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車内から降りてホームのコンクリートを踏む。
久しぶりに舞い戻ってきたこの地の空気は、やっぱりどことなく澱んでいる気がして。
田舎とまではいかないけれど、のどかで澄んだ空気の向こうとは色々と違う。
人も風景も、私の胸に湧き上がってくる気持ちも。

まだ恋人に返事をしないまま、どうしてか神室町に新居を探しに来てしまった。
返事どころか上司に話を断り辞める事も伝えていない。けれどまだ彼にしてもらった申し込みを受けていない。
宙ぶらりんな状態のまま、どうしてか足はここに私を運んでしまった。

前夜、ネットで物件を見ていくつかピックアップもして。
ダメもとで掲載していた不動産屋に連絡を入れれば、すぐにでもと言われてしまった。
そうして勢いのまま戻ってきてしまった。何も考えずに。

腕時計を見て、遅めの昼食を摂ってからでも約束の時間に間に合う事を確認して歩き出した。



候補にしていた物件以外に薦められた部屋も見て、どうなさいますか? の言葉に帰って検討します、と店を出た。
到着した時には青かった空も、すでにオレンジ色を通り過ぎて藍色になっている。
向こうに帰るための電車や飛行機はまだ充分にある時間だ。
すぐに駅に向かえば余裕を持って帰宅できるだろう。

なのにそれをせず、なんの目的も持たないまま道を歩いていた。
多分、私は何かを期待している。
それはしてはいけないものだと分かっているのに、勝手に体が動いているだけだと自分に言い訳までしている。

どれくらいフラフラと歩いたか分からないけれど、多少の空腹感を覚えて適当な店に入ろうとした時だった。


「なまえ?」


それは結婚を申し込まれたあの日、脳裏に蘇った声で。
待ち侘びていたものが何なのか知っていたくせに、それでも心臓が跳ねるのを止められなかった。
すぐにでも振り返って彼を瞳に映したいのに、それをしてしまったら最後になってしまうような気もして。
けれど徐々に動き出してしまっている体はとうとう彼の方に向いてしまった。


「お久しぶりです……桐生さん」


泣きそうなのを必死に堪えて、バレないように笑いながら彼の名前を呼んだ。

何百回も呼んでいたはずなのに。自分の声なのに。ただのひらがなの集合体でしかないのに。
どうしてこんなにもこの言葉は、ひどく気怠い甘さを含んでいるんだろう。

何回も呼ばれていたはずなのに。聞き慣れた自分の名前なのに。ただの文字が音になっただけなのに。
彼の口から零れたという事実だけで、どうして今でもこんなに胸を締めつけられてしまうんだろう。

自分の中でちゃんと終わらせられたと思っていた。
あの夜の記憶は、心の奥にある装飾された宝箱の中に唯一たったひとつだけ入っている。
それは今でもまだ光に反射して輝いている。

けれど忘れていたと思っていた久方ぶりに見た桐生さんの姿は、頭の中に残っていた形となんら違わなくて。
それは私がその像を、常に思い出せる位置に置いていたという事の紛れもない証拠でしかない。

道に降り注ぐ美しくないネオンが霞んでいる。


無理矢理に蓋をしていただけなのだと気がついてしまった。
そうしなければ、報われない恋にただ溺れていくだけの人間になってしまっていただろうから。
逃げ出すために見えないフリをして、やっと深く沈める事ができかけていたのに。

ここでなけなしの勇気を振り絞って桐生さんに想いを伝えて、玉砕するのもありなのかもしれない。
そうすればあちらで待っていてくれている彼のところに迷う事なく戻れる気がする。

そこまでしないと彼のために、今までの自分を捨てられないという事にも気がついてしまった。
どこまでも自分本位でずるく情けない人間なんだろう。

そんな事を頭の中で考えながら、器用に桐生さんとは近況なんかを教え合う変哲のない会話をしている。

早くこの場から立ち去ろう。
そしてもう二度と神室町に来る事はないようにしよう。
今度こそ完璧に、桐生さんに対する全てのものを閉じ込めて忘れるんだ。
それが自分にすら正面から向き合えなかった私ができる、恋人への最大の誠意だろう。

そろそろ、と言いかけた途端に腹の虫が鳴く。
食欲がなくても物理的に必要な物が足りなくなれば、体はそれを欲するようで。
最悪なのはその音が、自分だけではなく彼にも聞こえてしまったようだと言う事。
ふたりとも一瞬呆気にとられて、それから私はすぐに顔を伏せて言葉にならない言葉を懸命に紡ごうとした。
あまりの恥ずかしさに穴があれば入りたいなんかを通り越して、地球の裏側までに行ってしまいたいほどで。

うなだれている頭に手の平が乗る。
もちろん傍にいるのは桐生さんだけなのだから、その手は彼のもので。
ぎゅっと瞼を閉じてそれから窺うように顔を上げた。

彼は何か懐かしく、とりわけ見る事ができて嬉しいもののような表情を浮かべている。


「昔を思い出した」

「昔ですか?」

「ああ。お前がまだ学生だった頃、会う度にしょっちゅう腹空かせてた事だ」

「……そんな事覚えてたんですか」


あの頃は特別運動なんかはしていなかったけれど、勉強漬けの日々のせいか脳みそは常にフル回転していて。
そのせいかよく空腹を感じていた。
思い出せば確かに、桐生さんと会っていた時間の中で結構な回数のこの嫌な音を聞かせていたかもしれない。


「最初の頃は驚いたがそのうち慣れちまった。それでもなまえは毎回、こうして顔真っ赤にして俯いてたな」


些細な日常のほんの一コマに過ぎないのに、どうしてそんなにも鮮明に覚えてくれているんだろう。
私ですら思い出すのにほんの少しだけ時間をかけたのに、なんで。

胸の線が一気に細くなって、とても苦しくなる。
瞳の水面がせり上がって雫になり落ちないよう、眉間や目の辺りに力を込めて。

ずっと会ってなかったのに。他の人に心を明け渡していたのに。
それでもこの人はこんなにも簡単に、必死に押し潰して消そうとしていたものを生き返らせてしまう。
もう一度生まれかけているそれは明らかに以前よりも大きく、輝きを増してさらに醜くなっている事がすでに分かる。

早くこの人から離れなくちゃいけない。
恋人を、自分を裏切ってしまうその前に。


「夕飯まだだったら、よけりゃ久しぶりにあの店にでも行かないか?」


愛おしい声が伝えるそれは、残酷な褒美の言葉にも甘美な死刑宣告にも聞こえた。



食事をした店が、ふたりでよく行く場所の中で私が一番好きな所だったからと言って、それがなんだと言うんだろう。

終電がもうすぐだと言って店を出た。
駅までの道、近況は全て話し尽してしまい変わらない心地のいい沈黙を漂わせて歩いていた。
すると予報にはなかった雨がぽつぽつと落ちてきて、あっという間にびしょ濡れになってしまうほどの量が降り出した。
シャッターの閉まっている店の前に慌てて避難して、真っ暗な雨空を見上げた。

きちんと防寒をしていても全てが濡れてしまえば意味はない。
含んでしまった水分とやや強くなった風のせいか、今日で一番寒さを感じている。
これ以上着たりする物もないけれど、へたに体を擦ったりしたら桐生さんに気を遣わせてしまうかもしれない。
あえて背筋を伸ばしてなんでもないですよ、という顔を作って上を向いていた。

空気に乗ってではなく、もっと直接的に彼の煙草の香りに包まれる。
同時に人肌くらいの温度も感じて、肩に手を回せばコートとは違う感触。
すぐにそれが桐生さんのジャケットだと分かって、思わず彼の顔を見てしまった。


「どうした?」

「あの、これ……」

「寒いんだろ」

「でも、桐生さんだって寒いですよね?」

「今でもそれなりに鍛えてるから平気だ。気にするな」


無理に返す事もできたけれど、それをしても彼は受け取らない事を知っている。
さらにどうしようもない事に、ひゅるりと吹いたことさら冷たい風で気がついた。
桐生さんが今立ってくれている位置のおかげで、大分寒さが和らいでいた事に。

多分この無意識の優しさを受けているのは、私だけではない。
どんな人間だとしても、彼は懐に一度招き入れた相手にはとことん手を差し伸べてくれる人だというだけで。
分かっていてもやっぱりこうして、まるで大切な恋人にするみたいな事をされてしまうとどうしようもなくなってしまう。
最後になってしまうのだから、どうしても涙だけは見せたくない。
それから、この期に及んでもまだ臆病風に吹かれてしまって気持ちを悟られるような事はしたくなかった。

見られないように顔を背けていると、桐生さんがいる方の頬が妙に気になって。
ちらりと視線をやればばっちりと彼のそれと重なってしまった。


「お前は、成長したな」


その声は誇らしいような、喜ばしいはずなのにまるで真逆の思いを持っているかのような響きを持っていた。
そう感じたのは私自身が成長できていないと思ってしまっていたのと、彼の声自体がそうだったからで。


「……そんな事、全然ないです」

「……そうか。なあ」

「はい」

「……今、そういう奴はいるのか?」


桐生さんが何を聞きたいのかすぐには分からなかった。
それほど経っていないだろうけど、それなりの時間を要してから「そういう奴」が恋人の事を指しているのだと気がついた。

あえてずっと避けていた。
もちろん今の彼に恋人がいるのかどうかを聞きたくなかったわけじゃない。
むしろその有無は何よりも気になっていた。
けれどそれを聞いたところで私は何もできないし、逆に聞き返されたくもなかった。
桐生さんの口からもその話題は一切出ていなかったから、完全に油断していた。

一度口を丸く開いて、それから勝手に閉じてしまう。

今ここで嘘を吐いて一体何になると言うんだろう。
いないと言ってずっとあながた好きでしたと伝えて、それでどうなるのだろう。
どうなるも何か変化があってはいけないのだ、私達は。

それに、何があっても桐生さんに対しては誠実でありたい。


「……います」


まっすぐに彼を見て答えた。
多少は驚くかもしれないとは思っていたけれど。

あまりそうなる事がない目が大きく開かれて、眉間に皺が寄る。
何の予兆もなく急に湯が氷に変わってしまったかのように、桐生さんの表情が歪んだ。
最初は怒っているのかと思ったけれどよく見つめれば違う事が分かる。
どんな感情がそうさせているのか探ろうとした瞬間、それは消えた。


「さっき、こっちに戻るかもしれねぇとか言ってたが……そいつも来るのか?」

「いえ……彼はあちらが地元なので、その……」

「どうした?」

「――仕事を辞めて、結婚して欲しいと、言われました」


恋人がいる事ですら言うか言わないか迷ったのに、どうしてこの事まで伝えなくてはいけないんだろうか。
さながら自分がしてしまった悪い事を、親に報告しなくてはいけないような心境に近い。


「返事はどうするんだ?」


そんな私の胸中を知るはずもない桐生さんは、さらに答えを求めようとする。


「まだしてないんです。とても大事な事ですし……」


もう聞かないで欲しいとは言えなくて、精一杯の抵抗として顔を逸らした。

苦し紛れに空をまた見上げるけれど、雨足は弱まるどころかさらに強くなっている。
これ以上ここに、彼の隣にいたくない。
そんな事を思ったのは想いを抱く前から思い出してみても、初めてだった。

冷え切っていた腕をやけに熱いものが包んだ。
何かの力に引っ張られて思わずそちらを向けば、すぐ目の前に桐生さんがいて。

刹那よりは長くて、数秒というには短くて。
それでも確かに熱い手と同じくらい火照った唇が、冷えて色が変わってしまいそうになっていた私のそれに触れたのは分かった。

何か言わなくちゃと思うのに声は出ない。ならせめて何か行動をと思うけれどちっとも体は動いてくれない。
ただ表情だけが驚いている事を彼に伝えているようだった。


「……すまない」


雨の音も何軒もの建物を越えた向こう側を走っている車の音も、全てが消えて。
桐生さんが言ったたった四文字だけがするりと耳を通った。

どうして謝るのだろう。それは何に、誰に対してだろう。
聞きたい事がたくさんあってようやく私の時間が動きだした時、桐生さんの後ろの方から明かりが向かってくるのが見えた。
それがタクシーだと気づいた時には、彼が手を挙げてそれを止めていた。

オレンジ色の車体が止まって後部座席の扉が開く。
半ば無理矢理に中へと入れられて、運転手に駅までと伝えている桐生さんの声がした。
どうして、と言いたくて彼を見れば何も言えなくなってしまった。

ずっと強い人だと、手の届かない人だと思っていた彼が今にも泣きそうな顔をしていたから。
悲しいというよりむしろ苦痛を味わっているような、悔しいと言っているようなそんな印象で。
初めて見たはずなのにどこか既視感がある。
他の人がこんな表情をしていたんじゃない。正真正銘、彼のこの表情を一度見た事がある。


「幸せになれよ」


もう少しで思い出せそうなのに、それもできないまま桐生さんが離れて。
待ってと掠れた声が出て、絶対に届いていたはずなのにこちらを見ないまま。
ドアが閉まってとっさに窓ガラスに手をついて彼を見上げる。

透明な壁越しに私を見下ろす表情をいつ見たのかやっと思い出した。
神室町を離れてしまう事を相談した時、顔を上げたその一瞬だ。
あの時はすぐに驚きの色になったけれど、確かに今と同じ顔をしていた。

重なったままの視線が、窓に伸びる桐生さんの手を捉えて。
それが触れる前に車が発進した。

ギリギリまでずっと彼を見続けていた。
交わっていた視線は私が桐生さんを視界に入れている間ずっと、途切れる事はなかった。

背もたれに体を預けると、ぐちゃぐちゃだった頭の中が少しずつ整理されていく。
ひとつひとつが繋がっていくのと同時に見えるものが揺らいでいって。
ほんのわずかな温もりを持った雫が、手の甲に落ちる。

鞄から携帯電話を取り出して恋人にメッセージを送った。
明日の会社終わりに会ってその時に返事をしたい、と。




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Ash.