「結婚しよう」
不意に花京院が呟いた。
薄暗く、どんよりとした曇り空だった。木枯らしが吹く中、西洋菩提樹の色付いた葉も半分ほど落ちてしまい、歩道に黄色の山を作っている。雨が降る気配はまだないが陰鬱とした天気は心地良いとは言い難い。旅行中の天候にしてはいささか残念だ。
二人は花京院の出張ついでに休暇を兼ねて千里の故郷を訪れている最中であり、コーヒーショップに寄って温かい飲み物でも買おうかと話していた矢先のことであった。街中がクリスマスカラーに彩られ始めるころ、アメリカや日本に比べれば充分に寒い。
鼻先までしっかりとマフラーに埋めて、両手をダウンコートのポケットに突っ込んだ千里は思わず立ち止まり、二、三度瞬いてからゆっくりと隣の男を見上げた。
あまりにも見慣れすぎたその涼しげな横顔は正面を向いているが、表情はいたって真剣なそれである。先ほどの言葉が聞き間違いかと思ってしまっても仕方ないほどに。
しかしそれ以前に彼がその類の冗談を言わないことも千里はよくよく知っていた。同時にそのようなことを軽々しく言う男ではないということも。
花京院の発言は千里にとってあまりにも寝耳に水の出来事で、カフェラテとカプチーノのどちらを飲もうかと考えていたはずなのに、それもすっかり吹き飛んでしまった。表情に出なくとも彼女だって驚くことはある。カフェラテとカプチーノが頭の片隅に追いやらてしまうどころか、頭の中から綺麗さっぱり吹っ飛んでしまうことだってあるのだ。
そんな千里の心境を花京院が気付けるはずもなく、それどころかお世辞でもロマンチックとは言えない失言に等しいプロポーズに顔に出さずとも内心頭を抱えていた。完全に無意識であった。意識せず口からこぼれ落ちてしまったのである。
本当ならばそれにふさわしい場所と雰囲気をセッティングしてバラの花束もちゃんと用意してから行おうと考えていたはずなのに、これではすべてが台無しだ。指輪だって用意できていない。
しかし覆水盆に返らず、口をついて出てしまった言葉は回収できない。否定や撤回などさらにできない。無理矢理にでも話を進める以外の選択肢しかなかった。
花京院がちらりと隣を歩く千里を見れば、自身を見上げる瞳が細くなる。目元から下はマフラーに隠れてしまっているために表情を読むことはできない。
だが何も感じていないわけではないと長年の経験から察することはできた。それが驚きか困惑かはわからないが。
真に受けられたのか冗談に取られたのかはわからなかったが、とにかく話を続けなければならないと花京院は口を開く。
「さっき結婚式を見かけただろう? あれを見て想像してしまったんだ。ウェディングドレス姿のきみもきっと綺麗に違いない、って」
花京院の言葉を聞いて、千里の脳裏に数分前の景色が蘇る。記憶に新しい光景だ。
ここまで歩いてくる途中にあった大聖堂で結婚式が行われていた。二人はちょうど新郎新婦が大聖堂から出てきたところに遭遇したのである。
純白のウェディングドレスはとても美しかった。曇天の下でも輝いて見えた。ライスシャワーを浴び、親戚友人たちから祝福されて幸せの只中にある彼らの姿に花京院は思うところがあった。
出会って十余年、付き合って数年。お互いの年齢も三十を越えた。早すぎることも遅すぎることもないその時間は考える猶予を充分に与えてくれた。
「考えていたんだ。君と結婚するなら、君の故郷に移り住んでもいいなって。日本やアメリカも悪くはないが、僕はここがとても気に入った。食事もなかなかおいしいし、英語もまあ通じるし」
冬はちょっと寒すぎるけれど。冗談交じりにそう付け加えた花京院を見上げながら千里は器用に片眉を上げてみせる。
プロポーズされて嬉しいかと問われたら、千里はそれに対する回答を持っていない。
驚いたことは確かだ。それに結婚してもおかしくはない程度の付き合いと時間を過ごしてきた自覚はある。共通の知人からは「結婚はまだか」と問われるくらいには第三者から見ても違和感のない関係なのだと理解している。いつかは結婚することになるのだろうと薄ぼんやりとは思っていた。
「きみもヨーロッパ担当なのにアメリカを拠点にして大西洋を往復するのは大変だろう」
花京院の言う通り、そもそも千里はヨーロッパ担当のエージェントである。正確には北ヨーロッパ担当だ。本来ならば母国を拠点にすべきところを千里はあえてそうしなかった。拠点に関して財団の規定で決まっていないとはいえ、都度大西洋を渡るのは非効率的だとわかっていても、彼女はアメリカを住処としていた。
北ヨーロッパは比較的治安の良い国が多いためか、凶悪なスタンド使いによる事件や犯罪は他に比べると少ない。正直なところ荒事専門の千里では役不足である。しかし彼女が配置された一番の理由は北ヨーロッパの一国、デンマークが有するグリーンランドの存在にあった。
グリーンランドのケープ岬と言えば隕石落下の地として有名であり、同時にSPW財団の中ではスタンド能力を引き出す矢じりが古代人によって作られた場所だと認識されている。
財団が専門的に取り組んでいるスタンドに関わる非常に重要な土地であると同時に、何が起こるかわからない地でもある。財団としても始終監視する必要があり、そして不測の事態に備えてそれなりの戦力を配置することも求められた。
財団に入ったころの千里は世界各国を飛び回っていたが、しばらくして北ヨーロッパ担当に落ち着いたのも彼女の実力を買われてのことだ。他のA級エージェントたちよりも遥かに戦闘能力の高い彼女ならば、ケープ岬で不測の事態が起こったときにもっとも被害を抑えて鎮圧できる可能性が一番高い。
豊富な戦闘経験と、戦車や戦闘機相手でも一人で立ち向かえるほどの戦力を有した千里だからこそ、任された役目である。
「別に。慣れてしまっているから今更だ」
目を伏せて千里は呟いた。髪の毛の隙間から見える耳は寒さからか赤くなっている。照れから来るものでないことは確かだ。時折吹き抜ける風は冷たい。
北ヨーロッパ担当と決まったときに母国へ移住してしまえばよかったものの、千里はそれをしなかった。その時すでに花院とルームシェアをしていたことも要因してか、彼女は律儀にアメリカを家とした。間もなく二人は恋人となり、改めて千里は自分の帰る場所を花京院のいる場所と定めた。
それよりも。千里は言葉を続ける。
「典明こそ、仕事はどうするつもりだ」
「北ヨーロッパ支部への異動願いを出すつもりだよ。それが無理だとしても今の時代、リモートワークで大抵のことはなんとかなるから移住は確定だな。たまには会議でアメリカに行かなくっちゃあいけないだろうけれど、それは他の国でも同じことさ」
花京院もなにも考えていなかったわけではない。千里との結婚をぼんやりと意識するようになったころから、彼も今後の人生設計について色々と考えていた。また親しい友人や同僚に相談するくらいには本気である。プロポーズのプランについてはほとんど手を付けられていなかったが。
千里の故郷に移り住むことは花京院も前々から考えていた。口には出さないが彼女は郷里にいっとう強い思い入れを抱いている。アメリカでもそれ以外の国でも決して不満は言わないだろう。だが千里にとって母国とは特別な場所である。花京院にとって理由はそれだけで充分だ。