花に嵐


 まだ風が冷たく、数ヵ月後にはやってくるはずの春が遥か遠くに感じる季節の事だった。
 同居を始めて二年弱。付き合い始めてからは、六年半。新生活に合わせて引っ越すか、ある程度貯蓄出来て生活が落ち着いてからにするべきか。卒業論文やら就職活動やらを周囲と比べても早々に済ませていた俺達は、二人の部屋でそんな話を雑談混じりに笑いながら話していた。心機一転、住む場所を変えて新たな生活をスタートさせたい彼と、ある程度生活が落ち着いて色々なものが見えてからのんびり自分達に合った場所を探したい自分。
 彼の提案を飲むなら部屋探しには少し遅いくらいの時期で、だけど彼はその話をする時いつも穏やかに笑いながら、まるでどこか違う世界の話をしているかのように言葉を紡いでいて、到底本気で言っているようには見えなかった。それだからきっと、内心ではそうしたいけれど自分の案の方が現実的だと受け入れてくれているのだとばかり、思っていた。
 一年後、或いは、数年後。生活や仕事が落ち着いて、今よりは多少なり増えている収入で、男二人でも受け入れてもらえる部屋を。自分達にとってどこより幸せな帰る場所になる部屋を見つけられたらいい。新しく始まる日々を待ちながら、そう呑気に考えていた。それなりに長い時間寄り添ってきた恋人が内心に抱えていた想いなんて、何一つ気が付かないまま。

「別れよ」

 恋人がそうはっきりと告げた時、俺は彼の作ってくれた夕食を箸で運びながら間抜けに口を開けていた。その状態のまま固まった俺と目を逸らさないまま、もう一度恋人が告げる。

「別れて欲しい。この家も、来週には⋯⋯、いや、しげさえ良かったら明日にでも出て行く。実はもう、ある程度荷物まとめてあるねん」
「⋯⋯⋯⋯は⋯⋯?」

 ぽとりと肉じゃがが皿へ落ちた。恋人は目を逸らさない。彼が時折見せる、恐ろしいほど真っ直ぐな瞳で俺を見ている。俺は呼吸を忘れた身体でゆっくり唾を飲み込み、今しがたぶつけられた言葉を懸命に読み解こうとしていた。
 別れる? 家を、出て行く? どうしてだ? 最近、いやもう数年以上大きな喧嘩なんてしていないし、二人揃って内定だって貰っている。他に想いを寄せる相手が出来た様子も、無かったはずだ。だってつい昨日の夜、ベッドの上で彼は赤い目元をやさしく細めながら俺の頬に触れ、「愛してる」と囁いたのだから。
「急なこと言ったのは分かってる。ごめん。でも今、考えて」
「⋯⋯や、⋯⋯ちょ、ちょ、ちょっと待って。説明は? 流石に急に別れてくれの一言ではいそうですかとは言われへんって。俺何かした? や、でもかみちゃんそういうのちゃんと言ってくれるやんな。え? ほんまに何?」
 パニックに陥って流れるように喋り続ける俺を、彼はただじっと見ていた。その瞳の強さが、愛しくて堪らない一部だったはずのその視線が、今は何故か恐ろしい。
「⋯⋯ずっと、悩んでたんやけど。だから中途半端なまま、ここまで一緒に過ごしてしまったんやけど」
「え? お、おう」
「あのバンド、本気でやっていく事になってん。仕事として、メジャーを目指す。って意味で」
「⋯⋯んぇ⋯⋯え⋯⋯?」
 その時初めて、彼は目を逸らした。『あのバンド』。それには勿論、心当たりがある。
 高校の頃から軽音楽部でギターとボーカルを担当していた彼は、大学に入ってすぐその手のサークルに入ってバンドを組んだ。
 決まったメンバーで活動するのではなくあくまで部活としてその時々の面子で演奏していた高校時代と違い、彼を含めた五人組で毎日肩を並べて練習し、全員で数週間も悩んだ末に決めたというバンド名を背負って。時には大学のステージで、時には小さなライブハウスで、時にはメンバーのツテで立たせてもらった小規模なフェスで。見たことの無いほど輝いた笑顔で彼は歌い、ギターをかき鳴らしていた。俺も何度もそこへ足を運んでそんな恋人の姿を誇らしく思いながら眺めていたし、バンドメンバーとも懇意にさせてもらっていた。
 全員が経験者で尚且つ熱心に練習に励んでいるから実力もあり、カバーだけでなくオリジナル曲を作ることも出来た彼らはいつしか大学のバンドサークルの枠を飛び抜けて名前が知られるようになった。ギター兼メインボーカルである彼の容姿が整っていたことも、決して無関係ではないだろう。
 大学生活の後半には学祭では彼ら専用のステージが組まれるようになり、それには外部から女性ファンや音楽通まで駆けつけていた。四年目の夏には、たった一曲だけではあったが大きなフェスの一番手を任されていた。もうその段階で、彼らの周囲や応援している人達はそのまま活動が続いていくものだと信じて疑っていなかっただろう。だけど実際は違った。そうなるまでに熱心に練習をしていながら、彼ら五人のうち過半数がそのまま音楽の道へ進むことを躊躇していたのだ。
 だけど、それは当然とも言えることだった。俺達の大学は関西ならそれなりに名の通っている所で、恐らくあまり苦労せずに就職先を見つける事が出来る。対して音楽バンドという世界はライバルなんて数えることすら出来ないほど居る厳しい業界で、当然大学なんて、名前はおろか出ているかどうかすらも関係ない。今は『大学生バンド』という肩書きの物珍しさやそれにしてはしっかりした実力、ビジュアル等で注目してもらえているが、そんなものプロを目指す道へ入ったら何の取り柄にもならない。そこで武器になるものは、奏でる音と紡ぐ詩だけだ。
 オリジナル曲の製作もしていた彼らにはその道を目指すに値するだけの手札はあっただろうし、実際それを訴えているメンバーもいたらしい。だけど結局、恋人を含めたほとんどのメンバーがその件は一旦保留にすることで一致し、就職活動を始めた。その報告以降も彼らが集まっている様子はあったが特別何か言われることは無く、無事内定も獲得して安堵したように笑っている彼と記念の乾杯をした時にはもうすっかり『そう』なったのだと思い、敢えて訊くことはしなかった。この子がどれだけあのバンドに心と時間を注いでいたのか知っていて、だからこそ胸中の葛藤の強さも容易に想像できたからだ。
「え⋯⋯もうそれ、決まったことなん⋯⋯?」
 呆然と呟いた俺の言葉に、彼は視線を合わせないままゆっくりと頷いた。ぐるぐると、視界なのか思考なのか分からない何かが揺れている。何を言うべきなのか、脳がショートしたかのように言葉が散在して拾い集められない。
「い、いつ決まっ⋯⋯たん?」
「⋯⋯先月」
「せっ⋯⋯!? な、なんで今まで言わんかったん?」
「それ、は⋯⋯」
 彼がそっと視線を上げた。数分ぶりに合った眼はさっきより随分か弱くて、だけどその奥にある決意は変わっていない。
「俺がまだ、どうするべきか決めかねてたから。答えを出してから話そうと思ってん」
「こ、答え⋯⋯? え、は? つまりもう、話し合う余地ないってこと? もう別れるって決まってんの?」
 この時になってようやく、俺は恋人の視線の強さの意味に気がついた。この子は今、別れ話をしているんだ。それも相談じゃなく、結論として。片手で足りない年月恋人としてずっと隣にあったから、当たり前のことに俺は気がついていなかった。
「悪いけど、決まってる。⋯⋯ごめん。別れてください」
 この世で一番大切で愛しているひとがテーブルに額をつけて頭を下げているのを、俺は何も言えないままに眺めていた。ついさっきまではしゃぎながら食べていた彼の作った肉じゃがが、どんどんその湯気を薄くさせていく。絞り出した声は、情けなく震えていた。
「⋯⋯それ、別れなあかんことなん? 別に俺反対なんかせんし、今の関係のままでも、」
「上京すんねん。プロ目指すなら一人でも多くの目に留まりやすい方がいいし、間違いなくチャンスも多い。それに、本気で目指すって決めた以上甘えられる場所は断たなあかんと思った」
「じょう、きょう⋯⋯」
「うん。しげ、就職先大阪一択やったやろ。その理由もやりたい事があるからやん。だからこの事は絶対言っちゃあかんと思った。⋯⋯しげ、優しいから」
 俯いたままの彼の口元が微笑んだ。別れ話を、六年間ほとんど喧嘩もなく続いた関係を終わらせる話を、しているのに。
「しげだって知ってるやろ? あの業界、売れるのなんてほんの一握りやし、それ以外は皆常に火の車やから。よく言うやん、付き合ったらあかん3B、みたいなん。それになんねんもん。⋯⋯俺さ、しげに寄生したくないねん。そんな自分も絶対許したくない。だから本気でこの道に進むって皆で決めた瞬間に、もうお前とは離れなあかんと思ってた」
「⋯⋯⋯⋯はぇ⋯⋯?」
「⋯⋯この数ヶ月は、⋯⋯未練、やった。決めたはずやのに、どうしても好きで、愛してて、離れたくなくて⋯⋯ギリギリまで黙って、傍にいようとしてもうてん。⋯⋯ごめん」
「や、もう謝んのはええからさ⋯⋯。いや、え⋯⋯? なんでそんなん相談も無しに全部、」
 言いかけ、止まった。違う。この子は全部言ったじゃないか。相談しなかったのは、言えばきっと俺が自分のやりたい事を捨ててでもこの子を支える道を選んだからだ。
 今まで黙っていたのも、相談しなかったことも、全部全部、この子が間違いなく俺の事を愛してくれていたからなんだ。
 目が合えば、ほんの少しの揺らぎを湛えた、だけど確かな決意に溢れた瞳が俺を貫いている。絶望、悔恨、喪失、様々な感情が一気に脳を襲って、俺はゆっくりテーブルに肘をついた。見開いた目で何度瞬きを繰り返しても、目は覚めない。木目が歪むことも、ない。
「⋯⋯⋯⋯なるほど、なぁ⋯⋯。もう決めてんねや」
「うん」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯わかった。まぁ、頑張って」
 無理くり吐き出した言葉に、彼がそっと息を吐くのが聞こえた。俯いたまま、その愛した全てを視界に入れないよう席を立つ。
「っどっか行くん?」
「来週くらいまで誰かん家泊めてもらうか実家帰るわ。その間にゆっくり荷物まとめて出てったらええよ」
「⋯⋯しげ⋯⋯」
「悪いけど、顔見られへんし見送ってやることもできへんわ。⋯⋯ダサいけど、許して。ほんまに大好きやった。この世で一番、愛しとった。決めたんならさ、テッペン取るくらいの勢いでやれよ。信じてるから。かみちゃんからは見えんくても、応援してるから」
 床を睨みながら、一生懸命に想いを言葉に乗せる。後悔しないように。この子のこれからに、何も残さないように。⋯⋯あぁ、最後になるならちゃんと全部食べ切ってからにすればよかった。
「⋯⋯しげ!!」
 椅子が床を擦る音がした。玄関に向けて一歩踏み出した背に掛かった声はいつもの柔らかなそれとはかけ離れていて、だけど強かった。誰より強くて真っ直ぐな、俺の愛したひとだった。
「⋯⋯ありがとう。本気で、死に物狂いでやるから。絶対、⋯⋯絶対!! 後悔しないし、させへんから!!」
「⋯⋯⋯⋯うん」
「⋯⋯しげも、⋯⋯元気で。無理し過ぎんと、自分大切にするんやで」
「⋯⋯はは⋯⋯、うん、分かったわ。じゃあな」
「⋯⋯⋯⋯しげ」
「もう、なんやねん! はよ行かしてくれやこちとら泣くギリギリやねんて!」
 わざと笑いながら、ヤケになって振り返った。視界に映ったあの子は、もう何年も一緒にいて数えるほどしか見たことのない涙を瞳に浮かべて、微笑んでいた。

「⋯⋯顔見してくれて、ありがとう。⋯⋯愛してる」



「⋯⋯ッハァ、はあっ、はあっ⋯⋯!」
 冬の匂いが鼻を刺す。ツンと尖ったようなそれが奥までしみて、涙なのか鼻水なのかも分からないくらいグシャグシャになった顔で俺は夜道を駆けていた。ポケットにスマホを、片手には家を出る時引っ掴んできた財布を握りしめ、どこへ向かっているのかも分からないまま走り続ける。
 最後の瞬間のあの子の笑顔が、何度も何度も視界を過って脳を揺らす。
 吐きそうだった。運動なんて趣味程度にしかしなくなっていた身体が、この先ずっと続くと信じていた幸福が突然目の前で霧のように消え去った絶望が、あの子の葛藤になんて何一つ気付かず未来の話をし続けた自分への嫌悪が、胃を逆流させている。
 堪らず公園の公衆トイレに逃げ込んだ。人気の無い深夜のそこを、古臭い電灯がジーッと音を立てて青白く照らしている。薄汚れた鏡に映った自分は、子供のように泣いていた。
「ぁ、⋯⋯あぁ⋯⋯っ! ⋯⋯ひ、ぐ⋯⋯ぅ⋯⋯っ」
 電灯がカチカチと点滅を繰り返す。そのたび鏡にさっきのあの子の笑顔が映り、次第にそれは今まで過ごした日々へと姿を変えていった。
 出会ったのは中学の頃だ。だけどクラスも部活も違えば住む場所も近くはなかった俺たちが特別知り合うことはなくて、卒業まで「名前と顔は知っている」程度の関係だった。だけど高校へ入学した日、下足室に張り出されていたクラス表の中に彼の名前があることに気が付いたときなんとなく、安堵した。話したことがないとはいえ、複数の中学から生徒が集まっている環境において同じ校舎から来た人が一人でもいるだけで少し気が楽になるからだ。そうして向かった教室で出席番号の書かれた席へ辿り着いた時、既に彼は隣の席へ腰掛け、俺のことを見上げていた。
「あ、⋯⋯重岡くん? やんな」
「⋯⋯おう」
 それが始まりだった。そうして一緒に過ごすようになった俺達は趣味も性格もかけ離れていて、だけど何故か居心地がよかった。入学して一週間も経たないうちにギターケースを背負って通学してくるようになった彼の話を聞くのは楽しくて、サッカー部に入った自分の練習試合を彼が見に来てくれると、それだけで子供のように心が弾んだ。文化祭のステージで少し緊張した面持ちの彼がギターを奏でているのを見た時、微笑ましさと不思議な高揚感が入り混じった。
 学年が上がっても俺達は同じクラスのままで、緩い関係のまま、だけど毎日一緒に過ごしていくうちにじわじわと色を変えていった心を抱え、日々を過ごしていた。天気のいい日には夏の暑いなかわざわざ外へ出て弁当を広げながら、くだらない会話をぽつぽつ交わしては顔を見合わせて笑っていた。ある日には通りすがった女の子達を箸片手に黙って眺め、あの子可愛いよなぁ、いや俺髪長い方の子が好き、へぇ意外、だなんて。年相応のようでいて平べったい話をする。そこに本心なんてほんの少しもないことを互いに分かっていながら。
 我慢比べのようなそれに負けたのは俺だった。今思えば、あの頃からこうなる事は決まっていたのかもしれなかった。
「⋯⋯でもなんか俺さぁ、どんな可愛い女の子よりかみちゃんがいっちゃん好きみたいやわ」
 女の子達が校舎へ消えていった背を見送りながら、俺は呟いた。ゆっくり戻した目が合って、無表情で俺を見つめている彼の茶髪を夏風が揺らす。袖を捲ったシャツの手首に付けている小洒落た腕時計を一度指先で撫で、彼は口角を上げた。
「⋯⋯俺も、最近心臓がおかしなったと思っとった。お前と目合う度にさ、アホみたいに跳ねよんねん」
「ふは、何やそれ。分かりやすく言えや」
「うっさいなぁ。好きやねんって」
 それが二年の夏のことだ。そうして始まった俺達は互いに同性と恋をすることが初めてで、初めは何をするにもおっかなびっくりだった。
 俺の部屋で初めて彼の手に触れた。誰もいない校舎裏で、初めてキスをした。親が出掛けている日曜の昼、明らかに不服そうな顔で頬を赤くしながら俺のベッドに寝転がった彼の肌に、初めて触れた。
 学びたい分野や立地、学費、それから学力差。色々なことを真剣に話し合って受験先を決めたあとは、席を並べて黙々と勉強に励んだ。彼にとっては少しギリギリだったその試験の結果発表の日。俺の部屋で親のパソコンと帰省していた姉のパソコンとを借りて並べ、同時に合格発表を見た。あの時初めて見た彼の涙は、真ん丸な瞳に粒のように浮かんできらきらと輝いて、信じられないほど綺麗だった。堪らず抱きしめた俺の背にゆっくり腕を回しながら「よかったぁ」と呟いた彼の声は甘く震えていて、その高鳴っていた心臓の鼓動すら、覚えている。
 そうして迎えた大学生活は、折角あんなに悩んで努力を重ねて同じ所を選んだにも拘らず思っていた以上に一緒に居られる時間が少なかった。毎日ずっと一緒に居られる高校生活に慣れていた俺達はあっさり同居を決め、一回生の冬にはもう部屋探しをしていただろう。だけどその頃には彼とそのバンドは既に大学生のサークル活動の域を超えていて、彼がその道を選ぶ可能性を一度も考えなかったわけじゃなかった。⋯⋯いや、何度も考えていた。ただ、それが自分達の関係を割くものになるとは思いもしなかったんだ。
「⋯⋯⋯⋯アホやなぁ、俺⋯⋯」
 もっとちゃんと考えれば、気がつけるはずだった。音楽のプロの道へ進むことが、途方もなく厳しいこと。だけどあんなに熱心に活動していて一度は大きなフェスの景色も見た彼らが、そう簡単に割り切れるわけがないこと。そしてあの子が、馬鹿がつくほど真面目で、自分に厳しい人間である、こと。
 ふらふらと外へ足を進め、誰もいない公園のベンチへどさりと崩れるように座り込んだ。空を見上げれば、冬の冷えた空気でよく見える星々がちらちらと輝いている。
 確信にも近い予感があった。きっとあの子は、彼らは、大きくなる。綺麗で、儚くて、だけどどこまでも遠い存在になるんだ。俺はそれを見上げるんだ。⋯⋯今この瞬間の、自分のように。
 ぼんやりと風に揺られている間に気がつけば空が白みがかっていて、世界が動き始めるのを待ってから親にしばらく帰省したい旨を連絡した。何も考えることができないままに懐かしい家で時間を消費した俺が一週間後部屋へ戻れば、そこはまるで知らない人の部屋のようにがらんどうになっていた。痕跡すら残っていない空虚な1DKに彼がいた証拠は、テーブルの上にぽつんと置かれた合鍵だけだ。
 手紙ひとつ残さなかったあの子の心を、この部屋を出る姿を想い、どさりと床に崩れ落ちる。あぁ、終わったんだ。大好きだったのに。愛していたのに。あの子さえ居てくれればこの世の何も要らないくらい、大切だったのに。
 ぽたりと涙の落ちた床には薄く埃が積まれていて、「ゆっくり準備すればいい」と言ったのにきっとすぐ出て行ったことに気が付いた。彼らしいなぁと微笑み、ゆっくり振り返る。
「⋯⋯それもそうか」
 呟いた声は、やけに反響して聞こえた。こんな二人の想い出があちこちに詰まった部屋に、一人でなんて居られる訳がなかったんだ。自嘲気味に笑いながら、ゆっくりスマホを取り出す。物件探しのページを開いたって、一向に止まってくれない涙で何にも見えやしなかった。


*



 終演のアナウンスを聞きながら携帯の電源を入れる。入っていた連絡は友人からのものが数件、職場からが一件だった。それも急ぎではなさそうだ。ひとまず置いておくことにして再度鞄へ仕舞い、自分の周囲が動き始めたことを確認してゆっくり後に続く。
「はー、汗かいた」
「新曲やっぱりヤバいな。脳汁ビシャビシャなったわ」
「なー。トモの曲毎回リズムエグくて最高。でも歌詞はほんまトモらしくないよな」
「うーん⋯⋯まぁそもそも恋愛ソングが初めてやから、らしくないんかどうかも分からんけど。トモ、意外と恋愛観重いんちゃう? ていうか今日もマジで顔可愛かった⋯⋯」
「ほんま、そこらのアイドルよりよっぽど可愛いやろ。絶対言えんけど」
「はは、炎上炎上」
 二人で来ていたらしい、後ろの女性ファン達が興奮気味に終わったばかりのライブについて語り合っている。この場で初めて披露された新曲は彼が担当したもので、確かにそれが恋愛の曲であることは今までで初めてのことだった。それも、どこか仄暗い、失恋とも悲恋とも違うような、不思議な歌詞をしている。その曲とMVが彼の担当であることと共に公開された時、ファンは初めての恋愛ソングであることやその歌詞の重さにひっくり返らされたものだ。
 会場を出ると外は真っ暗で、ツアーシャツの上から薄い上着を羽織りながら腕時計に目をやる。思っていたより早かったそれに日が暮れるのが早くなったなぁ、と目を細め、帰路についた。


 彼が残り香すら綺麗に消し去ってあの部屋を出た日から、随分長い月日が流れた。もうあと半年もしないうちに、離れてからの時間が一緒にいた時間を追い越してしまう。相応の、どこにでもある経験や感情を重ねて歳をとっていく俺と対照的に、彼はあの日からその情熱を、魂を、目映いほど鮮烈に燃やして生きていた。
 悩んだ末にその道を選んだ彼らはその重い覚悟のもと、あの日の彼の言葉通り死に物狂いで活動を再開させた。元々出来上がっていたファンの基盤に「おかえり」「待ってたぞ」という温かい言葉と共に迎え入れられ、だけど突然始まった怒涛の勢いでのライブや新曲の発表、フェスへの参加は、待っていたファンはおろか界隈全体を騒がせていた。なんとなくしか音楽業界のことを知らなかった俺でも、夏頃には彼らの名前がバンド界隈の間で一番の話題になっていることを理解していたほどだ。
 複数メンバーが作曲を担当している彼らの曲は傾向が様々で、その多面性もまた話題を呼んだ。休止期間中各々曲を作り溜めていた彼らはそれを惜しみなくどんどん発表していき、出る曲出る曲違った世界、違ったメッセージをぶつけてくる彼らへ、必然のようにどんどん注目が集まっていく。学生時代からのファンが自慢げに彼らの咲き始めをSNSで語っているのを仕事帰りの電車で眺めながら、俺はかつて愛した人が思っていた以上の速度で空へ飛び上がっていくのを感じていた。それも、羽でもなんでない。自らの脚で。

 数年もしないうちに彼らは、バンドファン以外にも名前を知られる存在になった。きっかけになったのは漫画原作のアニメ主題歌に選ばれたことだろう。多面性が売りの彼らの中で制作陣が指名したという作曲担当が彼でなかったことだけが不満だったが、そんなものその後を思い返せばなんて事ない一部分に過ぎなかった。
 そのアニメはそれなりのヒットを記録し、それを機に一般層にも名前を知られるようになった彼らはこの期を逃さすものかとばかりに、一年以上温めていたというとっておきの新曲を出した。それが、彼の曲だった。
 発売日。休みを取ってまでわざわざ足を運んだCDショップで専用のコーナーまで組まれていたそれは、売れ始めたばかりのバンドとしては異例の売上枚数を記録した。音楽チャートでは上位にランクインし、どの音楽サブスクを見ても彼らの曲がランキングに並んでいる。MVに至っては動画サイトの急上昇の欄に数週間以上に渡って載り続け、翌月には初めて地上波音楽番組への出演を果たした。その時にはもう、売れっ子バンドとしての地位はある程度確立されたも同然だった。
 まだその頃には彼らがライブをするような場所はファンとの距離が近く、顔が見えてしまう可能性を考えてCDを買うだけの応援に留めていた俺は、画面越しの彼を見ながらそっと微笑んでいた。近いうちに、本物のあの子を見に行ける日が来るだろうと。




「はー、疲れた。確かに汗かいたな⋯⋯」
 物の少ない部屋に独り言を零しながら荷物を置く。さっさとシャワーでも浴びようかと思いながらSNSを開くと、客席と撮った写真と共に数分前に彼がツイートをしたところだった。既に千以上のリツイートやいいね、大量のリプライが並んでいるそれに何も考えず自分もリプライ以外の反応をし、それから内容へ目を通す。

『今日も最高でした。地元大阪、ありがとう! これで初めてのアリーナツアーは終わりですが、本当に夢のような日々でした。また同じ景色を、次はもっともっと大きな景色を見られるよう、とにかく頑張ります!! また会いに来てください!!』

「⋯⋯めちゃくちゃテンション上がってる。かわい」
 ライブが終わってそのままの勢いで打ったであろうその姿が、まるで見たかのように頭に浮かぶ。だけどリプライに目を通せば、似たようなコメントが沢山並んでいた。
『トモ、テンション高くてかわいい(笑)楽しかったです!』
『新曲マジで良かった』
『終わってすぐ打ってる? こっちもテンション収まんなくて今走って家まで帰ってるよ』
『トモ、今日のビジュ良すぎ〜😭 曲についてじゃなくてスマン🙏』
 もう、あの子のことを理解しているのも、知っているのも、俺だけじゃない。あの子は数千人、数万人の『トモ』になったんだ。いつも通りリプライはせずに自分のアカウントへ戻り、ライブや曲への感想を淡々と呟いていく。いくつかのネット上の友人から送られてきたメッセージとやり取りを繰り返していると、気づけばそれなりの時間になってしまっていた。スマホをテーブルへ置き、数秒考えた末夕食は別にいいや、と判断してシャワーへ向かった。十分もしないうちに済ませたあとは適当な寝間着へ袖を通し、布団へ潜り込む。充電コードを差しながらもう一度SNSを確認すると、宿泊先で同じように一息ついたらしい彼がもう一度ツイートをしていた。さっきよりは落ち着いたその文面を目で追い、ゆっくりと瞬きをする。

『懐かしい場所で懐かしい顔を見て、俺のありったけを歌えて、幸せでした。どうか届いていますように。いつか必ず』

 何かの匂わせのような、だけど地元でのライブであったこともあって純粋な感謝のような、ふわりとした文面だった。ファンの多くには家族か何かへ向けたものだと捉えられたようで、リプライ欄には『きっと届いてるよ』『トモは優しいね』『知り合いでも来てたの?』といった言葉が並んでいる。
 首を傾げた。なにか引っかかったものの、まぁこれだけ遠い存在になったひとには色々あるのだろう、と深く考えることもしなかった。


*



 翌朝、起きて仕事の支度をしながらふと思い立ち、慌てて昨日の鞄を開けた。せっかく買った今回のツアーのグッズを出していないんだった。使えるもの以外は全て専用の棚に並べていっているそれらは年月が経つにつれどんどん数を増していき、そろそろ棚を買い足すか大きなものに替えなければいけないところまできている。
 初めの頃は現地へ行けなかったものだから、仲のいいネット上の知り合いに頼んで郵送してもらったり後日出向いて直接受け取ったりしてまで揃えてきたそれは、彼らが歩んできた道の証だった。恐らくバンドの売れ方としては一直線に、最短レベルで駆け抜けた彼らだが、それでもそこに至るまでの地道な努力や葛藤はそれに値するものだ。アパレル系のグッズは現場後は部屋着として使っている俺はそれ以外のものを棚へ並べ、満足して頬を上げた。
 初めてのアリーナツアー。バンドがアリーナを回るだけでも凄いことなのに、彼らはまだメジャーデビューしてたったの五年だ。それを満員御礼でやり遂げ、「次はもっともっと大きな景色を」と言ってのけたんだ。
「⋯⋯かっこいいよ、かみちゃん」
 彼がデザインしたというキャップ(俺には到底使えそうになかった)をぽんぽんと撫で、立ち上がる。家を出て最寄り駅へ向かいながらスマホを開くと、最近よくやり取りをしている女性から食事の誘いが来ていた。どうしたものか、と視線を上向ける。
 同僚に誘われて行った飲み会で知り合ったこの人は、初めから明らかに俺に対する好意を隠そうとしていなかった。席が隣にされていたあたり、「そろそろお前も彼女くらい作れよ」とぐだぐだ言ってきていた同僚のお節介だったのかもしれない。俺は俺でまぁ、年齢や親のことを思えばそう簡単に切り捨てることも出来ず、何度か二人で食事をしたり出掛けることを続けていた。そうして知った人柄は真面目で実直で、よくこんな人が顔しか知らない男を目当てにあんな飲み会に来たものだ、なんて不思議に思うほどだった。だけどそんな妙なところで大胆で度胸があるところが、あの子によく似ていた。そう、俺は彼女の中にあの子の影を見出していた。結局のところそれが、この関係をずるずると続けている一番の理由だった。
 だけどそれももう数ヶ月になる。相手は何も言ってこないがそろそろハッキリさせてほしそうなのが雰囲気から伝わってきていて、その事について考える度に俺は深い溜め息を吐いていた。
 いい相手ではある。誠実だし、それなりの職に就いているし、結婚しても主婦になる気はないと以前二人で飲んだ時にさりげなく口にしていた。だけど俺はそんな誠実な相手に過去愛した人を重ねているだけだ。彼女は知らない、俺の人生で一番大切で幸せだった日々を。
「⋯⋯あ、出張やん俺」
 彼女との今後についてで頭がいっぱいになって気がついていなかった週末の予定を思い出し、思わず安堵の息が漏れた。よかった。断る理由があるじゃないか。その日から東京に出張がある旨を返信し、謝罪と共に次は自分から誘うことを付け加えておく。
 はい終了、と俺はまた一旦考えることをやめ、満員電車へ詰め込まれながら癖のようにSNSを開いた。昨晩から見れていなかったTLでは他のメンバーが今回のアリーナツアーについて興奮しながら、あるいは冷静に、感想と感謝を言葉に乗せている。だけどあの子はあれ以降ツイートしていないようだった。嘆息してアプリを閉じようとした丁度その時、バンド全体のオフィシャルアカウントが更新された。

『【告知】今週土曜11時より◯◯音楽堂にて開催される『◯◯◯◯!』に参加させて頂くことが急遽決定致しました! ぜひ現地へお越しください!』

 ガタン、と揺れながら電車が速度を落とす。バラバラと人が降りてはまた乗り込んでくる波に飲まれながら、俺は口元を抑えて上がった口角を隠していた。東京への出張は、週末、金曜のことだ。おいおい、会社の経費で遠征が出来ることになってしまった。すぐに参戦する旨をツイートして東京在住のHNしか知らない友人と盛り上がりながら、久しぶりの遠征、それも野外会場での公演に胸を踊らせる。その時にはもう「じゃあまた今度」とすぐに返事を寄越してくれていた彼女のことなんて頭の片隅にだってありはしなかった。


*



「あ、ニラたまさーん! ご無沙汰してます!」
「⋯⋯その略し方やめてくれって言ったやないですか⋯⋯」
「ニラ魂って呼ばされるこっちの気持ち考えたことあります?」
「アンタ自分のHNがドスコイ番長なの分かってて言ってんすか」
 現地で合流したのは彼らの活動再開からずっと懇意にしている、つまりもう五年以上になる仲の友人だった。にも拘わらず互いに本名も仕事も年齢だって知らないが、それこそがインターネットの良さってさもんだろう。
「ていうかドスさんまた太りました? そろそろ気にした方がええで」
「エッ、そんな見てすぐ分かるくらいですか⋯⋯? ダイエットしようかなぁ。でも僕はニラさんと違って好い人もいないですから」
「んなもん関係ないやろ、アンタの健康のために言ってるんですって。ていうか別に付き合ってるわけちゃうし⋯⋯」
「うわー、まだキープしてるんですか? いい身分だなぁ。もうさっさと自分がトモガチ恋って認めて人生諦めてくださいよ、みんな引いたりしませんから」
「だっっっっっからちゃうって、アホ!」
「あんな目で見てるくせによく言うよなぁ、この人⋯⋯」
 白い目で見てくる、初めて会った日から随分と体格を大きくした友人の視線を無視して会場へ向けた足を早める。急遽参加が決まったからか、同じ会場へ向かうらしき周囲の身なりは他のバンドのファンらしきものが多くを占めている。詳しく調べていないが、きっとどこかの参加バンドが直前になって出演できなくなったとかが理由なんだろう。その穴埋めとしては、彼らの名前はもう大き過ぎるくらいだが。
「お、会場見えてきましたね。野外はちょっと久しぶりだなぁ」
「俺なんて春のフェス以来っすよ。あ、そうや。これこの前の大阪限定のラバーです」
「おー! ありがとうございます! 大阪、初めてのアリーナツアーで地元だけあってトモはしゃいでたみたいですね。会場の熱気凄かったらしいじゃないですか。僕も仕事さえなきゃなぁ⋯⋯」
「普段東京でええ思いしてるんやからおあいこやろ。まぁ確かに、あんな顔して歌ってんのは見たこと無かったですね」
「顔が見えるような席だったんですか?」
「や、双眼鏡です」
「⋯⋯⋯⋯アイドルかなんかのライブだと思ってます⋯⋯?」
「うっさいなぁ、あの子に関してはそういうファンも多いでしょ」
「まぁそうですけど、それをトモが複雑に思ってることも知ってるんじゃ、」
「や、金払って入ってるのはこっちなんで。大体ずっと見てたわけちゃいますし。特にテンション上がってそうな時だけ覗いてただけで、八割くらいはちゃんとノッてましたよ」
「は〜あ、もう今更だけど本当変な人だ」
 会場が見えてきた。行けることが分かった途端並んで入れるよう友人が二人分取ってくれたチケットを提示し、中へ入る。そういえばよく聞く名前ではあるけど初めて入る会場だなぁと思いながら足を踏み入れ、固まった。
「⋯⋯? ニラたまさん?」
「っえ、あ、何もないです。すんません」
 慌てて引き攣った笑みを浮かべる。だけど、だけどこれ、⋯⋯近く、ないか? 写真で見るのと実際行くのとでステージとの距離感が違って感じるのはよくある事だが、ここはそれが特に顕著だった。恐る恐る、渡されたチケットを確認する。
「Bブロック⋯⋯」
「ん? あぁ席ですか。まぁまぁいい所ですよ! 僕は音楽目当てなので場所はどこだっていいんですけど、ニラたまさんはトモが好きでしょう? 少しでも近いところがいいかと思って」
「は、はは⋯⋯ありがとうございます⋯⋯」
 まずい。まずいまずいまずい。彼に続いて席へ着くと、ブロックの後方とはいえ今まで入った彼らの現場の中でぶっちぎりにステージへ近い場所だった。これは見える。間違いなく見える。あの子の視力が崖のように落ちていたりでもしない限り絶対に見えるし、彼が最近コンタクトに変えて客席がよく見えるようになったと嬉しそうにツイートしていたことを俺たちファンは知っている!
「お、そろそろ始まりますね。一発目のここのバンド、今から絶対クるところなので必見ですよ〜」
「へ、へぇ⋯⋯」
 彼らを追うようになってから多少バンド界隈に詳しくなったとはいえやはり特別熱意の無い俺にはその話は頭を通り抜けていくだけで、後半の方にやってくる彼らの出番に怯えるばかりだった。
 ノリノリのドスコイ番長や周囲に合わせて拳を挙げながら虚ろな目で考える。どうしよう。もうチケット代は払ったんだし用事が出来たことにでもして帰ろうか。だけど正直言って久しぶりの野外ライブは見たい。それに、こんな大勢の観客のなかの俺一人に気がつく可能性の方が低い。仮に気がついてしまったとして、もう別れて五年だ。きっととっくに彼の中では過去に⋯⋯。
「ニラたまさん? 顔色が悪いけど大丈夫ですか?」
「⋯⋯や! 全然! 久しぶりの野外でちょっと気ぃ引けてただけです!」
「そうですか? まぁ無理はしないでくださいね! もうすぐ彼らの出番ですし」
「⋯⋯はい!」
 そうだ。何をいつまでも気にしていたんだか。俺が囚われているだけで、とても大きな存在になったあの子にとって俺なんてもう、過去にあった恋の一つでしかないんだ。誠実な子だからきっと忘れてなんかはいないだろうが、だからこそこうして応援していることを知ったらむしろ安心するかもしれない。
 彼のバンドのラバーを着けた手首を突き上げ、知らないバンドの曲に合わせて振り下ろす。突然ノリ始めた俺を友人は一瞬不思議そうに見て、だけど安心したのかすぐステージへ向き直った。


『──さて次は、先日アリーナツアーを終えたばかりの──』

「お、来ますねぇ! 新曲、歌ってくれるかなぁ」
「あぁ、そっかまだ聴けてないんすね」
「そうですよ! あれ大阪が初披露だったんですから! 聴きたいなぁ、頼む頼む⋯⋯あ、出てきた!」
 大歓声を浴びながら、彼らがステージへ上がってきた。時折観客へ手を振りながら淡々と準備を整え、ギター兼メインボーカルのあの子がスタンドマイクを握る。

『──えー、皆さんこんにちは、◯◯◯◯です! 今日は急遽お邪魔させて頂くことになりましたが、もう既に熱気が凄いんで! 僕らもそれに負けないよう! 精一杯やります! よろしくお願いします!』

 わぁ、と歓声が上がる。相変わらず謙虚だなぁ、と後ろの誰かが呟くのが聞こえた。

『なはは、すごい盛り上がり。じゃあ早速──』

「うーん、これは新曲はやらないと見た」
「えっ、なんでですか?」
「だってトモ、いつも通りじゃないですか。新曲はいつもの彼とあまりにも感じが違うし、大阪で様子が違ったのも特に新曲の時だったんでしょう? 何か特別な思いがあるんじゃないで⋯⋯あ、それ歌うの!?」
「オアーッ!! 俺めっちゃ好きなやつ!!」
 あの子の綺麗な指先がギターを操る。流れ出したイントロに俺達は顔を見合せ、飛び上がった。あまりライブで披露されることはないがファンの間では密かに人気の曲だ。
 秋の心地よい日差しを浴びて久しぶりの野外を肌で感じながら、彼らの奏でるリズムに合わせて地面を蹴る。ふと視線をやれば隣で同じようにはしゃいでいる友人の腹がその度に揺れているのを指差して笑い、ぺしりとはたかれてまた笑いながら、顔をステージへ戻した。
 ステージを端から端まで眺めながら伸びるような歌声を飛びしていた彼の目が、止まる。


「⋯⋯あっ」

『──画面越しの愛だけじゃいけすかない、の、は⋯⋯⋯⋯』


 目が、合った。呆然と俺を見つめたあの子が、ギターを奏でる手の動きすら止めて突っ立っている。慌てたようにサブボーカルが即座に歌を繋ぎ、数秒固まっていたあの子はハッと我に返ったように動きを元に戻した。その声は、僅かに震えている。
「⋯⋯今、トモ歌詞飛ばしました? 歌詞っていうか、なんか固まってましたよね。こっちの方見てた気はするんですけど」
「⋯⋯⋯⋯」
「ニラたまさん?」
「えっ。ぁ、そう、ですね。な、なんかあったんかな」
 出番はまだ始まったばかりで、彼らはその後に二曲歌ったあといつも通り丁寧に挨拶をして舞台を去っていった。だけど真面目で実直な彼が自身のトラブルについて触れることは、なかった。




「やー⋯⋯なんか珍しいもの見ちゃいましたね。良いことではないけど」
「そうっすね⋯⋯」
 イベント終了後。最後まで楽しんでいた友人とあの瞬間からほとんど上の空だった俺は、近くの適当な居酒屋で久しぶりの杯を交わしていた。
 同じくイベント後に来たらしい周囲の客から聞こえてくる話題は、珍しいトモの不調一色だ。次の曲からはいつもの調子を取り戻していたとはいえ彼のその姿は撮影をしていたファンによってネット上で既に拡散され、今日あの場にいなかったファンも知るところになってしまっていた。普段はライブがあったあと必ずすぐにSNSを更新する彼のアカウントは、出番直前の「行ってきます!」を最後に止まっている。
 周囲の会話やSNSをひとしきり確認し、友人は酒臭い溜め息を吐いた。
「みんな心配してますね。トモは完璧主義的なところがある人ですし、こんなの初めてじゃないですか。他のメンバーはツイートしてるのに彼だけしてないし」
「そうっすねぇ」
「明らかにこっちを見てたと思うんだよなぁ⋯⋯会いたくない人でもいたんですかね。その後不自然なくらい違う方や手元を見てた気がしますし」
「⋯⋯そうっすね」
「話す気あります?」
「⋯⋯や、もう何言えばいいんか⋯⋯」
「まぁ、トモが特別好きなファンからすれば今までで一番の衝撃ですもんね、こんなの」
 同情します、なんて顔で頷きながら唐揚げを摘んでいる友人は、珍しい彼の不調を純粋に不思議がっているようだった。そりゃそうだろう。事実完璧主義的なあの子がライブでミスをした事なんてメジャーデビューしてからの五年間でも片手が余るほどしかない。それが歌詞を飛ばし、演奏すら数秒止まったのだ。⋯⋯恐らく俺のせいで。
 会いたくない、人。考えないようにしていたそれを目の前で口にされてしまい、重い溜め息が落ちる。ぬるくなったビールを飲み干し、通りすがった店員に「すんません、ビールもう一杯」と呟いた。
「だいぶ参っちゃってますねぇ。そんなに心配ですか? 彼だって人間なんだからミスくらいしますし、SNSだって、あの性格だから落ち込んで更新出来てないだけかもしれないじゃないですか。どうしてあんな事になったのかだけは本当に謎ですけど、そんなのこっちには分からないですし」
「⋯⋯分かるって言ったら?」
「え?」
「なんもないです⋯⋯」
 その後話題は終わったばかりのアリーナツアーへ移り、友人は結局生で聴くことが叶わなかった新曲について何度も同じことを繰り返しながら嘆いて、アルコールが回って次第に落ち着いてきた俺も、一ファンとして彼らの初めての大規模なツアーについてああだこうだと語っては時折ツッコまれてげらげら笑っていた。久しぶりの会合だった事もありそれは閉店時間まで途切れることがなく、互いに明日も休みだったからどこかで飲み直そうかなんて話しながら店を出た。
 いつの間にか最後になっていた自分たちは閉店作業をしている店員に「すんません」と会釈しながら扉を閉める。なんとなく空を仰ぐと、冬の色を混じらせ始めた東京の狭苦しい空が俺達を見下ろしていた。ほとんど星なんて見えやしないそこでも、隙間には僅かな光が輝いているのが見える。だけど子供がクレパスで線を引くようにその上を横切った飛行機が、眩い光を点滅させながらその光すらかき消してしまった。
 なんとなくそれに目を細め、閉じる。
 あの日見上げた、沢山見えたはずの星はもうどこにもない。あの子には、ようやく会いに行けるようになったはずの彼にとって俺は、未だ思い出したくない苦い思い出だったのかもしれない。長い葛藤と苦悩の末選んだ道を死に物狂いで走っている夢追い人の、振り返ってはいけない過去だったのかもしれない。なぜなら俺は、完璧主義的でミスなんて数える程しかしたことのない彼をステージ上で数秒間止めてしまったのだから。それを彼がどれだけ悔しがって己を責めるのか、俺はよく知っている。
 突っ立ったままの俺の顔を不思議そうに友人が覗き込む。深く息を吸った。
「ニラたまさん? 次行きません?」
「⋯⋯⋯⋯ドスさん、俺もう今回で現場は──、」

「しげ」

 毎日聞いている声が、大好きな声が、聞こえた。だけどそれは何年ぶりかも分からない言葉を紡いでいる。
「に、ニラたまさん?」
 目を見開いて固まった俺を、友人が心配そうに見ている。あれ? 幻聴か? ロボットにでもなったかのようにゆっくり振り返っても、繁華街でもない夜更けの居酒屋前には誰もいない。だけど気がついた。自分たちが今しがた出てきた店と、既にシャッターを下ろしている飯屋らしき隣の建物の間には、僅かな隙間がある。操られるようにふらりと足を動かした。
「えっ、ちょ、ニラたまさん!」
 呆然と、何も考えられないまま足が勝手にそこへ歩いていく。細い路地裏になっていたその隙間を覗き込むと、一人の男が立っていた。黒いマスク、黒いキャップ、オーバーサイズの黒いダウンに黒のデニムと、もはや言うまでもなく黒のゴツいスニーカー。俯いているその男は俺より少し背が低くて、キャップから覗いた髪は暗闇でも眩い綺麗な明るい金色をしている。昼間に大声を上げながら見た人と、よく、似た色。
「ニラたまさん、どうかし⋯⋯、⋯⋯え⋯⋯?」
 異様なほど静かな空間に友人の声が落ちた。ゆっくりと男が顔を上げ、マスクを取る。そのまま人差し指を口元へあて、微笑んだ。
「トッッッ⋯⋯ェエーッ⋯⋯!?」
「ふふ。しー、って」
「あっ、ごめんなさ、ぇ、え⋯⋯!? な、なんでこんな所に、時間も時間とはいえまだこの辺ファンだらけで、っていうかそもそも何しに、えっ、ニラたまさん!?」
「はい」
「ぁ、あんたなんでそんな冷静で、ていうかどうしてトッ⋯⋯がここに居るって分かっ⋯⋯⋯⋯あれ⋯⋯?」
「⋯⋯呼ばれたんで」
「は、え、へぇ⋯⋯? あれ、あ、あ〜⋯⋯?」
 友人がパニックに陥っている。彼が耐えきれなくなったかのようにクスクスと笑い始めた。俺はもう真っ白になった頭で、懐かしい彼の、可愛らしい笑顔をただ見つめている。
「しげ、って、もしかしてニラたまさんのことですか⋯⋯?」
「そうっすね」
「⋯⋯⋯⋯今日のアレ、明らかにこっち見てたけどもしかして原因ニラたまさんなんですか?」
「はは、理解はや」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯え、じゃあもしかしてニラたまさん、ガチ恋っていうか本当に何かしらかんけ、」
「あーーー早い早い早い! それは理解早過ぎる! すんません今日解散で! 後で全部説明するしいくらでも払うんでもう黙って帰ってください!!」
「え、ええ〜⋯⋯。すぐですよ、絶対すぐ説明してくださいね、本当にすぐですからね⋯⋯。あ、きょ、今日もライブ最高でした! 新曲聴けなかったのが無念なので、いつかよろしくお願いします。じゃ、じゃあお邪魔しました」
 引き攣った笑みのまま友人は頭を下げ、人の疎らな夜道へ消えていった。路地裏に沈黙が落ちる。俺が何か言うより早く、あの子が懐から携帯を取り出して電話をかけ始めた。
「⋯⋯あ、もしもし? うん。合流出来たから来ちゃってください。もう目の前に付けてええよ。うん。はーい、お願いします」
 ピ、と電子音が鳴る。顔を上げた彼がようやく俺と視線を合わせて「久しぶり」と微笑んだ瞬間、後ろで車が停る音がした。


*



 彼のマネージャーさんだったその車に揺られて辿り着いたのは、豪勢⋯⋯というほどではないが、まぁそれなりの収入のある人が住んでいるんだろうな、という感じのマンションだった。駐車場で当然のように俺も一緒に降ろされ、最後まで何も言わなかったマネージャーさんとその車はそのまま静かに走り去った。頭が真っ白なままの俺を置いて。
「⋯⋯じゃ、着いてきて」
「あぇ、お、おう⋯⋯」
 深夜なのもあって、会話のない二人分の足音がやけに反響している。玄関扉を開けた彼が当然のように俺にも入るよう促すものだから、身体を縮こまらせながらそろそろとお邪魔する。入った瞬間「あぁ間違いなくこの子の部屋だ」と分かったそこは、埃一つ落ちていなければ余計な物が置かれることもない、とても彼らしい空間だった。
 上着を脱ぎながら静かに廊下を歩く彼の背に、恐る恐る話しかける。
「あ、あの、かみちゃん⋯⋯?」
「ん?」
「えっと、訊きたいことが多過ぎるんやけど、まず俺なんで今ここにおるんすか⋯⋯?」
 ガチャリとドアを開けながら彼が「んー」と視線を上にやる。そのままリビングでは無いらしいその部屋へ入っていってすぐに出てきた彼の手には、何枚かの服やタオルが握られていた。
「俺も話したいこといっぱいあるんやけどさ、その前に風呂入ってきてくれへん? しげ、汗臭い」




「で、出ました⋯⋯風呂ありがとう⋯⋯」
「はいおかえり。夜食作ってんけど食べる?」
「⋯⋯食べる」
 彼が貸してくれた部屋着に身を包んだままのそのそと歩く。もう俺は、今のこの状況全てや、服から香る変わっていない彼の匂いなんかに頭がやられてしまっていて、全て夢なんじゃないかとすら思っていた。だけど鼻をくすぐるオリーブオイルの香りは、たしかに本物だ。五年ぶりのあの子の料理が、目の前にある。夜食にこんな小洒落たもん作ったりやたら凝ったりするところも、変わってない。
 指された椅子へ黙って腰かけて待っていると、両手に缶ビールを持ったあの子が戻ってきた。ビールなんて飲むようになったのか。
「はい。じゃあ久しぶりの出会いにかんぱい」
「⋯⋯乾杯⋯⋯」
「なんやねん、暗いなぁ。あ、うま」
 自分の作った料理を平然と口へ運び、彼は口角を上げた。そのまま流れるように缶ビールを傾け、細くて白い喉が、揺れる。昼間、綺麗な、化粧水のようだと称される歌声を響かせていた喉だ。俺はただじっとそれを見ている。
「食べへんの?」
 彼がゆっくり首を傾ける。操られるように頷き、箸を手に取った。冷蔵庫にあったもので作ったんだろうな、というのがわかるそれを箸で摘んだ瞬間、あの日最後に食べた、食べきれなかったことを後悔したあの子の肉じゃがが鮮明に視界を過った。脳が覚えている。あの日あの部屋の空気も、匂いも、薄くなっていった柔らかな湯気だって。
「うまい?」
「うん。うまいです。料理、今も好きやねんな」
「そうね。趣味って言ってもいいかも」
 俺が食べるところを見たことで満足したのか、彼は自分の手元に集中し始めた。小さな唇がもぐもぐと咀嚼する姿はまるで変わっていない。そこに漂うビールの香りと、一人で住むには広いこの綺麗なマンションの一室だけが、俺達の間にあった確かな時間を証明していた。
「⋯⋯なぁ、ニラたまって⋯⋯」
「グッ⋯⋯ック⋯⋯や、やっぱりそこ絶対最初にイジってくると思った⋯⋯!」
「ふはっ! だってニラたまってなに!? あの感じやとネットの友達? とかやんな。どんな名前でやってんねん」
「⋯⋯ニラ魂⋯⋯」
「⋯⋯っふ⋯⋯」
「笑うな!! ネットの名前なんか適当でナンボやろ!! だいたいあの人だって大概やからな!! ドスコイ番長やぞ!!」
「いいやん。貫禄あったし、似合ってはるよ」
「まぁそれはそうなんやけど⋯⋯。ダイエットせぇってもう何年も言うてるんやけどなぁ」
 ボヤきながらタコを摘んだ。随分穏やかになった空気に少し気が抜けて、乾杯してから一度も飲んでいなかったビールをようやく口にする。顔を上向けた瞬間、彼が箸も缶も触らずにテーブルで緩く手を組んでオレを見つめていることに気がついた。その目は、優しく微笑んでいる。
「あの人、そんな前からの付き合いなんや」
「⋯⋯そう⋯⋯やけど⋯⋯?」
 呟いた言葉が不安げに、綺麗に掃除された床へ落ちていく。彼の唇がゆっくりと上がる様はやけに綺麗で、思わずじっと見蕩れてしまう。
「俺、あの人は何回も見たことあるよ。めちゃくちゃ初期の、ちっさい箱の頃からずっと応援してくれてはる人やんな。しげを見たのは、今日が初めてやけど」
 俺はその時、自分がなんの疑いもなく緩やかな罠へ入ってしまっていたことに気がついた。彼のマネージャーの車にいる間はただ呆然としていたからここがどこなのか全く知らないし、そもそも東京の土地勘なんて無い。ゆっくりと腰を浮かせかけた俺をその場へ縛り付けるように、彼の指先が俺の手を差した。
「今日しげが手首に付けてたラバー、この前のツアーの大阪と東京限定のやつやろ? 鞄に引っ掛けてたのは俺がデザインしたキャップで、首に掛けてたタオルは去年出さしてもらったフェスのやつ」
「⋯⋯そう⋯⋯っすね⋯⋯。まぁほら、これでも一時はその⋯⋯近しい仲にあったわけやし応援くらい、」
「それであんな古参の人と親しいのは流石に無理あるやろ、ふふ」
 彼が俯いて微笑む。そうだ。無理がある。そんなの分かってる。もうきっと俺が隠れてずっと応援していたことはバレている。
 だけどそれが一体なんだっていうんだ。今日俺を見つけただけであんなにも茫然としていたこの子は、どうして、どうやって見つけたのかも分からない待ち伏せをしてまで俺をここに呼んだんだ。あの子の小さな唇が息を吸う。
「⋯⋯俺さ、いつかしげに⋯⋯。もっともっとデカくなって、それでも勿論努力は続けるけど、ある程度は余裕を持てるようになったら、しげに会いに行こうと思ってた」
「⋯⋯⋯⋯なん⋯⋯で⋯⋯?」
 俯いていた綺麗な顔が上がった。その瞳は、強い。あの日と同じだ。視界が砂嵐のように揺れる。あの日と今が、激しく交錯している。
「しげはさ、あの時俺にこう言ったやん。大好きやった、愛してた、って。でも俺は違った。俺が最後になんて言ったか、覚えてくれてる?」
「⋯⋯⋯⋯顔見してくれて、ありがとう」
「うん」
「⋯⋯愛してる」
 立ち上がったのは、今度はあの子の方だった。ゆっくり俺の隣へ歩み寄って腰掛けた彼の手が、俺の手を、柔く包む。
「別れて欲しいって言ったのは俺やけど、俺はしげのこと諦めてなかった。いつかお前を幸せに出来るくらいになってやる、しげが他の誰かを見つけてしまうまでに絶対、って。いつになるかも分からないそれを言うのは狡いから口にはしなかっただけで、思ってた。だから過去形にはしなかった」
「⋯⋯かみ、ちゃん⋯⋯」
 握り合った手は汗をかいている。どちらのものかも分からないそれを、だけど更に強く握り直した。
「この前。大阪の時さ。客席にしげが見えた気がしてん。でも遠過ぎてそんなん分からんし、今までしげを俺のライブで見た事はなかったから都合のいい勘違いやと思った。きっと怒ってはないけどしげの中ではもう吹っ切れてるんやと思ってた。でも結婚してる様子はなかったから、まだ、まだチャンスはあるはず、って⋯⋯。それがあのツイートで、」
「え、え? ちょっと待って、なんで俺が結婚してないとか知ってたん? 俺リアルのSNSとか何もやってへんけど⋯⋯」
「え?」
 ぱち、と彼のアーモンドみたいな瞳が一度瞬きをした。不思議そうな幼い顔がゆっくり傾くのに思わず合わせ、俺も顔を傾ける。
「そんなん、しげ自身がやってなくてもしげの交友関係辿れば簡単に分かるやん」
「え? ⋯⋯ん?」
「だから、しげの高校とか大学時代の友達全部のSNS見ててん。しげが就職してしばらく経った頃、大学の集まりのはずの飲み会の写真でしげの隣に知らん人おったから、その人が誰かフォロー欄とかいいね漁って確認したらしげの同僚やって分かって、その人がアカウントに鍵掛けてなかったからそっから更にその人の繋がりも辿って同僚とかっぽい人もみんなチェックするようにして⋯⋯、」
「ちょ、ちょちょちょっと待って? か、かみちゃん、俺正直かみちゃんが言ってることの半分も分からんねんけど、なんか結構ヤバいこと言ってへん?」
「⋯⋯そう? しげだって俺にバレんように現場来てたんやん。似たようなもんやろ」
「あぇ、そ、そう⋯⋯? か⋯⋯」
 手を握ったまま、ズイ、と彼が身を乗り出して顔を近づけてきた。まるでアイドルのよう、と皮肉と称賛の両方を向けられるこの子の可愛いらしく整った人形のようなそれが、俺を見つめている。
「ほんで去年、転職したやろ。あんなにあそこに拘ってたのに」
「あー⋯⋯それはまぁ、色々あって。別にやりたい事なんてどこでも出来ることに気づいたというか。いやそれもバレてんのかい」
「⋯⋯で、ずっと独り身やったのに、四ヶ月前の会社じゃない飲み会で隣の席に座ってんの映ってた日からよく一緒にいる女の子がいる。その子はSNSあんまり更新しないけど、一回だけ絶対しげの手やって分かる手が映ってる写真載せとったから一緒に出かけてるよな。会社違うっぽいから名前しか知らんけど、⋯⋯結構、可愛い子」
「あ、あー⋯⋯。い、います、ね」
「そうかそうじゃないかだけで答えて。⋯⋯彼女?」
 視線を逸らすことすら許してくれなさそうなその強い眼差しにブッ刺されながら、俺はもはや考えることを放棄して「違います」と呟いた。なんだこの子。この子は、トモは、あんなにかっこよくて、簡単に立てる場所じゃない舞台に立って、その真ん中でギターを操りながら誰より美しい歌声を放っている人のはずなのに。だというのに今は何者でもない俺なんかの交友関係を、探偵顔負けの情報網で口にしながら問い詰めている。これ、本当に夢なんじゃないのか?
「じゃあどういう関係?」
「ドスさんにはまだキープしてんすかって言われてる関係」
「なんでキープしてんの? 今までそういう関係の人すらいなさそうやったやん」
「⋯⋯なんで全部知ってんねん、この子⋯⋯」
「話逸らすなや」
 もはや笑ってしまいながら逸らしかけた視線は即座に戻された。俺の両頬を挟んで睨むようにして見つめてくる彼の顔には「絶対逃さない」と書いてあるようにすら見える。
「⋯⋯もうええ歳やし。誠実で、真面目で、仕事熱心で、悪い相手じゃないと思ったから」
「⋯⋯好きなわけじゃないんやん」
「はは。⋯⋯当たり前やろ」
 すぐ近くにあった首に手をやり、元々近かった顔を引き寄せる。目の前にいたのは偶像でも星でも無い、紛れもなく俺の愛した一人の男だった。もう夢でもなんでもいいや。今目の前にいるこの子が、口をつこうとしているこの愛が、すべてだ。
「俺だって過去形になんかしたなかった。この世で一番愛してるやつが必死に考えた末の門出に、心残りを作りたくなかっただけやねん。⋯⋯あの頃からずっと、今も、かみちゃんだけを愛してる。誠実で真面目で仕事熱心な子に、今でも愛してる過去の恋人を重ねてもうてただけ。だから申し訳なくてどっちにも踏み切られへんかってん」
「⋯⋯しげ⋯⋯」
「なぁ、言ったやろ? やりたい事はどこでも出来るって気付いたって。ほんでかみちゃんは、こんな部屋に一人で住めるような立場になってまだ俺に⋯⋯寄生? やっけ。すると思う?」
「⋯⋯お、おもわん⋯⋯」
「そっか」
 首を引き寄せ、そっと唇を重ねた。そのまま離して視線を合わせると、綺麗な瞳が、自分から始めたくせに真ん丸に目を見開いて俺を見ている。
「⋯⋯じゃあ俺、こっちで転職先探し始めるわ。しばらく忙しなるやろうけど、まぁ春までには何とかなるんちゃうかな」
「⋯⋯⋯⋯うん⋯⋯」
「なんやねん、暗いなぁ」
 さっきこの子が言ったばかりの言葉を繰り返してやると、呆然と手元を見つめていた視線がパッと上がり、そのままふにゃりと崩れた。あぁ、俺の大好きな笑顔だ。トモは見せない、俺だけの。
「⋯⋯ごめん、なんか信じられへんくて」
「んなもん、まんまこっちの台詞なんやけどな」
「そんな事ないよ。⋯⋯なぁしげ、あの日、信じてくれてありがとう。まだテッペンは取れてへんけど、俺、今までずっと死に物狂いでやってきたよ」
「うん。全部見とった。⋯⋯バレんようにやけど」
「ふは⋯⋯ほんまにそれだけは分からんかったなぁ⋯⋯ずっと、見てくれとったんやなぁ⋯⋯」
 何かを堪えるように、綺麗な瞳が細まった。目元へ口付け、金色の髪を撫でる。もうベッドの中で眠る前に思い出として辿ることしかなくなっていた、俺の人生の奇跡。俺だけの、たからもの。
「⋯⋯明日も仕事やろ。もう遅いしはよ寝た方がええよ。あんな場所で何時間待っとってん。いやそもそもなんで場所バレて⋯⋯」
「知りたい?」
「⋯⋯やめとこ、かな」
「なはは」
 ケラケラと楽しそうに彼が笑う。片付けは自分がやろうと空になっていた皿と缶をまとめて立ち上がりながらキッチンへ向かう間も、俺より少し小さな影は後ろにずっと引っ付いたままだ。
「⋯⋯なぁ、ほんまに寝る準備した方がええって。明日、夜とはいえ生放送やろ? リハとかで結局早くから入らなあかんのちゃうん」
「うわぁ、よう知ってんなぁ⋯⋯。そうやねんけどさ、うーん⋯⋯」
「なによ」
 皿を簡単に洗って食洗機へ入れながら呟く。手を拭いて振り返ろうとした瞬間、胸元へ飛び込んできた彼が、どうしたって僅かに上目遣いになってしまう体格差で俺を見上げ、少し頬を染めながら笑った。
「久しぶりやからさ、色々ダルいかもやけど⋯⋯抱いてくれへん? ライブ後なんもあるけど、しげおるのに気付いた時からずっと、その⋯⋯疼いてんねん。このまま寝て仕事なんか行ったらまたミスしてまうかも。ニラたまさんはそんなトモ見たないやろ?」
「⋯⋯二度と御免やけど、かみちゃんがそんな悪い誘い方覚えたんも嫌やわ。ほんまに久しぶりなん?」
「ふは、久しぶりどころかお前と別れる前の日が最後やわ」
 俺の首へ腕を回しながら、吹っ切れたのか頬の赤さを隠すこともせず彼が微笑む。その細い腰を引き寄せ、久しぶりのこの子の匂いに酔いながら俺は、笑った。馬鹿らしいほど、お互い気づかないままにお互いのことだけを見つめていた自分たちの数年間と、本当に何一つ変わっていないことへの愛おしさに。
「じゃあ揃って五年ぶりのセックスかぁ。ええ歳してオモロいことになりそうやん」
「ほんまに? ⋯⋯あは、なんや。落ち込んで損した」
 楽しそうな笑い声をあげた唇を塞ぎ、抱きしめた。
 久しぶりに絡めた舌は熱く、このまま溶けてしまいそうだ。先月発表された『トモらしくない』新曲を作り始めたのは四ヶ月前だと彼はラジオで語っていて、それは俺が彼女と会うようになった時期とちょうど重なることに気がついた瞬間、堪らなくなって俺は彼が名残惜しそうに唇を離して「いたい」と背中を叩くまで、キツく、閉じ込めるようにして抱きしめていた。


*



 もう春も近いというのに風が冷たい。いつかを思い出すようなそれに、新幹線を降りた瞬間思わず肩を縮めた。慣れない駅、慣れない人混み。落ち着かない心地でエスカレーターの左側に立ちながらスーツケースを引き連れて歩く。改札のすぐ近くて待ってくれていた友人に手を挙げ、ほっと息を吐いた。
「どうもどうも、長旅お疲れ様です」
「まぁ長い言うても数時間ですけどね。それよりすんません、こんなプライベートのことなんかお願いしてもうて。こっちに知り合いおらんもんで」
「いいですよそんなの、久しぶりにニラたまさんの顔見られて嬉しいですし。さ、駐車場こっちなんで行きましょう。業者さんが来るの十時でした?」
「確かそうやったかなぁ⋯⋯。こんなちゃんとした引越し初めてなんで緊張しましたよ」
「あはは、大阪からの上京なんて定番も定番なのに? それにしても、無事転職が決まって良かったですよ。しかもあんないい所って。報告された時僕笑っちゃいましたからね」
「まぁそれだけが取り柄なんで⋯⋯あ、何か飯買うて行きましょうよ。奢るんで」
「本当ですか? やったぁ」
 どれも魅力的な店が立ち並んだ駅の食品街を、また更に腹を大きくしたように感じる友人は嬉しそうに物色し始めた。それを眺めながらそっと懐から電話を取りだし、彼とのトークルームに「着いたで」と端的にメッセージを送信した。今日はメンバーで集まってひたすら新曲の合わせやら調整をすると言っていたから、あの子がこれを読むのは少し先になるだろう。だけど夜には新居を見に来るとはしゃいでいた声を思い返し、頬を緩ませる。
「うーん⋯⋯いつもなら肉一択なんだけど今日は魚も魅力的だな」
「じゃあ両方行きましょ。引越し、疲れるやろうし」
「え!? なんですか、太っ腹ですね」
「ひひ、あと半日待てばようやく可愛い恋人に会えるんで」
「⋯⋯は〜あ。もう何も言いませんけど、ファンとして知り合った友人がゴリゴリに繋がってる人だったの、経緯も知っているとはいえ本当ムカつきますね」
「じゃあ気分いいついでに今まで黙ってたこと教えてあげますけど、アンタ認知されてましたよ。最初からずっと応援してくれてる人、って」
「⋯⋯⋯⋯え!?? さ、最初って、あの人達東京来た頃にはもういっぱいファン付いてたじゃないですか!!」
「あの子がアホほど真面目でファン思いなこと忘れてます? アンタがどんどん太っていく過程もしっかり見られてて「貫禄あるしお似合いの名前やん」って微笑まれとったで、ドスコイ番長」
「⋯⋯⋯⋯やっぱり魚だけにします。代わりにサラダを⋯⋯」
「っははは!」




 新居までの移動と最低限の荷物の仕分けを手伝ってくれた友人を見送り、部屋ごとに分けた段ボールを紐解いていく。友人にも言われたようにそれなりの収入が見込める場所への転職が決まった結果、あの子が泊まることも想定して広めの部屋を選んだから俺の少ない荷物は居心地が悪そうだ。だけど大量にあるグッズの置き場に困ることは今後無さそうなことに頬を上げ、時計を見る。
 いつの間にか時刻は十九時を回っていて、外は真っ暗になっていた。これはあの子が来る時間も遠くなさそうだ。休憩や周囲の散策がてら友人と買い出しに行っておいた冷蔵庫を開け、適当な晩飯を用意する。慣れないキッチンでいつもの料理を終えた時、インターホンが鳴った。手を拭いてから画面を覗き込めば、再会したあの日と同じように逆に怪しいくらい全身真っ黒な恋人がそわそわと落ち着きなくカメラを見つめていた。
「はーい」
『あっ。えっと、来たで』
「うん、開けるわ」
 エプロンを外し、玄関まで迎えに出てスリッパを出す。扉を見つめながら、年々緩くなってく涙腺を抑えるのに必死だった。
 別れを決めた瞬間。最後に笑顔を見せてくれたあの子の「愛してる」。財布と携帯だけを握り締め、泣きながら夜道を駆けた自分の姿が、走馬灯のように視界を過っていく。あの時彼を置いて部屋を飛び出した俺が、今度はここで待っているんだ。
 あぁ、逃げないでよかった。あの子という奇跡のような出会いを、その輝きを、追い続けてよかった。鳴ったのはインターホンじゃなくノック音だった。ゆっくりと手を伸ばし、鍵を開ける。ドアを開けて数秒黙って俺を見つめた彼は、一度ギュッと目を閉じて俯いたあと、土間へふらりと踏み出していた俺の腕の中へそのまま抱きついてきた。
「⋯⋯しげ、や⋯⋯」
「うん、久しぶりやな」
「自分はちゃうやん。ずっと見とったくせに。狡いわ、ほんま⋯⋯ほんまに、狡い」
「しゃあないやん、俺が目に入ったらかみちゃんの邪魔になるかもしれんと思ってんから」
「そうかも、しれんけど⋯⋯」
 腕の中でギュッと身体を縮めていた彼が、ふと顔を上げる。すんすんと鼻を鳴らす姿はまるで猫のようだ。
「⋯⋯しげ、何か作った?」
「あ、作った。適当やけど。食う?」
「食いたい! そのまま来たから夜まだやねん、久しぶりのしげの料理や! あ、お邪魔します!」
「大したもんちゃうから期待せんとってや」
 俺より先にパタパタとスリッパを鳴らして走り出した背を、笑いながら追いかける。興味深げにあちこち見て回っている彼がある部屋の扉へ手を伸ばした瞬間、俺は風より早くその間に立ち塞がった。
「⋯⋯え、なに?」
「ここはあかん」
「⋯⋯⋯⋯あぁ、ニラたまさんの部屋な。トモガチ恋やっけ」
「だからそれは勝手に言われてただけやって!!」
「ふは、いいやん事実なんやから。⋯⋯違う?」
 勝ち誇ったような目で俺を見つめ、彼が笑う。ぐっと唇を曲げながら一瞬視線を逸らし、ガシガシと頭を搔いたあと力任せに抱きしめた。クスクス、腕の中で楽しそうに俺の奇跡が肩を揺らしている。
「違わんわ。高校の頃から、俺がファン一号や、ぼけ。だからもうあの曲は俺の前以外で歌わんとって」
「あかんよ、もう自分達だけの音楽じゃないんやから」
「⋯⋯あんなモロ俺に向けた曲やのに⋯⋯」
「すぐ気付かんかったマヌケが何か言うてんなぁ」
「ングゥ⋯⋯」
「なはは、なにその声」
 ぎゅっと抱きついたまま楽しそうに肩が揺れ、そのたび綺麗な金色の髪もちかちかと光る。吸い寄せられるようにその可愛い旋毛に口付け。顎を乗せた。言葉で勝てることはもう無さそうだ。これからは存分に、俺の天使の尻に敷かれるとしようじゃないか。
「⋯⋯え、なに? 重い」
「うん」
「や、うんじゃなくて。ていうか腹減ったんやって」
「うーん」
「なによもう! 分かったって、今度しげの前でだけ歌うから! それでいい!?」
「え〜⋯⋯?」
 抱きしめて身動きを取らせないままのそのそと歩き始める。腕の中で必死に何やらモゴモゴと訴えている声に微笑み、リビングの扉を閉じた。まぁ、俺だけに向けた愛の歌に万人が心を打たれながら聴いているってのも、気分は悪くないかもしれないか。

「し、しげ! 聞いてる!?」
「聞いてる聞いてる。はいこちら、お待ちかねの久しぶりの俺の料理やで」
「⋯⋯⋯⋯ニラ卵⋯⋯」
「おう。もうこれしかないやろと思って」
「⋯⋯やっぱ別れよかな」
「なんっっでやねん!!!」



 あの部屋にこっそり置いてあるキーボード。彼らを応援する一ファンになってから聴くだけじゃ物足りなくなって始めたそれを見た時、この子はどんな顔をするだろう。俺のための歌を、俺と一緒に歌ってくれたりしないだろうか。
 いつ言い出すべきか未だ決めかねている些細なかくしごとに胸を弾ませながら、俺はうだうだ言いつつ席へついてくれた愛しい人の髪を撫でた。


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