千里が故郷へ帰るその前日。しばしの別れを惜しむように千里とシーザーは寄り添って街へと出ていた。以前とは違い、シーザーの左手は千里の右手をしっかりと握っている。彼女もシーザーにされるがままではなく、自身の意思を持って右の指を曲げていた。彼の手の甲に触れるか触れないか程度ではあるが。
ゆっくりとランチを過ごした帰り道、突然千里の歩みが遅くなった。自分たちの歩いている場所がなんとなく見覚えのあるような通りだと気付いたのである。目を細め、注意深く周囲を見回す。五十年前というほど古くはない。もっと最近のことだ。ほんの数年前、彼女の人生を変えた最初のきっかけだ。
「どうしたんだ?」
「いえ……」
千里が足を止めれば、当然手をつないでいたシーザーも歩みを止める。訝しむシーザーに応える返事はおざなりだが、千里は一点を見つめたまま動こうとしない。なにが千里の心を捕らえて離さないのだろうとシーザーが視線の先を追いかける。彼女の見つめる先にあったのは。
「――墓地か」
シーザーの手からするりと離れ、千里の足が自然とそちらへ向けられる。幽霊が見えるなどという話を聞いたことはない。引き込まれるように歩き出した彼女をシーザーは黙って追いかけた。千里が無意味な行動をすることは決してないと知っている。
例えるならばコインロッカーだろうか。土葬されたのちに葬られるそこの古い一角。過去にたった一度だけしか訪れたことはなかったが、千里は確かに覚えていた。それだけ記憶に色濃く残っている場所だ。再び引き寄せられてしまったのも、きっと偶然などではない。
「――あなたは、ここに眠っていた」
かつてシーザーが葬られていた区画には知らない女性の名前が記されている。飾られている写真もまったく見覚えのない人物だ。死ぬはずだったのに生きたシーザーの代わりに生きるはずだったのに死んだ誰かなのかもしれない。
当然のことながら地面のどこにも血液の飛び散った後は残っていなかった。しかし千里は覚えている。歴史が改変されようとも、確かにここで心臓を矢で射抜かれた。あのとき薄れる意識の中で見たイタリア人の顔は今でも忘れてはいない。
色鮮やかに思い出されるのは歴史が変わる前の過去の記憶。なぜ生き延びてしまったのか、彼女はしらない。だがきっとそれがスタンドを発現させるきっかけになったのだと千里は思っている。そこからすべてが始まったと言っても過言ではないだろう。今日という日にたどり着くまでに受けた傷も流した血も得た経験も生まれた感情も、すべてこのイタリアの墓場から始まった。
「わたしが、あなたと最初に出会ったのはここなのだと思います。あなたの墓参りに行く祖父について来て、そのとき初めてあなたの話を聞きました」
「へえ……あいつがおれの話を? 珍しいこともあるものだ」
「ですが、きっと、それがあなたを助けるきっかけとなった……こうしてあなたと出会うことができた」
わたしはそう思っています。そう言って千里はシーザーを見上げる。満身創痍ののちにハンデのある体となった己に後悔はしていないことは明らかだ。
「おれが初めて千里と出会ったのは半世紀前のエア・サプレーナ島だったが……そうか、そのときすでにきみはおれのことを知っていたんだな。これに関してはきみの爺さんに感謝しなくてはいけないんだろうが……」
できることなら、おれが先にきみを知りたかった。シーザーは小さく笑う。そして千里の肩に腕を回して抱き寄せた。
自分が入るはずだったという墓を見るというのは不思議な気分だ。信じられなくて当然である。だがそんな非現実的な話をすんなりと受け入れられたのは、千里が嘘を吐くような人間ではないと知っているからだ。冗談一つどころか軽口すら叩かないのだから、他の誰よりも信用できる。
「これまで何度も命の危険にさらされたんだから、少しはおれを恨んでもいいんだぞ?」
「いえ、ここでスタンドを得たからこそ、過去に行くことができた。そして、あなたを助けることができた」
「そうだったな。千里が助けてくれたから、おれは今ここにいる」
「それに……あなたがわたしを助けてくれたから、わたしは生き延びることができた」
「どちらか一方でもいなければ、こうして共にいることはできなかったのだろうな。運命を結びつけてくれた神のいたずらに感謝しよう」
シーザーが千里の頰に口づけを落とせば、ほんの少し千里がはにかむ。また新たな表情を見たような気がして、シーザーも笑んだ。
人と比べて表情に乏しい千里だが思いを通わせたあの日以来、少しずつながらも表情の変化をシーザーに見せるようになっていた。彼女は他人に対して壁を作るが、親しくなればその壁も取り払って相手を受け入れる。それまで祖父母しかいなかった彼女の世界である。千里とともにエジプトを目指した男たちでは到達できなかったそこに半世紀かけてようやくシーザーは迎え入れられた。
「そういえば千里はおれの名前を知っていたかな? いい加減、その愛らしい唇でおれを呼んでほしいものだが」
「ーー不必要な関わりは避けるべきだと考えていましたので。親しくなり過ぎれば枷となりますから……わたしは、それが」
「それは違うぞ。きみのことは俺が守るから、俺のことはきみが守ってくれ。そのためには守るべき人のことはよく知っておくものだ。……だから、もっと親しくならないといけないな」
新緑の双眸が鉄色の隻眼を覗き込む。するりと頬を撫でる大きな手にこもる熱は今も昔も変わらない。
「さあシニョリーナ、きみのそのかわいい唇でおれの名前を呼んでくれないか?」
詭弁だとは思わないし、思ってもいない。彼はそういう人なのだ。こんなにも慣れてしまったと千里は思う。数ヶ月にも満たない時間を共有しただけで、こんなにもシーザーと近しくなった。
相変わらずの気障な言葉は、さすが言い慣れているだけあって板についている。だがその程度では呆れもしない。彼らしいと受け入れることくらい容易になった。
あばたもえくぼか、惚れた弱みか。一体彼のどこに惹かれたのだろうと考えてみたところで、その男自体に惹かれてしまったのだから、今更理由もなにもない。そもそもそんなことに理屈などないのだと、昔フランス人の男が言っていたような気がする。
他に墓参りをする者はいない。こんな話を交わす場所が墓場など、らしいといえばらしいのだろう。一度目の死は彼の墓の前だった。二度目の死は彼の眼の前でだった。そして今は知らぬ人物の墓の前で愛を紡ぐ。三度目はきっとシーザーの腕の中で迎えるのだろう。
昔ならばくだらないと一蹴しただろうことを考えながら、千里は小さく息を吸う。当然フルネームは知っている。訛りのある発音にはなるだろうが、シーザーはきっと嬉しそうに笑うことだろう。
少しばかり気恥ずかしいと感じてしまうのは、誰かの名を呼ぶことが久々だからなどという仕方のない理由であるなんて、口が裂けても言えやしない。
シーザーの目は期待のそれに満ちている。ほんのわずかな曇りすらない澄んだ瞳が千里を見ている。人に見つめられながら相手の名前を言うなど、この先一生ないことだろう。
シーザーの名前を口にする。たったそれだけのことだというのに、こんなにも嬉しがられてしまうなんて。この人は他にどんなことで喜ぶのだろうか。唇に受けるキスと共に千里は思う。