運命の女神

 まるで空が泣いているようであった。

 土砂降りの雨の中、ガルハールは絶叫する。どれだけ手を伸ばそうとも届かないところへ逝ってしまった末の妹。彼の頬を濡らすのは雨垂れか涙か、それは彼自身にも分からない。天を震わせるほどの慟哭すら届かない、遠い遠いこの世界の外側へ、オルウェンは去ってしまった。

 ガルハールが奴隷の身に落とされてから数年の月日が流れていた。ピクト人の住まう地に奔り、彼らの兵を率いて幾度も騎士王の治める地を侵攻した。そうしてピクト人に認められて有力者の娘を娶り、男児をもうけた。来年の春には二人目の子供が生まれる予定である。

 妻を迎えることが決まってからピクト人の同胞になったことを示すために彼らの習俗の一つである刺青を入れるよう求められていたが、ガルハールは長らくそれを断っていた。故郷に残した親兄弟の無事を確認してからにしたいと彼らに願っていた。
 刺青を入れてしまえば嫌でも目立ち、下手をすれば正体が露見してしまう。せっかくガルハールが奴隷の身分から逃げ出したあの夜、哨戒の兵の首なし死体を自身に見せかけて死を偽装したというのにそれが台無しするわけにはいかなかった。
 妻が子を孕んだと知ったガルハールは故郷に残した親兄弟を一目見たいと酋長に願い出る。逃げ出すのではないかと言う者もいたが元々キャメロットでは大罪人であり、もう何人も騎士王の兵を殺していた彼に残された居場所はここしかないと、酋長はガルハールの申し出を許した。妻子を、自分の娘と生まれてくる孫を捨てるような男ではないと信用していたからだ。

 夜陰に紛れて訪れたガルハールの生家は未だに残っており、彼の家族は息災であった。一族から大罪人を出したことにより肩身の狭い思いをしているのではないかとガルハールは危惧していたがそのようなことはほとんどなかったようだった。父親がウーサー王の御代より仕えていたために粗雑に扱うことができなかったのかもしれない。だが近いうちに知り合いを頼って他へ移住するつもりのようであった。

 幾年ぶりかに再会した家族達はガルハールを歓迎した。老いた父親に家督を継いだ弟。当時はまだ独り身だった他の兄弟達も結婚し、子供をもうけていた。彼らの誰もが、使用人まで全員がガルハールの無実を信じていた。罪を犯すなど絶対にありえないと断言するほどにガルハールの家族は彼を疑いすらしなかった。

 しかしガルハールは気付く。一人、もっとも愛した妹がいないことに気が付いてしまった。他の妹達は嫁いだと話に聞いても末の妹のことは誰も触れない。
 兄弟達の中で一等泣き虫で心優しいあの娘はどうしたのかとガルハールが弟に問うと、彼はとても言い辛そうに後悔と苦渋の表情で告げた。

 内外の敵が多く不安定な情勢の中、神々に平和と安寧を願って純潔の娘が捧げられた。星読みの預言の下、円卓の騎士達の進言よる王の指示だったと言う。大地の精霊の祝福を受けた娘ならばブリテンの地を平穏に導く。ブリテンの神々に嫁ぐにふさわしい娘であると。

 ガルハールは走った。冷静であったのは家族達に永遠の別れを告げるまでだった。
 弟より聞いたその場所へ休むことなくガルハールはひたすら走った。いつの間にか分厚い雲が空を覆い、雨が降り出していたが今の彼にそれを気にする余裕などない。雨足が強くなろうと、その先に絶望がないと分かっていても、家族の中でもっとも愛した末の娘のいる場所を目指し、ガルハールは走り続けた。

 両膝をついたガルハールの目の前にあるそれは、子供の頭程度の大きさの石が墓標であった。何の文字も刻まれていない、ただそれだけの粗末な墓である。そこに供えられた白い花。彼女が愛した花である。雨に濡れて地面に張り付いていた。
 しかし墓標の下には誰もいない。墓標の後ろ、崖の下。そこに広がるはどこまでも青く透き通った湖だ。その姿は当然のこと、面影を見つけることもできず、果たして今彼女はどこにいるのか。冷たく暗い湖の底でただ一人泣きながら眠っているのだろうか。あの娘は泣き虫だった。

「彼女はずっと君の身を案じていたよ。この国の安寧ではなく、君の無事を祈って大地の神々にその身を捧げた」

 いつの間にかガルハールの背後にはマーリンがいた。フードを被った花の魔術師が両手を器にして掲げると、一瞬にして花が溢れ出す。風に乗り、崖の下へと飛び立っていく。

「すまなかったね。私はそのときちょうど遠出をしていたから、止めることはできなかった」
「構わないよ。ろくでなしのお前に元より期待などしていないさ」
「あははあ、それは酷いなあ」

 マーリンがおどけて口を尖らせる。彼の目はその瞬間を捉えていた。しかし体ははるか遠くにいたために、マーリンは見届けることしかできなかった。
 ガルハールは変わらず両膝を地に着けたまま雨に濡れ続けていた。うなだれたまま振り返らず、マーリンに問いかける。

「おまえは何があったか知っているのか?」
「もちろん知っているさ。ことの始まりから今この瞬間まで、すべて知っているとも」
「私はどこで間違えた?」
「間違えてはいないよ。ただ君はちょっと女心に疎いんじゃないかな。その辺りはランスロット卿に教わらなかったのかい?」
「その点においてはあの男から何かを学ぼうとは思ったことはないな」
「いやいやそこは大事なところだぞ。だから君はこうなったんだ」

 乾いた笑い声が雨音に混ざってマーリンの耳に届いた。彼に背を向けるガルハールの顔は見えないが、きっと酷い表情をしているのだろう。

 あれはただの事故だった。ガルハールはいつものように人の命を救い、救われた女が彼に恋をしただけだった。それだけならよくあることである。ガルハールは相手に気を持たせるようなことをしないから、ランスロットと違いこじれることはほぼなかった。
 だが助けた相手が悪かった。命を助けた相手がただの一般人ならばこんなことにはならなかっただろう。救った相手が魔女であり、彼女がモルガンの目に留まらなければ、きっとガルハールは今も円卓に名を連ねていたことだろう。ピクト人の襲来をこともなげに撃退していたことだろう。そうであればきっとかの娘は死なずに済んだのだろう。

 それを知っているのはマーリンただ一人である。

「ねえガルハール卿。君は本当に王を憎んでいるのかい?」
「――正直に言うと、私が謀反を企んだなどという世迷い言を王が信じたとは思いたくない。王はお優しすぎるが愚かではない。そう決断せざるを得なかったのだと、私は思う」

 もう何年も前のことになる。最後に見た王の顔をガルハールは未だに覚えている。戸惑いの表情を浮かべ、信じたくないと碧眼が物語っていた。ランスロットやガウェインは間違いなくガルハールを罪人だと決めつけていたが、アルトリアだけはそうではなかった。少なくともガルハールの目にはそう映った。
 父親の代からの長い付き合いだ、ガルハールはかの王の性格を熟知しているつもりである。おそらく周囲の意見に押し切られたのだろう。もっともらしいことを並べ立てられて八方ふさがりの中、覆せるだけの反論ができなかったのだろう。
 奴隷に落とされ、敵対する蛮族の将になってなお、ガルハールは王を信じている。どれだけの仕打ちを受けようと、遠い昔に剣に立てた誓いを男は愚直に守り続けている。たとえピクト人を率いて侵略しようとも、王だけは傷付けるつもりは一切なかった。

 マーリンがそれを思いついたのは単なる気まぐれか。天に向かって杖を一振りする。土砂降りだった雨は次第に弱くなり、しばらくして雲の切れ間に光が差した。金色のカーテンが湖にかかる。

「死にゆく定めの君に一ついいことを教えよう。――王は君のことを今でも信じているよ」

 マーリンができる唯一の手向けであった。今からハッピーエンドに方向を変えることができないことへの贖罪でもある。人の心は分からずとも、その機微は知識として理解しているつもりだ。
 彼一人の力では何も覆すことはできなかった。あの魔女が相手となればさすがのグランドキャスターも思い通りにことを運ぶのは難しい。虎視眈々と期を待ち、長い時間をかけて蜘蛛の巣のように張り巡らされた策から後手に回ったマーリンがガルハールを救い出すことは困難であった。
 
 マーリンのそれが救いの言葉となったのだろう。ガルハールは大きく息を吐き出して天を仰ぐ。

「――そうか。それは、よかった……これで心置きなく八つ当たりができる」
「君も苦労するねえ」
「あの大馬鹿者達に王を任せるのは非常に心残りだが、致し方ない。しっかりと灸を据えてやるとしよう」

 ガルハールは墓標を優しく撫でたのち、立ち上がる。大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。心の内で、世界のすべてに別れを告げた。

「これが定められし運命だというのならば、私はそれを否定する。妹も、無辜の民も、運命の手により苦しみ死に行くのならば、私はそれに抗おう」

 雲の切れ間から青空が見えた。清々しいほどに、どこまでも青い。ガルハールの声も青空に負けず劣らず清々しい。
 微笑みを絶やさず、マーリンはガルハールに問いかける。

「ガルハール卿、最後に何をするつもりかな?」
「なに、あれらが言ったように王に叛旗を翻すだけだ。あの騎士達がそう決めつけたようにあの聖都を、落とすだけだ」

 これまで否定し続けたそれを現実にすることがガルハールの王に対する最後の忠義である。王の選択が正しかったと、ガルハールを処罰したことに間違いはなかったと、改めて世間に認識させ、それについて気に病むことはないのだと王を慰める。それが彼にできる最後の優しさだ。
 これ以降はピクト人として一族のために、また妹を殺した仇憎しと苛烈にキャメロットを攻めるだけである。手加減など不要、どれだけ名高き騎士を相手にしようと、ただガルハールは彼らの敵として存分に剣を振るうだけだ。

「――王に伝えるといい。円卓の騎士であったガルハールはすでに死んだ。アーサー王と敵対し、キャメロットを陥落させるのはピクト人のグリフレットだ」

 空を覆っていた灰色の雲が風に流され、太陽が顔を覗かせた。ガルハールの表情に後悔や苦悶はひとかけらとてなかった。