少女の反応を純粋に驚きと捉えたシーザーは目を細めてみせる。彼は女性の扱い方をよく心得ている。それは経験からでもあり、イタリア人の気風のようなものでもあった。目の前の少女はイタリア人ではないようだが旅行客だろうか。どこか凛とした高潔さが備わっているようである。さて、彼女にはなにをプレゼントしたら喜ばれるだろうか。さっそく頭の片隅でそのようなことを考えだす。
「さあシニョリーナ、きみのそのかわいい唇で名前を教えてくれないか?」
シロップを一滴垂らしたような甘い声を前にして、当然のように千里は逡巡する。祖父の若いころの時代だから当然千里はまだいない。だがこの時代、すでに祖父と男は知り合っている可能性はあった。下手なことを言ったために巡り巡って未来の自分自身に影響が及ぶことをおそれたのである。
「どうしたんだい? なにも取って喰おうってわけじゃあない。名前がわからなければ、かわいいシニョリーナを呼ぶことができないからだよ」
「……」
「まさか悪い魔法使いに声を奪われたのか? だったらおれがきみのナイトになろう」
男――シーザーの言葉を右から左へ聞き流し、千里は窓の外へと目を向けた。明らかにエジプトのそれではない。あの枯れ果てた大地の色はどこにもなく、あるのは青い海と青い空。空気のにおいからして違っている。
疑問はたくさんあった。だが目の前の男がそれをすべて答えてくれることはないとわかっている。目覚める直前の記憶、敵のスタンドの能力が原因だとわかっているため、すべてにおいて説明はつく。別の土地、別の時間に吹っ飛ばされただけだ。考えることはただ一つだ。戻る方法だけである。
「きみはこの島に漂着していた。一体なにがあったんだ? おれでよければ力になるよ」
ぺらぺらとよく舌を回す男を一切無視し、千里は思考の深みに沈んでいく。彼女から敵を攻撃することはできない。だが、目的を同じとする旅の同行者たちならば倒すことができるだろう。そうすればスタンド能力が解除されて戻れる可能性もあったが、千里はそれに期待する気はなかった。腹部に受けた痛みがなくなるほどの間眠っていたのだから、この時代に飛ばされてから相当の時間が経過しているはずである。それだけあれば彼らも敵を倒していそうなものだが、彼女の体は未だこちらにいる。時間の流れが違えばまた話は別だが。つまりは彼らに期待しているだけでは足りないということだ。
「シニョリーナ」
思考の間に割って入る男の声。酷く真剣な声色は千里を思考の水底から引き揚げた。だが彼女はその男と関わる気はなかった。祖父の友人だろうというのもあるし、イタリアとイタリア人は彼女の中で最悪な印象しかない。しかしなんの庇護もない中でここから飛び出してなんとかなるとも思っていないため、判断に窮していた。
ふわりと視界の端でなにかが浮かび、輝いた。何事かと千里は眼球だけを動かしそれの正体を確かめようとした。だがわざわざ見ずともそれは数を増し、彼女の周囲に浮かび上がる。シャボン玉だと、千里がその名前を思い出すのに少々時間がかかった。シャボン玉など最後に見たのはいつだったか。
「そう難しい顔をするものじゃあない。笑顔の似合わない女性はいないものさ」
男が微笑む。それが心からの言葉なのか形だけなのか判断する気も起きないほどに、シーザーの言葉は無意味に千里の鼓膜を震わせるばかりだ。
部屋の中に無数のシャボン玉が浮かぶ。壁やカーテンに触れては儚く消えるそれの発生源はシャボン液が仕込まれたシーザーの手袋なのだが、千里はそこまで見破っていない。発生源を調べる気力と熱量の消費を拒否したともいえる。さっさと視線の先を彼とシャボン玉からそらしてしまった。
普通のシャボン玉程度では少女の心を捉えることができなかったことに内心がっかりしながら彼は次なる手に打って出た。シャボン玉にほんのちょっぴり、波紋を含ませたのである。そして再度七色の球体を浮かび上がらせた。先ほどよりも強度があり、輝きが増している。綺麗なものが嫌いな女の子はそうそういない。
波紋を帯びたシャボン玉の一つが千里に触れた。その一瞬、触れた面積などほんのわずかだろうが、確かに千里の皮膚の上をなにかが走り抜けた。痺れに似ているが電流のようなそれではない。その正体を探ろうとした彼女の鼻先にまた別のシャボン玉がキスを落とす。不意の接吻をしたそれは割れることなく、シャボン玉は千里から離れた。気のせいではなかった刺激を前にして、目を見開いたとほぼ同時に千里はシーツの下に隠していた左手をシーザーに向けた。すでにプラネット・スマッシャーズが握られている。
だがそのとき彼女は失念していた。それまで周囲にスタンド使いがいた環境に身を置いていたためだろう。ほんの数ヶ月にも満たない間に酷く濃厚な日々を送っていたせいだ。――スタンドはスタンド使いにしか見えない。その当たり前のような大原則を失念してしまうほどに、彼女はスタンドを当たり前のものだと認識してしまっていた。尋常ではないシャボン玉がスタンドであると瞬時に思い込んでしまったことも原因である。それが当たり前の生活を送ってきたのだから、波紋というスタンドとはまた違った力が存在するなどとは思いもよらなかったのだ。
突然手を差し伸べられたことにシーザーは驚いた。なんて勢いのある情熱的な握手の求め方だろうとも思った。差し出された手はやや不自然に形作られていたが、まさかそこに常人には見えない銃が握られているなど思いもしない。なにかが少女の掌の中にある、と直感が囁いたが、目に見えないのだからと第六感が察知した真実を却下して、シーザーは自身の左手で千里の左手を握った。握る瞬間、なにかに触れたような気がした。しかしそれを確認する前に彼女の手を包み込む。それまで眠っていたからだろう、少女の手は温かい。
「きみから握手を求められるなんて嬉しいな。これはお近付きの印だ」
体を傾げ、さも当然と言わんばかりにシーザーは千里の手の甲にそっと唇を落とした。一瞬にして千里の体が硬直した。想定外のことに意識をそらされてしまったために、握っていたはずのプラネット・スマッシャーズは消えてしまっている。さすがに悲鳴を上げることはなかったが、それでもいつもは茫洋としている灰色の瞳は大きく見開かれている。それを彼女をよく知る者が見たら驚いたことだろう。プラネット・スマッシャーズを前にして驚きもしなかった男の目にはスタンドが映っていない。その可能性にすら至れずにいる。その瞬間、千里の思考は完全に停止していた。
口付けながらも上目遣いに千里の様子を窺っていたシーザーは、少女の動揺するさまにどこか安堵している自分がいることに気が付いた。目覚めた彼女はまるで人形のように表情筋の動きが乏しく、その目にまったくシーザーを映そうとしていなかったからだ。どうやらこのような行為に慣れていないらしいと微笑ましく思いつつ、ようやく彼女の意識の範疇に入り込むことができたと満足した。