妻のいる円堂







円堂くんが結婚したと知らせが入った時、それが夢のような、作り話だと思った。
しかし他人のおめでたい話が嘘だったということはなく、友人の動揺した顔が真実だと語っていた。そうだね、私の好きな人、知っているものね。
私のことをとても考えてくれるから隠さなかった。私が成人して尚縛られていると分かっているから教えてくれた。傷つくことは免れない、けれども私が自由になるためには必要なことだった。
一日たっぷり遊んで、お酒を飲んで、最後に立ち話をした駅のホームで報告を聞いて、私はしばらく口を開けずにいた。ついに泣き出してしまった彼女に慰めの言葉をかけ、落ち着かせて、さよならをした。
ばかだね、失恋したのは私なのに。

「私のこと好きすぎだよ」

10年以上つきあってきた友人の考えなんてお見通しなんだ。
彼女を巻き込んでしまったとも、彼女が飛び込んできたとも言えるこの失恋は私だけのものじゃない。私が悲しんで終わりという簡単なものでは無くなった。
私たちの長い長い初恋は、円堂くんの見えないところで終わる。

お風呂を沸かして洗濯もする。寝るための身だしなみを整えて、明日の準備をして、いつもと変わらない動きをした。いつもの同じ繰り返し、そう努めたけれど音もなく流れる涙だけは止められないまま布団に入ることになってしまった。
豆電球だけを残すとオレンジ色の光がぼんやりと浮かび、脳裏に男の子が浮かび上がる。

円堂くん。
円堂くんが好きだった。
背中を押してくれるあの笑顔がなによりも好きだった。
好きだったと、降り積もった思いを全て過去のものとして表さなければいけないことが、この渦巻く激情を加速させる。円堂くんへ向けていた好意が行き場を失い、しかし消えることもなく、大して容量の無い胸の内に溜まっていく。

私が彼以外に恋することができない間も、女の子と仲良くなり、恋人という期間を経て、将来を誓うことに至った円堂くんのこれまでを想像した。私は一体何をしていたんだろう何を成したんだろう、そんな虚無感と、様々ななにかに置いて行かれた孤独感に耐え切れず嗚咽をあげる。

後悔。
10年分の後悔が襲ってきた。
円堂くんと出会ったあの場所、あの時間。大切にすべきだった青春の時間。
できることがあった。後悔しないために、しなければいけないことがあった。

何もしないことで生まれる後悔は、身をかきむしりたいほどに痛いと初めて知った。




――夕日差す教室の中に、ガラスの砕ける音が響いた。
真っ白い陶器がひび割れバラバラになり、入っていた水と、小さく花開いたかすみ草が投げ出され、やがて傍で立ちすくんでいた生徒の上履きを濡らした。声にならない声をあげた生徒――名字の顔はたちまち血の気を失った。

学校のものを壊してしまった。クラスの子が有志で持ってきてくれた花がぐしょぬれになってしまった。
美化委員として活動していた名字はすぐに担当の先生を思い浮かべた。美化委員会の担当教師は学園の生徒指導主事であり、その厳しさは生徒の間では有名であり入学以来怒られたことの無かった名字でさえよく知っていた。知っていたからこそ、血の気が引いたのだ。

「ど、どう、どうしよう、どうしよう、怒られる」

日頃大人しく、聞き分けのいい名字は目立たなくとも怒られることは無かった。周囲を見て、同じようなことをして、そしてルールを守っていれば穏やかに過ごせる。穏やかに、が大好きな名字だからこそ怒られることに免疫が無く、よく生徒を怒鳴り散らしているその先生はひどく苦手だった。この美化委員会だって担当を知っていれば入らなかった。

鼓膜を揺らす低い声が、まっすぐに自分へ向けられるところを想像して胃の底が押し上げられたように苦しくなる。
必死に考えを巡らせて、とにかく片付けなければと床に膝をついた。
飛んだ破片を一か所に集めるために、素手で掴んで引き寄せる。膝が濡れ、気持ちが悪いとずらしてみれば欠片を踏んだようで刺すような痛みが走る。

「いった!」

膝に気を取られ、破片を力強く握ってしまい声を上げた。指先から染み出すように赤い液体が現れ、あとから痛みがやってきた。
どうして次から次へと。
ただ破片を集めるだけなのに何故こうも上手くいかないのだろうと自己嫌悪し、名字は泣きたい気持ちだった。

そして今、教室の戸が開けられ一人の男の子が現れたのだが、暗く落ち込んでいた名字は気付かない。男の子は名字のただならぬ様子を見止めると、ついに声をかけてきた。

「名字大丈夫か! どうしたんだよ」

張りのある大きな声が背中にかかったことで名字はようやく彼の存在に気付き振り返ると、見覚えのある顔だと立ち上がった。

「円堂くん……」

彼、円堂守は名字の数メートル離れたところに立っており、しかめられた顔から心配しているということがよくわかった。
円堂とは会話をしたことはほとんど無いが、今年度の美化委員会で知り合った。同じ学年だが違うクラスで、円堂によれば居眠りをしていて気付いたらこの委員会だったそうだ。居眠りの件が先生に届いていたようで怒られている姿をよく覚えていた。

「あっ、花瓶!」
「お、落としちゃったんだ……わざとじゃないんだけど! その!」

残骸を見つけた円堂に慌てて弁解をするように言葉を続け、身振り手振りで主張する。手を前に突き出して否定するように振っているといきなり距離を詰めてきた円堂に腕を掴まれた悲鳴を上げた。

「えっえっ!」
「お前血が出てるじゃないか!」
「これはさっき拾ってた時に切っちゃって」
「オレ拾うから、拭いてなよ」

円堂が持っていたタオルを名字に投げると教室の隅に積まれた新聞紙をとって広げた。昼間の書道の時間で使ったものの余りだと名字は思い出す。しかしすぐに手元にかかったタオルの感触に意識が移り、慌てて円堂に返そうとした。
しかし円堂は一度動きを止めると「まだ使ってないからきれいだぜ!」と笑うが、当然そういうことではなかった。

「だめだよ、使えない! 私が割ったんだから、やらなきゃ!」
「何言ってんだ、また切ったらどうすんだよ。俺の手はすげえシュートを受け止めてるんだ! 任せとけって」
「でも」
「指が大丈夫そうだったら、拭いたあとで手伝ってくれ!」

学ランの袖をまくりながら、大口を開けて笑う円堂に名字はたじろいだ。
円堂はサッカー部のゴールキーパーで、最近はめきめきと上達し試合に勝ち進んでいると聞いていた。言う通りその手は皮が固そうな色をしており、名字が拾うよりもずっと安全だろうとわかる。
だが、しかし、割った張本人が善意の人間に任せるのは情けない話だと思ってしまうのだ。

ひとまず指先を見てみると、零れることはないものの血液が玉を通り越して水たまりを形成していた。少し迷ったものの、破片を拾い始めた円堂に早く合流したいと意気込んでタオルに押し付けた。
タオルに血を吸わせてから傷口を見て、軽く触れたりするが破片が入り込んでいる様子はない。

「円堂くん、ごめんね。部活もあるのに」
「ん? ああ、今日は休息日なんだ。おさらいとか、軽く基礎練習してもう終わり。オレは忘れものをして戻ってきたんだ」
「休息?」

不思議に思った名字が円堂の背中に声を投げると、下を向いたまま返してきた。

「ああ。教わってる人に言われたんだ。練習は絶対だけど、本番に備えて元気を蓄えるのも必要だって」
「へえ……確かに疲れたままじゃ出せる力も出せないよね」
「なあ指大丈夫か?」
「へ、あ、まだ止まらない……ごめん……」
「拾うのは任せとけって言っただろ? 名字はしっかり押さえておけよー」

しかしその後円堂に言われた通り圧迫を試みるものの、なかなか血が止まらず、ようやく絆創膏が用を足せそうになったのは円堂が集め終わり、水を拭くための雑巾を探す頃だった。

「やっと止まった! あとは私がやるからいいよ、ほんとうにありがとう」
「ん。じゃあ一緒にやるか!」

血は止まったし絆創膏も貼ったというのに円堂はかたくなだった。一度関わったことには最後までやり遂げようとするのは練習を見ていてなんとなく感じていたが、このように全然関係の無いことにまでこうして力になってくれるのはとてもうれしかった。
名字は円堂に変わって雑巾をとり床を掃除し、円堂は破片を包んだ新聞紙にテープを貼っている。
また後で差すためにかすみ草を優しく新聞紙で包んでいると、ふと円堂が話しかけてきた。

「ところでこの後、どうするんだ?」

名字はその言葉の真意を少し考え、あっと声をあげた。
花瓶を割ってしまったのだから、報告をしなくてはいけない。証拠隠滅という選択肢は名字の中には初めから存在しておらず、先生に報告という一択だ。
しかし美化の先生を姿を思い浮かべて身震いをしてしまう。
青ざめはじめた名字を見て円堂は「だよなあ」と困ったように笑った。

「い、言いにいかなくちゃ……あああ……こわい、こわすぎるう……」
「足すごい震えてるぞ。小鹿みたいだな」
「いっそ小鹿になって見逃してもらいたい」

円堂が来たことで感じていた恐怖を忘れていたが、今更になって蘇ってきた。胃袋がきゅーっと縮みあがり、悲壮な表情は誰から見ても可哀そうに思えるほどだ。
円堂は怯える名字を見つめると、突然手を振り上げた。驚いて声を上げる間もなく振り降ろされるが、その衝撃は思ったより優しくかつ力強く背中に叩きつけられた。

「大丈夫だ!」

円堂は背中を叩くとそう言い切った。

「わざとじゃないんだろ?」
「も、もちろんだよ! あんな綺麗に飾ってあったのに、壊すなんて!」
「だよな。オレが拾ってる間、ずっと困った顔して、はやく戻ってこようとしていたお前がそんなことするもんか! ちゃんと謝れば先生だって許してくれるさ」

円堂の言葉を聞くと、胸の中に不思議な感情が湧きあがってくるのを感じた。それは震える足をおさえ、丸まった背中を徐々に立ち上がらせてくれるもの。
名字はどうすればいいのだろうという不安よりも、誠心誠意伝えれば大丈夫とだという前向きな気持ちが勝ったことにより、湧きあがった感情が勇気であると悟った。

「名字がいいやつだってオレが分かってる! なんなら一緒に行って、疑われたら言ってやるぜ!」

最後に円堂は歯を見せて大きく笑った。
彼が自分を信じ抜いてくれるならきっと何だってできる。ただの委員会仲間でしかなかった円堂だが、今では信頼に満ちていた。

「……うん、やってみるよ。行ってくる!」
「おう、行ってこい!」

名字は教室を出ようとする寸前円堂を振り返る。
円堂はずっとこちらを見ていたようですぐに目は交差した。

「ありがとう、円堂くんのおかげで勇気が出たよ!」

そしてそのまま職員室を目指し一目散に走っていた。

「全部おまえの力だよ、名字」



――結果は円堂の言う通りだった。
職員室に入った名字は声をかけ、こちらに目をやった担当の先生にすぐに「花瓶を割ってしまいました。すみませんでした!」と頭を下げた。思いのほか大きかったようで周囲の先生が視線を寄越すが頭を下げたまま強く目をつぶっていたので気が付かなかった。
先生は暫く黙った後名字の肩を叩くと、「怪我はなかったか?」と声をかけた。
怒られるどころか、身を案じられるという名字にとって予想だにしていなかった展開だ。
少し指を切ったことだけを伝えれば、消毒を忘れるなとか、保健室に行けとか、そして最後に花瓶は気を付けて触れと、ほんの少しだけお小言を貰って職員室を出ることになった。

「……」

そういえば、と思い出す。あの生徒指導であり美化委員会の担当である先生はたくさん怒るけれども、以前遊んでいたら窓ガラスを割ってしまった生徒にも一番初めに「怪我はないか」と声をかけていた。
遊んでいたことが原因なのでその後怒鳴っていたが、彼は怒ることを第一にしてはいなかったと気付いた。
いいやむしろ怒るというのは、案じられることのひとつなのではと、名字は思うのだった。

その後教室へ戻ると、円堂は既にいなかった。
お礼を言って、――円堂さえよければそのまま一緒に下校したかったのだが、仕方ないだろう。
よく見てみれば新聞紙で包んだかすみ草はそのまま残っているが、掃除用具や破片が入った新聞紙はそこには無く、代わりに紙切れがひとつあった。
拾い上げてみると、大きくそして失礼だが雑な字が書かれていた。

『名字へ。友達待たせてるから帰るよ。でもオレの言う通り大丈夫だっただろ? 悪いけど白い花は片付けてくれないか。後はやっておいたから大丈夫だと思う。また明日な!』

最後に人のような絵が描かれており、怒っている様子からもしやあの先生の似顔絵ではと察し、あまりにも下手すぎる絵につい笑ってしまう。
頭の中に浮かぶのは円堂の笑顔だ。なんだかとてもかわいく思えた。でも先ほどあんなにも男前に私を励ました彼とまったくの同一人物なのだ。

「円堂くんってすごいなあ」

その日は今までにない充実感を抱えて帰ったのである。



――甲高い電子音が耳に飛び込んできて慌てて身体を起こした。
いつもの布団、いつもの部屋、24歳になった私の城だった。

懐かしい夢を見た。失恋した次の日に10年前の恋の瞬間を夢見るなんて、上手くできているものだ。なんだか映画を観客として見ているような気分だったが、夢だったからかもしれない。
ありがたいことに今日は休みの日で、この腫れぼったい目を休ませるには十分な時間があった。
そういえばあれから私は円堂くんに積極的に仲良くなろうとしなかった。だから今の今まで片思いしながらも玉砕もなく諦められずにいたのだ。どうしてだろう……そう考えて、マネージャーの存在を思い出した。

「あああ、そうだ、木野さんたちがすごい可愛かったからだ……」

サッカー部のマネージャーは恐ろしいほどに可愛い子揃いだった。メンバーの中の半分以上が円堂くんを想っているのを察してしまい、ほどよい距離感の友達に甘んじてしまったのだ。

友達と言っても、高校も同じ所へ進学したがクラスが違ってしまったこと、プロリーグへの期待で忙しくなった円堂くんを見て距離を置いてしまった。円堂くんがどんどんサッカー仲間を増やしていくのも、きっと私なんてと思ってしまった理由の一つだった。円堂くんの試合を見てきた私はどんどん彼の魅力に取り込まれてしまい、いつのまにか彼以外の人に恋をすることができなくなっていたのだから、やるせない。

その日は何も身に入らず、無為に時間を過ごしてしまった。夕方になり夕日が差してきたことでなお切なくなり、私は気を逸らすためにお酒を飲みに行くことにした。
適当な恰好でいいやと思い量販店のシャツを取り出したが、なんだか悔しい。身だしなみがぐずぐずどろどろのまま出てやろうという気持ちがみるみる内に萎んでいき、シャツを戻して今度は一張羅を引っ張り出す。
タートルネックでノースリーブのワンカラートップスにタイトスカート。私の背筋を伸ばしてくれるけれど、あわせてン万円の服を居酒屋に着ていくなんてもったいない。

けれどおそらく、私は虚勢を張りたかった。円堂くんを想った10年間は私の誇りだと思いたかったのだ。

居酒屋の戸を開けるとなかなかの賑わいだった。たくさんのグループがそれぞれで笑い合っており、混ざりあって何を言っているのか分からない。この喧噪を求めていた、周囲が騒がしければ不思議と冷静になれるものだから。
カウンター席に座って、甘いミルク系のお酒を頼み、飲んでいく。素直に美味しいと思える飲み物が喉を通っていくと、不思議と肩の力が抜けた。今まで力が入っていたのだとそこで気が付いた。

胃が慣れてきたところでもうどんどん飲んでしまうことにした。

――円堂が店に入り始めに目についたのは、カウンター席で突っ伏している女だった。

「ほんっとーに信じられないんですよお! なんかもう、なんかもうね、何勝手に結婚してんだって!」
「あの、ご注文は……あの……」

店員が小さなバインダーを片手に困り果てており、おそらく注文の際に酔った彼女に捕まったんだろうと円堂は察した。
結婚と言えば、自分も最近したばかりなのでつい敏感に反応してしまい、目線を外せずにいる。
今日は帰国して以来久しぶりに地元の子どもたちとサッカーをし、こみ上げる懐かしさで物思いに耽りたい気持ちだった。取りあえずと一人で飲もうとこの居酒屋に足を踏み入れたのだが、テーブル席は埋まって彼女がいるカウンター席しか無さそうで、少し失敗したかもしれないと悔やんだ。

やがて女は勢いよく顔を上げると「カルーア!」と宣言し、あの勢いにしては随分とかわいらしい酒を頼むんだなと思ったところで――ひどく驚いた。

「……名字?」

服装も髪型も変わり、濃いめの化粧を施しているが円堂は彼女が元クラスメイトの名字だと分かった。彼女の顔は今だって覚えている、やりとりでさえしっかりとだ。
――だってよく見ていたのだから。

名字の顔はもう何杯も飲んでいたのか真っ赤になり目は殆ど閉じている。子どもならもう寝ていそうな今の時間だが、一体いつから飲んでいたのやら。机の上は今でこそひとつも乗っていないが、飲んできたグラスの水滴でぐしょぬれだった。
あの時花瓶を割った時の方が、今よりまだ平常心に近かったんじゃないか?
つい円堂は彼女と知り合ったばかりの頃を思い出した。

円堂は名字をよく見てみるが、おそらく一人きりで、気合の入った服装で、こんな状態にまでなっているのは円堂でさえ危ないと感じた。このままにはしておけないなと隣に腰かけるとビールを一杯だけ頼みまた隣を見る。
泣いたらしく目の下がわずかに黒く滲んでいる。円堂の妻となった人も映画を見て泣いては化粧の滲みを気にしていたのを思い出し、今は酔っている彼女が素面になって気付いたら慌てそうだ。

「なあ名字、どうしたんだ」
「んん〜」
「結婚って、もしかして失恋したのか?」

もしかしたら、付き合っていた男に浮気されそのまま結婚したということもあり得なくないが、そこまでの発想は円堂に無いし言いづらいものだ。
名字は唸りながら円堂を見ようとするが、ほとんど開いていない目では分からないだろう。

「だれですか」
「円堂だよ。円堂守、こっちに戻ってきたんだよ」
「円堂くん……」
「良かったら話してみろ、よっ!?」

名字はオレを覚えていた! そう確信して続きを促してみると突然手を背中に振り下ろされた。その衝撃に円堂はぐっと身体を丸める。

「うそですね」
「えっ!?」
「円堂くんがここにいる訳ないじゃないですか。今頃奥さんと楽しくやってるんだからさあ! そうやって惑わすのやめてくれませんか?」

名字の据わった目は確かに円堂を見ていたが、円堂を見てはいない。完全に別人だと思い込んだ彼女は円堂にそう捲し立てた。
これは困ってしまい何と言えばいいかわからなくなってしまった。

「惑わしてなんかないよ、どういう意味だ……飲み過ぎだって」
「10年間ずっと好きだった人がいたんです」
「え?」

妙に動揺した。
10年間。それは子どもが大人になるには十分な時間。そんな若者にとっては膨大な期間、ずっと一人に恋をしていたというその告白に身体が固まった。
今から10年前といえば二人が知り合ったまさに14歳のあの頃。そんな時から彼女はずっと一人に思いを寄せてたというのだから――じゃあオレが何をしても意味がなかったのか?

「ふうん……そうなのか」

円堂の声はこわばっている。

「高校の時だってずっと見てたけど、かっこいい男の子もかわいい女の子もたくさん周りにいたから私なんて眼中に無いだろうなって結局踏み込めなくて」
「そいつはずいぶん贅沢なやつなんだな」
「何もできないまま、つい最近結婚したって聞いて、ずーっと恋愛できなかったんだから責任とってほしいくらいです」
「それでこんなに飲んでたのか」
「あっカルーアきた!」

近づいてきた店員から酒を受け取り名字は再びあおる。
妻のいる円堂から名字にしてやれることは無いが、話の吐き出し口ぐらいにはなれるはず、それぐらいはしたっていいだろうと円堂は見守っていた。
そういえば自分の結婚について名字は知らないだろうか。ずっと話していなかった彼女に当てつけのようにしてハガキを送ってやりたいのが本音だったが、結局送らずじまいだった。伝えたら少しは反応してくれるだろうか、せめて今の状態の十分の一くらいは期待したいのだが。

「同じ中学だったのか?」
「でも違うクラスで、委員会がおなじだった」
「委員会? じゃあオレも知ってるかもしれないな」
「……」

考え込んでいるのか名字の言葉は止まる。
やがて小さな声で呟いた。

「なんで結婚しちゃったの、円堂くん」


――驚きが声に出ることはなかった。
ただ、酒の残りをあおる名字を見つめたまま先ほどの言葉を反芻するだけだった。
心臓の音が遠く聞こえる。何度も何度も反芻して、言葉の意味を読み解いて、どう努力しても辿り着く答えがひとつしかないことを察して漸く、心臓が爆音を鳴らし始めた。

「……知ってたのか?」
「あ、すみませーん焼酎の――」
「まだ飲むかお前! 帰る、もう帰るぞっ!」

しかし注文を始めた名字に無理矢理思考を戻され慌てて止めさせた。伝票を引っ掴み、いやいやと首を振る彼女の引き摺って出口まで向かう。
お愛想の際に名字の支払いをするがその金額に、改めて飲み過ぎだと叱ることにきめたのだ。

外に出れば気持ちいい夜風が吹いていた。円堂は財布を見つめながら話しかける。

「タクシー……の金は無いな。名字、家どこだ?」
「ここお」
「近い、画面近い!」

スマホの画面を至近距離に寄せてくる名字を押し返し、見えた住所を地図アプリに入力する。ありがたいことにここから歩いてすぐのようだが、円堂が引っ張り上げないと座りはじめる名字には無理だった。
オレじゃなかったらどうするつもりだったんだ? 円堂は溜息をついた。どうせ今円堂を認識できていない名字にはこの苦労が分からないし、覚えていないのだろう。
負ぶっていこうとするが、タイトスカートから伸びる足を見て慌ててジャージの上を脱いで彼女の腰に巻き付け、ようやく背中に乗るように声をかけた。

「わあい広い背中ー」

抵抗なく乗ってくれた彼女の足に手をかけ一気に引っ張り上げ、円堂は歩き出した。
名字は乗り心地がいいのか頬を押し付けたまま鼻歌を歌っており、円堂はそれを静かに聞いた。

「ん〜……円堂くん……」

夢うつつの蕩けた声で名字が呟くのは、彼女を負ぶっている自分の名前。
やはり先ほどのことは夢でも嘘でもなかったのだと覚えざるをえない。
じゃあ10年間、ずっとオレを。

――名字がよく自分を見ていたのは気付いていた。何故なら円堂もまた、名字を見ていたのだから。
ただの委員会仲間から、花瓶を割った彼女を励まして以来友達と言えるような関係だった。名字が話しかけたり、円堂が話しかけたり相互に働きかける関係で、不思議と部活仲間がいた時は彼女の姿は見えなかったが、先ほど溢した男も女も周りにたくさんいるという発言が関係しているのだと今は分かる。
恋をしていたわけではない。でも話し方とか、心配になるほど臆病なところとか、オレを気にしていてくれたところとかが気になっていた。

「ひどいよー……もっと話したかったよ……」
「おまえだってひどいよ」

オレだってもっと話しかけたかった。もっと話しかけられたかった。
名字の意識がはっきりしていないことを言い訳にし、円堂は言えなかったことを口にした。
電灯が感覚をあけてぽつりぽつりと点いておりぼんやりと二人を照らし、切ない思いをより強い物にした。

「試合にだって行ったのに」
「だって名字、来てくれなかったじゃないか」

名字が学生時代試合に来てくれていたのは知っていた。だって友達――それ以上の――だったのだ、すぐに彼女を見つけることができた。
でも試合後に探してみるともうその姿は無く、何故かいつも帰ってしまっていた。一度試合後に姿を見つけ目が合うこともあったが手を振る前に彼女は走っていってしまったのだ。
――もう無理だ。もう踏み込んではいけないんだとオレはその時思ったんだ。

「円堂くん……素直にお祝いできなくて、ごめんね。ごめんね……」

円堂は妻を愛している。これは変わらない、何があっても守ってやりたい一人の女性だ。
だから今頃名字の気持ちが分かった所で、妻のいる円堂にできることはなにもないのだ。

「……結婚おめでとう、円堂くん」
「……おう」
「幸せに、なってね」
「……ああ、なるさ」

家につくまでの残り数分間。
10年間を振り返るにはあまりに短い時間を、今はただ二人きりで過ごすのだった。







2017.8.22










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