⋯⋯かみちゃん、優しすぎるわ。そんな優しくせんとって。俺、が⋯⋯自分で選んだ道なんやから」
「一回決めた道は永遠に引き返すことも道を変えることもしちゃあかんの? しげの人生やのに?」
「そう、やけど。でも⋯⋯、」
「それにさ、しげが我慢すればいい話なんかな。合ってないだけなんちゃう? あの子だって、殴ったり喚いたりしなくても穏やかに過ごせる相手がいるんかもしれへん⋯⋯で?」
「⋯⋯⋯⋯別れろって、言ってる?」
「そう決めつけるわけじゃないけどさ、しげが幸せに生きられる道を俺も一生懸命探してる、って話。さっきも言ったやろ、笑っててほしいねん」
「⋯⋯うん」
 じっと見つめていないと分からないほど微かに首肯したしげの顔は曇っていた。責任感の塊みたいな人間だ。だけどそんなの、昔からずっとそうだった。分かりきっていたのだから、初めからこいつ自身に全てを決めさせるつもりだってなかった。だってそれをするにはこの男は、優しすぎる。
 同性、それも男同士の友人にしては異質なこの触れ合いすらあっさり受け入れたのか、しげはやんわりと俺の手を握り返していた。これも、昔から変わらない。誰にだって優しくて明るいこいつは、だけどその中でもいっとう俺に甘かった。俺のすることにはなんでも笑ってくれたし、いつだって俺を見る目は優しく微笑んでいたし、俺の頼みに首を横に振ったことなんて一度だってない。
 あの結婚すら、俺が一言「やめておけ」と言えば一度踏み留まるくらいならしてくれたのかも知れない。⋯⋯たぶん、きっと、そうだ。この数年間、それを後悔しない日はなかった。『良心』なんていう聞こえだけは良いものに甘えて、他人の幸福を遮る罪悪感から逃げ出したんだ。壊れることなんて俺の目には分かりきっていたのに。
「しげ」
「⋯⋯ん?」
「まだまだ、人生長いで。なんかやりたいこととかないん?」
「⋯⋯⋯⋯やりたいことかぁ」
 そっと窓の外へ視線を向けた横顔をじっと眺める。⋯⋯ごめん。ごめんな、しげ。きっと俺なら止めることができた暗闇への道を見送ってしまって。傷つくことを恐れ、全てを飲み込んでしまって。
 お前の綺麗な顔に傷がつくところなんて一度だって見たくなかった。甘くて優しい声が口癖のように謝るところも、いつだって眩しいほどに光を反射して輝いていた目元に隈ができるところも、想像すらしたことがなかった。なぁ、どうか分かってくれ。無理やり口角を上げて歪に笑うお前なんて、お前じゃないんだよ。
 だけどまだ遅くないんだ。今の俺なら、地獄のような後悔の波にかつての自分を流して葬った俺なら、お前以外どうだっていいから。お前が笑って生きてくれる、そのためなら。なんだってできるから。
「⋯⋯旅行、したいかなぁ。温泉とかやったらインドア派のかみちゃんでも来てくれるやろ?」
 やりたいこと、って言ったのに。当然のように俺との旅を口にしてしげは笑った。愛しさで胸がいっぱいになって、ギュウギュウと痛む心臓にそっと手を当てながら目を細める。
「もちろん。今の時期なら空いてるんちゃう? まったりできそうやん」
「え、今行くん? それは流石に無理やって、もっと先の話っぽい感じやったやん」
「そんなん言ってたらしげいつまで経っても行ってくれへんもん。時期の目標決めちゃうのは悪くないやろ」
「そ、そうかもしれんけどさぁ⋯⋯」
 オドオドしている様子を笑い、腕時計に目をやった。流石にそろそろ戻らないと拙そうだ。それだけで伝わったのか、しげも黙って荷物を持ち席を立った。その手に当然のように握られた伝票に溜め息が漏れそうになるが、言ったところで「話聞いてもらったの俺なんやから」だなんだと譲ってもらえないことが見えているから口を出すのはやめてしまった。
「じゃあ午後からも頑張ろ」
「うん。いっつもありがとうな、かみちゃん」
「ええよ、俺も顔見れて嬉しいから。次はもうちょっと元気そうやったらもっと嬉しいけど」
「⋯⋯努力はするわ」
「ふふ。じゃあな。あ、ごちそうさまでした」
「ん、気ぃつけて」
 カフェの前で手を振り、会社へ向けて歩き始める。すぐ足を止めて振り返ると、会うたびに細くやつれていっている背中がスーツの幅を余らせながら歩いていた。無意識に噛み締めていた奥歯がギリと音をたてる。
「⋯⋯待っとって⋯⋯絶対、絶対俺が⋯⋯⋯⋯」





「⋯⋯あれ、神山くん? 珍しいですね」
「ん? うわもうこんな時間!? うーん、もうちょいやりたかったけど明日でええかぁ。今日ちょっと昼取りすぎてんな」
「あぁ、言われてみれば戻り遅かったっすもんね。なんかあったんすか?」
「んー⋯⋯まぁ」
「おっ、濁すなぁ」
 カノジョですかぁ、と楽しそうに小突いてくる同じ部署の後輩は、今から帰るところだったらしい。
 キリがいいところまではやったし自分も切り上げることにして荷物をまとめていく。一緒に帰る気でいるらしい後輩は、鞄をぶらぶらさせながら今日の会議で新しくうちの部署に回ることになった仕事について愚痴を垂れ流している。
「は〜あ、あれ絶対うちじゃなくてもいいやん。最近IT部また人増やしたって言ってませんでした? それでこれって何してるんやろ」
「やめとき、どこで誰が聞いてるか分からんねんから」
「まぁそうやけど、この時間まで残ってる人なら同意してくれるでしょ」
「⋯⋯ふ、楽観的やなぁ」
 照明も落とされた社屋を並んで歩く。自分より随分高い背丈の隣の気配があんまりにもソワソワしているものだから、諦めて息を吐いた。
「言っとくけど、彼女ちゃうで」
「あ、先言われてもうた。なぁんや、珍しい話が聞けるかと思ったのに。⋯⋯ずっと気になっとったんやけど、神山くんモテんのに全然そんな気配ないですよね。もしかして男が好きなん? それでもその顔ならいくらでも相手いそうやけど」
「なんやねん、今日はよう喋るなぁ⋯⋯ずっと好きなやつがおんの。男っていうのはまぁ、当たり」
「⋯⋯はぁ〜〜! 一途! イメージ通り!」
「うるさ⋯⋯わかってるやろうけど、ここだけの話にしてや。信用してるから言ったんやで」
 チン、と可愛らしい音を立ててエレベーターが止まった。並んで乗り込めば、たった二人だけを載せた大きな箱は音もなく地上へ滑り降りていく。気だるい仕事の疲れと沈黙が空気を覆い、だけど何をどう話すか考えているんだろうな、というのが伝わってくる。特段言うこともなければ隠すこともない自分は黙って爪先を眺めていた。
 自分より三年あとに入ってきて教育担当に充てられたこの男は、仕事がよく出来て人当たりも良くて、入社してすぐの頃から周囲にも馴染んだ所謂手のかからない新人だった。当時はいい後輩を引き当てたものだと喜んだものだが、何故かやたらと懐かれてしまった結果、数年を経てとっくに教育担当を外れた今もこうして引っ付かれたり業務以外で話しかけられることが妙に多い。
 色々と弁えている奴ではあるし嫌なわけではないものの、業務以上の人間関係を作る気がなくて特別良くしてやった覚えもないから何となく、居心地が悪い。昔から、それが好意であっても覚えのないものを素直に受け止められる性格ではなかった。
「男で、ずっと好きなやつ、かぁ⋯⋯。もしかして相手、長く付き合ってる人おるとかですか? 動く気なさそうやん」
「ふ、なんでそんな察しいいん? ていうか俺、動く気なさそうに見えた?」
「見えた見えた。なが〜く安定して付き合ってる人おるか、恋愛に興味ないかのどっちかやろうなぁって思ってましたもん。凪よ、凪」
「よう人のこと見てんなぁ。結婚してんねん、相手。幼馴染で、中学の頃からずっと片想いしてる」
「⋯⋯あちゃ〜⋯⋯御愁傷様⋯⋯」
「うるさいわ」
「あ、バームクーヘン持って帰りました?」
「⋯⋯持って帰ったけど!? なんやねんその顔!」
「だはは、絵に描いたような失恋! しょんぼりバームクーヘン持って帰ってる神山くん見たかったなぁ」
 エントランスに着いてエレベーターが開く。ケラケラと俺より随分高い位置で笑いながら後輩は楽しげに肩を揺らした。自分だってあまりプライベートのことを感じさせないくせに、と口を尖らせる。こんなことなら俺だってもう少し他人のことに目を向けておくんだった。⋯⋯いや、やっぱりどうでもいいや。それなりに話す方ではあるこいつの私生活にだってまるで興味が湧かないのだから。
 外に出ると、少し春が近づいたとはいえまだまだ冷たい空気に包まれて揃って肩を縮める。利便性のいい立地の社屋だが、都会に慣れた身には数分だろうと外を歩くのは辛い。
「はー。既婚者、それも同性かぁ。なかなかキッツいもん抱えてたんですね。もっと若い頃に言ってみようとは思わんかったん? 全く脈なさそうやった?」
「⋯⋯そこまで話す気はないかな」
「うわ、急に線引いてくるやん。まぁ確かに訊きすぎましたね。相談なら乗るんで、言いたくなったら言ってくださいよ。な〜んか、諦めてるって感じもせんし。よく分からんけど」
 思わず横目で視線を向けた。それに気づいた様子もなく後輩は白い息を吐いて「さっむ」と顔をしかめている。本当に勘のいいやつだ。そこまで察していて今まで何も訊いてこなかったのか、と自分の中で少し好感度が上がるのと同時に、ただの職場の後輩だった存在が少し特殊な色を持つのを感じる。
「⋯⋯小瀧」
「はい?」
「当たり」
「え?」
「諦めてない、っていうの」
「⋯⋯何、話す気になりました? 急やな」
「ふふ。お前、思ってたより俺が好きなタイプやったわ。この後空いてる? 奢るから飯でも行こ」
「まじ!? やったぁ、神山くんと仕事外で飯とか皆に自慢できるやん、ガードかったいもん」
「すんなよ」
「せんけど。あ、俺鳥食いたいです。焼き鳥焼き鳥」
「鳥な、ええやん」
 急に足取りを軽くした後輩に並んで歩きながらこっそり口角を上げる。
 口が堅い。察しも良ければ理解も早い。案外いい話し相手を見つけたかもしれない。話すと決めたからには何から何まで曝け出してみよう。他人からしか得られない知見もあるのかもしれないのだから。
 鞄の底に隠れた小さな箱。しげと別れてから少し寄り道をして買って帰ったそれを見た時のこいつがどんな顔をするか想像し、思わずくすりと笑った。
「⋯⋯え、今笑いました?」
「べつに」


*



 週末、土曜の夜。ソファに寝転がってペットに囲まれながら天井を眺めていた。テレビも何もつけていないリビングにはカチカチと時計の音だけが反響している。掃除を欠かさないこの部屋はいつだって埃ひとつ落ちていない。
 ちらとダイニングテーブルへ目を向ける。いつも片づけているそこに所在なさげに並んだ、二つの異物。洗濯して丁寧にアイロンをかけたしげのハンカチと、隣にぽつんと置かれた小さな小さな電子機器だ。焼き鳥を頬張っていた後輩をひっくり返らせたそれは、まぁ有り体に言えば盗聴器というやつだった。
「⋯⋯⋯⋯俺、おかしいと思う? こんなんしようとしてるのにさ、なんの躊躇も罪悪感もないねん」
 腹の上にぺたりと寝転がって眠たげに目を蕩けさせたペットへ話し掛けてみる。片目だけ開けたその子はすぐ再度目を閉じてしまい、微笑んだ。
 ポコン、と部屋着のポケットから通知が鳴る。取り出すと、この前ひっくり返らせたばかりの後輩からメッセージが届いていた。
『言ってたやつ、明日やるんすか?』
「⋯⋯なんでこんな楽しそうやねん」
 こいつも大概おかしな人間で、文面にはわざわざ楽しそうな絵文字が添えられている。ゆっくり指を滑らせて既読をつけると、返事する間もなく着信が鳴った。忙しないやつだ。
「もしもし、最初から電話しいや」
「あっ神山くん! すんませんこんな時間に。俺の方がテンション上がっちゃって」
「ふ、意味わからん。予定通り明日行くつもりやけど」
 よいしょ、と身体を起こす。こんな時間? と時計へ目を向けるとそれはもう日付が回る寸前を示していた。随分考え込んでいたらしい。
「俺も行きたいなぁ。神山くんのずっと好きな人、気になりますもん」
「勘弁してや。話聞いてもらったし、写真くらいなら今度見したるから」
「写真と実物じゃ全然ちゃうやん! あ、じゃあ上手くいったら紹介してくださいよ。ね?」
「う〜ん⋯⋯考えとくわ。⋯⋯ふふ、上手くいく、かぁ。考えたこともなかったな」
「あら消極的」
 立ち上がり、テーブルへ足を向けて盗聴器を手に取る。あっさり手に入ってしまったそれは、カメラ機能まで付いているにも拘らず何にだって忍ばせられそうなほど小さくて存在感もない。だけどそれなりの値段を与えられていたこの人口の耳は、果たしてあの夫婦の歪な関係をしっかり聞き取ってくれるだろうか。
「だってもう十年以上片想いしてきて、結婚式まで見届けてんで。今更自分とどうこうとか現実味ないわ」
「あんなんまで買ったくせに?」
「それは、⋯⋯あいつを解放するためやから。俺はまず、あいつに自由になってほしい。俺の気持ちはその後でいいねん」
「ふは、まぁそうかぁ。でも無事別れさせられたらもう遠慮せんといくつもりなんやろ?」
「⋯⋯それは、まぁ。もう知らん間に知らん人に取ってかれるのはごめんやから」
「ええな〜。神山くん、そういう人やと思っとった!」
「変な奴。⋯⋯いいよ、明日近くまでは来たら? マンションの場所あとで送るわ。近くで適当に待っとったら見えるやろ」
「え、いいん!? ⋯⋯あ、すんません」
「っは、あはは! ええよ別に、会社以外では好きに喋り。じゃあ俺そろそろ寝るわ。住所、送っとくから」
「あ、はい。うん。おやすみなさい」
 プツ、と通話が途切れる。知ってはいたものの訪れたことなんて一度もない、だけど忘れたこともない住所を打ち込み、立ち上がった。
 洗面所で歯ブラシを手に取り、口に含む。顔を上げると、汚れ一つない鏡の中で表情の抜け落ちた自分がじっと見つめ返してくる。思わず睨みつけるようにして表情が硬くなった。⋯⋯綱渡りのような行為だ。愛した人間のために、細い糸を爪先で手繰るかのような賭けをしようとしている。それも、失敗すればあいつとの今までもこれからも、この想い諸共全て消えてなくなるかもしれないような。⋯⋯だけど、だけど上手くいったら?

 ⋯⋯上手くいったら、どうする?
 
 口の中を吐き出し、排水溝に流れていくのを目で追う。断続的な渦巻き。勝手に上がる息を抑えられない。もし。もしも全て上手くいっていつかのあいつを取り戻せたら。俺とあいつの関係もそのまま生きていたのなら。⋯⋯その時、あいつは受け入れてくれるだろうか。この想いを。きっとあいつが思っているのとは別人の、自分という人間を。

「⋯⋯あいつのこと、言われへんな」

 呟き、笑った。
 自分の気持ちはそのあと。まずはあいつを、自由に。脳内で何度も言い聞かせ、蛇口を捻って水を止めた。
 笑って生きてほしい。昔のような底抜けの笑顔で、隈なんてできた事のない綺麗な目に、俺を映して。手遅れになったその全てを、取り戻すことはできなくとも拾い集めるんだ。それが自分にとってに贖罪なのか愛であるのかなんて、どうだってよかった。


*



『──え、今から?』


「うん。ちょうど近くに来とってさ。ハンカチ返すついでにランチでもどうかと思って。急にごめんな」
「あーっと⋯⋯ちょ、っと待ってな? 確認するわ」

 通話口で微かに物音がした。恐らくドアを開けたんだ。近くのコインパーキングに停めた車の運転席でじっと耳を澄ますと、微かに話し声が聞こえ始めた。

『や、ちょっと飯行くだけ。ほら、よう言ってる幼馴染の。⋯⋯そうそう、夜までにはもど、⋯⋯⋯⋯ちょ、ま⋯⋯、ちゃうって、なんで嘘なんかつくねん⋯⋯⋯⋯』

 恐らく予想通りに話が進んでいる。焦っていたのか、しげは会話が全て筒抜けになっていることにも気がついていないようだった。これも、想定内。最近のあいつならきっとそんな余裕はないと思っていた。
 ふと視線を上げると、パーキングの外の路地で私服姿の小瀧が手を振っている。軽く首を傾けて合図をすると、やけに楽しそうにあいつは軽い足取りで近寄ってきた。片手で車のロックを開け、長身を屈めて助手席に乗り込んでくるのを横目に眺める。

『⋯⋯だから、ちゃうって!! 毎晩お前の話聞いてんのにそんな時間どこにあんねん⋯⋯! ⋯⋯⋯⋯ぁ、いや、ごめん。俺が悪かった、迷惑なわけちゃうから、そんなん思ってへ、ッ⋯⋯! ⋯⋯ったい、なぁ⋯⋯すぐ手出すん、やめろって⋯⋯⋯⋯』

「⋯⋯どんな感じ?」
「揉めてる。また手出しよったわあの女。そろそろ口はさ⋯⋯、」

『⋯⋯わかった、わかったって!! 近くに来てるみたいやから一旦呼ぶわ、そしたら信用できるやろ? ほんで絶対夜までには帰ってくるしなんか美味いもん買うてくるから。⋯⋯⋯⋯な?』

「⋯⋯や、決まったっぽい」
「ひぇ〜。ほんまに読み通りやん。頭いいなぁ」
「そうか? ああいう自分勝手な人間ほど相手のこと疑うやん。俺が誘えば予定がない限りあいつは断らないし、そうなるとあの女は絶対反発すると思った。で、近くに来てれば自然と「じゃあ呼ぶから」ってなるやろ」
「うーん、まぁそうか。俺その人のこと知らんしなぁ」

『⋯⋯もしもし、かみちゃん?』
「っあ、はいはい。どうやった?』
『や、えっと。それよりごめん、俺もしかして話全部⋯⋯』
「え? や、聞こえてなかったけど。なんかあったん?」
『あ、いやそれならいいねん。⋯⋯えっと、近くまで来てるんやんな? あの、悪いんやけどちょっと準備に時間かかるからさ、一旦うち来てくれへん? 待たすの悪いし。あの、ほんまに。遠慮せんでいいから』
「⋯⋯そう? じゃあお邪魔しよかな。五分もあれば着くと思う。⋯⋯うん。じゃあ行くわ。そんな謝らんとってや、急に誘ったの俺なんやから。⋯⋯うん、ほな」

 タン、と軽く画面をタップして通話を切る。隣で小瀧が音を立てずに拍手していた。
「やー⋯⋯お見事。ていうか別人やん、めっちゃ声甘くて俺がドキドキしてもうた」
「お前にされてもなぁ⋯⋯。よし、じゃあ行くから車出て」
「はいはい」
 一番気に入りのものを持ってきた鞄を手に取り、運転席を出た。ついですぐ助手席から小瀧が伸びをしながら出てきて、意識してないんだろうが一々鼻につくその動作をじっとり眺める。
「あれ? 二人の住んでるマンション」
「そう。結構いい所やろ、あいつ収入いいから」
「え、神山くんより? すごいなぁ。俺二人見送ってからもこの辺ぶらついてるから、なんか手伝えることあったら連絡して」
「⋯⋯⋯悪趣味なやつ」
「へへ」




 小綺麗な、確かまだ新しいという分譲マンション。途中すれ違った人に何度か頭を下げながら辿り着いた玄関先でインターホンを鳴らすと、すぐに開いたドアから疲れた顔のしげが顔を覗かせた。その片頬が軽く腫れているのには気が付かなかったふりをし、眉を下げる。
「ごめんな、急に」
「や、ええねん。俺こそわざわざ来さしてごめん。⋯⋯えっと、上がって」
「ん、お邪魔しまぁす」
 靴を脱ぎながらさりげなく周囲に目を配らせる。片付いてはいるがこまめな掃除はしていなさそうで、こいつが住んでいる部屋らしくはないと思った。
 そのまま通されたリビングでは、直接会うのは数年ぶりの女が、この世で何より憎んでいる女が、気まずそうに視線を逸らして立っている。休日に約束もなく来たのだから当然だがその顔に化粧は施されておらず、最後に見た披露宴の時の姿とは別人のように思えた。
「どうも、神山です。すみません。突然押し掛けちゃって」
「あ、いえ⋯⋯。いつも主人がお世話になっております」
「そんな、むしろ僕の方が彼に頼りきりなくらいですから。な、しげ」
「ようそんな嘘つけんなぁ⋯⋯。ごめんな、今お茶淹れるから」
「え? や、ええよ。なんか準備するんちゃうの?」
「あ。⋯⋯う、うん。じゃあごめん、ちょっと待っとって」
 ぱち、と瞬きし、しげは足早にリビングを出て行った。一体なんの準備をするのやら、と微笑みながら視線を戻す。目が合うと、女はすぐに逸らしてパッと立ち上がった。さっきの電話に二人の会話は乗っていなかったと伝えたはずだが、疑り深いのだろうか。それとも、どうしたって取り繕えないこの心のうちから滲み出た憎しみが空気を澱ませているのかもしれない。
「すみません。お茶、ご用意しますね」
「あぁ、ありがとうございます。⋯⋯それにしても、随分お久しぶりですね。式の時以来かな」
「そうですね⋯⋯でもお話はよく伺ってますよ、主人は神山さんのことが、その⋯⋯とても好きですから」
「はは、照れるなぁ」
 カチャカチャと台所でお茶の用意をしているのが聞こえる。広いダイニングとキッチンの間には背丈の高いカウンターがあり、きっとテーブルに腰掛けた自分の姿あ見えないだろう。ポケットへ忍ばせておいた機械をそっと音もなく取り出し、さりげなく背後へ目を遣る。女がこちらを見る気配はなかった。
「⋯⋯⋯⋯それにしても、素敵な部屋ですね。二人ではどんな話をするんですか? あいつ、恥ずかしいからって家での話は全くしてくれないんですよ」
 そっとテーブルの裏に盗聴器を貼り付けた。小さなカメラがしっかりリビングの方へ向いていることを確認し、なんでもないような顔をして語り掛ける。女はどこか言い淀むようにしながらゆっくり盆を運んできた。
「話、ですか⋯⋯。あの、お砂糖とミルクどうされます?」
「このままで結構です、ありがとう」
「いえ。⋯⋯仕事の話が多い、ですかね⋯⋯私もあの人も仕事は好きですから」
「⋯⋯へぇ」
 出されたコーヒーに口をつける。そっと視線を上げると、女は正面に座っていながら全く目を合わせようとはしなかった。馬鹿だな、と目を細める。仮に本当に俺が何も知らなかったとして、こんな態度じゃうまくいってないと自ら訴えているようなものだ。あるいは、ある程度バレていると踏んで被害者面でもしようとしているのか? 思考を巡らせ、用意していた言葉を入れ替えていく。
「⋯⋯神山さんは、ご結婚されてないんでしたよね」
「あぁ、はい。一応何年か付き合っている恋人はいるんですけど、僕こそワーカホリックというか⋯⋯あまりそっちに気持ちも時間も割けなくて。向こうも自由な人だからそれでいいって言ってくれてはいるんですが、それでもこうして同世代が幸せを築いているのを見ると少し羨ましくなりますね」
 そう告げると、女は初めて顔を上げた。目を合わせ、微笑む。
「結婚はいつでもできますしね。今はこうして、たまに休みが合えば旅行をしたり食事を振る舞ってやったり、あぁ、僕料理が趣味なんですけど⋯⋯、そんなのでいいかなぁって」
「⋯⋯へぇ」
「まぁ勿論いつかは一緒になってほしいと思ってますけどね。今はまだ僕にその甲斐性はないかなぁ。する以上は、ほら、何より幸せにしてあげられる、って自信が持てていないと。⋯⋯あ、あいつには彼女がいることは話していないので、ここだけの話にしてください。ほんとお互い自由にやってる間柄だから、結婚までしてるやつに話すのは気が引けちゃって」
「⋯⋯そう、ですか⋯⋯。素敵なご関係、ですね」
「はは、どうだろう。互いに信頼してるから成立していることではありますけど、無責任かなと自分で思うこともあります、よ⋯⋯あ、しげ」
「ごめん待たして。⋯⋯なに話しとったん?」
 さっきと寸分変わらない姿で小さなバッグだけを手に持ったしげが戻ってきた。すっと席を立ち、荷物を持つ。ちらと確認しても取り付けた機械は全く見えなかった。
「しげには内緒。まぁ軽い世間話よ。じゃあ、お邪魔しました。コーヒーご馳走様です」
「はい。⋯⋯行ってらっしゃい」
「ん、ごめんな。夜までには戻るから」
 しげに続いてリビングへ出る。最後に見えた女の顔を思い出し、口角を上げた。思っていたより落ち着いた様子ではあったけど、うまく焚き付けることはできた、はず。
 話で聞いて想像していた通りなら、きっと自分以外の全てが自分より良く見える性格なんだろう。自分の夫と同世代で幼馴染の男と、その恋人。自由で明るく、緩やかで、だけど互いを強く信頼した関係性。空想のそれに、あの女はきっと心を燻らせる。そうしてすぐしげに当たるだろう。
 別に待っていれば同じことは起こるのだから焚き付ける必要まではなかったが、やると決めた以上早い方がいい。靴を履きながら視線を向けると、何かしたのか頬の腫れはほんの少し引いていた。安堵し、ドアを開ける。
「ほんで、飯ってどこ行くん? 行きたいとことかあんの?」
「うん。ちょっと遠いんやけどな、この前ドライブしてたらいい店見つけてん。どう? 遠いっていうても夜までには帰って来れる距離やし」
「あ、うん。じゃあそこにしよか。ごめんな、気使わして」
「はいはい、キリないから謝んの禁止。ほら、行こ」
 さりげなく腕を引き、笑う。半ば無理やり合った目に、しげはどこかホッとしたような色を浮かべていた。二人で休みの日に出かけるなんていつぶりだろう。予定していたことはひとまず全て上手くいったのだから、あとは楽しむだけだ。まだ午後になったばかりで、時間ならたっぷりある。
 青空の下マンションを出ると、少し離れたカフェの前で待ち合わせでもしているかのように平然と立っている小瀧の姿があった。横目で目を合わせ、微笑む。小さく指で丸をつくって目を逸らした。見せてやったんだ、さっさと帰れ。
「かみちゃんの車乗んの久しぶりやなぁ」
「確かに。ていうか二人でちゃんと出かけるの自体たぶんしげが結婚してから初めてやで」
「あー⋯⋯そういえばそうか」
「言ってなかったけど車買い替えてん。びっくりすると思うで」
「え、⋯⋯えっ? びっくりするってなに?」
「それは見てのお楽しみやなぁ」




 高速に乗った車が風を切る。少し窓を開けた助手席でしげは気持ちよさそうに目を細めていた。
「天気いいなぁ」
「な。ドライブ日和やで」
「ふふ。かみちゃんとドライブかぁ、なんか昔に戻ったみたいやな」
 そうだろうな、と言葉にはせず呟く。互いに学生だった頃、揃って運転が趣味だった俺たちは休みのたびに車で旅へ出掛けていた。
 車を買う金なんて当然ないから毎度違うレンタカーで、あちこちへ車を走らせたものだ。どの季節に、どこへ、どんな車で行ったのか。そこでお前がどんな話をして笑ったのか。全て覚えている。いつかあの車乗りたい、あれも運転してみたい、憧れだけなら自由やんな。そんな話を何度しただろう。
 社会人になったら金貯めていい車買って、行ったこともない所二人で行こう。そう約束したことをこいつは覚えているだろうか。憧れていた車を一人で見に行って一人でサインをして、それを話すことすらできなかった俺と、もう一度目を合わせてくれる日は来るのだろうか。
「昔さぁ、あれ大学何回の時かなぁ⋯⋯車で北海道一周したの覚えてる?」
「⋯⋯勿論」
「あれずっと覚えてんねんな。かみちゃん、運転してる時はめっちゃ楽しそうやのにキャンプになるとわーわーうるさくてさぁ、結局毎晩俺がほとんどやっとったやんな」
「得手不得手ってやつがありますからね」
「ふ、⋯⋯うん。俺、それがすごい楽しかってん。昔から何でもできて、できないことも別にそんなできなくても困ることじゃないかみちゃんをさ、俺が初めて助けてあげられた気がして⋯⋯」
 ちら、と視線を向けた。窓の外を眺めながらしげはどこか遠くを見つめている。穏やかに微笑んでいる口元。だけど腫れの残った頬。まだ少し赤い上瞼。
 涙が出そうだった。どこで道を違えたのだろう。どうすれば、こいつのこんな姿を見ずに済んだのだろう。守ってやりたかった。『いつの間にか』なんて生まれる隙も無いほど、ずっと近くにいればよかったんだ。
 思いの外楽しくて、仕事に夢中になってしまった日々。みんなそうだと思っていた。恋や愛、そこから生まれる永遠なんて、もっとずっと先に決めるものなんだと思い込んでいた。十年以上当たり前のように隣にあった存在を、変わらないものだと油断しきってしまっていたんだ。
「⋯⋯⋯⋯俺も、覚えてるよ。しげとの思い出で、忘れたもんなんかひとつもない」
「え、⋯⋯な、なに。照れるやん」
「ふふ、⋯⋯確か五日目の夜やったかなぁ。結構本格的なキャンプ場泊まることになってさ、やることめっちゃ多いし寒いしで俺はクタクタやってんけど、俺の代わりに焚き火見てくれてたしげが空指さしてさ、」
「⋯⋯あ、流れ星」
「うん。俺も慌てて見たけどもうとっくに流れてもうてて。確か俺、色々大変なこと全部やってくれたしげへのご褒美やったんやな、って言ったんよ」
 海が見えてきた。車線を変更し、高速を降りる準備をする。隣でしげが俯いているのが視界の隅に映った。
「でもしげ、それに何て言ったか覚えてる? ⋯⋯またかみちゃんとここに来たいってお願いしたからほんなら毎回見れるなぁ、って」
「⋯⋯言った、なぁ」
「うん。俺、それがずっと忘れられへんねん。しげの見てる世界は綺麗やなって思って」
 高速を降りると、一気に海の近くなった空気が潮の匂いを運んできた。一人でドライブをしていて見つけた店は、もうすぐだ。いつかこいつと来られたら、と、その時にはもう夢のようになっていた思いを胸に抱えながら店の窓から見える水平線を見つめていた。
「⋯⋯⋯⋯温泉より先に、北海道やなぁ」
「⋯⋯そうね。星に誓ってもうたらしいし」
「う、ん。俺⋯⋯俺、忘れとったなぁ。それも、他のことも、あの頃話したこと全部。大人になった途端いろんなことに呑まれて、流されて、かみちゃんとした約束すら、忘れとったんやなぁ。何より大事やったはずやのに」
「はは、そんなん。俺も一緒よ。俺だって、覚えてはいたけど忙しさにかまけて全然連絡できてなかったし」
「⋯⋯ちゃう。ちゃうよ。俺がそうさしてたんや。いろんな約束忘れて、全部に流されて、⋯⋯あんなに二人で話してた車買ったことすら、言わせんかったんや」
 ゆっくりと車の速度を落とす。駐車場に車を入れながら様子を見ると、店内は少し混み合っている様子だった。名前書いてくるな、とだけ言い残し、外へ出る。そっと盗み見たしげは、じっと手元を見つめていた。
 『何より大事だったはずなのに』。しげは、確かにそう言った。ぎゅっと手のひらを握りしめる。頬が熱くなり、ゆっくりと息を吐き出した。落ち着け、落ち着け。まだ何も始まってすらない。まずはあいつを取り戻すことからなんだ。⋯⋯だけど、だけど少しくらい期待しても、いいのだろうか。だって十年以上ずっと当たり前のように隣にいたんだ。二人きりで何度も旅をして、その度に次を約束して、そして幾つかの叶わなかったそれを、あいつは『何より大事』だと言ったんだ。
「いらっしゃいませ! お一人ですか?」
「あ、いや、二人です」
「はーい、今少しお時間いただいてますのでこちらにお名前お願いします」
 ペンを取ろうとした手は震えていた。ゆっくり丁寧に文字を走らせ、時間の目安を聞いてから店を出る。助手席ですぐに顔を上げたしげが俺を見て、微笑んだ。



 夕日に照らされながら車が高速を滑る。結局食事後も少し車を置いて海辺を歩いたり、大きな道の駅であれこれ言いながら買い物して回っている間に時間はギリギリになってしまった。こいつの妻への土産を後部座席に積んだまま、俺の車は少し早足で来た道を帰っている。
「⋯⋯いい車やなぁ」
「やろ? 乗ってもらえてよかったわ」
「うん。ありがとう、誘ってくれて。なんか最近感じたこともないくらい楽しかったわ」
「それは何よりよ」
 コンビニで買っておいたホットコーヒーに口をつける。ふと視線を感じて横目で様子を伺うと、しげは何か言いたげな瞳で俺を見ていた。行きしなは窓の外を眺めていた端正な顔が、じっとこちらを伺っている。
「あ、あのさ、かみちゃん」
「ん?」
「あの⋯⋯朝、リビング入る時に聞こえちゃったんやけど、⋯⋯彼女、おったんやな」
「⋯⋯⋯⋯あ〜⋯⋯うん。黙っとってごめん」
「や、ええねん。俺に言ってなかった理由も含めて聞いてたし。だから、うん。おったんや、ってだけなんやけど」
「⋯⋯うん」
 黙って車線を左に変えた。山間部に入った高速道路は一気に暗くなり、傾いた日の光は届かない。まだ何か言葉を選んでいる様子の隣の気配を、その言葉を、じっと待つ。
「⋯⋯俺もそうやねんから、当たり前なんやけどさ。いつの間にか車変えとって、まったり付き合ってる彼女とかもおって、かみちゃんも変わっていってるんやな。⋯⋯当たり前なんやけど、俺そんなん考えてなかった。なんでか、かみちゃんは変わらずずっと俺の知ってるままのかみちゃんでいるもんやって、無意識に思い込んどった」
「⋯⋯まぁ俺も大人にはなってますから」
「そう、やんなぁ。⋯⋯かみちゃん、それブラックやろ。昔は砂糖もミルクも入れとったしカフェラテが好きやったのに。もしかして、もう甘いものもそんな好きじゃないん? 俺の前では、無理しとった?」
「あー⋯⋯。バレてもうた、ダサいなぁ」
 誤魔化すように笑い、拗らせた感情と嘘を流し込むように残り少ないカップを傾けた。その横顔をしげはただじっと見つめている。ゆっくり視線だけ向けると、すぐに合ったそれは逸らされなかった。視界の片隅に映るSAの案内板。断りなく車を入れても、しげは何も言わなかった。
 どんどん日が暮れていく。もういつの間にか辺りは真っ暗だ。これ以上遅くなったらきっと、あの女は激昂する。それはこいつも俺も分かっていて、だけどどちらも口にしない。車を停めた途端、俺が何か言うまでもなくしげは財布だけ掴んで助手席を出て行った。その背を、ぼんやりと見送る。思考がぼんやりと浮ついて、まるで熱でも出ているかのようだ。小さな車内を包む空気は異質で、この数年間でも、出会ってからあいつが結婚するまでの長い付き合いの中でも経験したことのないものだったんだ。
 ゆっくり腕を上げて時間を確認し、それからあいつの鞄の中で震え続けている携帯に視線を移した。あいつといる時にその妻から連絡が入るのはいつもの事で、だけどそれが音を立てていないのは初めてのことだった。
「⋯⋯⋯⋯しげ⋯⋯」
 しばらく震え続けたそれが、やがて沈黙する。
 惚けた視線を上げると、ビニール袋片手にしげが戻ってくるところだった。だけど助手席じゃなくこちらへ歩いてきたものだから、首を傾けてドアを開ける。
「なぁ、ちょっと運転さしてくれへん?」
「あ、そういうことね。全然ええよ」
「⋯⋯ん、おおきに」
「ふふ、助手席座るの、なんか久しぶりやわ。おもろ」
 何故か少し照れ臭く感じて笑うと、しげはそんな俺を見て何か言おうと息を吸った後、やめた。がさがさ袋を漁ったあと黙って差し出されたそれはコンビニのカフェラテと小さなチョコレート菓子だ。黙って視線を上げると、最近のこいつにしては珍しく、真っ直ぐな目で俺を見ていた。
「もう好きじゃないのわかってんねんけどさ。嫌じゃなかったら今まで通りしてくれへん?」
「⋯⋯いいよ。俺がそうしてたんやし」
「うん、ありがとう。⋯⋯変なこと頼んで、悪い」
「しげが変なのなんて昔からやん」
「そうかぁ?」
 ビニール袋を破ると鼻腔を擽る甘いチョコレートの香り。指先でつまんで見せつけるようにゆっくり口元へ運んだ。舌の上で溶け落ちるそれを味わいながら視線を向けると、しげはハンドルに寄りかかったままじっと俺を見つめている。
 会話の止まった車内に響く携帯のバイブ音。あいつも、俺も、何も言わなかった。



 数時間後。とっぷりと暮れた夜の下、あいつのマンションの下で運転を入れ替わり、「じゃあまた今度」とまるでいつものように手を振って俺たちは別れた。その背がエントランスに消えていくのを見送り、アクセルを踏む。
 静かな夜を滑る、乗り慣れたはずの車。だけど不自然に手が震える。だんだんと息が上がっていく。フロントガラスにぼんやり映った自分は、頬を赤くして薄く唇を開いていた。
 堪らず、近くに見えたコインパーキングへ車を入れた。らしくない荒さで駐車し、震える手で鞄の底から小さな巾着を取り出してひっくり返す。こぼれ落ちてきた端末を掴み取り、後部座席にさりげなく置いておいた仕事用の鞄からノートPCを引っ張り出し、起動した。何か言われた時のためにそうしていただけで、当然私用のものだ。すぐ起動したそれ用のソフトウェア。イヤフォンを接続して再生すると、さっきまで聞いていた甘く優しい声の、俺に向けるのとは違う声が、言い争う声が、聞こえてくる。出所のわからない感情で胸が溢れ、勝手に涙が溢れていく。

『──うん、だから悪かったって。昔馴染みやし、出掛けんのも久々やったから楽しなってもうてん。でも約束破ったのは事実やから、⋯⋯ほら、好きにしてええよ。それで気ぃ済むなら、いくらでも殴ってええから』

『⋯⋯じゃあ何なん? 相手があいつなんはちゃんとその目で見たやろ。もう理由なんか何でもええから俺に当たりたいだ、ッッ⋯⋯⋯⋯いった⋯⋯。は、図星やんけ⋯⋯』

『分かった分かった、話聞くから。何? 何がそんな不満なん? ⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯ふ、そうやなぁ。あいつの方がよっぽど優しくて甲斐性あるやろなぁ。優しいし、穏やかやし、しっかりしてるし⋯⋯⋯⋯まぁ、あいつにお前なんか釣り合わへん、けど⋯⋯ッ』

 今までで一番大きな乾いた音と、大きな、椅子か何かが倒れるような音がした。あいつの呻き声が聞こえる。咄嗟に外しそうになったイヤフォンを震える手で抑え、映像機能にカーソルを合わせた。小さなウィンドウに浮かび上がった映像の中では、愛した男が床に倒れ込んで罵声を浴びせられている。
「ぁ⋯⋯っ、しげ、しげ⋯⋯っ」
 さっきとは違った理由で呼吸が浅くなる。肺が締め付けられる、ような。


『⋯⋯ッ⋯⋯、⋯⋯うん、悪い。ごめん、⋯⋯ごめんって⋯⋯⋯⋯』

「⋯⋯し、げ⋯⋯⋯⋯っ!」


 ぱたぱたと落ちた涙が服を濡らす。あぁ、そうだ。俺はただ事実として知っているだけで、あいつの置かれている苦しみなんて何一つ目の当たりにしていなかったんだ。あいつは、こんなものに何年も晒され続けてきたっていうのか。

 一方的な夫婦喧嘩は日付を回って数時間経つ頃まで続き、俺はコインパーキングの片隅で頬が乾くほどの間ただそれを眺め続けていた。


*


 手のひらに載せた小さなUSBを眺め、煙草を咥えてオフィスの一番奥、隠すように作られた喫煙所でぼんやりと天井を眺めていた。若い人間の多いこの職場では吸うやつなんて自分以外いないに等しい。ほとんど一人になる為に来たようなつもりだったが、遠くから歩いてくる長身を認めて煙と共にため息を吐き出した。
「ども、お疲れ様です」
「⋯⋯お前吸うっけ」
「こういう時のために吸えるようにしとくもんでしょ、これって」
「まぁそうやけど」
 黙って隣に詰めると、軽く頭を下げた小瀧は懐から見るからに触られていない箱を取り出した。ほとんど中身の減っていないそれを咥えて火をつける仕草はだけど慣れていて、まぁそういうやつか、と目をそらした。
「⋯⋯久しぶりに吸うと美味いもんっすね」
「そんな空いたん? 湿気ってるやろ」
「や、これこの瞬間のために最近買っといたやつなんで。神山くん、考え事する時たまーにここ来て吸ってるやろ? だからそろそろかなと思って」
「⋯⋯⋯⋯じゃあなんで減ってるん」
「それはほら、カッコつけやん。サラとかダサない?」
「ふ、言ったら意味ないやろ」
 くだらないやり取りに目が細まる。隣から漂ってくる紫煙は自分のものより甘い匂いがして、似合わないもん吸ってんなぁ、と頬が上がる。
「で、何でそんな顔してんの? 望み通りのもん撮れんかった?」
「⋯⋯⋯⋯アホなこと言っていい?」
「え? もちろん」
「自分の好きな奴が暴力受けてるところ見る覚悟してなかった」
「⋯⋯⋯あ、ああ〜⋯⋯。なるほどなぁ⋯⋯。や、わかるわかる。確かに俺も、証拠押さえる程度の認識しかしてなかったです」
「⋯⋯ダサいけど、お前にでも声かけてから見ればよかったわ。なんかハイになってて帰りの車で見てもうた」
「あ、じゃあデート自体は楽しかったんや」
「ふは、デートね⋯⋯⋯⋯まぁうん」
 トントンと灰皿を叩く。いつの間にか短くなっていたそれはそのまま手を離し、次の一本に火をつけた。肺を汚していく煙が、自分の浅はかさをより加速させていくようだ。
 あれから数日経ち、もう週は真ん中まで過ぎ去っていた。その間にもデータはどんどん溜まっていき、証拠としてあの女に叩きつけるつもりだったそれを俺は見ることができないままにいる。
 あいつから届いた『またどっかドライブ行こな』という連絡に、何でもないように『うん』とだけ返して、昨晩も、今晩も、きっとあいつはあの苦しみの中にあるのに。俺が助けるんだって、決めたはずなのに。
「でももう⋯⋯二、三日? は経ってるやんな。あんまりのんびりもしてられないっすよね。カメラ、いつバレたっておかしないし」
「そう、やねんな」
「えっと、神山くんは元々この後どういう風に動くつもりやったんやっけ」
 ちら、と視線を上げた。確認するかのような口調だが、そこまではまだ話していない。だけどそれはこいつも当然分かっている。一瞬床を見つめ、息を吐いた。駄目だ。頼ってしまおう。話し相手を得てしまった今、自分一人ではもう俺はきっと動けない。
「待ち伏せして話すつもりやった。大体あの女の方が帰り早いみたい、やし。⋯⋯でも、それもどうするか悩んでる」
「え、なんで?」
「⋯⋯今あの女に会って、冷静に話せるかわからへん。それに、全部確認して一番決定的な瞬間を突き出すつもりやったから⋯⋯」
「あー、観れてへんもんな」
「⋯⋯うん」
 頷くと、小瀧は一度ゆっくり煙草を蒸したあと俺を見下ろした。自然と視線を向けると、悩んでいる自分とは対照的にやけに平然とした目がこちらを見つめていた。あっさりとした口調が、煙った小さな部屋に落ちる。
「ええよ、じゃあ俺が一緒に観ます。それもキツかったら俺一人で観たっていいし。今日家行っていい?」
「⋯⋯お前、お人好し過ぎへん? なんか企んでる?」
「なんやねんもう〜、疑り深ない? 世話になってる先輩の助けになりたいって思ったらあかん? 神山くんとはもっと仲良くなりたいと思ってましたし」
「それ、は⋯⋯そう、やな。ごめん、失礼なこと言ったな俺」
 らしくもない。髪をかきむしり、まだ途中までしか減っていない手元の煙草を手放した。腕時計に目をやると、休憩というには少し長い時間が経ってしまっていた。これは同僚の目が怖そうだ。
 吸い切った煙草を灰皿へ丁寧に落としている後輩を横目で見遣り、「帰りに駅で待ち合わせよ。かなり量多いから泊まる気でおって」とだけ声を掛けたら返事は聞かずに喫煙所を出た。
 中身の減った箱をスーツの内ポケットに仕舞いながらコツコツと音を立てて廊下を歩く。窓から見える外はビルに埋め尽くされていて、その合間から微かに覗く空は暗く曇っていた。今日はよく冷えるし、雪でも降るのだろうか。あいつは今、この空の下で何を考えているのだろう。何をして過ごしているんだろう。また、知らない傷を増やして俯いて笑っていやしないだろうか。
 唇を噛み締め、頬を叩く。しっかりしろ。あと少し、なのだから。




「さっっっっっむ!!」
「雪降ってるからな⋯⋯」

 駅での待ち合わせに現れた小瀧は長い背丈を縮こまらせ、それでも何故か楽しそうにケラケラと笑っていた。情緒のよくわからないやつだ。夕食は自分で振る舞ってやることに決めたからそのまま直帰し、一人暮らしには少し広い部屋へ通す。きょうだいや親戚を止めることも多いことから選んだそこに、後輩は目をまん丸にしてはしゃいでいた。
「えー、ひっろ! なんでこんな所住んでんの!? 一人暮らしっすよね」
「そうやけど家族泊まること多いし、ペットおるから⋯⋯あ、お前動物大丈夫?」
「大丈夫です。ペットってなに? どっち?」
「どっちも」
「はは、典型的な独り身」
「⋯⋯」
「いっっった!」
 背中を蹴り飛ばしてリビングへ入れると、いつもとは明らかに違う空気の帰宅にペットたちは興奮した様子でケージでアピールしていた。自由にしてやるとすぐさま小瀧の方へ飛んでいったわんちゃんを難なく抱き留め、小瀧はわかりやすく顔を緩めている。初めて見る客人を警戒しているのか、ねこちゃんは俺の背へ隠れて様子を窺っていた。
「俺飯準備するから、先風呂入っちゃって。十五分くらいで沸くと思う」
「あ、うっす。てかめちゃくちゃかわいいやん、名前教えてや」
「あかん」
「なんで!?」
 黙って笑い、立ち上がる。エプロンをつけながら冷蔵庫を覗き込み、そういえば家族以外の誰かに料理を振る舞うのは久しぶりだと気がついて少し、胸が痛んだ。


 今度時間のある時に作ろう、と材料を買っておいたアクアパッツァと、近所に最近できて毎週末通うようになったパン屋のバゲット。少し張り切って用意したそれを、小瀧は美味い美味いと子供のようにはしゃいで平らげてくれた。それにいつかのあいつの姿が重なってそっと視線を落とす。大学生の頃、乏しい生活費のために半ば同居のようにして互いの部屋を行き来しながら並んで台所へ立った日々が頭を過ぎる。
「神山くん?」
「⋯⋯なんもない。じゃあ俺風呂入るわ。お前はその間にアレ見始めとって。準備するから、皿軽く洗って食洗機入れといてくれる? 適当で大丈夫やから」
「お、了解っす。気合い入れとこ」
「肩関係ある?」
 なぜかグルグルと肩をほぐしているのに笑いながらもう数日触っていない私用のノートPCを立ち上げ、名前すらつけていないファイルを開いた。勝手に記録されていくように設定しておいたそれは、当然最後に見た時の何倍も数が多い。撮影日時と記録時間だけが書かれた無機質なタイトルがずらっと浮かび上がっている。
「⋯⋯⋯⋯」
「それ?」
 いつの間にか後ろから画面を覗き込んでいた小瀧に、黙って頷く。俺の手からそっとPCを奪った小瀧はしばらく画面を眺めたあと、何故か俺の頭をポンポンと叩いた。なんだこいつ、後輩で、歳下のくせに。
「空いてる部屋とかあります? 結構時間かかりそうやし、俺そこで一人で全部観るから神山くんはのんびり風呂入ってペットちゃんたちといちゃついとったらええよ」
「⋯⋯や、流石にそこまで任せるわけにはいかんわ。あくまで一緒に観る感じで、」
「ええって。何年もずっと好きやった人が結婚相手から暴力受けてる部屋に突撃してカメラ仕掛けて自分で観てんから、もう充分頑張ったやろ。まぁ多分犯罪やけど」
「そんなん、⋯⋯責任の範囲なんやって。俺なら止められたかもしれないんやから」
「あのさ、その人のこと子供かなんかやと思ってる? こうなった責任は当然本人にあるやろ。その人と生きることを決めたのは自分なんやから。神山くんが今やってることはただの善意と自分の愛を叶えるための犯罪⋯⋯ん?」
「⋯⋯ふ、っはは⋯⋯。なんか訳分からんくなってきたけど、ええわ。任せる。お前もキツくなったら無理しんときや」
「はーい」
 家族が泊まる時に使っている部屋に通した。机なんかは流石に用意がなかったが、あいつは「むしろそんな気張って観るもんでもないやろ」と笑ってベッドにあぐらをかいてPCを置いた。黙って頷き、そっと部屋を後にする。閉まる扉の隙間から見えたあいつは、少し丈の足りていない兄の部屋着のスボンから足首を覗かせながらもうじっと画面を見つめていた。
 ぼんやりとした思考のまま風呂へ直行し、緩慢な動作で服を脱ぐ。いつもより適当に諸々を済ませて湯船に浸かると、やけに長い息が漏れた。湯気に包まれた浴室。真っ白な天井を眺めながらあいつの言葉を思い起こす。

 ──『もう充分頑張った』。『子供かなんかやと思ってる?』。
 
「⋯⋯そう、なんかな⋯⋯」
 反響した自分の声はやけに弱々しかった。あんなにも勇み込んで始めたことのはずなのに、どうしてこんなに迷っているんだろう。あいつを救い出すんだと、笑ってほしいと、ただそれだけだったはずなのに。⋯⋯それだけだった、はずなのに?
 目を見開いた。そう、そうだ。あいつにも言ったじゃないか、『なんかハイになってて』と。
 あの日。しげと久しぶりに二人で出掛けた日。何年振りかもわからないほど久しぶりに車を走らせて、ゆったりと二人だけで話をして、その中身も仕事や家庭じゃなくかつて一緒に過ごした楽しくて幸せな日々のことで。何もかもが最近の俺たちとは違った。⋯⋯かつての俺たちとも、違った。
 日の暮れた真っ暗な車内。運転席から俺に向かってチョコレートを差し出したしげの姿が浮かぶ。あいつがあんな目で俺を見たことはなかった。何度も二人きりで車を走らせたのに、あの日俺たちと車内を包み込んでいた空気は、初めて体験したものだった。俺は、それから無意識に目を背けていたんだ。

 ──もし本当に、上手くいったら?
 全て上手くいって、そしてあいつが俺を受け入れてくれたら?

 ついこの前自問したばかりの言葉を、呟いた。ゆっくり目を瞑れば湯のせいだけじゃない熱が全身を包み込むのを感じる。
「⋯⋯ダサ。びびってただけやん、俺」
 あの日の俺たちはおかしかった。明確に言えば、⋯⋯熱が。隠しきれない熱が、車内を包み込んでいたんだ。大人だから何事もないようにあいつは妻の元へ帰り、俺はその背を見送っただけで、あの瞬間俺を見たしげの目は明らかに強い意志を持っていた。少なくともただの友人に向けるものではない、ものを。
 俺は本当は、怖がっていたんだ。『あいつを救いたい』。そんな言い訳に隠れて、長年温め続けてきた自分の想いが何かしらの形へ変化することを恐れていた。だから何度もあいつを救うことばかり口にして、自分の気持ちは後回しだと言い聞かせてきた。だけど思いがけない形でその先が見えてしまったから、途端に最後の一歩を踏み出せなくなってしまったんだ。
 欲の出てしまった自分。本当に上手くいくかもしれなくなってしまった状況。初めて見た、あいつの熱の籠った眼差し。あんなもの、⋯⋯あんな目で貫かれてしまったら、俺は。

「かみやまくーん、のぼせてへん?」
「⋯⋯え?」



 なんとまぁ二時間も風呂にいたという俺は、のぼせかけていた身体を情けなくも小瀧に介抱してもらいながら浴室から出た。案外世話焼きらしいあいつは「珍しい姿ばっかりでおもろいなぁ」と笑いながらソファで溶けかかっている俺の髪まで丁寧に乾かしてくれて、長い一人暮らし、長い独り身に慣れていた俺はぼんやりと他人の暖かさを噛み締めていた。
「⋯⋯ん、こんなもんでええやろ」
「ありがとう。ごめんなほんま」
「いいって、明らかに長かったのに確認しに行かんかった俺も悪いですし」
 そんなわけないのだけど、大人しく頷いておいた。満足げに笑った小瀧が置いていったグラスを手に取り、常温の水をゆっくりと飲む。乾いていた喉を潤すそれに息をついていると、そっと猫が寄り添ってきた。微笑み、その背を撫でてやる。
「⋯⋯で、神山くんの風呂が長すぎるのにも気づかんくらい観とった結果やけど」
「っあ、うん」
 慌てて居住まいを直す。ソファの下のラグに直にあぐらをかいた小瀧は、犬を撫でながらあっけらかんと言ってのけた。
「余裕やわ。あの女絶対別れた方がいいし、証拠ある以上公的に手続き踏んで何らかの金もぎ取ってもいいくらいのことやってるし言ってます。よう耐えてんであの人」
「⋯⋯⋯⋯そ、か」
「でも大事にするのは神山くんもその人も嫌なんやんな。ならまぁ、映像見してあの女の方から別れを切り出させるのが無難ってとこかなぁ。話聞く限り自分から『証拠あるから別れてくれ』って出来る人にも思えへんし。ほらこれ、特にキッツいところ切り取って別のデータにまとめときました。一応複数バックアップもある」
「あ、ありがとう⋯⋯すごいなお前⋯⋯」
 慌てて眼鏡をかけ、見せられたPCの画面をじっと見つめる。あんなに大量にあったはずの映像の特に酷い部分を集めたというデータは、たった十数分程度になっていた。ほんの少し見ただけで苦しくなるような映像だったのに、いくら他人とはいえきっとこいつも見ていて気持ちいいものではなかったろうに。
 ゆっくりカーソルを動かしてクリックしようとすると、慌てたようにその上に小瀧の手が重なった。
「え、ちょ。見ん方がいいって。ほんまにキツいとこ集めたんで」
「だからやろ。ちゃんと向き合ってから、」
「もう充分向き合ったんやって。真面目すぎんねん、神山くん。俺このために今日来たんやし、ブツはできたんやからあとはそれを突きつけるだけ。流石にそれは俺には出来ひんからやってもらわなあかんし。な?」
「⋯⋯そんな頼ってええんかな、俺の問題やのに」
「いやいや、重岡さんの問題やろ。助けたいからって神山くんがしんどい思いしたら元も子もないやん」
「ま、ぁ⋯⋯それも、そうか」
 何度も猫の背を撫でながら呟く。いつの間にか俺の心の一部にしっかり居座っていた後輩は、わんことおもちゃで戯れながら何でもないように笑っていた。
「そうそう。そしたらようやく言えるやん。自由になった重岡さんに、ずーっと好きやったって。今度は誰にも取られたないんやろ?」
「⋯⋯⋯⋯う、ん⋯⋯」
「⋯⋯?」
 小瀧が顔を上げ、そのままゆっくりと首を傾げた。リビングには、沈黙とペットたちの呼吸音だけが響いている。文字通りのぼせ上がるほど自分の心の行方に迷子になっていた俺は、眉を下げて微笑んだ。
「情けないんやけどさ、俺、怖なってもうた。もうあいつの顔見ることにすら、⋯⋯ビビってんねん」


*


 翌朝、互いに早起きしてのんびり朝食を取ったり、これだけはどうにも出来ず昨晩消臭スプレーをかけておいたあいつのワイシャツの無事を二人で確かめたりしているうちに、出社時間が近づいてきた。ペットたちと軽く触れ合ったあと、少し早いけどもう出るか、と玄関を順に出る。すぐに見えた大阪の空はよく晴れていた。思わず目を細めながら、昨夜の会話をぼんやり思い返す。
 あの日のこと。今までの自分たちと、だけどそれとは明らかに何かが違った夜のこと。
 自分が恐れていたのはあの女と対峙することでも失恋することでもなく、長い安寧のなか温めてきた恋心や関係性が間違いなく変化することだと、今更気がついてしまったこと。もう何もかもが始まったあとで、自分ではそんな覚悟とっくに決めていたつもりだったのに。あいつのあの眼を見た瞬間から、ずっと心臓がおかしかった。こいつと電話で話したように、本当に俺は「上手くいく」ことなんて想像できていなかったんだ。喜ばしいはずのそれに、なぜか怯えて後退りしているんだ。全てを始めたのも、そうなるように仕向けたのも、自分だったはずなのに。
 長くなった話を聞きながら、小瀧は何も言わなかった。時折相槌を打ちながら、その時にはあいつの脚の上で眠っていた犬の背をずっと撫で続けていた。俺が話を終えた時には時計の針は深夜二時過ぎを指していて、それをチラリと見たあとただ一言、あいつは呟いた。「昨日か一昨日の会話に出てきたんやけど、明日から重岡くん出張でおらんみたいやで」、と。
 その声色は俺に何も促しちゃいなかったから、俺もそれをただ事実として受け止め、頷いた。どうするかは、朝になった今も決めていない。
「いーい天気やなぁ」
「な。コート暑いやん、着てこん方が良かったかな」
「もうこっからは三寒四温ってやつっすね」
「あー、一番困るやつ⋯⋯」
 お互いまだ覚めきっていない思考でのんびり会話を続けながらエレベーターに乗り込む。だけどそれが一階へ着く頃には話題は最近の仕事へ移っていて、しばらくは落ち着くやろうけどその先が怖いなぁ、と笑いながらエントランスを開けた。そうしてすぐ、固まった。

「しげ⋯⋯?」
「⋯⋯かみ、ちゃ⋯⋯」

 スーツに身を包んだしげが、エントランスの真横に立っていた。パッと振り向いた、昨日何度も何度も思い描いた顔はそれより更に隈を深くしていて、真っ黒な瞳が辿るようにして小瀧の方へ上向く。
「ぁ、⋯⋯えっと、ごめん朝に。あの、用事があってちょっと話せんかなって、思ったん、やけど⋯⋯」
「⋯⋯あ⋯⋯そ、うなんや。⋯⋯えっと、」
 しげは表情を固まらせたまま、俺じゃなく小瀧の方を見ていた。
 こんなの、初めてだ。用があるなら必ずこいつはきちんと連絡を入れてくる人間だし、それがこんな朝だったことなんて一度もない。それに小瀧のことも、会社の後輩で訳があって泊めたんだって説明しなくちゃ。あぁいや、今はそんなことどうだっていいのか? それよりどうしてこいつが今ここにいるのかの方が、だけどしげは明らかに小瀧の方を気にしている。
 訳がわからなくて、頭がいっぱいいっぱいになって、もう昨晩からこいつへ頼ることに慣れてしまっていた俺は咄嗟に振り向き、視線を合わせた。黙って状況を見守っていたらしい小瀧と目が合い、まるで映画のようにぱちりと、作り物みたいな瞳が瞬きをする。
 ゆっくりと首を傾け、こいつは、小瀧は、当然のように驚くほど綺麗に笑みを作った。
「知り合い? とも」




「⋯⋯⋯⋯お前、アホなん⋯⋯!?」
「だってあれしか思いつかんかってんもん」
「もんちゃうねん⋯⋯!!」

 満員の電車に揺られながら詰め寄ると、朝の静かな空気にとんでもない爆弾を落とした後輩は拗ねたように口を尖らせた。
 それは相手が今から向かうオフィスの女性社員たちなら可愛いだなんだと喜びそうな表情だったが、生憎俺は意中の相手にとんでもない勘違いを与えさせられたばかりで、その表情は怒りを煽るものにしかならなかった。いや、こいつに頼ったのは俺自身なんだけど、だけどそれにしたってあれはないだろう。
 唖然としたしげの表情が思い浮かぶ。ザリ、とアスファルトを擦って音を立てた革靴の底。「ごめん、出直すわ」とだけ告げて逃げるように立ち去った背中は、呼び止める時間すら与えてくれなかった。
「あー⋯⋯絶対付き合ってんのお前やと思われたよな⋯⋯」
「え、でも彼女って明言してたんやろ? 恋人〜とかで濁してたんならまだしも」
「⋯⋯今のあいつなら多分、『引かれたくなくてそういうことにしてたんかな』とか『もうそこまで話してもらえる間柄じゃないんかも』とか考える。結婚する気ないみたいなことも話してたし」
「あぁ、結婚しないって言ってもうてたんか。それは確かにもうそう思われてるかもな⋯⋯」
「かもなじゃないねん。朝同じマンションから出てきてあの態度取った時点でもう決まってんねん」
「⋯⋯お、そろそろ着きますよ神山くん。今日も仕事頑張りましょ」
「そうね。お前に全部回すから」
「⋯⋯きのういろいろがんばったやん⋯⋯」
 重い溜め息と共に、満員の電車から吐き出されるようにしてホームへ降り立つ。何を言っても無駄だと悟ったのか大人しく隣で歩いている長身の後輩は今日も平日の朝から人目を集めていて、こんな奴が俺の恋人だと勘違いしたしげの内心を一瞬考え、やめた。俺まで頭がおかしくなりそうだ。だって自分があいつの立場なら、考えることが多すぎて頭から湯気を出している。
 早足で立ち去ったあいつはもうきっと会社に着いているだろう。あぁ、何て連絡すればいいんだ。きっと早いほうがいい。こういうのは間が空けば空くほど連絡しづらくなるのだから。だけどただでさえ朝から困惑させてしまったわけだし、せめて仕事が終わったであろう頃合いがいいかな。あいつはいつも大体何時頃に上がっているんだっけ。⋯⋯そこまで考え、足が止まった。
 後ろの人たちがツンのめるようにしたあと、迷惑そうに俺の顔を見ながら避けて歩いていく。
「神山くん?」
 すぐに気がついた小瀧が振り返って俺の顔を見た後、黙って腕を引いて隅へ連れて行ってくれた。ゆっくり顔を上げ、呟く。
「なぁ、お前昨日、しげ今日から出張やって言ってなかった?」
「え? あぁ、言いましたね。それがどうかし⋯⋯、あれ」
 まん丸な瞳がキュルリと上向く。他に気になることが多すぎて気がついていなかったが、さっきのあいつはいつも通り入社時から一度も買い替えていない仕事用の鞄を一つ持っているだけだった。車で来ている様子も、なかった。
「出張に行くやつの荷物じゃなかった、よな」
「⋯⋯あちゃ〜、いよいよややこしなってきた。あの人はあの人で何か考えてるかもってこと? 迂闊に家突撃できんくなってもうたやん」
 沈黙が落ちる。同時に腕時計へ目をやり、脚を動かした。「考えたところで無駄」だと互いにすぐ気がついたようだ。
 あいつも何か考えて動いているなら、下手に手を出すべきじゃないのだろうか。出張すら嘘だったのかもしれないなら、女が一人のところを訪ねて例の映像を見せるという、俺たちが一応考えてはいた道筋も危うくなってきてしまった。だって、仮に本当にあいつが妻に出張だと嘘をついていたとしたら、それはあいつにとってとんでもない綱渡りだ。バレたらあの女がどうなるのか、想像すらしたくない。
 そうまでして迎えた日の朝に真っ先に訪ねてきたのが、俺なんだ。俺が絡んでいることは間違いない。それであの女のところなんて行ってみろ、もうどうなるんだ、訳がわからない。あいつ何考えてるんだ。
「⋯⋯神山くん」
「え、⋯⋯あ」
 振り向くと、とっくに通り過ぎていた社屋の前で後輩が呆れたように突っ立っていた。
「ほら、行きましょ」
「おう⋯⋯俺今日仕事大丈夫かな」
「まぁ一旦忘れるしかないんちゃいます? 仕事終わったら、すぐには帰らんとどうするか相談してある程度決まってから出ましょ。今朝みたいな不意打ちがあるかもしれへんし」
「た、たしかに」
 頷き、連れ立ってエントランスを通る。もうそうなると俺とこいつはある程度距離のあるただの同僚だ。まぁ、最寄り駅から一緒に来ていて社屋の目の前で二人で話していた時点で知り合いの誰かしらには間違いなく見られているだろうが、そこはもう「偶然会った」で乗り切るしかないだろう。
 こいつのネクタイが昨日と同じなことだけが誰にもバレないよう内心で祈りながら、人の詰め込まれたエレベーターで今日の仕事に考えを巡らせた。




 そうして迎えた昼。いつも通り飲食スペースの隅で一人自作の弁当を頬張っていた俺は、携帯を揺らした着信にまるで氷のように全身を固まらせていた。画面にはっきりと浮かんだ、『重岡大毅』の四文字。この世で一番好きなはずの字列に恐怖を覚える日がくるなんて想像だにしなかった。
 呆然として眺め続けている間にも着信は途切れることなく鳴り続けている。どうしよう。こいつからの着信を意図的に無視したことなんて一度も無いししたくないが、まだ小瀧との関係についてどうするか決めていない。だから今は恐らく、出るべきじゃない。そのはずなのに、手がゆっくりと端末へ伸びていく。今のあいつの心が、声が、聞きたい。好奇心と、期待と、焦燥。
 気づけば俺は席を立っていて、震える指先を応答へ滑らせていた。

「⋯⋯⋯⋯もしもし?」
『⋯⋯あ、かみちゃん? ごめんな昼に』
「や、うん、ええよ。⋯⋯えっと、今朝は⋯⋯」
『そのことなんやけど』

 珍しくしげが言葉を遮ってきた。無意識に両手で携帯を握りしめていた手元が震える。視線を感じて振り返ると、廊下の片隅に縮こまるように立った俺を小瀧が壁にもたれながら眺めていた。ゆっくり頷き、周囲に人の気配がないことを確認して通話をスピーカーに変える。

『連絡も無しに急に行って悪かった。⋯⋯あのさ、一緒におった男のことなんやけど⋯⋯。前は彼女って言っとったけど、もしかして付き合ってんのあの人? だから結婚する気ないって言っとったん?』
「⋯⋯⋯⋯」

 こくりと唾を飲み込む。じっと床を見つめたまま、息を吸った。

「そうって言ったら、しげはどう思う?」
『⋯⋯⋯⋯引くとかどうとかの話なら、それはありえへんかな。かみちゃんも言ったやん。俺がそれを迷惑に思うようなやつやと思うか、って』
「⋯⋯そう、やな。ごめん」

 もう随分と遠い話に思える喫茶店での会話が、その時のあいつの引き攣った笑みが頭を過ぎる。あの時とはまるで違う声で、しげははっきりと告げた。

『謝るってことはそうなんや』
「え、あ⋯⋯うん。会社の後輩で、えっと、⋯⋯そう」
『⋯⋯⋯⋯』

 頷いたのは、小瀧が肩を叩いたからだった。そうしろと目で告げながら。
 俺はもうどうすればいいのかわからなくて、段々と呼吸まで浅くなっていくように感じていた。まるで、霧の濃い森を一人で彷徨っているかのような。

『⋯⋯あのさ、夜空いてる? どっかで話せへん?』
「きょ、今日?」
『うん』
「⋯⋯それは⋯⋯あいつに、確認する。会う予定やったけど、頼めばたぶんズラしてくれると思うから。後で連絡するわ」
『⋯⋯⋯⋯ん。分かった。じゃあ待ってるわ』
「うん」

 もう小瀧は何も言っていなかったけど、俺はそうしてひとまず考えることから逃げた。やっぱり出張は嘘だったのか、なんてもうどうだっていいことを考えながら通話を切る。
 ゆっくり壁にもたれてしゃがみ込んだ俺を、小瀧は気の抜けたような声で笑った。隣で同じようにして座り込む気配がする。
「逃げたやろ」
「⋯⋯逃げるしかないやろ、あんなん⋯⋯もう何がどうなってんのか分からんって」
「そう? 俺は全部分かったけど」
「は⋯⋯?」
 顔を上げた。思ったより近くであった視線に戸惑う暇もなく、小瀧の綺麗に整った顔が笑みを作る。
「ほんで、頼めばズラしてくれそうな彼氏に確認してどうするつもりなん? あの人に会えんの?」
「⋯⋯正直、⋯⋯怖い。だってあいつ、なんか今までとちゃうし⋯⋯」
 手元をいじりながら呟く。怖い、で合っているのかは分からなかったが、少なくとも俺は今『しげに会いたくない』と思っていた。
 こんなこと初めてで、ひどく混乱した頭が痛みを訴え始めている。毎朝丁寧に整えている髪をグシャリと片手でかき乱しながら固く目を閉じると、ふとそれに誰かの手が重なってそれを止めた。目を開き、顔を上げる。小瀧はやけに優しい目をしていた。愛しむような、だけど今にも泣き出してしまいそうな。
「こた、」
「頭痛いん?」
「え⋯⋯? ちょ、っとだけ⋯⋯」
「じゃあさ、もう今日帰ろうや。神山くんは体調悪いって言えばいいし、俺は午後休取ります。神山くんそれくらい絶対許してもらえるやろ?」
「⋯⋯たぶん出来る⋯⋯けど⋯⋯」
「やんな。俺は取れたらラッキーくらいのもんやけど、まぁそこは何とかするから先帰る準備しとってください」
「え、え⋯⋯? 帰ってどうすんの、ていうか帰るってどこに、」
「まぁまぁ。ほら、早よ言うてきてや。その顔色ならすぐ帰らしてもらえるから」
「⋯⋯わか、った⋯⋯」
 促されるようにして立ち上がると、廊下の奥からこちらを見ていた女性社員たちがパッと散るのが見えた。あぁ、また誤解が増えた。しかもこっちの方が面倒くさそうな。もう一度顔を見ても、小瀧は微笑むだけで何も言わない。諦めて溜め息を吐き、早退をお願いするべく可愛がってくれている上司の方へ足を向けた。どのみちこの体調じゃ実際迷惑をかけていたのかもしれない、と無理やりプラスに考えを向けながら。


「取れました。午後休」
「⋯⋯まじかよ⋯⋯⋯⋯」
 笑顔でVサインを作った後輩とビル下で合流し、昼時も終わって人気の疎な駅までの道を歩く。もう考えることも何もかも面倒になっていた俺は何も言わず後輩の後ろについて歩いていたら、いつの間にか今朝出てきたばかりの最寄り駅に着いていた。
 もしかして帰るって俺の家に? とぼんやり考えていた俺に「ちょっと待っとってくださいね」と言い残し、駅前のコンビニへ奴は消えていった。ぼうっと見ているとすぐ出てきたそいつは両手に複数のビニール袋を下げていて、何か考えるように視線を巡らせている。
「神山くん、ずっとあの人に片想いしとったって言ってましたよね」
「そうやけど」
「その間彼氏彼女作ったことは?」
「⋯⋯ない」
「えーと、アレなこと訊くけど自分で処理する時ってどっち使ってます?」
「は⋯⋯?」
「あ、はいはいなるほどね。えっと、俺後から行くんで先帰っとってください。まだ頭も痛いやろ? 薬飲んで横なっとった方がええよ。ほらこれ、スポドリとか買っといたんで。頭痛薬くらいは流石に持ってるやんな」
「⋯⋯もうマジで訳わからんねんけど⋯⋯」
 突きつけられた片方の袋を手に、だけど言い返す気力もなくトボトボと歩き始めた。
 休むはずがより酷くなったように感じる頭がゴンゴンと揺れている。静かさを求めて駅から徒歩十分ほどのところにしたそれはやけに遠く感じて、玄関の扉を閉めた時には俺はぐったりしてしまっていた。それでもなんとか常備している頭痛薬とあいつが買ってくれたスポーツドリンクを胃に流し込み、部屋着に着替えてベッドへ横になる。
 もう頭痛なのか心労なのかもわからない倦怠感に包まれていた身体をすぐに眠気が襲ってきて、抗うこともなく瞼を落とした。
 それからどれほど経った頃だろう、インターホンの音がしてふと意識が浮き上がる。慌てて飛び起きると、三十分ほどしか時間は経っていなかった。だけど薬が効いたのか眠ってしまったことが良かったのか、身体は随分楽になっている。呼び鈴を鳴らしたのは当然小瀧で、玄関でもう慣れたかのように平然と靴を脱いでいるそいつの手には大きな袋が一つ増えていた。
「どう? ちょっと楽なりました? 顔はだいぶマシやけど」
「あ、うん。頭痛はもうせんわ。ありがとう」
「いえいえ」
 玄関に上がってきた小瀧と目が合う。今この状況の何もかもが分からない俺は説明を求めてじっと待ってみたのだが、落ちてきた言葉は俺を更にひっくり返すだけだった。
「さ、じゃあ一緒に風呂入りましょ。神山くん」




「ま、待って待って待って! おかしい! お前おかしいって!」
「おかしないです〜、男同士ってこういうもんやから」
「そんなん訊いてない! この状況がおかしいって言ってるんやって!」
 叫び声が浴室に反響する。ノズルを外したシャワーホースを手に俺の腕をがっしり掴んだ小瀧に詰め寄られ、俺はあらぬところに伸びたその手を必死で押さえていた。
「だって神山くん、ず〜っと片想いしてたくせに男の経験も無いんやろ? そんなん仮に上手くいったところで困るで」
「そ、そんな先のこと考えんでも⋯⋯っていうかだからってなんでお前とせなあかんの!? だ、だいたいこういう準備って一人でやるんじゃ、」
「じゃあ素直にお願いしたらやってくれたん? それに知識無いやろ」
「そ、それは⋯⋯必要になったら調べればいいかって⋯⋯」
「性欲うっすいなぁ、重岡くんに抱かれるとこ想像したことないん?」
「⋯⋯え?」
「⋯⋯あは、今の顔めっちゃいい」
「あ、ちょっ!」
 一瞬力の抜けた腕であっさり主導権を奪われ、脚をがばりと開かされた。他人になんて見られたことのない場所を、ついこの前までただの後輩だった男がまじまじと見つめている。
「お、おまえ⋯⋯本気⋯⋯!?」
「もちろん。⋯⋯だって俺今、神山くんの彼氏なんやろ?」
「それ、は⋯⋯ッッ!?」
 痛みと違和感と共に、こいつの指が後孔へ入ってきた。信じられなくて咄嗟に口許を抑える。嘘だろ、こいつの貞操観念どうなって⋯⋯ていうか痛い! 痛いし、気持ち悪い! なんだこれ、確かに自分一人じゃ出来たか分からない。いやでもだからってなんでこいつがやってるんだ。ついこの前までただの後輩で、たまにしか話さないやつで、だけどやけに俺に懐い、て⋯⋯?
「っちょ、きたな、汚い、から⋯⋯」
「そうやなぁ、神山くん以外やったら絶対こんな事せぇへんわ」
「お、お前、何言ってるか分かって、」
「わからんわからん。ほら、集中して。たぶんまたちょっと痛いから」
「え、うわっ、う、わ⋯⋯ッ」
「なぁ、俺神山くんやったら何やろうと汚いとか思わんから、恥とか捨ててぜーんぶ出してや。⋯⋯重岡くんでもないんやし」
「は、ハァ⋯⋯!?」
 初めての体験への混乱、痛み、こいつが言っている言葉の意味、すべてが頭を埋め尽くしてはそのままシャワールームの排水溝へ流れていく。気づけば俺はそこへ自分の思考も放り投げてしまっていて、ただ目の前の身体にしがみついていた。
 どれだけ時間が経ったのかも分からなくなった頃、ふと我に返ればベッドの上で丁寧に髪を拭かれていて、いやになるほど甘くて優しいその手つきにぼうっとしていると、そのままゆっくり押し倒された。
 見慣れた天井を背景に、見慣れた顔が見慣れない表情で俺を見下ろしている。
「⋯⋯まじで、いってる⋯⋯?」
「まじ。神山くん、一旦頭空っぽにした方がええよ。見てられへんわ」
「それってこれ以外方法ないん⋯⋯」
「さぁ、俺は知らないです。⋯⋯それに、あの人にも腹立つし」
 そう言いながら綺麗な顔が近づいてくる。唇が触れ合ってから、キスされたことに気がついた。互いに目を開けたままだったから至近距離で視線が交わって、だけど俺はもう考えを放棄することに慣れてしまっていた。こいつに、もたれかかってしまうことにも。
 ゆっくり目を瞑ると、唇を喰むように角度を変えて何度も繰り返されていた口付けが一瞬止まった後、そっと舌が差し込まれる。
 頭がぼうっとして、何も考えられない。だけど気持ちいい。キスって、こんなにも気持ちがいいものだっただろうか。それが好いた相手とだったら、どんなに好いんだろう。あいつは何度、どんな風にしてあの女とキスをしたんだろう。
「ん、う⋯⋯んむ、ぁ⋯⋯」
「⋯⋯神山くん、舌細いな」
「そ、う⋯⋯? ン⋯⋯」
「知らんかった?」
「⋯⋯ん、うん⋯⋯こんなん、ん、⋯⋯は、はじめてした、から」
「⋯⋯初めて?」
「そ、そう⋯⋯だって俺ずっと、あいつ、だけが⋯⋯っん、んぅ⋯⋯!」
 ぐちゅぐちゅと、どちらの舌かも分からない水音が頭に反響する。じゅっと舌先を吸われて驚いて跳ねた肩を、小瀧の大きな手が優しく撫でた。あつい。あつくて、蕩けそうで、思考が定まらない。なんだこれ、まだ始まってもないのに、セックスってこんなものだったのか。さっきのあいつの言葉が頭を過って、思わず心臓がどくりと大きく鳴る。あいつは、しげは、どんなふうにセックスをするんだろう。俺の知らないあいつは、どんな顔をしているんだろう。
 いつの間にか、小瀧の手が身体全体を優しくなぞるように触れていた。戯れのようなそれに何故か身体が跳ね、妙な声が漏れる。シャワールームで散々触れられてふやけたそこが、あんなにも違和感を覚えたはずの場所が、何故か触れて欲しいように感じる。
「⋯⋯神山くん、物欲しそうな顔してんで」
「あ、ぇ⋯⋯? そ、そう⋯⋯?」
「うん。⋯⋯ほら、ここ」
「っあ⋯⋯!」
「さっきまであんなに嫌がっとったのに、もう触って欲しいんやろ」
「ぁ、う、ゆ、ゆび⋯⋯っ」
「大丈夫大丈夫、あんだけ解したから。初めてでも流石にもう痛ないで。⋯⋯な?」
「ぁ、あ、あ⋯⋯っ、な、なに、これ⋯⋯っ」
 長い指がゆっくり差し込まれた。確かにさっきまで痛みを覚えたはずのそれが、どうしてか何も感じない。むしろどこかもどかしくて、身体がその先を強請っている。
「や、こ、こたき⋯⋯っ」
「⋯⋯はい?」
「それ、も、もどかしい、から⋯⋯」
「うーん⋯⋯じゃあ指、増やしますね」
「んぁ、あっ、ぁあ⋯⋯っ!」
 ぐ、と一気にそこが広げられた。少しの痺れと痛みが身体を走って、だけどそれすらも心地いい。長い指が何かを探すように曲げたり回したりしながら俺のなかを動き回って、どんどん思考が溶けていく。
 きっと今もさっきまでいたオフィスでは同僚が仕事をしていて、それはあいつも同じなのに。何をしてるんだろう。だけど社会や自分のルールから外れたそれが、どうしてかわからないほど心を楽にしていく。
「あ、あぁ⋯⋯っ、ん、んぅ、ふ、あ、⋯⋯ッッあ!」
「ふは、気持ちよさそ⋯⋯念入りにやっといてよかった⋯⋯」
「はぅ、う、うぅ⋯⋯っ、こ、こたき、」
「⋯⋯望」
「あぇ⋯⋯?」
「望って、呼んで。⋯⋯今だけでいいから」
「っあ、っの、⋯⋯のぞ、む! もういい、からぁ⋯⋯っ!」
「⋯⋯⋯⋯うん。じゃあ挿れるで」
「ぁ、あ、ぁあ⋯⋯ッッ!! いっ、た⋯⋯っ」
「うん、ごめんなさい。すぐ馴染むと思うから、ちょっと我慢して」
 小瀧の指が、いつの間にか汗に濡れていた前髪をそっと避けてくれる。その時になってようやくちゃんと顔を見れたこいつは、昼間のように慈しむような、どこか悲しげな瞳で俺を見下ろしていた。
「ぁ、⋯⋯のぞ、む⋯⋯?」
「はい?」
「おまえ、俺のこと好き、なん⋯⋯?」
「⋯⋯もう、嫌やなぁ神山くん。重岡くんとのハジメテん時恥かかんように仕込んだげてるだけやって」
「⋯⋯⋯⋯」
「馴染んだ? ⋯⋯なら、動くで」
「っあ、ああ⋯⋯ッッ!! あっ、あぅ、う、うぁっ、⋯⋯〜〜っあ、いた、いた、ぁあ⋯⋯っ」
「いたい? もうちょっと待つ?」
「わから、いた、いたいけど、きも、ち⋯⋯っ!」
「⋯⋯そっか。なぁ、初めてでそれってたぶん、凄いことやで。俺もアンタしか知らんから、わからんけど」
「そう、なん⋯⋯っ? ぁ、あっ、あぅ⋯⋯」
 ばちゅ、と音を立てて小瀧が奥まで腰を押し付けてくる。あんなに立派だったブツが全部自分のなかに入っているだけで驚きなのに、それが気持ちいいだなんて一体どうなっているんだろう。わからない。ていうかなんで俺、小瀧とセックスしてるんだ? いつの間にかまた口を塞がれていて、甘く溶かすようなそれに溺れながら、確かにこれ以上に思考を捨てられるものなんてこの世にないのかもしれないと、今まで生きてきて出したことのない声で喘ぎながら俺は目を閉じた。




「──ごめん。あの⋯⋯えっと、今日ちょっと体調悪いというか、その⋯⋯うち来てくれるんなら話せるんやけど、どう?」

 通話に乗った自分の声は酷く掠れていた。その声と言葉だけでもう何もかも伝わってしまったのか、しげはただ短く『うん』と呟いたあとすぐに電話を切った。こんなに冷たい声を聞いたのも、初めてだ。
 言い忘れたかのようにポコンと浮かんだメッセージには『今会社出たからそのまま行く』とだけ書かれていて、時計に目を遣ると時刻は二十一時過ぎを指していた。明日も平日だというのにこんな時間から来るだなんて、きっと短く済む話でもないのに。
 掠れた息を吐くと、部屋のドアが開いた。シャワーを浴びていた小瀧が髪を拭きながら戻ってきて、すっかり違和感を覚えなくなってしまった近距離にボフンと腰掛ける。
「できた? 連絡」
「うん。今から来るって。さっき会社出たらしいから三十分もかからんのちゃうかな」
「ふーん、俺どうしよ⋯⋯」
 髪を拭きながら何か考えている小瀧は、やけに大人びて見えた。適度に鍛えられた首筋を水が伝う様なんて、モデルにでもなれそうな光景だ。見ていることがバレたのか、小瀧は視線だけで俺を見て「なに」と微笑んだ。先に俺の後処理や風呂まで全て済ませてくれたこいつは疲れた様子すら見せず、この行為の理由も告げず、ただ甘く俺を包み込んでいる。
「⋯⋯お前、男初めてでなんであんな慣れてたん」
「あれ、あんな溶けとったのにちゃんと聞いてるやん、やば」
「⋯⋯⋯⋯」
「うーん⋯⋯興味があって調べとった」
「⋯⋯あっそ」
 明らかな嘘に何も言わず俺は寝返りを打った。そのまま視線を窓の外へ向ける。
 全てが終わった時にはもう日が暮れていて、その時になってようやく俺はあいつへ「連絡する」と言ったままだったことを思い出した。だけど俺を抱き上げて風呂へ連れていってくれる小瀧にそれを言うことは、しなかった。湯船に浸かってようやく「しげに連絡してへん」と呟いた俺にパッと顔を上げ、小瀧は黙ってゆっくりと視線を落とし、そのまま俺の頭を撫でていた。
 いつもは一人で眠るベッドに、すぐ近くに体温がある。勝手に涙が溢れそうになって、耐えきれなかったそれが一雫だけ枕へ落ちて沁みていく。小瀧の指先がふと頬に触れた。涙のあとをなぞったあと、慈しむように何度も何度も親指が行き来する。ゆっくり身体を起こして振り返ると、すぐ近くで、色々な感情を湛えた瞳が俺を見つめていた。
 歳下のくせに、後輩のくせに、俺のわからないことまで色々考えやがって。備え付けの間接照明しか付けていない部屋で、こいつの綺麗な顔に影を作っている。長い睫毛が落とした影まで、こいつは綺麗だった。
 小瀧は何も言わない。俺に全てを預けている。それがどれだけ狡くても、こいつを傷つけるものでも、それでもいいと全て伝わってくる。入社してきて初めて会った日から今までの記憶が、毎日顔を合わせて仕事をしてきた長い日々が、呆けた頭を流れていく。顔を隠すように俯くと、ポツリとまた一滴、涙がシーツに落ちた。
 ゆっくりと抱き寄せられ、俺は当然のようにその背へ腕を回した。もうこの時には涙がぼたぼたと落ちて止まらなくて、だけど俺はグッと唇を噛み締めていた。今こいつに謝ることが一番不誠実だと、それだけが俺を奮い立たせていた。
「神山くんが何か気にする必要、ほんまにないから。嘘じゃなくなればええねん」
「⋯⋯⋯⋯」
「身体の関係になったのが今日で、前から俺らは付き合っとった。⋯⋯な?」
「⋯⋯⋯⋯そう、ね」
 インターホンが鳴った。そっと身体を離し、小瀧は何も着ていなかった上半身にシャツを羽織り、「俺出るから顔なんとかしとき」と頭を撫でて出て行った。ぼうっとその背を見送り、ゆるゆると自分も部屋着に腕を通す。
 立ち上がって姿見に自分を映せば、確かに目元にはっきりと涙を溢した跡がある。ティッシュで何度か拭ったあと、趣味でやっている化粧品の棚から美容液と下地を取り出して簡単に処理をした。それだけでいつも通りになった頬に安堵していると、玄関の方で人の話し声が聞こえてきた。慌ててベッドサイドにあいつが置いてくれていた水を飲み干し、部屋を出る。
 明らかに仕事帰りといった風貌のしげと明らかに一度シャワーを浴びている小瀧が、なんとも言えない空気でリビングに突っ立っていた。
「し、しげ!」
「⋯⋯かみちゃん。体調、大丈夫? 迷惑やったら帰るけど」
「あ、や、だ、大丈夫。ちょっと頭痛かったから早退さしてもらってん。それやのに外で飯食うのはちょっと気引けただけ」
「⋯⋯そ」
 歩き出そうとして、強烈な痛みが腰を襲った。不自然な体勢で固まった俺を二人が不思議そうに見て、だけど俺は誤魔化すように歪な笑みを作り、そろそろと近寄っていく。知らなかった。こんなに痛いのか。すぐに気がついたのか小瀧がダイニングの椅子を引いた。ありがたくそのまま掛けさせてもらうと、不自然にならないようしげにも椅子を引いて促していた。小さな声で「どうも」と呟いたしげが、向かいに腰掛ける。
「⋯⋯じゃあ俺、帰って大丈夫そう?」
「え? あ、う、うん。⋯⋯ありがとう、ごめんな心配かけて」
 きっとバレバレだろうがあくまで『体調不良で早退した自分と看病しにきた恋人』を装い、微笑む。「そんなんええよ」と笑った小瀧が上着を羽織り、荷物を掴んだ。本当にここへ来慣れているかのような仕草に感心していると、しげが見たこともないような表情をしていることに気がついた。唇をグッと曲げて眉間に皺を寄せていて、元々隈のできている目元に更に深い影が落ちている。声をかけようとした瞬間、小瀧が「じゃあ」と声を上げた。
「重岡さん? ですよね。もう大丈夫やと思うけど一応、よろしくお願いします。とも、明日ももひとつやったら車出すから連絡してや」
「あ、⋯⋯わか、った。おやすみ」
「うん、おやすみ。失礼します」
 最後の一言はしげに向かって告げ、小瀧は出て行った。ということはつまり、二人で話したほうがいいとあいつは判断したのだろう。だけど俺は何を話せばいいのかわからなくて、初めて見るしげの表情や、嘘だった出張、今朝俺を混乱させた全てが戻ってきてパニックに陥っていた。何も言えないままにしげの顔とテーブルの木目とを何度も繰り返し交互に見つめていると、長い沈黙のあとようやくしげが口を開く。
「なぁ」
「っ、な、なに?」

「かみちゃんって、体調悪いって嘘ついて彼氏といちゃつくために仕事サボるようなやつやった?」
「⋯⋯⋯⋯は」

 空気が、凍った。中途半端に口を開いたままじっと見つめることしかできない俺と目を合わせることはせず、俯いたままのしげが口元だけで笑う。

「あぁ、俺が言ったんやったな。かみちゃんも変わっていってる、って。悪い」
「⋯⋯⋯⋯し、げ⋯⋯」
「俺さ、離婚することにしてん。あいつが素直に頷いてくれるかはわからんからまだ俺の中で決めた、ってだけやけど。今朝はそれを報告しに来たんやけどさ、邪魔して悪かった」
 心臓が痛くて、悲鳴をあげている。何か言いたいのに、掠れた喉ははくはくと金魚のように空気を送り出すだけだ。
「話したいって言ったのは⋯⋯さっきの人とのこと色々訊きたかったからなんやけど、それも別にええわ。よく考えたら俺だって勝手に結婚したんやし、なんで口挟むつもりやったんやろ。⋯⋯それだけ。じゃあ帰るわ、体調悪いとこごめんな」
 最後の一言には、嘲笑が含まれていた。絶望に視界が揺れる。⋯⋯絶望? それとも、悲観? 落胆? なんだろう、何がこんなにも心を締め付けているんだろう。だけどしげが言ったことは、結果的には全て事実だ。俺は体調を理由に会社を早退し、今本当に恋人と呼ぶ存在になってしまったあいつと性行為に耽っていた。それで心が軽くなる感覚すら覚えていた。何一つとして、言い返せることなんてない。
 だけどそんなつもりなんてなかった。俺はずっとしげの事だけを考えていて、しげの為だけに動いてきて、そうして少し、色々なことに疲れてしまっただけ、で⋯⋯。
 しげが席を立った。テーブルの木目を見つめることしか出来ない俺の視界の隅で、淡々と帰り支度を整えていっている。最後にあいつがもう一度「じゃあな」と言った瞬間、考えるより先に顔を上げて勢いよく立ち上がっていた。

「ッッッ!!!」

 瞬間腰を強烈な痛みが襲い、大きな音を立てて俺は床に倒れ込んだ。⋯⋯痛い。腰も、テーブルや椅子にぶつけた場所も、心も、何もかもが痛い。止まったはずの涙が、フローリングへポツリと落ちる。しげの足元が一瞬ぴくりと俺の方へ動いて、だけどそのまま止まった。
「⋯⋯大丈夫?」
「⋯⋯⋯⋯っ⋯⋯ぅ⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯」
 顔を上げられない。一度溢れ出してしまった涙が止まらなくて、こんな顔も、今の自分の情けなさも、全部全部こいつに見られたくない。
 どうして、こうなってしまったんだろう。あとほんの一日耐えていれば、今頃自分は念願の言葉を純粋に喜べていたのだろうか。犯罪みたいなあのデータを、何かの助けになればと差し出せていたのだろうか。もうあんなもの何の意味もない。渡せるわけが、ない。『充分頑張った』と告げた小瀧の顔が浮かんで、俺は耐えきれず嗚咽を漏らした。
「⋯⋯彼氏、呼ぶか?」
「⋯⋯ゃ、⋯⋯っぅ、う⋯⋯」
 彼氏なんかじゃ、ない。俺があいつの優しさに甘えただけだ。弱い自分を都合よく甘やかしてくれるあいつに寄りかかって、目を瞑って、今日のこれだって、本気で拒めば絶対にあいつは手を引いた。全部全部、俺の弱さのせいだったんだ。『しげを、助けたい』。ただ、それだけだったのに。それ以上何も望まなければ、こんなにも惨めな思いをせずに済んだのに。
 目の前でしげがしゃがみ込む気配がした。顔を見られたくなくて、深く俯く。
「なら、とりあえずベッド行こ。⋯⋯ほんまに体調、悪かったんやな。悪かった」
 ちがう。違うんだ、しげ。いや、違くなくて、でも違って⋯⋯。
 俺、お前のことがこの世で一番大切で、愛していて、それだけだったのに。だけど今お前が俺の腕を引いてくれている先の部屋で、俺はお前以外の人間と寝たんだ。あいつの優しさに甘えて、何も考えないでいいって、そんな甘言に頼って身を委ねてしまったんだ。何にでもなる、何からも目を向けない覚悟がなきゃ、他人の人生に手を出していいわけがなかったのに。
「⋯⋯ここ? 寝室」
「ん⋯⋯」
「入るで」
 かちゃりと、俯いているせいで何も見えない代わりに扉の開く音がする。間接照明をつけたままだった部屋は薄暗くて、しげは躊躇いなく部屋の電気をつけた。
 常にアロマミストを焚いている部屋は事後換気したこともあってその気配を感じさせず、俺はその時初めて小瀧がシーツも替えていてくれたことに気がついた。あいつ、本当に俺の部屋に前から来ていたんじゃないのか。何で場所を知っていたんだ。
 促され、ゆっくりベッドへ腰掛ける。そのまま倒れ込むようにして横になると、しげがそっと布団を掛けてくれた。顔を見れないままに、色々なもので掠れた声で「ありがとう」と囁く。
「ん。⋯⋯こんなん飾っとって、彼氏に怒られへんの?」
「⋯⋯ぇ?」
 閉じかけていた瞼を上げると、しげは俺に背を向けて真っ黒なサイドボードを眺めているようだった。何のことか数秒考え、「あっ」と声が飛び出る。驚いたように振り返ったしげが、俺の顔を見て困ったように笑った。⋯⋯今日初めて見た、笑顔だった。
 気に入りのアクセサリーや腕時計、香水が並んでいるそこには、わざわざサイズの合っていない写真立てに入れた古臭いフィルム写真が飾られている。それは、俺たちが一緒に合宿に行って免許を取った直後、初めてレンタカーを借りて出掛けた旅行先で撮ったものだった。
 互いに特別写真が好きだったりはしなかったからカメラなんて持って行っていなくて、当時も一応カメラ機能はあった折り畳み式の携帯電話で何か撮ったりもしていなかった。写真で撮る以上に、今その瞬間目に焼き付ける方が大事だと、互いに思っていた。だけど、だけどこの瞬間だけは違った。
 とある有名な道を走っていた時、信じられないほど綺麗な夕焼けが空と海とを輝かせていたのだ。慌てて脇道へ車を停め、その光景へ見入っていた。周囲でも、車やバイクを停めてその光景を眺めている人がちらほらいて、だけど皆が静かにそれを見守っていた。
 その静寂を切り裂くようにパシャ、と鳴ったシャッター音。慌てて顔を向ければ、使い切りのカメラを俺に向けて笑っているしげがいた。慌てて「そんなん持ってたん」と駆け寄った俺に、しげは「とっておきの時に撮ろうと思って買っといてん」と笑った。

「それを見るたび思い出したい瞬間とかがさ、あるかもしれんと思って」

 そのあと近くいたバイカーの人にペコペコと頼み、夕陽を背に二人並んで、ほんの少しの照れ臭さを感じながらシャッターを切ってもらった。あの旅でしげがカメラを取り出したのはその一回きりで、俺が渡してもらえた二人一緒に撮ったものが、これだった。傷まないよう透明の袋に入れて更に写真立てに入れたそれは、今も変わらずあの瞬間の輝きを小さな枠の中で放っている。
 遠く、美しい記憶に想いを馳せ、そっと瞼を落とした。

「⋯⋯怒られへん、よ。あいつ付き合い始めたとこやし、俺にとってしげがどんだけ大事な友達かも、ちゃんと知ってるから⋯⋯」
「あぁ、それで今日もさっさと帰りはったんや。気ぃ使ってくれ⋯⋯⋯⋯、え?」
「ん⋯⋯?」
 疲弊した身体と心が、布団に包まれて眠気を訴え始めている。暖かくて大切な想い出に浸りながら寝落ちかけていた俺は、だけどしげの声が思ったより近くにあることに気がついて目を開いた。
「かみちゃん、何年も付き合ってるって言ってなかった?」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯ぁ」
 失言に気がついた瞬間には、俺は飛び込むようにしてベッドへ上がってきたしげに両腕をキツく押さえつけられていた。数秒目を見開き、しげが自分の上に乗り上げていることを理解してぶわりと顔が熱くなる。だけどしげは真顔だった。表情の抜け落ちたかのような瞳で、穴でも開きそうなほど強く俺の目を見つめている。
「どういうこと? 今のは明らかに嘘ちゃうよな。じゃあなんで何年も付き合ってるとか嘘言うたん?」
「あ、え、えっと、あの、」
「目逸らさんとって。なぁ、こっち見ろって」
 腕を押さえていた手に頬を掴まれた。その手は強くて、力が籠っていて、語気も荒くて、だけど無理やり合わされた視線はまるで縋るように余裕がなかった。しまった。嘘が嘘でなくなったことで、気が緩んでいたんだ。でも、だけどそれってしげが、さっき俺のことを軽蔑したような目で笑ったしげが、こんな反応をするようなことなのか? 混乱が三度頭を支配して、俺は何も言えないままに、まるで石にでもなったかのように動けずにいた。
「なぁ、⋯⋯なぁ、どういうこと? 頼む、から。全部教えてや。あいつ、何なん? 明らかに今日、⋯⋯した、やろ? 俺が見たことない顔しとったし、そういう空気やったやん。どこまで嘘で、どこまでがほんまなん?」
「ちょ、ちょっと待って、しげ」
「待たれへん!!」
「⋯⋯っ」
 しげが叫んだ。自分の出した声に驚いたように目を見開いて、だけどしげはすぐぎゅっと眉間に皺を寄せて縋るように俺に身体を寄せてきた。顔のすぐ横に頭を落としたしげの黒髪が、頬を掠める。壊れた機械のように恐る恐るそっちへ目を向けると、しげはシーツへ顔を埋めたままただぎゅっと俺の腕を握りしめている。
 開いた口がまた掠れた空気の音を立てて、だけど俺は声を出した。ゆっくりとしげの名前を、呼んだ。
「し、げ」
「⋯⋯なに?」
「な、何から話せばいいんか、わからへん」
「全部言えや⋯⋯」
「ぜ、全部言う! 全部言うから、その前にしげが何でこんなことしてんのか、教えて」
「⋯⋯それ、は⋯⋯」
 苦しげにくぐもった声が揺れる。ゆっくり顔を上げたしげは俺が自分の方を向いていると思っていなかったのか一瞬目を見開いたあと、だけど目を逸らさずに囁いた。空気に似合わず明るい室内で、それを意識する隙間もないほど近くで俺たちは見つめあっていた。
「⋯⋯かみちゃんの為に、あいつと別れることを決めたから」
「⋯⋯⋯⋯っ」
「なんで自分がこんなことなってんのか、自分でも分からへん。でも、かみちゃんと生きたいと思ってん。あいつじゃなくかみちゃんに、これから先の時間全部あげたいと思った。もちろんかみちゃんにはかみちゃんの人生があんの分かってて、だけど俺のあげられる時間は全部かみちゃんに、って⋯⋯」
「し、しげ⋯⋯」
 どうして、どうして分からないんだ。それってもう、愛じゃなきゃ何だって言うんだよ。あんなに苦しい思いをしてでも選ばなかった離婚を俺のために決意して、自分の時間全てを俺にくれるって、そんなの、愛の告白以外の何ものでもないだろう。
 しげが苦しげに眉根を寄せる。もうすっかり力の抜けていた手から腕を抜き取り、そっとその額に手を伸ばした。視線を上げたしげが、俺を、俺だけを見ている。目が合った瞬間、あぁ、と理解した。こいつも、怖いんだ。本当は分かっているくせに分からないふりをして、自分が勝手に時間をあげるだけ、という献身的な言葉に逃げているんだ。
 そっと頬を上げた。なぁしげ。俺たち、大人になったんだなぁ。弱くて、狡くて、逃げ道の作り方も、他人へ寄りかかる方法も知ってしまったんだ。だけどそんなの俺、嫌だよ。だって俺たちは、数え切れないほどの夢を語っていた頃の俺たちは、たった一枚のフィルム写真にその時の想い全てを込められるような世界で生きていたじゃないか。きっとこいつだって、どこかに持ったままでいる小さな一枚の写真に。
「⋯⋯⋯⋯言って」
 囁くと、しげは泣きそうな目をした。噛み締めた唇を緩ますようにそっと撫で、もう一度促す。ゆっくりと開いた唇の渇きすら、愛おしかった。
「⋯⋯愛、してる。かみちゃんが好きで、かみちゃんと居たいから、あいつと別れることにした。あの頃みたいに、かみちゃんと色んなところ、どこまでも行きたいねん。俺、を⋯⋯選んで、くれ」
 愛を伝えているはずなのに、しげは苦しげにその目を細めていた。いつの間にか詰めていた息が漏れ、浅い呼吸を繰り返す。その唇に、当然のようにしげのそれが寄せられた。つい数時間前、他の男と同じことを、それ以上のことをしたと知っているのに。
 一度触れただけで離れていったそれを目で追い、自然と目が合う。勝手に瞳から涙が溢れた。最後に泣いたのなんてもう何年前かも分からないのに、どうして今日はこんなにも子供のようになってしまっているんだろう。
「⋯⋯返事は?」
「⋯⋯そん、なん⋯⋯しげがいいに、決まってる⋯⋯。しげと一緒にいたいに、決まってる⋯⋯」
「じゃあ、あいつは? ほんまに会社の後輩なら、そんな簡単に付き合ったりせんやろ」
「⋯⋯あいつは、のぞむ、は⋯⋯」
 最後に見た笑顔が、「おやすみ」と告げた優しい声色が、俺が混乱すると分かっていて二人きりにして出ていった背が、頭を過っていく。
 いい歳して初心なままだった俺に触れた優しい手。どこか寂しげで、だけど暖かだった瞳。夜にしげとの約束があると分かっていて何故か事に及んだ、あいつ。咄嗟に口元を抑えた。
「⋯⋯かみちゃん?」
 あいつは、小瀧は、全部分かっていたんじゃないのか。しげが離婚を決めたことも、それが俺のためであることも、⋯⋯今日、こうなるかもしれないことも。だってあいつは、俺が聞いていないしげと妻の数日間を全部知っている。胸の内に生まれた決意にも、俺に対する感情にも、全て気がつい、て⋯⋯⋯⋯。


『──知り合い? とも』
『そう? 俺は全部分かったけどな』
『⋯⋯あの人にも、腹立つし』
『望って、呼んで。⋯⋯今だけでいいから』


「こ、たき。小瀧⋯⋯っ!」
 知っていたんだ。全部全部、分かっていたんだ。今日のこれは、散々世話を焼いてくれたあいつの最後の思い出作りだったんだ。
 あるいは、あいつは腹が立つと言っていたしげへの、微かな仕返しだったのかもしれない。だけどそんなの全部どうだっていい。あいつははなから恋人になる気なんてなかった。不安で崩れそうな俺の支えとして寄りかかる体温をくれただけで、こうなることを分かっていたんだ。だけどそんな素振り全く見せないままに、優しく俺を抱きしめたあと、この部屋を出て行ったんだ。
 俺が気づかない間にシーツまで替えてくれていたあいつは、きっとサイドボードの上の写真を見ている。その瞬間のあいつの心を想うだけで、心臓がグシャリと音を立てて潰れてしまいそうだ。自分がしたことがどれだけ軽率だったのかに俺はようやく気がついて、呼吸がどんどん荒くなっていく。
「かみ、ちゃん。かみちゃん。落ち着いて」
「お、おれ、俺⋯⋯っ、どうしよう、小瀧に何て謝ればいいんか、」
「そうか? 俺はあの一瞬会っただけでもあの人がそんなもん求めてるようには見えんかったけど」
「だ、だってしげは何も、」
「うん、だから教えてや。話してくれるんやろ? 全部」
 顔を上げる。涙に濡れた目元を拭い、しげはさっきまでと打って変わった笑顔で、いつもの優しい目で、笑った。
 とりあえずあったかいもんでも入れよか、と俺の頭を撫でながら呟いたその姿は、何年も何年も焦がれ続けたかつての、朗らかで明るくて太陽みたいな、男だった。




「⋯⋯落ち着いた?」
「ん⋯⋯」
 手に温かなマグを握りしめ、そっと頷く。間接照明だけに戻した室内でベッドに座らされた俺と、化粧台の椅子に軽く腰掛けたしげ。さっきまでのことが嘘のような距離で、なんとなく気まずくなりながら視線をマグの中の紅茶へ移した。真っ赤なそれにぼんやり映った自分は、まるで別人のように弱々しい瞳をしていた。
「話せそう?」
「⋯⋯うん」
 ゆっくり中身を飲み干し、カップをベッドサイドに置く。こつりと音を立てたそれがまるで合図のように、目が合った。
「俺、は⋯⋯ずっと、ずっと前から、しげが好きやった。多分しげが思うよりずっと⋯⋯もう、十年以上、前から」
「⋯⋯え?」
「でもそれを言うことは出来ないままに大人になってもうて、⋯⋯しげは、気づいたら知らん人との指輪を薬指に付けとった。あの時明確に、一回俺の恋は終わってん。⋯⋯でも、好きでいるだけなら自由やから。俺は変わらず、しげのことが好きなままやった」
「⋯⋯そう、やったんや」
「うん⋯⋯」
 一瞬、沈黙が寝室を支配した。だけど俺の長年燻らせてきた想いなんて、全ての始まりでしかない。一端でしか、ない。
「⋯⋯あの人のこと初めて紹介された時から、なんか上手くいかんのちゃうかなって思ってた。しげは昔から俺が言うこと何でも頷いてくれたから、それも言うべきなんちゃうかって、悩んで⋯⋯。でも俺、言えんかった。他人の『幸せ』を邪魔することから、逃げてん。自分がしげのこと好きやからそう感じるんかも、とか色々自分に言い訳して⋯⋯」
「⋯⋯かみ、ちゃん」
「でも、やっぱりこうなってしまった。すぐしげは暗い顔ばっかりするようになって、いつの間にか目に隈作るようになって、終いには怪我の跡までできてて⋯⋯。お、俺、しげが結婚した日から今日まで、後悔しない日なんてなかった。ずっとずっと後悔して、止めなかった自分を恨んで、あの女のこと呪って、毎日楽しくて幸せやった過去に、縋って⋯⋯!」
 握りしめた布団が皺を作った。生きているような、生きていないような、そんな日々を辿り続けてきたこの数年間がまるで走馬灯のように次々頭を過っていく。いつだって何をしていたって、頭にはしげのことしかなかった、こいつへの想いと荒波のような後悔に紛れもなく狂っていた、日々を。
「何年も毎日毎日そうやって生きてきて、ずっとお前のことしか考えてなかった。彼女なんて、いるわけなかった。全部、全部嘘やってん。あの時お前の部屋のリビングであの女に話したことは全部、何もかも嘘やった」
「⋯⋯なんで、そんな嘘ついたん⋯⋯」
「それ、は⋯⋯」
 耐えられなくなって顔を上げた。呆然と俺を見ていたしげと目が、合う。きっと実際の俺とはまるで違う人間を「かみちゃん」と優しく呼び、十年以上焦がれた言葉をたった今くれた、人。
 怖くて、悲しくて、逃げ出したくて、だけどもう逃げ場なんてどこにもなかった。
 薄汚れた自分の重い感情、自分で決めて行動に移した、犯罪紛いの行為。それを聞いて、しげはどう思うだろう。同じように好きだと、愛していると、言ってくれるだろうか。しげが愛している人間なんて、もうどこにもいないのかもしれないのに? 奥歯をグッと噛み締め、俺は下手くそに笑った。
「お前とあの女を、別れさせる⋯⋯ため」
「⋯⋯⋯⋯は?」
 一度堅く目を閉じ、だけどもう一度目を開く。睨むようにして視線を合わせた。もう二度と、逸らさないと心に誓いながら。
「お前が、顔の傷が治らんうちにまた新しい傷作って、それが途切れることがなくなった頃。俺は何をしてでも別れさせるって決めた。でもあの頃のしげはもう、俺が正面から説得したとしても聞き入れてくれるような目してなかったから、正攻法はすぐ諦めてん。⋯⋯あの女がしげに手出してる証拠を押さえて、それをしげにバレないように突きつけて、向こうから別れを切り出させよう、って。それが俺が考えた手段やった。⋯⋯この前、久しぶりに一緒に出かけたやろ? あの日、録画機能付きの盗聴器持ってしげの家のすぐ近くに車停めて、それから電話してん。『今から飯でもどう』って。そしたらきっとしげは頷いて、でもあの女は色々理由つけて渋るやろうから俺を一旦部屋に呼ぶやろうなってところまで全部計算してた。二人の会話も、ほんまは全部聞いてた」
「⋯⋯っちょ、ちょっと待って! かみちゃん、お、俺、」
「ううん、もう全部話さして。何も考えんとそのまま事実として聞いて」
「は、⋯⋯は⋯⋯!?」
「予定通り部屋に上げてもらえたから、しげがどっか行ってあの女がキッチンでコーヒー入れてる間にダイニングテーブルの裏に取り付けて⋯⋯今もそれは付いてるし、作動してる。俺のPCには、ここ一週間くらいのあのリビングの全てが入ってるねん。何十時間分も。その後の会話は、あの女の感情を煽ってまた喧嘩させるためやった。だからあの晩の⋯⋯ことも、俺は見てた。⋯⋯ごめん⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯や、もう、⋯⋯何を言えばいいんか、わからんけど⋯⋯」
 一度見ただけで脳裏に焼き付いて離れなくなってしまったあの光景に、顔を顰めた。あれだって、煽る必要なんて本当になかったのに。待っていれば必ず起こることだったのに。何を焦っていたんだろう。唇を噛み締め、だけどもう一度開く。まだ、話さなきゃいけないことが残っている。
「でも、あの晩の映像見ただけでもうその先は見れんくなってもうた。覚悟してたつもりやったのに、愛した人間があんな目に遭ってるとこ、見てるだけで心臓が潰れそうで、吐き気が止まらんくて⋯⋯、実際受けてるしげの方が何倍も辛いこと分かってたのに。それでもあかんかった。⋯⋯それを代わりに見てくれたのが、小瀧⋯⋯やねん」
「は、え? あ、あの人が?」
「そう。⋯⋯あいつは入社してきた頃俺が教育担当やっただけのただの後輩で、なんかちょっと懐かれてんなぁ、程度の存在やった。でも俺がちょうど動くって決めた頃に偶然⋯⋯それももう偶然やったんかわからんけど。とにかく、スルッて近づいてきてん。俺は自分の話なんて会社で全然しないし特別仲良い人もいなかったけど、あいつは意識する暇もないくらい自然に俺の中に入り込んできた」
「⋯⋯⋯⋯」
 しげがふと目を逸らした。何か考えているようなその横顔を見つめながら、話を続ける。
「俺、覚悟してたつもりのくせにほんまは自分がやろうとしてることにビビっとってん。だから、⋯⋯だから一人で抱えきれんくなって、あいつに全部話してしまった。ずっと好きな奴がいること。そいつが男で、既婚者で、でも上手くいってないから別れさせようとしてること。あいつはなんでか知らんけどやけに乗り気で、やれることは何でもしますよ、ってケロッとした顔で言ってきて⋯⋯」
 そう、そうだ。あいつは初めから俺がやろうとしていること全てに肯定的だった。ケラケラと笑いながら。どうしてなんだろう。もう俺はあいつが自分を愛してくれていたことに気がついていて、だけどそれなら、俺にはつけ入る隙もこれを辞めさせる手段も、数えきれないほどあっただろうに。
「⋯⋯あの日、さ。俺ら、おかしかったやん? しげが離婚を決めたのも、多分あの日がきっかけやろ?」
「⋯⋯うん」
「俺もさ、あの日からおかしかった。しげをあの女から引き離したい、解放したいとはハッキリ思ってて、それで⋯⋯それで、あわよくば自分の想いも今度こそ伝えられたら、とは思ってたけど。でもいざそういう空気になったら、⋯⋯困惑、して。自分がしげにそう見られるなんて想像もできてなかった。⋯⋯だってもう何年も、一人で勝手に想い続けてきた、から⋯⋯」
 しげがふと視線を戻してきた。じっと俺を見据える瞳はあの日と似ていて、心臓が歪に揺れる。無意識に胸に手を当てながら、それでも必死に目だけは逸らさず言葉を続けた。腰を上げたしげが、音もなく近寄ってきてベッドの端に腰掛ける。
「自分で付けたくせに映像を見るのが怖くて、しげのあの日の目も忘れられんくて、俺、いっぱいいっぱいになってもうて⋯⋯。そん時、小瀧が訊いてきてん。今どうなってんすか、って」
「⋯⋯あぁ、もしかしてそれ」
「うん。それが、しげが朝俺の家に来る前の日のこと。もうそん時には俺、自分で始めたくせにやり切る自信もなくて、そんな自分にも気が滅入ってて、あいつに頼ってしまった。なんせ何十時間もある映像やからあいつはそのまま泊まることになって、あの日の段階で最新のものまで見た上で一番決定的な部分集めた短いデータ、作ってくれた。そうしたらもう、それをしげにバレないように相手に突きつけるだけやってん。⋯⋯あの時の俺はもう、その一歩を踏み出す気力すらなくなってたけど。でもその翌朝にしげが来て⋯⋯、全部、狂ってもうた」
「はは⋯⋯。俺ら、同時に色んなこと考えてたんやなぁ」
「⋯⋯うん」
 それ以外に言葉が見つからなくて、俺はただ頷いた。黙って腰掛けていたしげが、顔を上げる。何か考えている様子の浮ついた手つきがネクタイを抜いて、そのまま床に落とした。
 ぎし、とベッドのスプリングが音を立てる。黙って俺の上へ乗り上げたしげの初めて見る目を、欲や嫉妬に濡れた目を、俺は爆発してしまいそうな心臓に手を当てたまま呆然と見つめていた。しげの手がゆっくりと頬を撫でる。
「⋯⋯で? なんでただの後輩が恋人みたいなフリして、かみちゃんはその嘘に乗っかって、今日ここで、あいつに身体あげてもうたん?」
「ぁ⋯⋯え、っと⋯⋯そ、それは、俺にもよくわからんくて」
「へぇ」
 しげの手が頬を何度も滑り、そっと耳をなぞった。ただそれだけでなぜか全身が熱くて、頭が真っ白になっていく。
「っちょ、や、やめて。俺ちゃんと話、したくて」
「うん。聞いてるやん」
「ち、ちが⋯⋯俺、全部話してまだしげにそんなふうに思ってもらえるか、自信ないねん。だから、だから最後まで⋯⋯」
「愛してるけど?」
 勝手に俯いていた顔をバッと上げた。至近距離で目が合ったしげは、無表情でじっと俺を見つめたあと力が抜けたようにふっと笑った。今日ぼんやりと考えたばかりの自分の思考が頭を過る。『──しげは、どんな風にセックスをするんだろう。俺の知らないあいつは、どんな顔をしているんだろう』。
「だって、何年も俺のことだけが好きで俺のために生きてきて、そのまだ残ってる話とやらも全部俺のこと考えてた結果なんやろ? ほんなら全部、受け止めるよ。全部、かみちゃんや。全部全部、まとめて愛せるに決まってる⋯⋯」
「⋯⋯ほん、まに⋯⋯⋯⋯?」
「うん。だから教えて。全部、かみちゃんの考えてたこと、してたこと」
「ぁ、⋯⋯ぅ、ん⋯⋯」
 じわりと溢れた涙を、しげの唇が吸い取った。そのまま目元に何度も口付けられて、嘘みたいで、身体も頭も熱くて、訳がわからない。何度もしげの手が俺の髪を撫でる。考えたことすらなかった奇跡みたいな、だけど確かな体温がそこにある。
「お、おれ怖くて、しげとほんまにそうなれるかもしれないことも、どうなってるんかわからん状況も、関係が変わることも、全部、怖くて⋯⋯っ」
「うん」
「そ、そこに電話までかかってきたからもう訳わからんくて、でもしげの電話を無視なんてしたくなくて、お前が何考えてるんかもちょっと気になって、そ、それで⋯⋯電話に出てん」
「ふは、相変わらず真面目やなぁ⋯⋯」
「そんな、っう、あ⋯⋯っ」
「ほんで? 真面目なかみちゃんが、寄越すって言った連絡もせんと夜まで何しとったん?」
 しげの手が何度も何度も耳を擽る。どうして? 耳って、気持ちがいい場所だったのか? そんなの知らない。おれは何も、知らない。あいつとの時間がなければ、他人の体温すら知らなかったんだ。しげの唇が首筋を滑る。場所を変えて何度も押し当てられるそれは柔らかくて、少しつめたくて、だけど心地いい。
「そ、それっは⋯⋯、お、おれ、もう考えること多すぎて疲れてて、実際頭も、痛くて⋯⋯あの電話の時隣に小瀧、おったんやけど、顔色悪いし頭痛いならもう帰ろ、って⋯⋯。小瀧は午後休もらって⋯⋯」
「⋯⋯ふぅん」
「ぁ、う、ぅう⋯⋯っほんで、おれはそのまま帰って薬飲んで寝てて、あいつはどっか寄った後来て⋯⋯。そん時にはもう薬が効いてて、だ、だいぶ楽になってて、どうするんかと思ったら、その⋯⋯」
「⋯⋯そのまま?」
「そ、のままっていうか、色々あったんやけど⋯⋯っ、け、結果的には、した⋯⋯! お、おれ、考えんのに疲れちゃってて、ずるいって分かってて、あいつに⋯⋯」
「色々って?」
「ぇ⋯⋯?」
「色々ってなに?」
「ぁ、え⋯⋯」
 しげが顔を上げた。すぐ真下から見上げてくる瞳は真っ直ぐで、だけど何か、どこか切実で、ゆっくりと首を傾げる。
「俺、ずっとしげが好き、で⋯⋯誰ともちゃんと付き合ったことも、そういうこともしたことなかった、から⋯⋯」
「⋯⋯は?」
「そ、それで小瀧が、全部してくれた。あの、準備? とかから、全部⋯⋯。流石に抵抗あってちょっと揉めたっていうか⋯⋯」
「ちょ、ちょっと待って。初めて? 誰とも付き合ってなかったん? 男とも女とも?」
「え、や、付き合ったことくらいはあったけど。でも好きじゃないから当然続かんかったし、そういう状況にもならんかった。⋯⋯小瀧にもそんな顔されたんやけど、そんなおかしい? ごめ⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯まじ、かよ⋯⋯」
「し、しげ?」
 ずっと俺に触れていた手を止め、しげが俯いた。すっかりその心地よさに溶けかかっていた俺はそれが寂しくてそっと自分から手を伸ばし、しげの頬に触れてみる。ゆっくり顔を上げたしげは、まるで子供のように唇をへの字に曲げていた。
「⋯⋯なに、その顔」
「だってかみちゃん、⋯⋯今日あいつと寝たのが初めてやったってことやろ? ほんで準備とかも、全部あいつに見せたんやろ?」
「み、見せたっていうか、流されたっていうか⋯⋯実際知識もなかった⋯⋯し。っあ、ちょ、しげ⋯⋯!」
 さっきまで戯れのように触れるだけだったしげの手が、部屋着の中へ入って素肌を撫でた。
 大袈裟にびくりと跳ねた身体を抑え、しげはまた俺の首筋に顔を寄せて黙りこくっている。その間もずっと身体を撫で続けている手が、信じられないほど気持ちいい。ただ撫でているだけなのに。まだ話だって、終わっていないのに。
「⋯⋯あー、全部分かった。さっき歩きづらそうやったのも、転けたのも、初めてやったからか」
「んぇ、ぁ、うん⋯⋯っ、し、しげっ?」
「なるほどなぁ、してやられたわ⋯⋯。全部聞いとったんならあいつは俺が離婚する気なのも分かってたやろうし、この子に気持ちぶつけようと思ってんのも絶対バレとったな」
「⋯⋯? で、でも小瀧は、」
「散々手伝ったったんやから身引く代わりにちょっとくらい思い出くれや、ってとこか。⋯⋯それにしちゃ、持ってかれたもんがデカすぎるけど」
「は、はぁ⋯⋯? 何の話して、」
 もう訳が分からなくてきっとまん丸になっている俺の目を見て、しげは微笑んだ。思わず息を呑む。俺の知らなかったあいつの顔は、穏やかで、大人の男で、だけどどこか恐ろしかった。静かな獣、のような。
 流れるように唇が合わさる。しげの、それだ。ぶわりと頭に熱が上り、思考がドロドロと溶けていく。片手でシャツのボタンを外しながら器用に俺の頬や耳も撫でているしげの体温に頭がおかしくなりそうで、だけどその慣れた仕草が少し心を締め付ける。⋯⋯やっぱり、小瀧を、⋯⋯望を知っておいてよかった、なんて。きっと口にしたらこいつはすごく怒るそれを、溢れそうなどちらのものかも分からない唾液と一緒に呑み込んでいく。
 だって俺だけハジメテだなんて、そんなの恥だよな。⋯⋯なぁ? 一雫だけ溢れた涙は、あいつへの贖罪だった。全て知っていて俺を助けてくれて、その代わりに些細な思い出を持ってこの部屋を出て行った、ばかみたいに優しい歳下の男。
「⋯⋯ん⋯⋯コラ、なに考えてんねん」
「ふ、ごめ⋯⋯なぁ、俺ら最初からあいつの手のひらで転がされとったんちゃう? だってあいつ、⋯⋯俺のことどうにかする機会なんてきっと何年も、何回もあったのに」
「⋯⋯知るか、んなもん」
「ぁ、し、げ⋯⋯っ」
 部屋着を捲り上げ、しげの舌が肌を這っていく。ぎゅっと目を瞑って耐えていると、呼吸の合間にしげが「目開けて、ちゃんと誰が今目の前にいんのか見て」と囁いた。そんなの、そんなのちゃんと理解してしまったら俺はおかしくなってしまうのに。十年以上ずっとずっと好きで、だけどそんなふうになることも、こいつが俺に触れることも、今日あいつに言われるまで想像すらしたことがなかったのに。
 部屋着の前をしげが開く。ジッパー式のもこもこの部屋着は着心地が良くて気に入っていたけど、自分の身体を隠すにはあまりに無力だった。
「⋯⋯し、げ⋯⋯」
「なに?」
「そ、そんな見んとって⋯⋯。お、男の身体なん、て、」
「あほやなぁ」
 口元だけで笑ったしげがそのまま胸元に顔を寄せてくる。何をされるのか一瞬考えて理解し、手を伸ばした。
「⋯⋯⋯⋯なに」
「そ、こは別に⋯⋯良くない?」
 ムニャリと頬を抑えて動きを止められたしげが不満げに眉を歪めた。か、かわいい。思わず頬が緩んで、だけどあっさり払いのけられた手にまた焦って、もう止めることも出来ないから手で口を塞ぐ。
「⋯⋯っう、あ⋯⋯ッッ」
「⋯⋯ン、ふは、かわい⋯⋯」
「かわいい、わけ⋯⋯っぁ、う⋯⋯」
「⋯⋯きもちぃ?」
「きもちく、ない⋯⋯変な感じ⋯⋯ぁう」
 平たい男の胸に舌を這わせたしげが、そのまま視線だけで見つめてくる。卑猥だ。想像すらしたことがなかった俺にはこんなしげ、別人みたいで、まるで悪いことをさせてるみたいで、だけど⋯⋯だけど、酷く、興奮した。
 ぴちゃ、としげの舌が水音をたてる。唾液に濡れた俺のそこに軽く歯を立てたり、確認するように何度も両方指で摘んだりを繰り返してきて、その度俺の身体はびくびくと跳ねた。
「⋯⋯ここは、触られてない?」
「ん、ぇ⋯⋯? の、望のこと?」
「名前出すなや」
「あッッ、ご、ごめ⋯⋯っ、ちょ、ちょっと触っとった、けど、ちょっとだけ⋯⋯!」
「⋯⋯そ」
「ゃ、っあ、も、もぅ、やめ⋯⋯っあ!!」
 ガリ、と歯を立てられた。痛みと、どうしてか分からない不思議な痺れがそこを中心に全身へ広がる。たのしそうに、しげがわらった。
「あー⋯⋯かわい⋯⋯。俺が一番に見たかったなぁ」
「し、げ⋯⋯、ぁ、はぁ、う、ぅ⋯⋯」
「ごめんな⋯⋯ごめん、ほんまに、ごめん⋯⋯⋯⋯ずっと待たして、嫌な話ばっかり聞かして⋯⋯」
「あっ⋯⋯し、しげ、謝らんとって⋯⋯」
 胸元に吸い付いたままのしげの髪へ手を伸ばす。そっと撫でると、一度も染めたことのない黒髪がさらりと揺れた。俺を見上げる瞳は、後悔と悔しさに揺れている。何度も鏡で見た、自分のようだ。思わず口角が上がる。
「⋯⋯思い、出した? ⋯⋯ずっと一緒におったのが、誰やったのか。おれたちが、当たり前のようにお互いがいる人生を思い描いてたこと」
「⋯⋯⋯⋯うん。そうやったな」
 唾液でてらてらと光っているそこからようやく口を離し、しげがそっと唇を寄せてきた。掠めるように何度も触れ合わせながら、しげが囁く。
「おれ、⋯⋯忘れとった。⋯⋯かみちゃん、が⋯⋯かみちゃんといることが、当たり前やったのに。⋯⋯あの頃からずっと、俺の人生には当たり前のように⋯⋯かみちゃんが、おったのに」
「う、ん⋯⋯ふ、んん⋯⋯。ぁ、なぁ、しげ⋯⋯」
「⋯⋯ん⋯⋯?」
「あい、してる⋯⋯だ、だいすき、⋯⋯ん、」
「⋯⋯うん」
 ぺろ、としげの舌が俺の唇を舐めた。緩めたシャツの隙間から覗いた首筋や胸板がやけに色っぽくて、眩暈がする。また何度も唇を重ねながら、欲に溶けた目が閉じることもせず俺を見つめ続けている。それはきっと、俺も同じだ。
「おれ、しげの為なら何でもできる、ねん⋯⋯、ん、ぅ⋯⋯んむ、け、結局何もしてやれんかったけど、⋯⋯おまえを救うためなら、悪者でも、なんにでもなれる、って、ほんき、で⋯⋯っ」
「うん、もう全部伝わってるから。⋯⋯ン、⋯⋯ありがとう、ずっと好きで、いてくれて」
「⋯⋯っ、う、ん⋯⋯⋯⋯うん⋯⋯っ」
 あぁ、救われた。俺は壮大な覚悟の割に結局自分一人で出来たことなんて片手で数えられるほどしかなくて、ただがむしゃらに走り回っていただけだったけど、それでも今、終わったんだ。いつかの決意が、ようやく終わったんだ。
「⋯⋯身体、つらい?」
「ぇ、⋯⋯あ、えっと⋯⋯た、たぶん大丈、夫」
「そか」
 しげがズボンのポケットを弄る。そのままふと、おそらくリビングへ置いてきた自分の鞄の方へ向いた視線で何かを察し、一瞬の逡巡の末に腕を掴む。俺を見下ろしたしげから視線を逸らし、そっとベッドサイドを指差した。同様に一瞬固まったしげがそこの引出しを開ける。中に仕舞われているのは、今日あいつが買ってきたばかりの小さな箱と半分ほど中身の減ったボトルだ。
 長い、長い溜め息が落ちてきた。気まずい。気まずくってたまらない。
「⋯⋯⋯⋯まぁ、ええけどさぁ」
「⋯⋯はい」
「⋯⋯一回ちゃうやんけ、しっかり盛り上がりよって⋯⋯」
「う、うるさい! まだあの頃はしげ関係ないやん、文句言われる覚えな、⋯⋯んむ!」
「はいはい、あー、ほんま腹立つ⋯⋯」
 淡々とそれらを取り出してベッドへ放り投げ、しげは俺のズボンへ手を伸ばした。呆気なく取り去られたそれに一瞬肌がふるりと震えて、当然のように下着を抜き取ったあいつが、しげが、黙ってじっと見つめている。俺のそこを、今から一緒になるところを、見ている。血が上り過ぎて頭がおかしくなりそうだ。
 ピリ、と袋を破り、しげはそれを口に咥えたままガチャガチャと音を立ててベルトを外した。なんとなくそれから目を逸らしながら、飛んでいくんじゃないかと思うほどバクバク音を立てている心臓に落ち着けと内心で叫ぶ。
「⋯⋯ふは。かみちゃん、息してる?」
「し、してます」
「ならよかった。⋯⋯ちょっと冷たいで」
「⋯⋯っ!」
 ちらと視線を向けると、しげが手のひらに落としたローションをゆっくり馴染ませたあと俺のそこへ、伸ばしていた。咄嗟に目を逸らす。
「⋯⋯ッッ! ぅ、あ⋯⋯っ」
「⋯⋯やらか。どんくらい解したらこんなんなるんやろ、調べとかなな⋯⋯」
「ぁ、あぅ、う⋯⋯っ! し、しげ、しげ⋯⋯っ」
「⋯⋯ん?」
「ど、どうしよ、おれ、おかしなる⋯⋯。しげが、お、俺に触って⋯⋯こんなん、夢にも見たことなくて、」
「⋯⋯⋯⋯あぁ、それでずっと変なとこ見てんねや」
 きっと茹で蛸みたいになった顔の赤さを恥じる余裕すらない。だって、しげが。しげが俺に、明確に性的な意志を持って触れている。俺のなかに、しげの指が入っているんだ。無骨で、あまり手入れはしていなくて、だけど綺麗な手、が。
 その先をついさっきちゃんと身を持って知った俺はもう今から心臓がおかしくなりそうで、いやもうおかしくなっているんじゃないかというほど、

「かみちゃん、こっち見て」
「⋯⋯ぁ、」

「ふは、あっか⋯⋯。なぁ、おかしくなってええからさ、ちゃんと見とって。俺やから、今かみちゃんのこと抱こうとしてんの」
「そ、そんなん分かってるからこんなことなって、」
「そういうことちゃうんやって。⋯⋯他の男に抱かれた記憶、ぜーんぶ忘れて、俺とのことだけ覚えとって。最初から最後まで、全部ちゃんと見とってや」
「⋯⋯むり、やって⋯⋯」
「無理ちゃうよ、ほら」
 しげが、大好きなしげの甘い声が、俺に促す。端的に、見て、と。見たくないのに、あいつとの時ですらその瞬間は目を瞑っていたのに。それなのにしげがそう言うだけで何故か俺の目は、そろそろと視線を下に向けてしまう。別に初めて見たわけでもないしげの性器が、俺を、貫こうとしている。
「ぁ、あ⋯⋯し、しげ」
「うん。そのまま見とって。⋯⋯挿れる、で」
「まっ⋯⋯ぁ、あ、ああ⋯⋯ッッ!! ぅあ、あ、しげ⋯⋯っ」
「⋯⋯ン⋯⋯きっつい、けど、入るやんけ⋯⋯あー、ほんま、クソが⋯⋯」
「は、ぁ、っあ、ちょ、ちょっとまって、」
「うん。⋯⋯辛ない?」
「だ、だいじょうぶ⋯⋯ちょっと待てば、馴染むと思う、から⋯⋯」
「⋯⋯はいはい。もう一々引っかかんのも疲れてきたな⋯⋯」
「んぇ⋯⋯?」
「なんもないよ。ほら、舌出して」
「し、た? ぁ、う⋯⋯ん⋯⋯っ」
「⋯⋯⋯⋯」
「んむ、⋯⋯ん、ぅ⋯⋯ぁ、う⋯⋯っん」
 ぴちゃぴちゃ音をたてて何度も舌が絡まる。時折しげは喰むみたいに俺の唇を柔く噛んできて、それに逐一心臓が、確かに繋がったそこが、ジンと疼く。
 ぼうっとしていると歯列をなぞっていたしげの舌が上顎を掠め、何故か身体が跳ねた。もうどこがどうして気持ちいいのか、さっぱりわからない。
「⋯⋯は、ぁ。⋯⋯ふ、かみちゃん、舌細いなぁ」
「⋯⋯あ」
「ん?」
「⋯⋯なんも、ない⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯うん」
 黙って顔を伏せたしげが、耳元に口を寄せた。近くで吐息を感じてふるりと身体が震えて、次の瞬間、じっとりと舐め上げられていた。思わず「ひっ」と声が漏れる。
「っっや、ぁ⋯⋯ッッ!? し、しげ、なにし、」
「⋯⋯ん⋯⋯ピアス、増やした?」
「ぁ、あぅ⋯⋯っっ! ゃ、あ⋯⋯や、やめっ⋯⋯」
「はは、かわい⋯⋯」
 ぐちゅぐちゅと、耳を塞ぎたくなるような音が耳元でしている。まるで脳全体に響くようなそれに心臓が爆発しそうで、こわくて、同時に信じられないほど、気持ちがいい。しげはずっと黙ったまま俺の耳を舐めたら喰んだりを繰り返していて、まるで耳にキスされているみたいだ。その間にも馴染んできたのか下が疼いて、もどかしくて、もうわけがわからない。
「ぅ、う⋯⋯っ! し、げ⋯⋯!」
「⋯⋯ん⋯⋯?」
「ぁう、あ、ゃ、もうっ、やめっ⋯⋯て⋯⋯」
「んー⋯⋯きもち、よさそうやん」
「き、きもちぃ、からぁ⋯⋯っ! も、う、うごいて⋯⋯っ」
「⋯⋯大丈夫?」
「だ、だいじょ、ぶやから⋯⋯ぁ、は、はやく」
「⋯⋯ん」
 ようやく耳を解放してくれたしげの唇は唾液に濡れていて、それがやけに色っぽかった。見つめていたのがバレたのかしげは口角を上げて、そっと、今度はちゃんと唇へ触れてくれる。
「ん、ん⋯⋯ふ、ぁ⋯⋯」
「⋯⋯動く、で?」
「んむ、っあ、あぅ、っん⋯⋯!」
「⋯⋯ん、ぁ⋯⋯ん、かみちゃん、かみ、ちゃん⋯⋯」
「あっ、あ、う⋯⋯っ、んんっ、んむ、ん、んん⋯⋯っ!」
「はぁっ、ぁ、⋯⋯痛く、ない?」
「い、いたくない⋯⋯っ! ぁ、っはぁ、す、き、すき⋯⋯っ」
 腕を伸ばし、首に抱きついた。顔を埋めたしげの首筋は少し汗に濡れていて、それがばかみたいに頭を溶かす。⋯⋯ずっと昔から近くにいて、だけど汗ばんだ首筋なんて知らなかった。それがこんなにも色っぽいことだって、当然。
「すきって、なにが? これ、が?」
「あっ、っち、ちが、ぁう、あ、や、ぁ⋯⋯っ」
「これも好きそう、やん⋯⋯」
「す、すき! し、しげがくれるもんなら、何でも、すきなんやって⋯⋯っあ゛!」
「煽んな、や⋯⋯!」
「あ、あぁ⋯⋯っきもちぃ、は、あは⋯⋯っ! すご、い⋯⋯ッうあ゛、あっ、ゆ、夢みたい、しげ、しげ⋯⋯!!」
「⋯⋯夢ちゃうわ、あほ⋯⋯。こっから先、何回でも、何百回でも、っ一緒に、朝迎えて、一緒に、どこまでも行く、ねん⋯⋯っ」
「う、んッ、⋯⋯うん⋯⋯ッッ!」
 揺さぶられながらはらはらと飛び散った涙を、余裕の無い表情で手を伸ばしたしげが拭う。その指先を掴み、微笑んだ。
 ようやく帰って来てくれた愛しい人に。初めて出会った、大人の男になっていたこいつに。おかえりと、はじめましてと、⋯⋯狡くて重くなった、俺の愛、を。
「あ、愛、してる⋯⋯っ! 昔からずっと、お前だけ⋯⋯っん、あぅ、」
「⋯⋯ふ、はは⋯⋯かみちゃん、そんなん考えとって、よう、あんな平然としてられた、なぁ⋯⋯」
「ぁ、ひぅ、う、あっ、ははっ⋯⋯! 小瀧にも、笑われた、⋯⋯バームクーヘン持って帰ってるとこ、見たかったって、」
「だからあいつの名前、出すなや⋯⋯」
「ん゛あ゛っあ゛ッッ!! 〜〜っし、しらん! 俺も変わっていってんねん、っあ、あほ!」
 涙でびしゃびしゃになった顔でにんまり笑うと、しげは一瞬目をまん丸にしたあと気まずげに目を逸らした。忘れてなんかやらない。お前を俺のもとへずっと縛り付けていられる何かなら、一つだって取りこぼしてやるものか。柔らかなその頬を両手で包み、囁く。

「でもな、あいつには言わんかったけど実はあのバームクーヘン、帰ってすぐ真っ二つに割いて食べたってん」
「⋯⋯かわいいとこ、あるやん」




*





 絵に描いたような、ドラマからそのまま出てきたかのような事後の朝だった。
 チュンチュン鳴く鳥、真っ青な空。ベッドに半分身体を起こしてぼうっと眺めながら、俺はそれとは裏腹にくらい表情を浮かべていた。サイドボードに置いたデジタル時計が差した時刻は、まだ遠いとはいえ着々と出社時間に迫っていっている。扉が開いて、上だけワイシャツに着替えたしげが盆を片手に部屋へ入ってくる。
「待たしてごめん。簡単なんしか用意できんかったけど、食べれそう?」
「⋯⋯うん。ありがとう」
 ベッドへ腰掛けたしげが、俺のために作ってくれた朝食をわざわざ口元まで運んでくれる。黙って口を開けて咀嚼しながら、なんだこれ、と赤くなりそうな頬を抑えるために必死に平静を保っていた。
「⋯⋯なんか、エロいな」
「言うなや⋯⋯⋯⋯」
「はは、思ってたんやん」
 項垂れ、チラリと視線を上げる。俺を見つめるしげの瞳は朝から甘くて、どろりと溶け落ちてしまいそうだ。あの日の喫茶店を思い出し、あっちの方がまだよほど現実的に感じる『今』に目を伏せた。
「⋯⋯ほら、口開けて。時間ないで」
「そうやけど、行かれへんってこんなん」
「あぇ、う、うん、悪い⋯⋯。そんな痛い?」
「正直歩ける気ぃしないです。はぁ、午前休取ろかな⋯⋯でも昨日も帰らしてもらっちゃったから流石に言えんなぁ⋯⋯」
 俺をベッドに縫い付けている腰の痛みに触れ、溜め息を吐いた。そりゃ、そうだ。そもそも初めてで、小瀧とした時点で歩くことすら慎重にならないといけないくらいだったのに、そこから更に数回重ねればこうなるに決まっている。
 やけに早く目が覚めた今朝、目の前にあったこいつの寝顔に驚いて、数秒考えた後胸を襲った途方もない幸福感に思わず飛び起き、そして俺はあまりの激痛に絶叫した。それ以降俺は昨日の余韻に浸る余裕なんて一切ないままに今日の仕事について頭を悩ませている。
「⋯⋯ほんまに、悪い⋯⋯。もうちょっと冷静になるべきやったわ」
「や、俺も昨日あのまま寝るとかは流石に、うん⋯⋯無理やったから、お互い様やで」
「⋯⋯かみちゃん、デスクワークやんな?」
「そう。だから俺の机まで辿り着ければ仕事自体は出来るんやけど、その前後がな⋯⋯。あー、こっからそのまま瞬間移動できたらいいのに」
 半ば現実逃避のように嘆くと、しげは困ったように、だけどどこか暖かく笑った。明るい部屋ではその目元の隈や痛々しい痣がよく見えてしまって、俺はそれをじっと見つめたあと「あっ」と声をあげた。首を傾げたしげに、化粧台を指差す。促されるまま立ち上げってそこへ向かって中を覗き込んでいる横顔は、分かりやすく物珍しそうだ。
「しげ、もう顔洗ったりはしたやんな?」
「え、うん」
「じゃあそこからさ、えっと⋯⋯白いボトルとちっさい⋯⋯そう、それそれ。あともう一つ、丸いのも持ってきて」
「⋯⋯? これでいいん?」
「うん。はい座って、目瞑っといて」
「え、⋯⋯え!? 俺にすんの!?」
「だってもう口出していいんやろ。まぁ現状不倫の立場ですけど」
「え、えぇ⋯⋯」
 困惑しながらも大人しく目を瞑ってくれたその顔を、じっと眺める。自然と口角が上がった。口付けたくなる衝動を抑え、手に美容液をとって少し荒れた肌に塗り広げていく。しげは居心地が悪そうな、だけど気持ちよさそうな、不思議な表情をしていた。指先に少しコンシーラーを載せ、酷い隈や痣の上に乗せていく。とんとんと柔らかく叩き込んでいけば、数年間俺の心臓を痛め続けたそれは簡単に隠れていった。溢れそうな感情でいっぱいになって、声が掠れる。
「⋯⋯ん、いいよ」
「はい⋯⋯。な、なにしたん?」
「鏡見てみ」
「え〜⋯⋯。う、うわ! え!? すご、消えとるやんけ! け、化粧ってすげえな⋯⋯」
「⋯⋯うん」
 鏡台の前ではしゃいでいたしげが振り返った。⋯⋯あぁ、しげだ。ずっと会いたくてたまらなかった、取り戻したかったしげが、そこにいる。ただの一時的な誤魔化しだけど、顔を洗えば元に戻ってしまうけれど、だけど今ここに、いるんだ。
「⋯⋯これ、買うわ。やり方教えて。まだしばらくは隈も傷も消えんやろうし、なんなら増える可能性あるしな」
「頼むから増やさんとってくださいよ」
「うん、ふふ。努力はするけどな」
 軽い足取りで戻ってきたしげが、嬉しそうにベッドへ乗り上げて頬を擦り寄せてきた。抱きしめて何度も頬へ口付けてくれるものだから、子供みたいな笑い声が漏れる。あたたかい。あたたかくて、嬉しくて、幸せで、それだけが心を埋め尽くしている。まるで、一緒に星空を見上げた遠い夜のような。
「ん、⋯⋯あー、かみちゃんかわいい、もう俺も仕事行きたない⋯⋯。今すぐ北海道行ってドライブしたい⋯⋯」
「あかんで。もう我々大人ですから」
「大人ね、なってまいましたね⋯⋯。大人ってなんなんや⋯⋯」
「ふは、知らんわ」
 食べ終わったプレートをベッドサイドに置く。ふざけている間に時間は本当にまずくなってきてしまっていた。しげもそれに気がついたのか、昨日脱ぎ散らかした服やネクタイを慌てて拾い上げている。
「かみちゃん、スチームアイロンある? 手持ちのやつ」
「あるある。そっちのクローゼットの下。ネクタイはもう俺のやつ付けてったら?」
「あ、それもそうか。じゃあお借りします。てかかみちゃんほんまにどうするよ。俺一旦家帰って車出そか?」
「しげ、出張行ってることになってるんやろ。そんなんしたらバレるやん」
「え、なんでそれ知って⋯⋯あ、そっか。全部バレてんのか」
「はい。まぁ俺はあいつから聞いただけやからあんまり知らんけ、ど⋯⋯」
「かみちゃん?」
 思わず固まった。しげがシャツにプシュプシュとアイロンを掛けながら不思議そうに見てくる。どうしよう。言っていいのだろうか。だけどもうそれ以外手段がない。それにあいつ、別に悪いことなんてなにもしていない。
 恐らく何もかも全てわかっていた男。「明日ももひとつやったら車出すから連絡して」と最後に笑って出て行ったあいつの脳内に若干の恐怖を覚えながら、俺は引き攣った笑みでしげに告げた。
「⋯⋯小瀧が最後に何て言って出てったか、覚えてる?」



「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
「おはようございま〜す。はは、着替えすらできてへんやん」
「⋯⋯お前、こうなること全部分かってて⋯⋯や、もうええわ⋯⋯」
「あー⋯⋯クッッッッッソ腹立つのに何も言われへん」
「はぁ? そんなんこっちも同じやから。あ、じゃあ俺マイク回収してくるんで重岡さんは神山くんのお着替えだけさしたってください」
「⋯⋯マイク!?」
「そらだってあんな人殺しそうな声してる人と二人にすんの心配に決まってるやん。揉めたら速攻戻ろうと思って神山くんが寝てる間にリビングにつけといてん。神山くんが買ったのとおんなじやつ。一旦戻りかけたけど上手く纏まってよかったっすわ。じゃ、ほんまに時間無いんで早よしてくださいね」
 喋るだけ喋ってばたんと閉じた扉を呆然と見送り、俺としげは顔を見合わせた。ワンコールですぐ電話に出た後輩は、なんとまぁ既に俺のマンションの近くまで車で来ていた。怖い。歳下だ後輩だと思っていたけど、とんでもないやつが近くにいたものだ。そいつと、これからも同僚としてやっていくのか。
「⋯⋯かみちゃん、転職せぇへん⋯⋯?」
「さ、流石にそれは⋯⋯。今の仕事気に入ってるし、あいつは世話焼いてくれただけやし⋯⋯」
 俺の腕にシャツを通しながらしげが弱々しい声で呟く。正直自分の頭にも一瞬過ってしまったそれには流石に首を振り、こんな状態で一緒に出社なんてしたらもう女性社員たちの噂は爆発的に加速するだろうなぁ、と絶対口には出せない悩みにゲンナリと項垂れるた。
 あっさり着替えを済ませてくれたしげに化粧台まで連れて行ってもらい、最低限の身支度を整える。まぁ、前日体調不良で早退したことを踏まえれば問題ない出来上がりだろう。
 ふと視線を感じて目を上げると、鏡越しにしげが柔らかな目でじっと俺を見ていた。
「⋯⋯な、なに」
「や⋯⋯こういう所も初めて見たから」
「あ、あぁ⋯⋯。まぁ男にしては珍しい趣味やし、前はしてなかったもんな。嫌ならやめるけど?」
「嫌なわけあるか、あほ。これからは、そういう⋯⋯今のかみちゃんを、全部見して。⋯⋯悪かった、昔の姿を求めるようなこと言って」
「⋯⋯ドライブした時のこと? それか昨日?」
「⋯⋯全部、かな。俺がかみちゃんにしたこと、言ったこと、全部」
 振り返って腕を広げる。当然のように抱きしめてくれた胸のなかで微笑んだ。きっと全部、何もかも、お互い様だ。それならもう、そんなもの罪ですらない。俺たちの間では、きっと。
「俺も、ずっと願っとったよ。昔のしげに帰ってきて欲しい。またあの真っ直ぐで綺麗な目で、笑って欲しいって」
「⋯⋯それと俺が言ったことは全然ちが、」
「違わんって。だって俺、今のしげを引きずり戻すために他人の家に盗撮用のカメラ付けてんで?」
「これのこと?」
 小瀧が扉の隙間から顔を覗かせていた。俺たちを見て「うげっ」と表情を歪ませたそいつの手に握られているのは確かに、俺が購入してしげの部屋に取り付けたものと同じものだ。
「うわ、ほんまに全く同じやん。お前こわ⋯⋯」
「神山くんに言われてもなぁ。で、これがアンタが奥さんにぶん殴られたり暴言吐かれたりしてるとこ集めたデータですけど、いる? 俺から受けとんの腹立つやろうけど、でもあったら別れんの楽やろなぁ」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
「も、もらっときぃや、しげ。穏便に別れられるに越したことないやん」
「全然穏便ちゃいますけどね」
 口をへの字にしていたしげは、しばらく黙って小瀧の顔を睨んでいた後パシリと叩くようにしてその手からUSBを奪い取った。それを気にした様子もなく、小瀧は笑って「じゃあ」と俺の腕を引いた。
「行こ、神山くん。車までおぶろか? 抱っこでもいいで」
「えぇ⋯⋯普通に背負ってや」
「ちょっ、ハァ!? それは俺がやるわ! 触んな! もう触んなお前!」
「あーうるさ、急に彼氏面するやん。昨日最悪な暴言吐いとったくせに。あん時はほんまに戻ろうと思ってんからな。最近の神山くんずっと支えとったの誰やと思ってんねん」
「あ、ほんまやん」
「いっ⋯⋯な、なんでかみちゃんそっちの味方すんねん! 昨日のことはもう散々謝ったやんけ!」

 朝から喧しく言い争い、結局しげは「本当に出社時刻がまずい」ということに気がついて小瀧に悪態をついた後すっ飛んで行った。そんなもの屁でもないらしいご機嫌の後輩に車までおぶってもらった俺は今、助手席で静かな運転に揺られながら何をいうべきなのか考えていた。
 春を間近にした大阪は今日も、晴れだ。心地いい晴天の下、小瀧は穏やかな表情のまま車を走らせていた。信号が赤に変わり、ゆっくりと速度を落としたそれが止まる。
「⋯⋯ありがとう、な。お前がしてくれた、全部」
「えぇ〜。ほんまに全部?」
「⋯⋯ほんまに全部かな。しげには絶対言われへんけど、俺お前と寝といてよかったって思ったもん。⋯⋯恥、かかんで済んだわ」
「へへ、それは何よりです。俺も、ミステリアスな先輩のこと色々知れて楽しかったわ」
 車内に沈黙が落ちる。もうこれ以上俺に何か言えることはなくて、小瀧もそれは同じなようだった。あと十分も走れば会社に着いて、俺たちはただの同僚に戻る。今度こそ、本当に。
 信号が青になる。小瀧がアクセルを踏む。窓の外へ目をやり、呟いた。
「お前、好きなやつとかおんの?」
「⋯⋯珍しいですね、神山くんが人のプライベート訊くなんて」
「うん」
「⋯⋯そうやなぁ。こう見えて一途なんで、出会った瞬間から好きやった人がいますよ。そろそろ次行こかな、って思ってるけど。いい思い出ももらったし」
「⋯⋯お前、優しすぎるからなぁ⋯⋯」
「優しないよ、ビビってただけ。決まった相手がいるんかもとか興味ないんかもとか色々想像だけはして、ずっと眺めてるだけやってん。知ってしまった以上は、望む形で幸せになって欲しいと思ってもうたし。⋯⋯俺はきっとそれを、神山くんみたいにずっと後悔するんやろうな」
 社屋が見えてきた。路地へ入って一番近くのパーキングへ車を停めながら、小瀧が笑う。
「⋯⋯⋯⋯ダサいから、今のやっぱ聞かんかったことにしといてもらっていい?」




*





「かみちゃーん、起きて」
「⋯⋯っえ、あ!? ごめん!」
「ええよええよ、焚き火の音って眠なるよな」

 春の終わり。まだまだ涼やかな風が通る、北の大地の夜。とあるキャンプ場で、俺たちは小さな火を囲んでいた。
 周囲は一人で来ているキャンパーばかりで、自然と話し声も小さくなる。そうしていつの間にか眠っていたらしい俺が目を覚ますと、すっかり夜の闇に包まれて周囲の気配すら感じられなくなった静寂でただパチパチと薪が音を立てていた。オレンジ色のそれに頬を照らされながら、しげは炎が燃え続ける様をずっと眺めている。その目元に、もう影はない。
「⋯⋯かみちゃん、なんかむにゃむにゃ喋っとったで」
「え、ほんまに⋯⋯? ちゃんと寝てるやん」
「うん。かわいかったです」
「⋯⋯ならええか」
 沈黙と闇が心地いい。空を見上げれば、そのまま吸い込まれてしまいそうなほど大きく壮大な星空が、俺たちを見下ろしている。じっと眺めていると、一筋の光が目の前を横切った。思わず目を見開いて、一瞬ののち「しげ」と囁く。
「んー?」
「⋯⋯な、流れ星、流れた」
「え!? うわー、見逃してもうた⋯⋯。すっかり忘れとったわ」
 子供のように興奮して、だけど周囲は静かなままだからしげの方へ小走りで駆け寄った。この旅のために買い揃えた真新しいアウトドアチェアに腰掛けていた恋人の膝の上にゆっくり乗り上げると、少し不安になる音を立てながらでもそれは俺たちを支えてくれた。楽しそうに、しげがくすくすと笑う。
「なに、テンション上がってもうた?」
「うん。だって流れ星とか初めて見たし」
 抱きついていた身体を少し離し、暗闇で見つめ合う。愛おしさをその瞳いっぱいに閉じ込めたしげが俺の頬を撫で、俺はたまらなくなってその唇に吸い付いた。
 驚くこともなく受け止めて柔く包んでくれるそれが、こいつだけの体温が、今ここにしかない奇跡だ。同じ場所に帰ってこられたという、もう夢にしか見なくなっていた微かな願い。
「⋯⋯ん。こら、外やねんからあんまはしゃぐな」
「んは、ごめん。なぁしげ、⋯⋯訊いてや」
 囁くと、しげはそっと目を細めた。その瞳をきっと今この数年間が過っていて、俺はそれを静かに待つ。一度ゆっくり瞬きしたあと、甘い声が紡いだ言葉に夢見心地で頷いた。焦がれ続けた遠い記憶を、思い出のアルバムに仕舞いながら。

「なにお願いしたん」
「そんなん一つに決まってるやん」


| →

[back]
[top]







[テスト中※このリンクは踏まないでください]