インターン
アウェアネス



 眠りについたのはだいぶ遅い時間だったのに、空が白み始めた頃、目が覚めてしまった。
 エレベーターで一階に降りると自動で灯される明かりの中、キッチンに向かい冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。ペットボトルに口をつけてごくごくと勢いよく流し込み、その冷たさで目が冴えていく。
 いつもならそろそろ誰かがトレーニングに起きてきても可笑しくない時間ではあるが、昨日が仮免許試験で今日が後期始業式ともあってか、まだ誰も降りてくる様子はない。人がいるときなら気にならない程度の冷蔵庫のブンと唸るような音がやけに耳につく。
 こういう時間を過ごしているとまるで一人で暮らしているあのマンションと変わりないなと思ってから、西岐はふとシンクに置かれた誰かのカップを見て、考えを改める。姿がなくても痕跡はあちこちにある。誰かの私物が無造作に置かれている環境なのが西岐にとっては新鮮だった。
 適当に手にしたペットボトルを見下ろせば油性マジックで瀬呂と書いてある。やらかしたと思ったがもう口をつけてしまったからには仕方がない。手で転がしていたペットボトルを悩んだ末、ひとまず冷蔵庫に戻した。後で瀬呂に謝らなければ……。これがプリンだった場合、第何次プリン大戦争が勃発しかねない事案だ。

「おい」

 不意に声を投げかけられてハッと我に返る。どうやら目を開けたまま意識をどこか遠くに放り投げてしまっていたらしい。いつのまにか光源を遮るように爆豪が立っていた。
 おはようと言おうとして声が喉に引っかかった。

「……、……お、はよ」

 どうにか絞り出した奇妙な声に爆豪が訝しげに眉を寄せる。

「どうかしたのかよ」
「ん……えっと、……なんか……んー……」

 どう説明したものかと言葉を探している間に爆豪は冷蔵庫から牛乳を取り出して、残り少なかったのかパックに直接口をつけて飲み干した。ベコベコにパックを潰してから改めて「で?」と視線で問いかけてくる。

「俺、おかしいとこある?」

 言葉が足りてない自覚はあったがうまく言葉が探せなかった。
 爆豪の目が訝しげに歪んで西岐はたじろぐ。

「あ……いいの、なんでもない」

 パッと視線を外して取り繕うと爆豪の方からも視線が外された。掃除用具が入れてある戸棚からフローリングワイパーを出してダイニングスペースの掃除を始めるのを見て、喧嘩の罰として共有スペースを掃除しろと相澤に言われていたなと思い出す。けして手伝わないように、と念を押されているのでダイニングチェアに座って眺めることにした。
 昨夜は相澤に迷惑が及ぶのではという考えが湧いて感情的になったが、爆豪の抱えていた気持ちも分からなくはなかった。ただ、それがどうして緑谷に向かうのかとか、どうして喧嘩という形をとるのかとか、そういうのは理解できないままだけれど。西岐には知り得ない関係性なのだろう。

「オールマイトさんに聞いた?」
「…………ああ」

 何を、とは言わなかったし、爆豪からも聞かれなかった。片手をポケットに突っ込み、片手でフローリングワイパーを滑らせている。

「俺も知ってた」
「……そうらしいな」

 爆豪の鼻のところに少し皺が寄って手の動きが鈍る。

「なあ……クソデクならともかく、なんでテメェまでオールマイトのこと知ってんだよ」

 もっともな質問が飛んできて、さあどう説明したものかと頭を捻る。
 シートが擦れる微かな音が聞こえる。爆豪がキッチンの廊下の方へと段々移動していくが、返事が気になってかちらりと振り向く。

「オールマイトさんとは共有してるの…………秘密を」

 心を、とはさすがに言えなかった。

「まだなんかあんのかよ」

 爆豪の目にさっきよりもずっと強い怪訝な色が浮かび上がる。あれだけ暴れて暴いて、オールマイトから直接話を聞かされて納得して一夜を終えて、それでもまだ知らないことがあるのかと、動揺しているのがはっきりと見て取れた。
 オールマイトのことにせよ、自分のことにせよ、話せることはまだない。
 だから口をつぐんで爆豪の鋭い視線を真っ向から受けることとなる。

「お前さ……」

 爆豪は完全に掃除の手を止め西岐の方にズカズカと詰め寄った。

「お前、何者なんだ?」

 答えようのない問いが向けられる。

「あの暗間ってのはなんだ?」

 何度か口を開いては閉じるのを繰り返して結局どんな音にもならないまま、また引き結んで俯いた。それを爆豪の手が許さない。顎を鷲掴みにして強引に顔を上げさせる。

「わ……わかんない」
「嘘だな、ちゃんと俺の目を見ろ」

 視線から逃れられないほどの距離にまで詰められて、獣に追い詰められた獲物のように居竦む。

「ま、って」
「結構気長に待った。あの状態見せられて、いきなり暗間ってのが出てきて、訳わかんないことしてハイ解決しましたって? 納得するかよ」

 十日間。確かに随分待ってくれている。当事者が混乱の中にいたことと、仮免試験に向けて集中していたことでうやむやになり、何の説明もせずに日数が過ぎていた。昨日の一件もあって振り切ってしまったのかもしれない。
 爆豪の言い分は正しい。
 けれど、西岐には説明するだけのいろいろなモノが足りない。

「……まって………………こわい」

 声が震える。声だけでなく肩も小刻みに震えた。
 どういう表情をしていたのか自分では分からなかったが、爆豪が微かに目蓋を持ち上げ、顎を掴む手が緩んだ。

「力押しすればいいってもんじゃないと思うよ、かっちゃん」

 突然の声に振り返ると、緑谷が困ったような笑みを浮かべて立っている。

「チッ……」

 爆豪は行き場を失った手をポケットに戻し、風呂場に続く廊下の方へフローリングワイパーを滑らせながら行ってしまう。
 解放されてもまだ掴まれていた顎が痛い。かなり容赦なく力を込められていたようだ。

「デクくん、ありがと」
「ううん」

 緑谷も掃除の為に降りてきたらしく、戸棚から掃除機を引っ張り出す。騒音がみんなの睡眠の妨げになるのではと時計を見れば、思っていたより時間が経っていた。さすがにそろそろみんな起きてくる頃合いだろう。
 掃除機のスイッチに指をかけてから緑谷は思うところがあったのか、西岐を振り返った。

「話せる時が来たら、僕にも聞かせてほしい……れぇちゃんの話」

 ぽつり、そう言って、自分の台詞をかき消すように掃除機のスイッチを入れる。ソファースペースのカーペットに吸い口が当たって結構な騒音が鳴り響く。

 話せる時……その時が来るのだろうか。
 きちんと自分で認識して、飲み込んで受け入れて、打ち明ける勇気を持てるだろうか。
 考えないように放り投げていた沢山のモノが段々と差し迫ってきているような感覚を覚えて、そっとまつ毛を伏せた。
create 2018/04/03
update 2018/04/03
ヒロ×サイtop