chapter4-4

 いつの間にかリゾットの姿はなくなっていた。パーティーの参加者たちと談笑しながらそれに気付いたナマエはそろそろ潮時かと考えるも、プロシュートがまだウェイターの真似事をしているのを目に留めて、まだ時間はありそうだとワイングラスを傾ける。パーティーの主催者である目の前の男から受ける全身を舐め回すような無遠慮な視線は彼女にとってアクセサリーの一つでしかない。この類の視線は幼い頃から散々浴びてきた。

「シニョーラ・ナマエ、どうしたんだね。誰か気になる男性でもいたのかな?」
「いいえ、違うわ。わたしのパートナーはどこに行ったのかしら、って思っただけ」
「ああ。あの背の高いハンサムな男性だね。先ほど仕事の電話が来たと言って出て行ったよ」

 呼吸をするように嘘を吐く男だとナマエは思った。だがそうでもなければ、現代のドン・ジョヴァンニだのジャコモ・カサノヴァの再来などと冠されることはないだろう。プロシュートが言っていた通り酒も食事も上等で、主催者であるこの男の会話もなかなかに面白い。パーティーの参加者たちは一筋縄ではいかない腹に一物を持った者たちが多く、多少政治と裏社会に詳しければ彼らがどんな関係かおおよそ予想はつく。

「あらそうなの。パートナーに一言も残してくれないだなんて酷い人だわ」
「きみが楽しそうにお喋りしているのを邪魔したくなかったのかもしれないよ」
「どうかしら。たまに仕事が恋人なんじゃあないかって思ってしまうのよね」
「それは酷い恋人だ。こんなに素敵な女性じゃあ物足りないとは贅沢にも程がある」
「残念だけどあの人とはビジネスパートナーよ。あなたのパーティーに招待されたって言うから、無理矢理言って連れてきてもらったのよ」

 男の目の色が変わった瞬間をナマエは見逃さなかった。隣に来た男にさりげなく腰を撫でられる。とても単純な男だ。こんな男が術策家とはジャコモ・カサノヴァの再来というのはあながち嘘でもないらしい。
 ナマエがパーティーに参加すると聞いたチームメイトの一人が「ついでに現代のドン・ジョヴァンニのアレがどのくらいか調べてきてよ。散々女を骨抜きしてる男のならかなりおいしいと思うのよねェ」なんて言っていたが、ナマエの好みの顔ではないからベッドを共にしたいとは思わなかった。その代わりに高級なワインたちに舌鼓を打つ。彼女が求めるものはベッドを共にする男ではなく、上等なワインを共有できる男である。

 ナマエが色気を含ませた笑みを浮かべれば、男も笑みを深くする。

「美しいシニョーラを一人放置するわけにはいかない。どうだね? このあと親しい仲間たちと集まる予定なんだ」
「そこにはおいしいワインはあるのかしら?」
「もちろんだとも! きみのためにヴィンテージワインを開けさせよう」

 あら、とっても嬉しいわ。ナマエは嘯いてワインを飲む。その親しい仲間たちが集まって行うのはドラッグパーティーだろう。男が先月海外から何種類か麻薬を取り寄せていると仲間の一人が調べ上げているから、おそらくそれを使うのだろう。上流階級の男女たちが集まりドラッグとワインを揃えてやるとしたら一つしかない。本当に上等なワインがあるならばナマエにとって酷く魅力的なお誘いではある。しかしドラッグが揃った時点でマイナスポイントだ。昔から麻薬だけには手を出さないと決めている。

 男の軽快なトークを話半分に聴きながらナマエは空になったワイングラスを戻そうとウェイターの一人に視線を向ける。それに気付き近付いてきたウェイターはナマエに対して、パートナーより伝言を預かっていると伝え、彼女のグラスを受け取った。男も新しいグラスと取替えながら、その秘密のパーティーへの招待状だろう銀色のコインをそっとナマエの手に握らせた。「クロークルームでそのカードを見せれば案内してくれるよ」耳元で囁くついでに彼女の耳朶をちょっぴり舐め上げ、快活な笑顔を浮かべて人混みの中に消えていく。
 男が背を向けた瞬間、ナマエは貼り付けた笑みを捨て去った。安い男だわ。嫌悪感たっぷりに吐き出す。そしてウェイターの持つトレイからよく冷えた白ワインを選び、口に運ぶ。やはり上等なワインだ。帰りにワインセラーから何本か拝借していってもいいだろう。

「で。伝言なんかあるわけないんでしょ」
「ああそうだ。おまえはもう用済みだからとっとと帰れ」

 ウェイターもといプロシュートは酷く面倒臭そうにナマエを見下ろす。そして伝言を耳打ちするふりをして、その手につけた白手袋でナマエの耳を乱暴に擦った。痛いと彼女が抗議の声を上げようがお構いなしだ。こんなクソ女に騙されるとは目の腐った男だな。そう呟く。
 本格的に潮時らしい。放置されるかと思いきやわざわざ伝えにきたプロシュートの真意は掴めないが、親切に教えてくれるならばそれはそれでありがたい。ナマエは半分以上残ったワイングラスをプロシュートの持つトレイに戻した。

「あんたにイイモノあげる。クロークルームで見せれば上流階級のキメセク変態パーティーに案内してもらえるらしいわよ」

 先ほど握らされた銀色のコインもトレイの上に置く。それを見てプロシュートは目を細めた。下調べのときに情報としては手に入れていたコインだ。具体的な使い道まではわからなかったが、なるほどと心の中で独りごちる。公にできない密室パーティーが行われるのなら、暗殺のタイミングをそれに合わせてもいいかもしれない。
 プロシュートの表情の変化を見てなるほどとナマエは思った。彼らのターゲットは変態たちの中にいるようだ。だがナマエには関係ない。彼女の仕事はリゾットのパートナーを演じることであり、その仕事も終わりだとたった今告げられた。プロシュートとリゾットがなにをするのか知らないが、ナマエはのんびり帰ることにした。帰りの足はチームのリーダーでも呼び出せばいい。

 そうそう。ナマエの真っ赤な唇が弧を描く。

「帰る前にワインセラーに寄って行こうかと思うんだけど、適当に見繕ってあんたの車に載せとくからうちに運んでおいて」
「アホ。ガキじゃねーんだから、寄り道せずにまっすぐ帰れ」
「あんた好みのヴィーノロッソちゃんも選んであげるからありがたく持ち帰っていいわよ」

 じゃあね、とひらひらと手を振りナマエはパーティー会場を後にした。目指すは当然ワインセラーである。場所など事前に下調べ済みだ。