「もう、煩いわねえ……」
第三者の声が千里の思考を正常に引き戻した。それまでベッドに伏して眠っていた少女が目を覚ましたのである。寝惚け眼を擦りながら起き上がったスージーQを呆れたと言わんばかりにシーザーは一瞥する。その頃には千里の手の甲から手を離していた。
「なにを呑気に寝てるんだ。彼女が目を覚ましたぞ」
「え、嘘っ!」
スージーQの大きな瞳が千里を映す。そしてシーザーとはまた違った笑みを浮かべた。身を乗り出して顔を近づける。
「具合はどう? どこか痛いところとかない? あ、お腹空いてるならすぐにご飯を作るわ。でも食欲がないのならリゾットの方がいいのかしら?」
「おい」
「ああ、でもまずはお水よね。だってあなた、ずっと眠っていたんだもの、喉が乾いているはずよね。待ってて、今持ってくるから!」
怒涛のイタリア語は残念なことに寸分も千里に伝わっていない。しかしそれを知らない彼女はシーザーの静止も虚しく、スカートを翻して風のように部屋から出て行ってしまった。まるで春の嵐が通り過ぎたようだ。それを千里はなんの感慨もなく見送ったのだが、シーザーは千里が唖然としているように見えたらしい。苦笑を浮かべてそれまでスージーQが座っていたベッドサイドの椅子に腰を降ろした。
「賑やかな子ですまない。だが許してやってくれ。彼女はずっときみの看病をしていたんだ」
彼女はスージーQ、この屋敷の主人に仕えているんだ。そう千里に教えつつ、彼は別のことを考える。名乗ることすら忘れていったあの表情豊かな少女が主人に看病人の目覚めを知らせてくれればいいのだが。
「−−さあ、シニョリーナ。そろそろきみの名前を教えてもらっても構わないかな?」
まったく他人を意識に入れようとしない態度や、シャツの襟の陰に見え隠れする怪我などから様々な憶測を立てつつシーザーはできる限りの柔らかな笑みを浮かべて話しかける。目の前の少女が警戒をするわけではなく、興味なさそうにまったくの無関心を貫けば貫くほどにシーザーの興味関心は強くなる。この少女の声はどんな響きをしているのだろうか。笑った顔はきっと愛らしいに違いない。一見クールな印象を与えるが、そういう子ほど存外感情を表に出すのが苦手だったりするものだ。不器用で、でも誠実で。優しくされることに慣れていない女の子かもしれない。エア・サプレーナ島に流れ着いた訳ありの少女。女の子は守られてしかるべきものだと相場が決まっている。
曇天のような瞳がまっすぐシーザーに向けられた。薄い唇が小さく息を吸い込む。
「−−今年の西暦は」
千里が初めて発した声はシーザーの想像よりも若干低かった。頭の中で反響しないアルトは酷く冷え切っていてどこか硬い。無駄を好まず、一切を排除したような響きはシーザーに必要最低限の解答しか要求していない。ほんの少しの戯れ言すら拒絶しているようだった。なぜ女の子がそんな声を出さなくてはならないのかシーザーにはわからない。角砂糖一つでも添えてやりたいほどだ。
「1938年だが……それがきみにとって重要なのかい?」
シーザーの問いかけに返事はない。隻眼が彼から離れた。長いまつげをわずかに伏せて思案する姿はどこか憂いを帯びているようだとシーザーは思った。しかし正確なところは違う。千里の頭の中ではこの世界と元の世界との時間差がおよそ五十年であること、そうなるとやはり目の前の男が祖父の友人である可能性が非常に高いと結論を導き出していた。この世界が次元の違う別世界だという可能性はすでに捨てている。確かめる術もないし、確かめたところでなにかが変わるわけでもないからだ。目の前の男が祖父の友人でない可能性だってある。しかしその真偽を突き止める必要性はどこにもなかった。
「きみがなにを考えているか、おれに教えてくれないか。きみの力になりたいんだ」
先ほどの一言限りで再び黙りを決め込む少女の扱い方がシーザーにはわからない。
鋭い癖に感情のこもっていない、矛盾ばかりの灰色の瞳を持った人形のような少女。シーザーに興味の欠片すら抱いていないような態度。今まで出会ってきた女の子たちとはまったく違い、庇護を必要としていないようだ。彼女は甘い言葉を欲していない。千里がこれまで一人の男の首だけを欲して戦ってきたと知ったらシーザーはなにを思うのだろうか。
「なあシニョリーナ……」
「スージーQが騒がしいと思ったら……目覚めたのなら目覚めたのだと言ってくれればいいものを」
割り込んできた声はまた新しいものだった。長く艶やかな黒髪が酷く特徴的だ。新たに現れた女性を千里は一瞥するだけで目をそらす。それとは対称的にシーザーは大げさなほどに驚いた。その気配にまったく気が付いていなかったというのもある。
「せ、先生!」
「シーザー、愛を囁くのは構わないけど、後にしてもらえるかしら?」
シーザーは自身の顔に熱を帯びていくことに気がついた。同時に酷く後ろめたいような気がしてしまったのは、崇拝する師への報告をすっかり忘れて千里にかまけてしまっいたからである。まるで浮気現場を押さえられてしまった男のような。彼の心境はそれによく似ている。
教え子が一歩退いてできたスペースにリサリサは立つ。圧倒的な存在感を前にした千里はほんのわずかな思考を経て、いくつかの判断を下した。敵意や悪意はもちろんのこと、他人の警戒や緊張も分かりやすい感情だ。ようやくまともに話ができそうな相手が現れたと彼女は思った。話したところでなんとかなる現状だとはこれっぽっちも思っていないが。
「答えなさい。あなたは何者で、なんの目的をもってどこからここに来たのか」
前置きも一切なく、単刀直入。凛としていて、それでいて鋭利な刃物よりも鋭い。リサリサはすでに千里がただの少女ではないと看破している。一般人が訪れることのない島に漂着するなど普通ならありえない。ゆえにそこになにかしらの意図があるはずだと考えたのである。彼女自身にまつわる因縁や運命からなるこれまでの経緯と経験から、自然と目の前の少女に対して警戒を抱かずにはいられない。
傷だらけの体をシャツの下に隠し、木綿に隠されていないところでさえ目立った傷を持つ少女の右目が宙を彷徨う。前髪の下に隠された左目も同じように動いているのだろう。慎重に言葉を選んでいるようにも見える。彼女が逡巡している理由をリサリサもシーザーも察することはおろか理解することも難しいだろう。どこまで話すべきか、それ以前に馬鹿正直に事実を言うべきか。その場しのぎの嘘で塗り固めた虚構を語ることは簡単だが、違法建築に似ていつ崩れるかわからない。だから素直に話すか、となれば新たな問題が生まれる。そもそもここにいる原因を説明することから非常に困難であるからだ。
スタンドは一般人が見ることも触れることもできない超常現象ともいえる代物だ。それを信じろということがどれほど滑稽なことか、千里でもわかる。さらに目の前の女性がそのようなふざけた話を鵜呑みにするとは決して思わない。
「先生、もしかしたら人に言えないような事情があるのでは……」
「そうね。だったら場合によっては力になってあげないこともないわ」
質問なんて生温いものではない。尋問と言っても差し支えない程度のレベルのつもりでリサリサは改めて少女を見下ろす。灰色の瞳がまっすぐ彼女を見上げた。