記録





人は鏡だから 私には、仲の良い友達がいる。優しく接している友達がいる。大切にしたい友達がいる。それはつまり、相手も私のことを「仲がいいひと」と認識しているし、相手も私に優しいし、相手も私を大切にしてくれているから。どうしようもなく自分がいやな奴に思える時は、こういう風に考えるようにしている。私のことを評価してくれる大切な友達を、疑っちゃいけない。大切なあの人が大切にしてくれている自分を、私が大切しないなんて駄目だ。
何かしらのことで失われた自分への愛情は、自信は、勇気は、自己肯定は、人間関係の中で取り戻すしかない。自分が大切にしている人の人数分、自分も大切にされているはず 2020/03/08




we need something to lean on 今日のODは上手くいかなかったから、呼吸が難しい。肺に空気を入れようと意識しないと苦しくなる。普段無意識で出来ていることが、当たり前のようにしていることが、出来なくなる。普段の自分偉過ぎるくないか?俺を生きしてるだけで褒めよう 2020/02/15




みんななくして笑ってやるよ 小学校高学年頃からずっと非現実を追い求めながら生きてきた。非現実は自分の身に起こった瞬間に現実に成り下がってしまうのに、空想の世界で妄想する快感に取り憑かれてしまったからか、もうその生き方をやめられない。しんどいなぁ。それ、もう、既に私じゃないのに。こんなに無意味なことあるだろうか。自分じゃないもの使って、あたかも自分かのように空想するって、ひどいオナニーだ。
自分のこと、世界で1番嫌いって思う時と、世界で1番可愛いって思う時が交互に(または同時に)くる。でもよくよく考えてみると可愛い時の私って、本物の私じゃない。理想化した非現実の私だったりする。そうなると「じゃあ自分って一体なんなんだ」とまた答えのない思考に絡め取られてグルグルしてODしてしまう。アホみたいに言い古されたチンケなフレーズだが、いつだって人は答えのない問題に苦しむ。東大生だって安倍晋三だって隣の汚部屋に住む顔も知らない住人だって、自分の他の全ての問題を棚上げして、生きる意味について考える時間があるはず。だからといってその事実によって別に私に勇気は湧かないけど。
たぶん私は自分を無条件で愛してくれる人をずっと探しているんだろうな。愛するまででなくとも、受け入れてくれる人、とか。それはもはや恋愛対象じゃなくて家族みたいな、何があっても自分の味方でいてくれる人。友達では超えられない線を超えた人。枠のこっち側に入ってきてくれる人が欲しい。
そもそも自分が愛せない自分を愛してもらおうなんて都合良すぎるし、他人を受け入れるつもりもない癖に受け入れてもらおうなんて、ちゃんちゃら可笑しいんだけど。絶対にそんな人現れない(非現実)って分かっているからか、その矛盾が自分自身でもちょっと好きだったりする。そこも含めて妄想芸人だよなあ
とりあえず家族になってくれない彼氏はいらないということ 2020/02/14




depth Capsuleの曲は近未来を感じる。かけ離れた未来じゃなくて、手が届きそうで届かないような、ありそうで無さそうな、手ごろで身近な未来。中学生の頃、私は私の近未来を願ってCapsuleの曲を聴いていた。何になりたかった私なんだろう。
昔の感情を思い出そうとすると「何かになりたかった私」を思い出す。そう、私は何かになりたかった。常に渇望していた。小学生のときになりたかった私。中学生のときになりたかった私。高校生のときになりたかった私。全部違う私だった気がする。そして、それぞれの私がどんなかたちをした私なのか、その肝心な部分は中々思い出せなくて、頑張って記憶の糸を辿ってみるけどいつも輪郭がぼやける。ただ一つだけわかるのは、少なくとも今現在の私のかたちとは違うということ。昔の自分が思い描いた私のかたちに、今の私はどれだけ近いわたしなんだろう。過去の気持ちについて、渇望しか思い出せない私は虚空すぎる。結局そこにあるのは常に夢だけ見てるわたしで、22年も掛けて何もない空っぽな人間が出来上がってしまった気がして、焦ってしまうな。ほらこの期に及んでまだ私は何かになろうとしている。努力もせず、勇気もなく、ただいい加減に未来に期待している。いい加減目を覚まして今を生きてよ私 2020/02/11




育児 生きていて、死にたいって思うことがある人がいる。多分きっかけは些細なことの積み重ねで、もしかしたらはっきりしない場合もある。「今日のあの人からのこの言葉が原因」って、理由が明確にわかる時もあれば、理由なんて分からないまま真っ逆さまにグチャグチャに落てしまう時もある。そんなつもりで呼吸したんじゃないのに、ふと息をついてみた時に、もうダメだってなる。そして、にっちもさっちも行かない、死にたいなんて、世の中にはそんなこと思ったこともない人もいる。でも、思う人もいる。当たり前だけど、思う人たちは生きづらいよね。思わない人で生まれたかったけど、そんなのはもう無理だから、付き合い続けるしかない。あなたがどんな私かはわからないけど、人生は、私の面倒を見続けること。私を育て続けること。家族すら、他の誰もは自分にとって一切他人だけど、私だけは私の親であり続ける 2020/02/05




生を自分で定義しろ 人はしんどくなると、1人になってしまいがちだよね。それは他人から自分を守る為であったり、自分から他人を守る為であったりするんだけど。どちらにせよあなたは何かを守っているから、偉いよ。それは立派な強さだ。何かを守ることは生きることだ。生きることは何かを守ることだ。大丈夫、ちゃんと生きれているよ、私たち 2020/01/26




連続性から目を背けることは甘えなんだろうか いつも未来の自分に期待してる。今の自分じゃなくて、6時間後の自分、明日の朝の自分、1週間後の自分、1ヶ月後の自分、半年後の自分。今できないことも、明日には出来るようになっている気がする。受験勉強みたいな反復的で継続的な学習をしてると特にそんなことを思ってしまう。甘え以外の何者でもない。辛いね 2020/01/09




私を深刻に殺すまで 正しい人は嫌い、っていうのはあまりにも枠が広すぎてしんどいから、ちょっと変えてみることにした。正しい人は嫌い、から、正しいことに自信がある人は嫌い、に最近変えてみた。これによって生きやすくなるかどうか、ちょっと試してみよう。
親密な人間関係を築くときには、相手と自分の間に共通の価値基準がないと難しい。そのときにとても便利なものが、(私にとっては非常に残念なことに)正論だ。そして正論は多くの場合「常識」「一般」「普通」という枕詞が伴って語られるから(「常識的に考えてさ〜○○○(正論)」というフレーズは会話の中でよく使われるし、私自身もよく使っている)私の中で正しさはこれらの言葉と同義になってしまっている。悲劇だ。
もちろん、私は上記のような一般論で塗り固められた正義を私に突きつけてくる人が大嫌いなんだけど、他に共通の価値観がない場合はしょうがなしにこれが使われてしまう。そして、他人からの言葉で一番傷つく形態である客観的事実として自分がクズだと思い知らされ辛くなる。この繰り返し。22年間ずっとこればかりを続けてきた。毎日相手からされてきたし、毎日自分もしていた。だからもうそろそろ、これが仕方ないことという覚悟は出来た。
ならばせめて、あなたのその客観的事実に、あなたは確証を持たないでほしい。自信満々で正しいことを言わないで。それか、「私はこう思う」という確固たる自信を持っていたとしても、私の不真面目さを許容する隙間を意識的に作ってやってほしい。私の不真面目さをほんのちょっとだけでも理解してくれる、そんな自我のゆるさを持っていてほしい。私の自我の境界はガバだから、(無い物ねだりで)確固たる自我を持っている人に憧れるし殺意も抱く。しかもその殺意は自己防衛、殺されるから殺すだけ。正論は私を深刻に殺すから、そして私は自分を深く傷つけるであろう正論から自分を守るためにあなたを一生懸命に殺すから、あなたには私に優しくして。頼む。正論がない私には感情しか残ってないの 2020/01/06




静寂にて探すピース 生きながら自分の感情が全然定まらない。日々の生活の中で「これは怒り」「これは悲しみ」「これは戸惑い」みたいにその時々の感情を即座にバチっとハメながら生きるの、あまりに難しい。特に人と会話している最中はそう。事象と、それに対する感情を自覚することが、同時進行では出来ない。絶対にタイムラグが生じる。
つまり他人と話している時に自分で自分の感情が分かってないということ。
わかんないから、当てはまりそうな適当な感情を適当に示すことで毎日をやり過ごしている。答えのピースが自分の手持ちデッキにないから、「一般的にはこうだろ」「常識的に考えたらこうだろ」と類推して、いちいち厚紙を目分量でピースの形に切っている。厚紙を切る作業はアホみたいに遠回りで億劫だが、物心ついてから22年間も続けていれば、普通の人が自分の中からピースを探すのと同じくらいのスピードで(会話の相手に違和感を与えないくらいには)こなせるようになった。そうしているもんだから、私はいつの間にか自分の本当の感情を見失いがちになってしまった。
自分の中の信条として『布団の中の自分は仮死状態カウント』というものがある。布団の中の私は生きていない(時が止まっている)から、一旦落ち着いた状態で自分のピースを探すことができる。最近はタイムラグをとりあえずほっといて(後回しにして)溜め込んでしまうので、夜の反省会に回される課題が膨大な量になってしまう。嫌気がさしつつも、その日にあった膨大な事柄と、付随する感情を想起して、整理する。先程生成した歪みだらけの即席厚紙ピースを元に、私由来の天然私を使用した100%私成分の私産ピースを発見・生成する。そうして初めて「あぁ今考えてみると私あの時ムカついてたんだ」と納得する。
自分の中に眠る、自分が納得できる本当の感情は、生きているうちには到底見つからないと思う。見つけるには生はあまりにも騒がしすぎる。より深い答えを求めるなら、より深い静寂が必要になる。完全なる私のピースは、私の死の中にしか存在しないのかもしれない。 2020/01/03




だれかの死を定義してあげられたら、それはもう神だ 殺されること想像したらめちゃ怖いに決まってるじゃん。でも自分で死ぬことは想像してもそれほど怖くなさ気よね。側から見たら同じ死だけど、同じ命の終わりだけど、でも全然違うものだ。結果だけを論じることは「正しい」けれど、その「正しさ」こそが日本社会に閉塞感を生み、日本に生きるすべての人々を苦しめて、多くの人間を殺してるんだよ。死の要因に対する想像を掻き立てないといけない。私たちの想像力の欠如が、人を殺す。人生なんて死によって総括されてるようなもんなんだから、ちゃんと考えてあげようよ。生きた意味を死人に与えなきゃ、その人が生きたことにならない。死人にすらなれない。無だけはいちばんやっちゃダメだ 2019/12/31