体育祭
準備



 体育祭まで10日を切っていた。
 体力が完全に回復して相澤から登校許可と運動許可がおりた西岐は早速トレーニングを開始した。普段日常的に行っている基礎メニューに加えて個性のトレーニングも行う。
 受験前には毎日のようにやっていたのだが、雄英に入学して以来日々の慌ただしさにかまけて随分おろそかになっていた。

 早朝、というにはまだかなり暗い夜明け前。
 人気のない公園の壁打ち場。
 息を吐いて立つ。
 手にはタマゴ型のスーパーボールを三つほど。
 まず一つを壁に向けて投げる。壁と地面でバウンドし予測不能な方向に跳ねるそれを瞬間移動で追いかけキャッチしてすぐまた壁へ。
 目で捉えてから瞬時に移動する早さ、位置座標の正確さ、絶え間なく続けることによる集中力の継続と持久力、それらを鍛えるにはもってこいのトレーニングである。
 慣れを感じ始めるとボールを増やして難易度をコントロールした。

「――っうー! だめ、三個はむり」

 手が届かず遥か先のボールを目だけで追いかけその場に崩れる。
 惰性で跳ねるボールの音が空しく響く。
 比較的使いやすく反動のない能力なだけに伸ばしておきたいのだがそう簡単にはいかないものだ。

 続いてのトレーニングは電球を使う。
 やることは単純。
 そして地味。
 手に持って通電し電球を光らせるというだけ。とにかく長く綺麗に光らせ続ければいい。途中で光が弱ったり瞬いたりしたらやり直し。
 たったそれだけのことなのだが壁打ちより遥かに疲れる。

 そして朝のトレーニングは長距離移動で終える。
 "視"える限りの遠くを"視"て移動し、さらに遠くへとどんどん移動していく。"視"るのも移動するのも間髪おかず素早く、身の安全や周囲に迷惑が掛からないかを判断しながら移動していく。行ったことのない場所や足場の悪い場所へ移動するときに困らないようにするためのトレーニングだ。
 ヴィラン襲撃の時、移動する先々で環境に困惑したことを西岐は忘れていなかった。
 "視"て移動して、"視"て移動して。ひたすら繰り返す。

 順調にいっているつもりだったのだが。
 手首の傷が激しく痛んだ。
 集中力が切れ、着地点の位置座標が大きくずれる。

「わ、わ、わわ……――あだっ!!」
「――は?」

 突然視界に飛び込んできた自動販売機に思い切り顔面をぶつけて西岐の身体は止まった。

「つぅ〜……、あああああ……いたい、いたいよー」
「あんた大丈夫かよ」
「ん、ん、だいじょうぶじゃない、けど……ありがとう、おかまいなく」

 高速移動というものではないから大怪我をするようなぶつけ方ではないのだが、不意打ちで顔面を打ち付けたのだ。心が反射的に痛いと感じ取ってしまう。
 特に額と鼻が痛い。
 自動販売機に身体を貼りついたままずるずるとしゃがみ込み顔を押さえる。
 顔を上げられないまま通りすがりの人の声に手を振る。心配は有難いがこれは正直恥ずかしい痛みだ。

 自動販売機で誰かがドリンクを購入している。
 西岐が貼りついているにもかかわらず平気で買い物ができるのは結構すごいなと思いながら伝わってくる振動に身を委ねていると、頭に冷たいものが押し付けられる。

「これやるから冷やしたほうがいい」

 顔を上げて視界に入ったのはジュースのペットボトルと紫色の髪。
 西岐と変わらないくらいの歳頃だろうか。
 隈のせいで怖い目つきに見えるが向けられた言葉が優しくて西岐は警戒することなく受け取っていた。

「すぐそこにベンチあるし、座れば」

 手を引かれるまま大人しくベンチに座り直すと何故か彼も隣に座った。

「俺も休もうと思ってたところなんだよ」
「あ……そっか」

 あまりにじっと見すぎていたのか、彼は眉を歪めて嫌そうに言い訳して持っていたスポーツドリンクを口に運んだ。
 よく見れば彼も西岐同様トレーニングウエア姿だ。

「もうじきうちの学校の体育祭でさ気合い入っちゃってんの、俺」
「……雄英?」
「そ、まあわかるよな」

 額と鼻にもらったペットボトルを当てて同時に冷やす。
 そうしながら片目で見た彼は言葉とは裏腹にどこか自嘲的に思えた。

「あ……俺も雄英」

 ペットボトルの蓋を閉める彼の手がゆっくりな動きになる。

「ヒーロー科? 1-A?」
「え、うん、そうだよ」
「……はぁ……なんかそんな気がしたんだよな。すごい個性っぽいし」

 突然西岐が目の前に現れたことを指しているのだろうか。
 西岐はペットボトルを持つ手を下げる。額はもうさほど痛くない。ぬるくなった中身が揺れて小さな泡上がっていく。
 小さな公園の入り口にあるそのベンチで喧騒は遠く隣にいる彼の気配だけ強く感じてしまう。
 推察するのが苦手な西岐にもそこはかとなく滲んだ複雑な感情は伝わってきた。

「あんたの個性って何、瞬間移動?」
「あー……えっと、瞬間移動と、抑制と、封印と、幻影と……」
「まてまて、どういうことだ」

 何気なく個性を聞かれて素直に答えていいものか少し躊躇うが彼に嘘をつく気にはなれなかった。
 つらつらと並べていくと理解できなかったらしく待ったをかけられる。
 一つ一つ説明を求められて使える能力を説明していくと呆れたような感心したような声と共にため息を吐いた。

「すごいな。ていうかな、ついこないだ1-Aに殴り込んできたばかりなのにさ、なんであんたと仲良く座ってんだろ」
「え……殴りこんだの? なんで?」
「さあな、羨ましかったんじゃねえの」

 彼が他人事のように話しているせいで話の本筋が見えない。

「えっと……君はヒーローになりたいってこと?」

 言葉を選ばずストレートな質問を投げると彼の手の中で小さく水音がした。

「まあな。でもヒーロー科落ちてさ普通科にいんだよ」
「……そうなんだ、……君はヒーローに向いてそうなのにね」

 思ったことが思ったまま口から転がり出ていく。
 何を言ってるんだとばかりの目が向けられる。

「なんで?」
「え、優しいから」

 すっかりぬるくなったペットボトルを目の高さで振ると小さな泡がたくさん浮かび上がる。西岐の額を冷やすためだけに買われたそれはトレーニングをしている時に飲むには少々厳しい甘そうな炭酸飲料で、選ぶ時間も惜しんで適当にボタンを押したのだと想像できる。それだけ西岐を気にかけてくれたということだろう。

「すごく優しい、声かけてくれて、おでこ冷やしてくれて、ベンチに連れてってくれたし、お話もしてくれてるしいい人だよね、ありがとう」
「やめろ、もういい……」

 聞くに堪えないとばかりにペットボトルごとグイッと押されて遠ざけられる。
 耳と頬が赤くなっている。

「あんた名前は」
「え、あ……西岐れぇ」
「俺は心操人使」
「しんそうくんかあ」

 覚えるために口の中で繰り返すと心操の表情に少し笑みが浮かぶ。

「しんそうくんの個性はどんななの?」
「洗脳」

 即答で返された。
 洗脳という言葉を脳内に何度も浮かべてみるが今一つリアルに想像がつかない。

「洗脳?」
「そう」
「洗脳って?」
「西岐って結構バカなのかな」
「あ……そういうこというひとなんだ」

 分からないから聞いているのに説明してくれる気はないらしい。それどころかあからさまに馬鹿にされる。
 まあ賢くはないのだけれど。

「じゃあさ、俺にやってみてよ洗脳」

 それなら手っ取り早く分かるようにやってもらおうとそれだけのつもりで提案したのだが。我ながら名案と思ったのだが。
 心操の目が大きく見開かれ、絶句している。
 再び炭酸のペットボトルを目の前で振って見せる。
 散々振っているからこの蓋はもう開けられないなと思っていると、心操の手が西岐の頭を鷲掴みにして左右に揺さぶる。

「わ、わ、なに、なに」
「変なやつすぎてどうしていいかわかんないんだよ」

 ぶれる視界の中で心操の耳はやはり赤い。

「西岐さ、付き合ってるやついんの」
「え?」

 予想していなかった質問に思わず聞き返した瞬間に身体が動かなくなった。それだけではなく思考がどこか遠くに行ってしまったようで自分の支配下になかった。
 西岐を揺さぶっていた心操の手のひらが剥がれていくが実感のない夢の中の出来事のように思える。
 耳に入る音のすべてが分厚い膜を隔てているように聞こえる。

「俺の手握って」

 言われるまま手が勝手に動いて差し出された心操の手を握る。
 動いている手も触れている皮膚の表面も自分のものではないかのように感覚がわからない。
 どれくらいそうしていたのだろうか。
 不意にすべてが自由になる。
 触れている個所から心操の手のひらの熱が伝わってくる。ぎゅっと握り返された感覚もきちんと感じられる。

「これが洗脳」

 自嘲交じりの笑みが貼りついている。

「おおおおぉ……すごいいいい、これすごいよしんそうくん、しんそうくんはヒーローになれるよ、なるでしょ」

 感激のあまり心操の手ごと強く握りこむ。すごい個性を見て純粋に感動していた。
 他人を操作する類の能力を持つ西岐には心操の個性がとても近しいものに思えて嬉しかったのもある。
 心操が表情を歪ませた。
 何かを堪えるような目をして西岐の手をほどき立ち上がる。

「なるさ。体育祭の結果によっちゃヒーロー科への編入も検討してもらえる。だから本気で挑むつもりだ」

 力強いその物言いに西岐の心の何かが押される。

「あんたもさ、チートな個性持ってんだからそんな怪我したまま参加して手ぇ抜くなよ」

 心操に指摘されたのはリストバンドで隠した両手首の包帯で、しっかり気付かれていたらしい。
 これは西岐なりに意地で残していた傷だったのだが、彼の熱い気持ちを聞いた今、どうしてか恥ずかしくなってきて片手でもう片方を隠すように押さえた。

「な、治すよ。これはその……体力的な問題でリカバリできなかっただけだから」
「そうしろ、じゃあなまた体育祭で」

 言い訳がましい返答でも心操には満足だったようでちらっと見えた横顔は笑っていた。
 立ち去る心操をベンチに座ったまま見送りながら今まで感じたことのない熱い気持ちが湧いてくる気がしていた。
create 2017/10/18
update 2017/10/18
ヒロ×サイtop