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心境


温もりが与えられる。隅々まで行き渡っていくような感覚に、自由を得た気がした。漲る生命力とでも言うのか、ふっと浮き上がったように感じ、辺りは桜色に染まっていた。いや、桜の花弁がいっぱいに舞っていたのだ。その美しい光景の中で俺の前に現れたのが主だった。

「三日月宗近。打ち除けが多い故、三日月と呼ばれる。よろしくたのむ。」

驚いている彼女にそう名乗れば、はっと覚醒したように主も名乗る。

「ほう、当代の主は女人か。よきかな、よきかな。」
「本日より当本丸にて力を発揮していただきたく、よろしくお願い致します。」
「はっはっは、主は少し肩に力が入っているようだ。やれ、力を抜け。ずっとその調子では身が持たぬぞ。」
「…本丸の案内はこちらの方がします。分からないことは彼に聞いてください。」
「相わかった。」
「それでは、私はこれで失礼します。」
「何だ。主も共に参らぬのか?」
「…すみません、失礼します。」

小さく頭を下げて部屋から出ていく主の横顔は哀しげで、けれど顕現されたての俺はその理由を知る由もなかった。



「加奈、俺だ。」

主の住む離れの扉の前で声を掛けた。どういった仕組みなのかは未だによく分からないが、ほんの少し待てば彼女が現れる。今日は苦笑しながらだ。

「三日月。前にも言いましたが、『俺』だけだと詐欺になってしまいます。名乗ってくれないと。」
「やぁすまんな。加奈は俺の声を聞けば分かる故、ついつい甘えてしまう。」
「ふふっ。それで、何の用ですか?」
「いやなに、誘いに来たのだ。天気も良い故、共に庭でも散策せぬか?」
「…本日の当番は?」
「非番だ。先程まで鶯丸と茶を飲んでおったのだが、加奈の顔が見たくなってな。どうだ?」
「それなら喜んで。支度をしてから行きますので、万葉桜の下で待ち合わせましょう。」
「ふむ、なかなか風流な逢引になりそうだな。」

急がずともよい。そう笑った俺に主も楽しそうに頬を緩めた。

「ここの生活には慣れましたか?」
「うむ。皆がじじいを気遣ってくれてな。三条のものもおるし、他の顔なじみもいる。」
「安心しました。三条…と言うと今剣と岩融ですか。喜んでいればよいのですが…」
「ああ、今剣は飛び跳ねておった。そうまでされると俺もより嬉しく思えてな。」
「そうですね。」
「『あるじさまに おれいを いいたい』と言っておったぞ。」
「…気持ちだけいただければ。」

池に架かる朱橋をゆるりと歩きながらの会話は心が安らぐ。けれど、困ったように眉を下げた主は歩みを止めてしまった。…今の俺ならその理由が分かる。立ち止まってしまった隣に並び、そよ風に揺れてさざめく水面に視線を流した。そうすれば、主も同じように欄干に手を置きながらそこを眺める。

「…許せぬのか、加奈よ。」
「…許すとか、許さないとか…そういうことではないんです。」
「では、どういうことだ?俺に聞かせてくれぬか?」

顕現されたその日、加奈の脇に控えていたへし切長谷部に本丸を案内されながらここの状況を聞いた。俺が来る前の本丸は異様な有様だった、と。主が疎まれていたこと。互いにほぼ関わらず日々を過ごしていたこと。それが遠因で主の身に大事が起きたこと。そのような関係になっていたのには原因があったこと。男士達は皆、現主である加奈に取ってしまった態度を悔んでいる。そして今一度の忠誠を誓いたいと願っている。今度こそ、心からの忠誠を。けれど彼女が相変わらずの暮らしをしているから、己から話しかけるのを躊躇っている。

「ほれ、話してみぬか。」
「…怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもないんです。祖母が…前の審神者が男士達に慕われていたのは、私にとっても誇らしい事ですから。」
「では、何故そのように俺達を遠ざける。」
「…遠ざけているつもりはない…と言ったら嘘になってしまいますね。ですが、私が顕現した男士達…特に三日月は私が初めて鍛刀した男士ですから、とても頼りにしています。私の初期刀は間違いなくあなたですよ。」
「やぁ嬉しことを言ってくれる。」

俺の周りにふわりと桜が舞い上がる。それを見て主も嬉しそうに微笑んだ。だがその顔は長く続かず、愁いを帯びた瞳が空を映す。

「…へし切長谷部から聞いているのでしょう?私と男士達の間には溝があります。それを先に望んだのはあちらですから。」
「ふむ…」
「心ないことを言われたこともあります。心ない態度を取られたこともあります。それでも今日まで私が生きているのは、彼らと交わした決め事があるからです。それを守ってさえいれば、私は生きていられます。…怖いんです、溝を埋められて何かが起こった時が。」
「俺が守る…では、足りぬか?」
「っ…!」

はっとしたように顔をこちらへ向け、大きな瞳で俺を見つめてくる主が愛い。何故そんなに目を丸くしておる。驚くことはなかろう、俺は加奈の初期刀なのだから。主を守るのは刀剣男士の本望だぞ。そんなことも分からぬのか?

「…十分です。なんて心強い…」
「はっはっはっ。」
「私が顕現した男士達は本丸で肩身の狭い思いをしていませんか?」
「そのようなことはない。おかしな心配はするな。」
「…一度溝ができてしまえば、修復するのに時間と手間がかかるものです。物理的にも精神的にも。…弱い主ですみません。」
「…なに、加奈にとってはそれほど深い事なんだろう?おぬしはまだうら若い。焦らずともよい。」

俺達の生は人のそれと違って、長い。おぬしが望んだ時にゆっくり埋めていけばよかろう。その間の橋渡しなど、いくらでもしてやる。加奈は俺の主なのだからな。戦とは無縁の穏やかな頭、武器を持たぬ細い腕、怪我に慣れぬ優しい顔。愛らしい加奈。俺が守ってみせようぞ。


2017/11/10 掲載