美しく青きドナウ 2

 行こうと花京院が促せば千里は黙って隣を歩く。いくら厚着をしていようと、寒空の下での長話は体が冷える。
 コーヒーショップに行こうとしていたという大目的を遂行するために、二人は冷たい風に身を縮こまらせながら遠くに見える鮮やかな黄色の看板を目指す。

「本音を言えば千里には今の仕事を辞めてほしい。きみがどれほど強いかわかっていても、いつも心配でたまらないんだ」

 歩きながら花京院は話を続けた。
 これまでぼんやりと思い描いていた未来の輪郭がはっきりと浮かび上がり、色鮮やかになっていくような感覚があった。高揚感と言い換えてもいいかもしれない。高ぶる気持ちが花京院の背中をそっと押す。

「財団を辞めてしたいことをすればいい。なんだったら軍に復帰したっていいんだ。危険なスタンド使いと殺し合いをするより平和維持活動をしていてくれた方がずっといい。その方がぼくも安心だ」

 言葉にせずともそれとなく花京院はそれとなく匂わせ続けてきた。人生の半分以上を戦いに捧げている千里をその茨の道から救いたいと彼は昔から思っている。それが彼女の望まないことだとしても野放しにするつもりはない。

 財団は千里を利用している。貴重な軍事力、対スタンド使い用の戦力として、またサイボーグ技術の実験体として財団は千里を利用し、千里は財団に自身を提供している。特に契約書を交わしたわけではない。暗黙のうちに歪な関係は成立していた。
 財団はそれを目的に千里を勧誘し、千里もまたそれを承知の上で財団に入ることを選んだ。決して世界の平和のためという綺麗事のためではない。利害はどこにでも存在する。

 人として扱われていない彼女を見るたびに、科学の生贄にされる彼女を紙面の上で見つけるたびに、花京院ははらわたが煮え繰り返るような思いをしてきた。昔から千里を一人の女性として見てきたのだからなおさらだ。
 露骨に人としての尊厳を踏みにじられているわけではない。真綿で首を絞めるようにゆるやかに、そして確実に財団は千里の人権を奪っていく。侵食されるようにその体が機械に置き換わっていく。彼女で試された医療機器や薬品が次々と世の中に浸透していく。そうやって人々の命が救われる。
 徐々に機械化する肉体は能力を補うためと効率化のためとまやかしを言われ、その目的は世界のためだと嘯かれる。実際千里の犠牲で救われた命は数えきれない。

「もう充分他人に尽くしただろう、そろそろ自分を許してやったらどうだい? いい加減ぼくがきみを独り占めしたっていい頃合いだ」
「――典明」

 凪いだ声が花京院を遮った。言いかけた言葉を飲み込んで、花京院は千里を見る。灰色の瞳がゆっくり瞬き、彼を見上げる。珍しくそこには感情が浮かんでいた。諦念の色に似ている。彼女の得意な感情の色だ。

「きみがわたしの身を案じてくれていることは知っている。本当にわたしには過ぎた人だ」

 歩きながら千里は一旦言葉を切り、小さく肩を竦めてみせた。最近の彼女の癖である。

 彼女は器用に見せかけて自身のこととなると酷く不器用だ。物分かりがとてもいいと言えば聞こえはいいが、逃げることをせず諦めも早い。自身の境遇について疑問を抱くことすら放棄して許容する。

 人を殺すことしかできない自分が人の役に立つと言うのなら、汚れ役でも何でも引き受けよう。
 ただそれだけの理由で千里は身を削る。一見殊勝な行動に見えるが、おそらくそれは贖罪だ。特定の誰かに対しての罪ではない。多くの人々を無為に戯れに殺し、あの夜を生き延びてしまったことへの罪を償うためだろう。
 そうして多くの無辜の人民の命を救う口実で千里は多くのスタンド使いを殺し、多くの実験に殺されようとしている。彼女はそれをよしとする。

 自己犠牲が生きる意味と勘違いしてしまっていることについて千里は気付いていない。気付いていたとしても彼女は見て見ぬふりをするばかりだ。極端に選択肢を狭めて自ら逃げ道を断つ悪い癖である。その脳はまだ自身のものであるはずなのに感情を投げ捨て思考を機械のように効率化一辺倒に傾こうとしている。人らしくあることから逃げようとしている。

「――空条を見ていて思ったことがある。彼は妻子を守るために離婚しただろう」

 つい半年前の話だ。結構な話題になったそれを花京院も当然知っている。そして離婚の理由が家族を守るためなのだと周囲の見解は一致している。

「結婚をするときにはすでにその覚悟があったはずだ。妻子に対し素気ない態度だったのも離婚を見据えてのことだったのだろう。そして本格的に危険を察知したから自分が悪者になってでも家族と別れた……私はそこまで強くなれないよ。今だって充分きみを危険に晒しているというのに」

 絞り出すように語られたそれは独白に似ていた。

 千里の仕事柄、どうしても危険が伴う上に恨みを買うことも少なくない。そして彼女の身辺を探って花京院や承太郎に辿り着く者も少なからずいた。復讐するならば本人ではなく、親しい間柄の者をと考える輩も当然いる。
 承太郎は音に聞くスタンド使いである。一方花京院はスタンド使いでありながらも無名の存在だ。となれば狙われるのがどちらかなど明白である。
 そんな敵から千里は花京院を守り続けた。彼を狙う輩を何度も退けてきた。自分がそばにいられないときは他のエージェントに頼んだ。そうでもしなければ花京院を今日まで守ることはできなかった。

 千里は付き合いたての頃に購入した揃いのアクセサリーを始め、花京院との関係につながるようなものは徹底的に身辺から排除した。いつ指輪一つメモ一枚から恋人の存在が浮かび上がるかわからない。か細い蜘蛛の糸をたぐって、いつまた敵が花京院の存在に辿り着くかわからない。花京院から贈られた宝物はすべて自宅のクローゼットの奥に隠されたビスケットの空き缶の中にしまわれてる。最後にそれを見たのがいつかなど千里は覚えていない。

「本当はきみと別れるべきなのだとわかっている。これ以上危険に晒したくないと思うならきみを突き放すべきなんだ。……それでもわたしは、きみと離れたくないと思ってしまう。だがわたしでは典明を守りきれない」

 終わりそうにない話を強制的に止めるために、立ち止まった花京院は手を伸ばして千里の口をマフラーの上から塞いだ。口元を押さえつけられは千里も歩みを止めざるを得ない。

「ストップ。それ以上はいつも話している通りだ。きみは優しいから、ぼくに結婚を諦めさせようとしていることくらいわかっている。でもいつも言っているだろう、どんなきみでもぼくは受け入れる」

 強制的に止めなければ千里はいつまでも話し続ける。どれだけ自分が花京院にふさわしくないか、どれだけ花京院を危険に晒し傷付けることになるか。滔々と語り続ける。そうして花京院を言いくるめようとする。理解してくれと説得を続ける。諦めてくれと懇願する。

 人との親密な関わりに対して千里はいっとう臆病だ。大切なものが増えれば増えるほど、その度合いが大きくなればなるほどそれを失うことに恐怖する。
 そして自分自身のことをよく理解しているせいで大切な相手に執着することを警戒し、傷付けることを恐れる。どうあがいても自分は他人を傷付けるばかりで幸せにできない。そう思い込んでいる。
 だがそれでもいいと受け入れてくれた花京院に千里は心を許した。祖父母以来の存在である。祖父母を亡くした今、千里にとっての唯一は花京院しかいない。承太郎だって彼女からすれば友人一歩手前の知人止まりである。
 だからこそ彼女は恐怖する。依存し溺れることを恐れている。溺れればあとは沈むしかなく、そしていつか花京院をずたずたに傷付けてしまうのだと知っている。
 花京院とは今でも充分手遅れな関係だというのに、これ以上後戻りできなくなるなど千里にとって恐怖でしかない。常に危険や死と隣り合わせの千里が花京院を幸せにすることはできず、可能であるとするならば今以上不幸にすることだけだ。

 そうそう一つ言い忘れていた。千里の口を塞いだまま花京院は明るく告げる。物言いたげな視線など無視である。

「きみにプロポーズをするときは『言い訳は一切聞かない』と決めているんだ。だから諦めてくれ」

 このような展開になることくらい花京院も想定していた。言いくるめられる前に言いくるめなければならないと経験則から知っている。一筋縄で行った試しがない。付き合うときだってそうだった。
 ならばどうするか。簡単なことだ。一切合切言い分を無視すればいい。聞く耳など持たず、話し合いなどまどろっこしいことはせずに強引に押し切ってしまえばいいのだ。
 花京院は千里の本心を理解しているつもりだ。現にプロポーズに対して嫌だと言っていないのだから明白である。ただ認めることが怖いだけなのなら素直になれと言うだけだ。花京院ばかりが素直なのは割りに合わない。

「ぼくは天地がひっくり返っても千里と別れようとは思っていない。別れなければ地獄に落ちると言うなら喜んで落ちようじゃあないか。それもそれで面白そうだ」

 きみはどうだい。花京院は千里の口元から手を離す。鉄色の瞳は伏せられ、長い睫毛が陰を落とす。
 千里はダウンコートのポケットに突っ込んだままだった左手を出し、そろそろと花京院の右手に触れた。たったそれだけの行為でも彼女には多大な勇気を必要とした。スタンド使いを殺すよりも、自身の体を弄くり回されるよりも何倍も何十倍の覚悟が必要だった。

 北風の隙間から聞こえた消え入るような声を花京院は聞き逃さない。

「――わたしは典明と共にいていいのだろうか」

 付き合う前から、付き合った後も人知れず千里はそれについてずっと悩んできた。肥大化し続けるたった一つの欲望を持て余してきた。認めてはならないと理性は囁き、感情に振り回されるなど合理的でないと諭される。言い訳を考えて自分を誤魔化して、それでようやく目をそらすことができるほどに千里の中で花京院の存在は大きくなり続けている。

 触れるだけだった千里の手を花京院の指が絡め取る。逃さないようにしっかりと握りしめた。千里のその行為はプロポーズに対する答えと捉えても過言ではない。

「いいに決まっているだろう。当の本人がそう言っているのだから間違いないさ」
「許される限り典明と共にいたい」
「ぼくが許そう。うん、ぼくが許すよ」

 言葉が途切れる。彼らは正面を向いたまま互いを視界に入れようとしなかった。冷たい風が二人の背筋を撫でていく。手袋越しに握られた手からは体温を感じることはできなかったがそれでも充分だ。伊達に数年来の付き合いをしてきたわけではない。

 千里が息を吐き出す。白い靄となって消えていくそれを眺めながら彼女はたっぷりの感情を込めて呟いた。

「ああ、死んでしまいそうだ」
「その時は一緒に死のう。どこまでも一緒にいよう」

 花京院は目を閉じた。お互いの顔色はわからない。コーヒーショップの黄色い看板までまだ距離はあるが、今はそこを目指して歩く気分ではなかった。