大谷妹4




やあ、と声を後ろから掛けられた。ややあってから、そちらを向くと徳川様が笑顔でいらっしゃった。

「おはよう、小百合殿。」
「おはようございます、徳川様。」
「こんな所で一人とは、何をしていたんだ?」
「いえ……、ただ空を眺めていただけです。」
「空、か。何か見えたか?」
「何も。雲しか見えません。」
「ははっ、そうか。」

何がそんなに可笑しいのか分からない。徳川様は縁側に座る私の隣に腰を下ろした。今私はあまり機嫌が良くないのだ。自分でも自覚する位なのだから、よっぽどだろう。
つまり、一人にして欲しかった。

石田様と使いに行ってきた。兄様が私を待っている、と聞いたものだから急いで帰ってきたというのに、居ないなんて。入れ違いだったらしい。最近そんな事が多くなった。

豊臣の力が急速に拡大している。
こういうのは通常、外部が漏らす感想であり、内部からではそうそう実感し難いものだと記憶している。
しかし、今回の様な些細な事からその変化を肌に感じる。きっと素晴らしいことなのだ。嘆くような事では無い。
これからも、こうなのかな。
兄様だって忙しいのだから仕方ないと分かっている、分かっていても寂しくなってしまうのはどうにもならない。
そういえば、石田様には近頃部下が出来たそう。どこも少しづつ変わっていく。
このお空を兄様も見ているのかなぁ、なんてぼんやりしながら思っていたのだ。少し水を差された気分になった。

徳川様はいつも笑っている。
徳川様は大坂に来ると、必ず声をかけて来る。当たり障りのない会話をして別れるのが常だった。兄様はこの方を好いていない。理由は分からないが、そのせいで深く関わろうという気にならないのだ。
戦で大層活躍してるとは聞いているが、この方の事をあまり知らないな、とふと気付く。

「徳川様は何故私に声をかけるのですか?
貴方だって忙しいのでしょうに。」
「何故?…それは、やはり小百合殿と話がしたいからかな。」
「……。そういえば、徳川様と石田様が話しているのを多く見かけます。」
「うん?確かに三成とはよく話はするが……、あいつとは小百合殿の方が仲がいいだろう。三成からよく貴女の話を聞くよ。」

私と話したいなんて変な人。どうしてそういう事を真っ直ぐ言えるのだろう。
それにしても驚いた。石田様が私の事を話すなんて、本当だろうか。
仲がいい、という言葉にどういう顔をすればいいか分からない。昔は兎も角として最近はそうでもないのだから。

「石田様は、兄様との方が仲がよろしいのです。」
「そうなのか?」
「はい、そうなのです。」

兄様と石田様が並んで歩く姿を思い出して、思わず溜め息をついてしまう。実際には、石田様は一人ですたすたと行ってしまうし、兄様はここのところ、御輿に乗って移動する。きっと後ろをゆっくりと付いて行くのだ。見たはずもない光景なのに、そんな姿が頭の中で定着してしまった。
私はずっと後ろから遠ざかる二人を眺めているだけ、そんな夢ばかり見ているから。

「小百合殿は……、寂しいのか?」
「え、どうして。」
「あ、いや、理由等はわからないが、何となくそんな感じがしたんだ。」

だから、どうしてこういう事を真っ直ぐ目を見て言えてしまうのだろう。何故分かるのだろう。私が分かりやすいのだとしても、何故踏み込んで来るのだろう。どうしてそうも簡単に、心に触れようとするのだろう。
私はそんな事出来なかった。されなかった。

「どうして、そんな事聞くんですか?私の事なんて放っておけばいいのに。」
「小百合殿……。」

何かが弾けるような感覚。頭を抱えたくなる衝動。今まで誰も、私の気持ちを聞こうとする人なんていなかった。

兄様の周りの一変した人達の声。兄様の冷たい目。石田様と兄様の二人の姿。女だからと変えられた教えの内容。期待される石田様。遠ざかる兄様。
頭の中を巡る様々な出来事。
少しずつ、少しずつ、積み重なってできた今がとても苦しい。

「そんな辛そうな顔をした貴女を、放っておけはしないさ。きっと、誰だって。」
「誰だって、というのは、嘘です。誰も私の事なんて、見ていないもの。」

そうだ、見ているはずがない、置いていかれるんだもの。兄様だけでなく、皆に。私一人が変化に怯えてうずくまっている。考えないようにしていただけで、ずっと恐れていたのだ、私は。

「そんな事無いさ。少なくとも、ワシは、小百合殿を見ているよ。」
「……徳川様が?」
「ああ。」

何だか、とても恥ずかしいことを言ってしまった気がするな、と笑う徳川様。少し耳が赤くなっている。

また、笑っている。ひどく眩しく感じた。
最近、誰かの笑顔をちゃんと見ていなかった事に気が付いた。
徳川様は、私を置いては行かないのかな。もしそうなら、少し、嬉しいかもしれない。

先程までとても苦しかったのに、自分の言葉に照れている徳川様を見ていたら、何だか私も可笑しくなってきて、つられるようにして笑ってしまった。
徳川様がどういうお人か、少しだけわかった気がする。もう少しだけ、話していたいな。

空を見上げると、雲が晴れていた。




前へ次へ
戻る
ALICE+