ハイエンド
一命



 深い深い闇の底に沈むように感覚の全てが閉ざされていた。
 自分が眠っているのか目を閉じているだけなのかも分からずただ闇を見つめる。
 思考だけは手元にあったが、それもまた自分の物ではないかのようにふわふわとしていて定まらない。

「炎司さん」

 誰かが名前を呼ぶ。
 閉じている感覚をすり抜けてすぐ傍で響く。
 分厚い何かを隔てて頬を撫でる手。

 その瞬間、エンデヴァーの意識はフッと引っ張られるように浮き上がった。

「――…………ッ」

 真っ暗な世界に亀裂が走り、段々と光が幅を広げていく。眩しさに何度も瞬きを繰り返すその視界に、病院らしき白い天井とエンデヴァーを覗き込む男の顔が見えた。

 仮免許の補講で居合わせ、脳無との戦いのときに唐突に現れて手助けした男。
 戦闘に加わったとは思えない華奢な身体に仕立てのよさそうなスーツを纏い丸い眼鏡をかけた男。
 確か、暗間と名乗っていた。

 何かを問いかけようとしたのだが口がうまく動かない。
 顔面が包帯やガーゼに覆われている。脳無に食わせた左腕にも分厚く包帯が巻かれていて、唯一剥き出しになっている右手に暗間の手が触れる。

「お見舞いに来ました。死んでなくてよかったです」

 ふふっと笑いながらとんでもないことを言う。
 体を起こそうとしたのを見て暗間がベッドのリクライニングを起こしてくれて、暗間はベッドサイドにある丸椅子に腰を落ち着かせた。

「怪我、結構酷いですね」

 そう言って自分自身の顔を半分、上から下にと撫で下ろす。
 全く同じ動作をしてガーゼの上から左目を押さえた。

 ……左側。
 皮肉な話だ。
 息子と同じ側に酷い傷を負った。
 あれだけの傷だ、傷跡は残るだろうし下手すれば視覚も奪われるかもしれない。

「治しましょうか?」

 スルッと暗間の口から言葉が落ちる。
 リンゴでも剥きましょうかと尋ねるかのような気軽さで問われてしばらく何を言われたのか理解が追いつかなかった。数秒して、ゆっくり瞬きして、しかしやはりどうともリアクションがとれない。

「"ナカ"を巻き戻すと"ソト"も巻き戻るんです。そうすると傷がまるでなかったかのように」
「……ナカ?」

 包帯の下でモゴッと口を動かす。
 やっとで出た声は、酷く乾いて聞き取りにくい。

「はい。"ナカ"です。頭の"ナカ"」

 暗間の返答に自然と怪訝な顔になる。
 頭の中を巻き戻すとは一体どういうことだ。記憶を巻き戻すということだろうか。仮にそれが可能だとして、そんなことをしたら先の闘いがなかったことになってしまうのではないか。

「はい。その解釈で正解です」

 エンデヴァーの頭の中を読み取ったかのように暗間が頷きひらりと片手を翳した。
 イエスといえばその手が何かをするのだろう。

 乾いた音が静かな病室に響いた。

「これは俺の財産だ、なかったことになんかするな」

 折角、新たなスタートを切ったというのにそれをなかったことにされるなんてとんでもない話だ。これまでひとつひとつの戦いを血肉に変えヒーローを歩んできたのだ。傷も記憶も手放せない。
 手を払い落として唸るように言うと暗間は気にした風もなく目を細めた。

「まあそうでしょうね」

 リンゴを断られたかのような軽さで頷く。
 酷い肩透かしを食らった。感情を掻き乱されているのが可笑しいような気さえしてムスッと天井を睨む。
 リンゴリンゴと頭に浮かべたからなのか脇に置かれたバスケットからりんごが浮き上がり、空中でくるくると皮が剥け始める。

「早急に片付いてよかったです。でなければあの子が来てしまいますからね」

 ナイフもなしに皮が剥かれ芯が繰りぬかれ、綺麗な八等分になっていくリンゴに内心で仰天しながら、あの子というのを脳裏に浮かべていた。
 彼の言うあの子とは間違いなく西岐という少年の事だろう。
 あの子の衝動的な性質にはエンデヴァーも覚えがあった。脳無との戦いの最中、中継ヘリが飛んでいた。リアルタイムで見てしまっていたら確かに駆けつけてしまうかもしれない。

「私が本調子ではないので止めるのは困難になったかもしれません」

 そう言いながら暗間はリンゴをシャクッと齧った。
 剥いてくれたところで口に包帯を巻かれている状態なのだから食べられないのではと思っていたのだが自分が食べる用だったらしい。

 本調子ではなかったのか。
 確かにぽたぽたと汗を落とす姿を見ている。
 しかし、あれで本調子ではないとしたらと考えてしまう。

 それに……あの氷。
 既視感が揺さぶられる。
 体育祭で西岐の姿を見た時と同じような既視感だ。

「……あんたは都市伝説ではなかったのか」
「そうですね」

 曖昧な物言いになったのだが暗間は首を振って肯定した。

「俺は……あんたと、会ったことがあったか?」

 炎司と下の名前で呼ぶその素振りは親しみが込められているような感覚がある。
 互いが互いを"知っている"。

 だが、今度の問いには柔らかく微笑んだままで答えは返ってこなかった。
create 2019/06/28
update 2019/06/28
ヒロ×サイtop