「聴覚情報の共有?」

 二、三度まばたきをしたのち、齋藤は口元に近付けたマグカップをテーブルに置いて目の前に座る風間の発した言葉を繰り返した。
 そうだ、と風間はマドレーヌにかぶりつきながら表情を変えずに頷いた。風間の隣に座る宇佐美が彼の発言を補足する。

「聴覚情報は音だけなので通信に乗せやすいし、視覚より情報量は少ないので解析も楽だし、何より視覚のリソースを食わないところが魅力的ですよね」
「宇佐美の言う通りだ。それにカメレオンと組み合わせれば戦闘にアドバンテージが取れると考えている」
「なるほどね。最近流行ってるよね、カメレオン」

 風間くんも流行を気にするんだね、と齋藤が笑うように言えば、戦闘の効率化を図った結果だと風間はそっけなく返した。
 最近実装されたオプショントリガーが隊員達の間で流行していることは開発室にまで届いているほどに有名な話だ。新しいものに飛び付いたのか、ステルス戦法にロマンを感じたのかは分からないが、とにかく皆が争うように使用しているらしい。
 カメレオンは使用者本人を透明化するトリガーだが、あくまで消せるの姿形のみである。本人が発する音まで消すことはできず、バッグワームのようにトリオン反応探知を欺くこともできない。
 加えてカメレオンの使用中は他のトリガーを使用することができないため、正直使い勝手は悪いと開発者は言っていた。奇襲向けというより隠密行動向けである。
 ならばなぜ開発したのかと問えば、ステルスはロマンといい笑顔で開発者が答えたことを開発室の者達は知っている。ロマンこそ発明の原動力である。
 そして実用性重視の鬼怒田はロマンを理解しようとしない、というのも開発室一同の共通認識だ。齋藤はどちらかと言えば鬼怒田寄りの思考であるので彼らの言うロマンを理解できないことの方が多い。
 しかし風間はそのロマンが詰まったカメレオンを使いたいと言う。それで、と齋藤は視線で話の続きを促した。三個目のマドレーヌに遠慮なく手を伸ばしてた風間はそれを掴んでから応える。

「C級に強化聴覚のサイドエフェクトを持つ奴がいる。俺はそいつをチームに入れたい」

 風間の話を聞きながら、齋藤は今度こそマグカップに口を付けた。カフェオレをゆっくりと飲む。少し緩くなってしまったが、喉を潤すには問題ない。仄かなコーヒーの香りが鼻腔をくすぐっていく。
 何となく彼のやりたいことは理解した。そして個人ラボ内にある設備で今、自分が彼らにできることを考える。
 齋藤の縄張りとしているこのラボは、正確には冬島の個人ラボである。彼は現在ミーティングで不在であり、齋藤は唯一の助手兼留守番役としてここにいる。
 技術開発室区画の片隅にあるそこは当初冬島に与えられた仕事場であったが、毛布や冷蔵庫やプロジェクターほか私物が持ち込まれたどころか勝手に仮眠スペースを増設したことにより、完全に私室然となっていた。叱られる前に鬼怒田を上手いこと言いくるめたらしいと齋藤は小耳に挟んでいたが、詳しいことは聞かされていない。冬島と齋藤の仕事部屋であることだけは確かである。
 齋藤も一応宿舎区画に部屋を持っているし、当初はきちんと使ってた。しかし冬島の助手となって早二年、ちゃっかり毛布と枕を持ち込み、自室へ戻るのが億劫な時はラボの来客用ベンチソファをベッドの代用としている。年頃の女の子が、と苦言を呈されることもあったが、それがエンジニアの性だと大半の開発室職員は寛容であった。悪いところが移ってしまったと冬島は諦め半分である。
 そんな齋藤の仕事場に風間と宇佐美が訪れたのは昼をやや過ぎた頃だった。彼らはあらかじめ齋藤とアポイントを取っていたため、彼女も時間通りに自身の仕事を一旦切り上げてマドレーヌとカフェオレを用意して二人を迎え入れた。
 自分達が座っているベンチソファが夜になると時折齋藤の簡易ベッドに変わるのだと風間は知っている。一方、宇佐美はまだ知らない。

「結論から言うと、できるよ。知覚情報の共有自体は既に実装してるから聴覚の共有も可能だよ。でも視覚みたいに使う人が全然いないから実装当時からブラッシュアップされてなかったはず」

 そう言って齋藤は手元のノートパソコンを叩いて開発案件の一覧表を開く。未発表の案件もあるため風間と宇佐美には見せられないリストだ。
 単語検索をしてすぐに目当ての案件を見つけた。開発中となっているが優先順位を表す数字はやはり低い。開示して問題ない範囲で二人に現状のみを伝える。
 そもそも耳から得た情報を他人とリアルタイムで共有するなど使い所があまりないのだ。潜入や捜索など使い道がないわけではないが、そこまで頻繁に発生する任務でもない。
 音を分析し、戦況の把握に使うことくらいは稀に発生するとはいえ、通常の戦闘時に使うことはそうなかった。もっぱら換装体の聴覚に対して、アクティブノイズコントロールや聴覚マスキングを施して騒音を低減させることばかりが注目されている。ゆえに聴覚の情報共有システムのアップデートの優先順位は常に下位であった。
 齋藤はノートパソコンから風間へ視線を戻す。彼女も知覚系のサイドエフェクトを持っているため、他人と共有することに対しての欠点をよく知っている。それに過去に似たような実験がすでに行われていた。

「共有はできても普通の人がその訓練生の聴覚情報を与えられたら、情報量が多すぎて多分脳が負荷に耐えられないよ」
「だからお前に意見を聞きに来た。環境が整っていても共有される側の準備ができていなくては意味がないからな」
「そうなんです。伊織さんならそれ関連の情報処理に必要なこととか心得とか、そういうの詳しいと思いまして」

 齋藤が知覚系のサイドエフェクトを持っていると知っているがゆえに、風間は彼女を訪ねた。また齋藤がエンジニアであることも心強い。同じ強化五感を持つ隊員をチームに入れるために必要な準備や技術、留意すべきことを聞きに彼らは来たのである。

「聴覚と視覚じゃ勝手が違うんだけどなあ……」

 困ったな、と齋藤は眉尻を下げた。
 彼女のサイドエフェクトは強化視覚と呼ばれ強化五感に分類されるが、一部能力に超感覚が含まれるため、総称して千里眼と呼ばれることが多かった。
 強化五感として通常の視力はさることながら、目を凝らせば数キロ先まで、また細部まで見通せる。齋藤の小学生の頃の異名がマサイ族であったことからも、その目の良さは常人のそれをはるかに上回っていた。
 その気になれば短時間だけ超感覚として透視も可能であるが、そのあとの頭痛と眼精疲労が酷いため彼女はあまり使いたがらない。エンジニア仲間には分子レベルの隙間を見通しているのではないかとも言われることもあるが、原理は不明だ。
 とはいえ、常人に比べて非常に目がいいだけである。視野が広がるわけでも動体視力が良くなるわけでも夜目が利くわけでもなく、幽霊やトリオンなど特殊なものが見えるわけでもない。本当に目がいいだけなのだ。視力検査で常に最高値を余裕で叩き出せる程度の能力である。
 そして遠くを見渡せる、細部まで見通せるその能力を、齋藤はもっぱら自身の仕事にばかり活用している。彼女にとってトリガーのチップのような、小さなパーツや回路を弄るときに非常に便利な力であった。
 昔行われた実験では齋藤の視覚情報を他人と共有できないかと試みられたが、機械ならともかく人間では脳の処理が間に合わないと結論が出ていた。突然襲いくる膨大な情報量の暴力に耐えきれず、被験者は皆簡単に体調を崩した。脳が焼き切れそうだと訴えるほどの頭痛と眼精疲労に加えて、吐き気や目眩を覚えて寝込むほどの反動だ。さすがに脳までトリオンで強化することは難しい。
 可能な限り負担を低減するためにシステムで精密な調整すればもしかしたら、との意見もあった。だが調整が終わるまでに何人が犠牲になるかと想像してしまった上に、優先順位の低い案件であったためそこで頓挫している。そもそも正隊員ではない齋藤が誰かと視覚情報を共有することはないと皆が気付いてしまったからでもある。ボーダー内に視覚系の強化五感のサイドエフェクトを持つ者が彼女しかいないのだからなおさらである。

「とりあえず聴覚じゃなくて視覚でよければ体験してみる?」

 文字通り百聞は一見にしかず。少しばかり考えたのち、説明をしてもサイドエフェクトを持っていない者には分かりにくいだろうと、齋藤はそう提案した。
 彼女が言う通り聴覚とは勝手が違うが、体感してもらった方が感覚を知るには手っ取り早い。網膜に視覚情報を直接投影するため目を閉じても情報の供給を遮断することはできないが、短時間ならばそこまで不調を来すこともないはずだ。

「なるほど。サイドエフェクトの共有を実際に体験できるならば丁度いい」
「宇佐美さんも一緒にどう? トリガー持って来てないならラボの予備を貸すよ」
「いいんですか? やってみたいです!」

 簡単に過去の実験や結果を説明しながら、齋藤はラボ備え付けの訓練室の室内の設定を行う。そして自身と風間達を転送した。訓練室内の景色は市街地B、高低差のある建物が入り組む、ランク戦で使われているステージである。

「これから私の視界を共有するから、気分が悪くなったらすぐに言って」

 そう言って齋藤は手元に浮かぶタブレットを操作し、自身の視界をそのまま風間と宇佐美の網膜に接続する。通信回線やデータの同期が問題なく行われているか計測データを確認してから、二人を見ながら投影を開始した。

「わっ! アタシが見える!」

 鏡を通してでなく直接自分の顔を見ることなどないためか、宇佐美が開口一番簡単の声を上げた。彼女ほどではないが風間も驚きの表情をありありと浮かべている。彼らが体調を崩さないよう気を付けながら、齋藤はゆっくりと視線を動かし、視界を遠方へと移す。すごいすごいと宇佐美がはしゃぐ。
 移動するよと齋藤は二人に声をかけ、自分達をマンションの屋上へ転送した。彼女の目を通して俯瞰した情報が風間と宇佐美の網膜に映し出される。齋藤が目を凝らしてある一点を見つめれば、より詳細な情報が彼らに伝達する。電柱に貼られたチラシの文字であったり、店舗の看板であったりと、通常の視力ではおおよそ見えないものが彼女のサイドエフェクトによって鮮明に彼らの視界に映った。

「すごいな……いつもこんな景色を見ているのか」
「まあね。強化五感を共有するイメージとしてはこんな感じかな。今は大丈夫だろうけれど、たぶん徐々に脳の処理が追いつかなくなって頭が痛くなってくると思う」

 話には聞いていた齋藤のサイドエフェクトを実際に体験し、風間は改めてその常軌を逸した視力に舌を巻く。見通しの良い場所ならばどこまでも見えそうだ。肉眼で見える距離は平地で五キロ弱と言われている中、彼女の目をもってすればその限界までよくで見える。地球が丸くなかったらさらに先まで見えるのだろう。
 そこに欠点があるとすれば、齋藤の視覚情報をただただ与えられている状態であることだろう。風間や宇佐美に主導権はなく、彼らから齋藤に指示を出さなければ臨む情報は得られない。
 だがその点に関して聴覚情報ならば問題はないと齋藤は言う。視覚情報は視線が注がれているところのみの情報しか得られないが、聴覚は耳に入った音すべてを情報として得ることができる。主導権を握らずとも情報量を制限されることはなく、後から内容を精査することができる。情報を先に選ぶか後に選ぶか、それだけの違いだと彼女は告げた。
 風間が指示を出し、齋藤はそれに従って視線を移す。場所を移動しては遥か遠くから手元まで見比べたり、視覚の共有を切断し繋ぎ直して視界が切り替わる瞬間を体感したり、あえて齋藤が視線を激しく動かすことでどこまで耐えられるかを試したりなどした。果てには透視により建物内を細部まで見通すことまで風間は体験したがった。
 一方宇佐美はオーバーフローによる頭痛を前にして早々にギブアップし、齋藤の代わりにタブレットを操作する役目を請け負っている。将来的に聴覚情報の処理を担うことになるであろう彼女にとっていい予行演習である。

「確かにこれは気分が悪くなるな」

 換装体であるから顔色には出ないが、声色に疲労を含ませて風間が呟いた。情報処理と同時にバイタルチェックも行っていた宇佐美が一旦休憩を挟もうとストップをかける。
 訓練室からラボに戻り、齋藤は冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターを出して風間に渡す。風間はぐったりとソファの背もたれに身を預けており、表情以上にやられているようであった。力なくミネラルウォーターを飲んでいる。対して宇佐美は復活しており、とても面白かったと嬉々として次々と意見を齋藤に投げかける。

「やっぱり脳の処理が追いついていないのが問題ですよね。余分な情報を削って負荷を減らすのはどうでしょう?」
「不要な情報の取捨選択が難しいかな。視覚なら一部を切り取るとか色を抜くとか簡単だけど、聴覚はそういうわけにもいかないし」
「うーん、ある程度ノイズを取り除くとか……はノイズの中に必要な情報が入ってたら意味ないか。音がクリアになりすぎると脳の負担になりそうですし難しいですねえ」
「確かにノイズキャンセリングの考えはありかも。エフェクトかけるとか補正次第でやりようはありそう」
「必要な音まで消されたら困るぞ」

 気分が悪いながらも齋藤と宇佐美の話はきちんと聞いていたらしい。水を飲んでいた風間が口を挟んだ。ですよねえ、と宇佐美が相槌を打つ。

「エフェクトについては音響に詳しい人を紹介するから相談してみて。システムの改良も掛け合ってみるから」
「ありがとうございます! じゃあもうあとは慣れるだけですね」
「そうだね。風間くんも他に確認しておくことはある?」
「いや、必要なことは大体分かった。礼を言う」
「いえいえ。システムの改良依頼は風間くんの名前で出すから問い合わせが行くかもしれないけれど、分からないことがあったら言って」

 分かったと返事をする風間は相も変わらずぐったりとしている。マドレーヌを食べるかと齋藤が問いかけると即座に食べると返事をした風間に、宇佐美は声を上げて笑った。