忍びが焦る

急に景綱さんの足が止まった。屋敷までもう少しらしいのにどうしたのだろうか。

「マズイことを思い出した…。」
「マズイこと?」
「…ひとつ、頼まれてはくれねえか。」

明らかに顔色の悪くなった景綱さんに、否とは言えなかった。

景綱さんの屋敷の敷地へ足を踏み入れる。先に戸を開けるだけでいいと言われたが、本当に私が開けてしまって良いのだろうか、景綱さんの様子からして嫌な予感がするのだがと考えながら玄関の戸に手を掛けようとすると、戸が勢い良く開いた。


「やっと帰ってきましたね、折角政宗様に一日休みを頂いたというのにこの様な時間まで帰ってこないなんて、畑仕事でもしていらしたのですか、早めに帰ると仰るから大人しく見送ったというのに。全くこれではいつまで経ってもお嫁さんが出来ないでは有りませんか。ああ、出来ないではなく、作らない、でしたかね。どちらも同じことです。今日という日は、縁談相手を考えようと言ったでは有りませんか。よもや聞いてなかったとはおっしゃいますまい、いっそ耳にタコが出来てしまえと思って繰り返し言っていたのですから。ねぇ、小十郎殿?」
「わ、わたし、小百合と申します。」
「........あら?」


「まぁ、そのようなことが。何とも災難でございましたねぇ、うちで良ければどうぞごゆっくり。うら若き娘さんに迷惑を掛けるとは、小十郎殿もまだまだです。」
「いえ、此方の方がご迷惑を掛けてばかりで…。」
「そんなこと有りません、襲われそうだという人を助けるのは当然です。...それより小十郎殿、何故貴方が戸口を開けなかったのですか。お陰で喜多はお客人の前で恥をかきました。」
「…俺が開けていたら姉上は碌に話を聞かないまま、薙刀を振り回すでしょう。」
「まあ酷い、何てことをっ、一体何を根拠にそのようなこと事を申すのか、」
「、過去の記憶を根拠に、です。」

何やら揉め始めた姉弟から、一歩また一歩と少しずつ離れる。景綱さんより一回りほど年の離れた姉君殿は、弟に負けず劣らずの迫力である。景綱さんはやや押され気味だ。険悪な雰囲気ではないため姉弟仲は良いのだろう。両者とも何らかの苦労があるようだが。

それにしても、小十郎殿、か。
片倉小十郎。竜の右目と呼ばれる伊達政宗の側近中の側近。噂では頭の切れる鋭い男だと聞く。まさか彼がそうだとは、気が抜けない。と考えていると、いつの間にか景綱さんは居なくなり、姉君殿が私の前にいた。気配を感じなかった。武の心得があるとの話は本当だったか。言ってたそばからこれとは、不覚。

「小百合さん。」
「、はい、何でしょうか。」
「お疲れでしょう、今夕餉の準備をさせています、小十郎殿に。」
「あ、はは。景綱さんにですか。ありがとうございます。」
「まぁ、景綱と呼んでいるのですか。」
「あー、今更、呼び方を変えるというのも、どうにも気恥ずかしく…。」

へぇ、とにんまりと此方を見る姉君殿に少したじろぐ。

「どうか、したので?」
「うふふ、いえまぁ、…ところで小十郎殿とはどうなのでしょう。」
「は、どう、とは。」
「小十郎殿は、もういい歳だというのに嫁の一人も居ないのです。」
「は、はぁ。」
「縁談が来ても自分はまだ政宗様を支えるので忙しい、とかなんとか言って渋るのです。酷いでしょう。」
「...成る程。」
「小百合さん、私、小十郎殿がこんな若い娘さんと普通にお話しているところ初めて見たのです。喜多は感動しました。」
「、あの、私、」
「小十郎殿の嫁に来ませんか?」

思わずギョッとする。
一体何を仰るのだ、この方は。そんな期待に満ちた目で見られても困る。彼とは今日会ったばかりなのです、有り得ません、と早口に言う。顔があつい。

「あら、時間など関係御座いません。そうだわ、今日の事はお見合いとでも考れば良いのです。」
「そんな無茶な…。」

襲われたり、気絶したりする見合いが何処にあると言うのか。ぐいぐいと迫ってくる姉君殿に押されながらも、頑なに首を横に振っていると、味噌の良い匂いがしてきた。

「わ、私、景綱さんの手伝いをしてきますっ。」
「あら、」

逃げられた。という声に情け無くなったが、こういう話は苦手で仕様がない。人様の屋敷を一人でうろつくなど失礼な事だが、背に腹はかえられぬ。あつくなった顔を冷ましながら、包丁の微かな音と味噌の匂いを頼りに、見慣れない屋敷の中を進むのであった。






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