永遠に終わることのないハドリアヌスの長城の修繕と補強のために送られてきたグリフレットと名乗るその奴隷は数ヶ月もしないうちに他の奴隷達に慕われるようになっていた。
誰よりも働き、誰もを気遣い、子供や年寄りをよく助け、女達に混ざって料理や繕い物をし、男達を率いて城壁を築く。嫌な顔一つせず、民族の違いに差別はなく、食事の時は上下に区別なく座し、子供の面倒を敬遠することなく引き受け、臨終の近いものがいれば率先して死に水を取る。持ち物はすぐに周囲に与えてしまうため彼の所持品はほとんどなかった。
誠実さを忘れず寛大な心を常に持ち、誰の目から見てもただの奴隷ではないと想像するにたやすい。
噂によればさる高名な騎士であったらしいのだが、グリフレットは誰に対しても気安く親しみやすく、時たま冗談を飛ばすほどに快活であったから、気のいい市井の男に見えても高貴な出であるとはにわかに信じられなかった。
しかし時たまその所作に気品を漂わせ、言葉の端々にもその片鱗をうかがわせる。やはりグリフレットの出自は身分の高いものだろうと物知りの老人は言っていた。だが本人にそれを問えば、彼はいつも笑うのである。「私が騎士と言うのならばもっと上品に振舞わねばならないなあ」そう言うのだ。
他の奴隷の失敗をかぶって鞭に打たれることもある。子供をかばって見張りの兵士に殴られることもよくあった。どれだけの仕打ちを受けようともその気高さ清廉さを決して失うことはなく、いつしかグリフレットは奴隷達の希望であり心の支えとなっていた。
ここを監督する人間は奴隷の使い方をよく心得ており、働かせ続けるより適度な休憩を取らせた方が効率的だとよく理解している。
しかしそれが人道的なものではないとここの奴隷は皆知っている。奴隷は消耗品だが買い足すには金はかかる。定期的に罪人や戦に負けた捕虜が奴隷として送られて来るも限界があった。戦争なんてそう日常茶飯事に行われるものではなかったし、異民族達の数にも限りはある。
ならば適度に休ませて長く働かせる方が奴隷の消費を抑えられる。そう彼は考えた。
生かさず殺さずが基本ゆえに酷使はされるが一応夜に眠ることは許されているし、粗末ながらも食事は提供される。多少の娯楽も許された。しかし大怪我を負うか病に倒れればその場で容赦なく殺される。少しでも流行病の兆しが見えれば感染していると思しき奴隷を生きたまま穴に詰め込んで火を放つことくらい平気で行う。
ここにいるのは奴隷の中でも最下層の奴隷ばかりだ。罪人と異民族と敗戦国の国民とその家族。王の側仕えをする奴隷達とは天と地以上の差があった。
男達は労働力、女達は雑用と娼婦の役割を与えられ、生まれた子供も労働力として数えられ、労働力にならなくなった老人や病人は不要であると殺される。
生きることを諦め死ぬことを許されず、尊厳など初めからなく、ただただ人間の所有物として人間以下に扱われ、ひたすらに意味のない生と唐突な死を享受するだけである。
奴隷達が労働に従事するこの城壁は軍事的な要所であった。長らく蛮族からログレスの地を守り続けてきた長城である。
ローマがこの島から撤退してからというもの、城壁より北に住むピクト人やアイルランド人といった異民族がブリトン人の住まう南の地を狙っていた。
ローマという強大な力による庇護が失われた今、ブリトン人達は自分達の手で領土を守らねばならなくなったが、各地の豪族達利欲に満ちて結束力に欠けていた。
その中で彼らを取りまとめ、ローマに変わってブリテンの守護者となったのがアーサー王である。騎士王と呼ばれるかの王は白亜の城に鎮座ましましている。
そしてその王の命の一つがこの城壁を強固なものとすることであった。そのために多くの奴隷を酷使していることをかの王が理解しているのかは分からない。
「なあグリフレット。あんたは顔も人もがいいんだから、故郷に恋人でも残しているんじゃないのか?」
労働の合間に与えられるわずかばかりの休憩を取っている時だった。給仕係の女達から配られた生ぬるい一杯の水とパサパサになったパンを腹に収めた配隷の一人がグリフレットに問いかけた。自身のパンを育ち盛りの少年に手渡しながらグリフレットは苦笑する。
「敬愛する女性はいたが恋人はいないなあ。なにしろ弟達の嫁取りと妹達の嫁入りばかり気にしていたからそんなことに気を回す暇もなかったよ」
「おいおいそれは騎士様としてどうなんだ。――いや、知ってるぞ。高貴な方々には宮廷愛ってのがあるんだってな。家臣は主人の妻に恋い焦がれても肉体は求めないんだろ? お偉いさんの考えることは意味が分かんねえ……ってか、その横恋慕する女性とやらがも主人の嫁さんか!」
「まさか! あの方をそんな目で見られるものか。私は人としてあの方を敬愛しているだけだよ」
「なーんだ、つまんねえ……しかしあんたが独り身だと聞いたら女どもが喜ぶぞ。なにしろ親切で優しい上に男前なグリフレット様は女性に大人気だからなあ」
五月生まれだからマニウスと名付けられたというその男の奴隷はひとしきり笑った後、残った水を一気に肚の中へと流し込む。彼は親戚の借金のカタに奴隷となったらしい。故郷にリウィアという恋人を残してきたという。
グリフレットがこの地に来て最初に話しかけてきた男であった。規則を始め、どうすればうまく監視の目を誤魔化せるかまでグリフレットに教えた男でもある。鞭に打たれる時、体のどこにどう力を入れればダメージを軽減されることができるのかまで彼は何でも知っていた。
「あーあ、リウィアに会いてーなあ」
空を見上げ、マニウスはぼやく。つられてグリフレットも空を見上げればいつも通りの曇天だった。青空が見えることの方が少ない。だが晴天にしろ曇天にしろ、彼らの心への影響力は微々たるものであった。
男達に食事を配る女達の視線がちらちらと彼らに向けられる。わずかに頬を染める者もいれば、口元を緩める者もいた。だがそれが自身に向けられたものではないとマニウスは知っている。すべての視線が、どれ一つ例外なくグリフレットに向けられているのだと分かっていた。それは他の奴隷達に聞いても皆同じ返答をするだろう。
数ヶ月前に大罪人として送られてきたこの奴隷は悪党にしては誠実であった。むしろ悪党と言うには遠くかけ離れた人柄である。その性格で極悪非道の大罪人だというのだから関わればろくなことにならないと遠巻きにする者達もいたが、どこまでも誠実な男を目の当たりにして次第に警戒を解いていった。
男女も老若も民族の違いも関係なく誰もが尊敬の念を抱く男。それがグリフレットであった。
「そうだ。元騎士様なら強いんだろ? ここから逃げ出すくらい簡単なんじゃねえ?」
「おいおい馬鹿を言うな。仮に私が強かったとして、この重警備の中を無傷で逃げ出すのは難しいぞ。それにそのせいで他の奴らが殺されたら寝覚めが悪い」
というよりそもそも私は騎士様じゃあないぞ。グリフレットが苦笑する。ちえー、とマニウスは口を尖らせて寝転がった。
今は逃げる気などまったくないグリフレットだが、その気になればここから逃げ出すことも容易だろうとマニウスは思っている。彼が反旗を翻して奴隷達を解放してくれないものかと密かに期待している者達も実際にいる。
誰もが彼に望みを託し、夢を見ているのだ。奴隷達の希望の星である男がこの辛く苦しい生活から解放してくれることを。