忍びの別れ

凍てついた空気、薄らぼやける空に朝日が射し込む。
遠くの方で、風の音がする。


「大変お世話になりました。何の御返しも出来ず、本当に申し訳ない。」
「いえ、小百合さんが来てくれて楽しかったですわ。此方こそ、小十郎殿がお見送りも出来ず、あのお方は本当に仕事馬鹿なのです。」

私が起きた時にはもう景綱さんは屋敷に居なかった。何でも政宗公の仕事の進み具合がどうしても気になるのだとか。それにしたって、日の出前に出るのは早すぎやしないか。
かの独眼竜はそんなにサボり癖が酷いのか、それとも景綱さんが心配性なのか、或いは両方か。想像し難い。

はぁ、と溜め息をつく彼女の仕草は、姉君殿に悩まされていた景綱さんにそっくりだ。
しかし、と姉君殿は言う。

「朝餉も取らずに出て行かれるなんて…、遠慮など必要ないのですよ?」

と心配そうに私を見る姉君殿。それに笑って答える。

「急ぎ、行かねばならぬ所を思い出したのです。お気遣い、痛み入ります。」
「小百合さん……。ああ、そう言えば、小十郎殿から伝言が。」
「伝言?」

「次会った時には、お前の答えが出てると良いな、と。」

答え、昨日の夜のことか。そんな時が、来るのだろうか、来ても良いのだろうか。
景綱さんの真っ直ぐな目を思い出す。彼は、かつての私が目指した武士、そのものだ。今の私では、到底届きようもない存在。忍びの私では、目指す事すら御門違いだ。全くだ。

「そうですか……。では、私も伝言を。」

この御恩は必ず返してみせます。
それだけ言って、姉君殿に一礼し屋敷を出た。

思えば、忍びだとは思えない様な失態ばかりしてしまった。それも景綱さんに出会ってからだ。彼を言い訳に己の不始末を語るなど、罷り通るはずもないが、どうにも調子がおかしくなるのだ。否、おかしい、とはまた違う。懐かしい様な、まるで昔の自分に戻ったかの様な気持ちになった。
そう、考えついて腹の裏側がぞわりとした。何てことを思うのだろう。もうあのお人が居ないというのに。昔の私があって良いはずが無い。
風の音が、強く耳に響いた。


林の中に足を踏み入れる。音も無しに、黒い影が現れた。

「風魔殿。」
「……。」
「これは…、久秀様からの伝令、ですか。」

一つ頷き、風魔殿は風と共に消えていった。
至急、戻れ
たったそれだけ書かれていた紙を小さく折り懐へしまう。目を瞑り一呼吸、ふぅ、と息を吐き明るい道ではなく、この陰っている林の中を駆け出す。
あの方が私をこうやって呼び戻して、良いことが起きた試しが無いのだ。本当に。

ここは良い所だった。人も優しい人が多かった。あの人の料理は美味しかった。
願わくば、独眼竜が噂以上に強い人であります様に。


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