日直だったために少し遅くなってしまった。
遅くなると先にメールを送り、中学校からまっすぐボーダーへ来た烏丸が待ち合わせ場所のラウンジに到着した時、すでに齋藤はいつものテーブルにいた。
齋藤はノートパソコンに向き合いながらカスクートを食べている。彼女は食堂に併設されているコーヒーショップを気に入っているから、そこのカスクートだろう。一緒に買ったのだろうホットのカップドリンクやテイクアウト用の紙袋が、テーブルの片隅に置いてある。カップの中身はおそらく紅茶だ。彼女はコーヒーより紅茶を好む。コーヒーは夜勤という戦闘時専用だと、以前言っていたことを烏丸は覚えている。
ノートパソコンの隣にはタブレットがスタンドに置かれて鎮座しており、資料だろうか細かい文字がぎっしりと並んでいた。いつでも着信に反応できるようにするためか、スマホも傍に置いてある。
「伊織さん」
声をかけても反応はなかった。そっと向かいの席に座る。それでも齋藤は烏丸に気付かない。
約束の時間が過ぎていることに気付かないほど集中しているようだ。完全引きこもりモードだと誰が言っていただろう。いくつかある彼女の悪癖の一つである。
齋藤は約束を失念するような性格ではない。おそらく烏丸のメールは見ているはずだ。メールを見てもう少しばかり仕事をする時間があると判断して、気を抜いた結果がこれなのだろう。
気を抜きすぎるにも程があると思いながら、烏丸は教科書やノートを通学リュックから出していく。今日は小テストの見直しも頼む予定だ。
彼は週に何回かこの年上のエンジニアに勉強を見てもらっている。最初は齋藤も年下の男子中学生相手に緊張していた節もあったが、今では気兼ねない関係だ。
ボーダーはまだまだ新しい組織であるため、数少ない正隊員達は多忙である。一般職員ですら人手不足だ。しかし近界民から三門市を防衛しているとはいえ、ボーダー活動が原因による、学生達の学力低下はあまり褒められたものではない。世間の評判も悪くなる。
そこでチューター制度というものが導入された。義務教育中の隊員達を対象として、学業からボーダーでの活動や生活などを年上の隊員達がサポートするというものだ。要は支援ボランティアである。
入隊時、最年少の中学生隊員の一人として数えられていた烏丸のサポーターには、エンジニアの齋藤が指名された。烏丸よりも先に入隊した同い年の時枝や佐鳥などには正隊員のサポーターがついていたが、烏丸が入隊する頃には後輩の面倒を任せられる正隊員が圧倒的に不足していたため、正隊員以外も駆り出されるようになっていた。そこで白羽の矢が立った一人が齋藤だった。
戦闘面は別途正隊員を頼らねばならないことはデメリットだが、烏丸は特に気にしていない。そちらについてはすでに木崎を師と仰いでいるし、齋藤という気の置けない先輩が得られたのだから、むしろメリットの方が大きい。
烏丸が進級し、齋藤が大学生になってもその関係は続いている。ボーダーの環境に慣れてサポーター関係を解消している者達が多い中でも、烏丸は未だにその関係を維持することを選んでいた。
惚れたかと嫌らしい笑みを浮かべる太刀川に言われたこともあったが、烏丸は「だからモテないんすよ」と言うに留めた。出水には笑われたが、いつものすまし顔で流した。懐いている自覚はある。
「伊織さん」
宿題をしながらしばらく齋藤を観察していたが、やはり気付く気配がなかっため、再度烏丸が声をかけてみるも効果はなかった。カスクートを食べ終わった辺りで気付くだろうかと思ったが、そんなこともなかった。視線はずっとノートパソコンに釘付けである。
鳥丸は身を乗り出して、視界に映るだろうあたりでひらひらと手を振った。邪魔になると分かっていたが、あえて邪魔をする。邪魔をしなければ何も始まらない。
自分が集中しているときはそうするよう齋藤本人から言われていたし、約束の時間を過ぎても気付いてもらえないことに不満もあった。勉強を見てもらうはずなのに、このままでは宿題も全て終わってしまう。
視界内に映り込んだ烏丸の手に気付いたらしく、すぐに彼女の動きがピタリと止まった。勢いよく視線がパソコンから烏丸に向けられる。呆然とした表情でぱちぱちと二、三度瞬きしたのは現状を把握するためだろう。
先程の真剣な表情はどこへ行ったのか。思考が止まっているなと烏丸は思った。時間を確認するためか、齋藤の視線がパソコンへ落ちた。再び烏丸を見る。面白いように顔が青くなり、そして即座に頭を下げた。
「烏丸くんごめんなさい!」
「俺も遅くなってすみません。今日も忙しそうですね」
「大丈夫、気にしないで。じゃなくて、本当にごめんね……」
身を縮こまらせて恐縮した様子で謝る齋藤を前にして、烏丸はようやく気付いてもらえたという満足感とこんなに謝らせるつもりはなかったという若干の罪悪感を覚えた。慌てて言い訳を考え、思いついたことから推敲するせずに言葉にする。
「いえ、宿題もほとんど終わったので大丈夫です。分かんないとこ教えてもらってもいいですか。あとこの間の小テストも返ってきたんでそれも一緒に見てください」
「うん……本当にごめんね……先に宿題の方を見ようか……」
齋藤はノートパソコンを閉じて、タブレットスタンドと共にテーブルの端に寄せる。きりのいいところまで仕事をしてからでもと烏丸は言ったが、今は約束が優先だと彼女は聞き入れなかった。仕事より自分を優先されたことに小さな喜びを感じた。我ながら単純だと思っている。
そして齋藤が詫びだとコーヒーショップの紙袋に入っていた焼き菓子を差し出した。カスクートと一緒に買っていたようだ。マドレーヌやバウムクーヘンなど、成長期の腹には物足りないものばかりであったが、烏丸としては齋藤からもらったことに意味がある。彼に渡すためにあらかじめ用意していたことも分かっていたが、男子中学生の思考とはやはり単純なもので、もらえるだけでただただ嬉しい。齋藤に是非と促されてマドレーヌを食べながら、鳥丸は問題集を開いた。
高校生や大学生にとって、中学生の学習範囲は簡単かといえばそうでもないはずだ。少なくとも太刀川はそうではない。以前、烏丸の宿題を覗き込んで首を捻っていた。
勉強できなくとも死にはしないと彼は言っていたが、死ななくても毎度毎度誰かに叱られ監視され苦しみながら課題をこなすような大学生にはなりたくないと烏丸も思っている。そうなるくらいなら勉強はできた方がいい。
一方で齋藤は、中学生の問題集を見て太刀川のように頭を悩ませていたことがない。古文だろうが化学反応式だろうが、大体のことはすらすらと淀みなく答えていた。多少詰まっても、教科書を見れば解答を導き出すことができるくらいには頼りになる。
きちんと烏丸の勉強を見るために、自分も復習をしているのだと以前彼女は言っていた。その程度には真面目である。そういう年上の方が子供としては頼りになると烏丸も思ってしまう。太刀川は少々特殊なのだと出水は言っていたが。バトルジャンキーと呼ばれるほどにステータスを極振りした結果らしい。
「そういえば太刀川さんがまたテストで赤点取ってました」
「あれ。この間余裕だって言ってたよ」
「全然余裕じゃなかったみたいです。追試対策で東さんと風間さんが交代で勉強を見てます」
「あー……」
齋藤が苦笑を浮かべた。その状況を容易に想像できてしまったのだろう。正隊員なら大半は想像できる光景だ。それほどによくあることである。
烏丸も出水から話を聞いてすぐに想像できた。それどころか、何度もその光景を見たことがあった。そして「ああはなるなよ」と出水に肩を叩かれた。さすがにああはなりたくないと烏丸も思っている。手本にするなら齋藤の方がいい。
さすがにA級上位かつ個人ランク上位のトップランカーが相手となれば、大人達も容赦しない。太刀川のために同年代から年上の者達が駆り出される。
東は文字通り勉強を助けるため、風間は勉強を投げ出さないよう監視をするためだ。忍田や月見が参戦することもあれば、無理矢理二宮や諏訪などが引き摺り込まれることもある。堤と来馬は押しに弱いため、この惨劇に参加することはほとんどない。冬島と加古に至っては勉強から脱線する可能性が高いからと、戦力外として扱われていた。
齋藤は押しに弱いわけでも脱線するわけでもないが、甘やかすという理由で戦力として数えられることはあまりない。勉強をする意思のある者が相手なら相性はいいが、すでに飴を必要とする段階を通り過ぎている太刀川相手に、鞭役となるには力不足と判断されていた。彼女が参戦するときは他の者のスケジュールが合わなかった、もしくは本当にどうしようもないときである。
「よう伊織。まだ若いツバメ囲ってるのか」
小テストの見直しも終わり、授業の復習をしていた時である。諏訪が薄笑いを浮かべて現れた。開口一番飛び出したそれに齋藤は眉を顰め、じっとりと諏訪を見上げる。烏丸の前では見せない表情だ。
「言い方……私が烏丸くんのチューターをやってるって諏訪くんも知ってるでしょ」
「知ってるけどよ、ちゃんと自制はしろよ。大学生が中坊に手を出すのはさすがにヤバいからな」
「いやいや、出さないからね」
若いツバメというその言葉が何を意味しているのか烏丸には分からなかったが、諏訪と齋藤の会話を聞いていて何となく分かるような気がした。自分達の関係について、周りからはそう見えているのかとふと思う。
そして諏訪が「まだ」と言ったことも聞き逃していない。「また」ではなく「まだ」である。つまりそれなりの期間、烏丸と齋藤はそう見られていたということになる。少なくとも仲の良い関係だと認識されているはずだ。諏訪と齋藤の仲の良さと比較したときにどうなのかは分からないが。
呆れ顔の齋藤は変わらずじっとりと諏訪を見上げている。
「ねえまさか諏訪くん、それを言うためだけに来たとか言わないよね?」
「まあな。明日の夜暇だろ? 東さん達とメシ行くから誘いに来た」
「確かに予定は入ってないけど、よく空いてるって知ってたね」
「雷蔵にシフト聞いたからな。しばらく夜間待機はないらしいじゃねえか」
「ないと言ってもここに住んでる以上、あんまり関係ないんだよねえ」
「ははっ、確かに」
ぽんぽんと軽快な言葉の応酬が続く。その気の置けない関係を前にして烏丸は彼らが同い年であり、同じ大学に通う同期生であることを思い出した。学部は違うらしい。大学の仕組みについて中学生の烏丸はよく知らない。
大学生同士の会話が落ち着くと、諏訪は「勉強頑張れよ」と烏丸の頭をぐしゃぐしゃに撫で回し、齋藤には「詳しくは後で連絡する」と言ってから去っていった。苦笑を浮かべた齋藤がそれを見送る。
乱された髪を手櫛で整えながら烏丸はふと齋藤に疑問を投げかけた。
「伊織さん、若いツバメってなんですか」
「烏丸くんはまだ知らなくていいよ」
齋藤は困ったように笑い、最後まで意味を答えようとはしなかった。しかし烏丸は冗談として積極的に使っていこうと思った。烏丸京介は齋藤伊織の若いツバメである。正しい意味は知らないが。