愛の言霊A



「帰ったぞ、」

そんな声をあげて玄関の引き戸を開けたものの、残念なくらいその中は真っ暗だ。
もしかして寝てんのか?なんて思いながらも寝室の方へと行った実弥。
ふぅと一つ息を吐き出して寝室の戸を開けるとポウっと灯された灯りと、その前に正座しているゆき乃が目に入った。

「あ、お帰りなさい。つい見とれちゃってました。実弥さん?」

こちらを向いて微笑むゆき乃が蝋燭の日に照らされて少しばかり眩い。
ほんのり瞬きを繰り返す実弥の手をゆき乃が不意に掴んで引き寄せた。
柱でもある実弥がこんなにも簡単に女の力で引き寄せられてどうしたものか、と。

「もしかして血鬼術ですか?」
「…あァそうだ。だからこれ以上俺に触るんじゃねェ。」

ぶっきらぼうにそう言うと触れていたゆき乃の腕をゆっくりと外した。
ぱちくり瞬きを繰り返したゆき乃が真っ直ぐに実弥を見つめる。

「どうすれば楽に?」

まさかのこの術を解放しようだなんて。専らそんな事は考えてなかったからか、実弥は顔を歪ませて苦笑い。
楽になる方法なんて一つしか無かった。でもそれを実行する程の事をゆき乃にさせるつもりはさらさらない。
少しゆき乃から距離を取った実弥は「どうにもならねぇ。時間がたたなきゃ無理だァ。もう寝るからお前も自室に戻れや。」それしか方法が無い。

けれど、そんな事で食い下がるようなゆき乃では無い事も勿論分かっている。
だから実弥が離れた距離を埋めるゆき乃にほんのり心の中が温かくなる想いだったなんて。

「ダメです!せっかくのお誕生日なのに!」

そんな言葉と共に瞳を揺らすゆき乃が実弥の首の後ろに腕を回してふわりと抱きついた。
途端に身体中に走る快感に「クソッ、」小さく舌打ちを零す実弥。
それでも抱きついたゆき乃を片腕で抱き留めて息を漏らす。

「いいよ、実弥となら。お誕生日プレゼントはゆき乃って事でいいですか?」

少し距離をとって実弥を見つめると、苦虫を噛み潰したような引きつった顔を見せる。
言いながらも実弥に触れているゆき乃。
どこもかしこも熱くて堪らなくなってくる。
さすがの実弥もそろそろ限界を迎えそうだった。

「馬鹿な事言ってんなァ。プレゼントなんていらねェし、」
「だめよ!せっかく玄弥に聞いたんだから!いい肉の日生まれだなんて、実弥さんっぽくて笑っちゃったけどぉ。本当は肉食なんでしょ?ゆき乃いいよ、実弥さんの血鬼術うけてあげる!ね?」

未来の言葉を使われてさっぱり理解できなかったけれど、ゆき乃が何をしようとしているのかは分かっている。
それを阻止しようと思うものの、毒のせいで身体に力が入らない。

「実弥がいなかったらこの世界で生きていけなかった。貴方がいるからわたしはここにいられる。これから先もずっと、あなたと一緒に生きていきたい…。生まれてきてくれてありがとう…」

こんな時に何言ってんだ…いつものようにそう言えばいいのに、今の実弥にはそれすらできずにいる。
単純に嬉しいと思っていた。
ゆき乃のくれたその言葉が。

ーーふと縁側を見ると、そこに居るはずのない親友の姿が見えた気すらする。

〖いいんだよ実弥。たまには甘えろ。その子なら大丈夫だ。俺も見守っててやるから。俺も実弥が生まれてきてくれてよかったと思っているよ。お前は俺の大事な弟だ。素直になりやがれ、いい加減。〗

人に甘える事なんてただの一度もした事がない。
少なくとも物心ついた時からは。
常に下の兄弟と母を守るのが自分の役目だと思ってきた。
その実弥がこんな女に甘えろと言われてもそれができる程甘ったるしくは生きていない。
けれどーー…


「好き。実弥が好き。」

甘ったるいゆき乃の声に思考が止まった。
この女が欲しい…そう、ずっと欲しかった。
いつしかゆき乃のいる場所が自分の居場所なんだと、思うようになっていた。
ゆき乃の態度、言葉、全てが今の実弥を支えるものとなっていた。

「もう分かったから、」

泣きそうになるのを隠すようにゆき乃を目一杯抱きしめてその身体に顔を埋めた。


←TOP