虎の道場、壱

秀秋様と天海殿は休めと言ってくれたが、私のこの疲労感は、きっと身体的なものでは無い、日が昇る前浅い眠りから覚めた私は、そう結論付けた。
例えば、数日間ちゃんとした睡眠をとっていなくとも、遠い地より主君を気遣いながら馬を走らせども、そんな事で疲れる程、やわでは無いのだ。
これは、私の精神の弱さだ。
色んな意味で厄介な狐に絡まれ苛つき、トラウマと化している織田の影に恐れる、心の弱さ。この体たらく、否、昔からなのやもしれない、今迄自分の弱さを蔑ろにしてきた報いというやつではないだろうか。

秀秋様に頂いたこの休み。無駄にはしない。
小早川軍自体は、秀秋様が熱を上げる鍋の熱と香りに満ち、実に和やかな雰囲気だが、時代は違う。
熱は熱でも戦いの熱。漂うは硝煙の香り。
足利に降った毛利や、圧倒的力を有する豊臣、敵対する強国、されど我軍にとっては縁深い両軍に挟まれる小早川は、中々どうして、微妙な立場になりつつある。
特に、毛利などは足利へ赴く途中、ついでだと言わんばかりに様子を見に来て澄ました顔で秀秋様を脅していく。その様、まこと恐ろしきかな…。
この様な状況下で、小早川軍が如何に生き延びるか、そうそう気が抜けないのが現状だ。
のんびりしたく無いと言えば嘘になる。しかし、焦らずには居られない程に時代は急激に動いていく。
私が、もっと強くならねば…。


所は変わって甲斐、武田領。
馬を使うよりも断然早い風魔殿直伝の走りは、長い距離も時間を掛けずに移動できる。こんな時、風魔殿を思い出し、感謝の念を抱くのである。忍びを辞めたといえど使える技は使う、というのは些か狡いだろうか。
使えるものは使う、という忍びの精神が染みついている様で、胸中、少し複雑だ。

甲斐の虎が開いていると言う、武田漢道場。
武田信玄公は私の尊敬する武人の一人だ。
幼い頃よく父も立派な武人として話していた。あの厳しい父にああまで言わせるとは、何て凄い方なのだろう、と驚いたものだ。
群雄割拠、揺れる日ノ本だが、その波に荒らされる事なく斯様な道場を開くとは。流石甲斐の虎、と言ったところか。
此処に来ればきっと、私の弱さも何か変わるだろう、とそう思ってやって来たのだ。城の者には外出する、とだけ伝えてある為、完全に私用である。
朝一番、気合は十分。
腰に下げた愛刀の柄を触る。かちゃり、という音を聞いてから、勢い良く門を叩いた。

「はー、まさか本当に挑戦者が来るとはねえ…。それも、おたくみたいな細腕のお嬢さんが。」
「腕に多少の覚えはあるつもりです。…こんな小娘では、入れてもらえませんか?」
「あー、いやいやっ。どうぞどうぞ、入って良いよ。」

門を叩いたら一人忍びが出てきた。道場に挑戦すべく来たと言うと、私を頭からつま先までジロジロ見て心底驚いたといった様な動作をした。少し態とらしい。
細腕という言葉にむっ、として刀に手を添えると、少し慌てて入門の許可を出してくれた。道場の中に通される。
それにしてもこの忍び、忍びの癖にえらく表情豊かだ。こんな感じの忍びに何処かであった気が、しないでも無い。

「おたく、どっから来たの?こんな朝早くから来るとか何者?」
「は、申し遅れました。備前の国、小早川が家臣、広瀬小百合です。…もしや、貴方は猿飛佐助殿、ですか?伝説の忍びと並び凄腕の忍びと噂される…。」
「おっ、俺様のこと知ってんの?いやー、忍びなのに有名ってのもアレだけど、なんか照れるな……。それにしても、あの小早川にもまともそうなお侍が居たとはねぇ…。」

話ながら少し歩くと道場の広間に着いた。広間の奥に仁王立ちする男がいる。
この気迫溢れる立姿は、武田信玄公本人か。

「よくぞこの道場に足を踏み入れたな。つわものよ…、先ずはお主自身の手で、挑む段位を決めい!」

武田殿は、その手に持つ軍配を振り上げると床に突き刺す様に勢い良く降ろした。一瞬道場全体が揺らぐ。すると上から段位が記された立て札が降って来た。

「白帯から、虎帯…。」

本来なら最下段から順に全て挑戦したいところだが、生憎そこまでの時間は無い。
私は虎帯の立て札を切り倒した。

「甲斐筆頭伊達政宗、」
「虎の右目片倉小十郎、いざ忍び参る!」
「見事な変化の術…。あの人からこういう術は、習わなかったな。」

武田の忍びが変化し、この間会ったばかりの双竜の姿になる。
どくり、と一瞬心臓が高鳴る。
昔、景綱さんには負けたままだった。あの時付いた黒星、覆してみせる。…この方々は武田の忍びであって、本人では無いことは分かっているが。
独眼竜とは剣を交えた事が無い為解らないが、景綱さんの方は以前戦った時よりも斬れ味が甘かった。技まで模しているのは見事だが、やはり本物よりは劣るようだ。

「ふぅ…。次は、一体誰が相手か…。」

まさかここまで多くの猛者が出て来るとは思わなかった。あの魔王や帝、松永、殿にまで化けるとは、倒したら直ぐ次の相手が現れるため、狼狽えている暇もない…。侵略する事火の如く、というのはこういう事か?私には良い荒行事かもしれない。一心不乱に戦いに興じていると、相手が誰であるとか、どうでもよくなって来る。あれこれ考えずにひたすら戦うなんて、いつ以来の事か。
何とか次々に現れる変化武将を倒すと、なんと武田殿、その人が火柱と共に現れた。
先程会った忍び、猿飛殿と若武者も居る。あの方は、甲斐の若虎、真田幸村殿だろうか。

「此処まで来るとは、紛う事なきつわものよ。我が道場の看板、見事破ってみせい!」
「ぬおおおッ!この幸村、武者震いが止まりませぬうぅッ!」
「ほんと、此処まで来るとは…、こっちの身にもなってもらいたいねえ…。」

熱い、とてつもない熱気を感じる。烏城の大鍋の近くと良い勝負だ。まさか、武田殿直々に相手をしてくれるとは、とても嬉しいことだ。念願の御仁との立会に私も興奮してきた。

「今度は貴方がたが相手か…、ここまできたら、誰であろうと倒してみせる!」




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