過去に振られた女と円堂






「私は理事長の娘の雷門夏未。ようこそ雷門中へ、あなたを歓迎するわ。これは理事長の言葉と思って結構です」


目の前に背筋を伸ばして立つ少女に手を差し出され、慌てて握手を返す。
この美しい少女を一方的に知っていた。思い出の中の幼馴染を長く支えたマネージャーの一人だった。
挨拶には十分な時間握手をしたので手を離しながら、考えを口にした。


「あの……円堂守くんは、何組ですか」

「あら、彼を知ってるのね。……これだけ有名なんだから当然ね。残念だけど、二組よ」

「え? あー、そう、同じクラスじゃなくて残念だなあ、ははは」


どうやら雷門には勘違いされているらしいと一瞬眉間に力が入る。
――しかし結果的にはこれがベストかもしれない。
表面上では残念な表情を見せ、しかし心では円堂とクラスが違うことに安堵しながら、名字名前は空笑いしたのである。





「転校生ぃ?」

「うん。一組らしいわ」

「夏未たちのクラスかあ」


円堂が教室に入ってほどなくして木野が転校生の話を始めた。
円堂は転校生と聞くと少しばかり目を輝かせる。それはこれまでに豪炎寺、土門、鬼道やアメリカへ帰った一之瀬という、サッカーに馴染み深い転校生が多かったからだ。
もしかしたらまたサッカーに明るい人間かもしれない。
円堂は期待に胸を膨らませ、高らかに宣言した。


「その転校生見に行こうぜ!」


円堂は昼休みになるとすぐに行動に移した。
木野、豪炎寺、風丸や半田といった面々を引き連れ一組の扉の前に立つ。
豪炎寺は興味が無いのか、しきりに「帰っていいか」と囁いているが円堂には都合よく届いていない。転校生、イコール、サッカーという方程式を立てる切っ掛けだという自負があるためかついに口を閉ざす。


「どんなやつかなあ、FW? MF? DF? GKでもなんでもいいや!」

「円堂くんまだ決まったわけじゃないから落ち着いて」

「よっしゃ開けるぞー!」


木野の一声も功をなさず、円堂は気持ちを高ぶらせながら扉に手をかけ横に引く――が、やけに軽い感触に、向こう側からも誰かが開けたことに気付いた。
木製の扉が見えなくなってすぐに円堂は一人の少女と目が合った。

一瞬だけ呼吸が止まった。
少女に強い既視感を持っていたのだ。
記憶の奥底に仕舞い込みながらも常に存在を意識し、思い出しては惜しみ、悔やみ、もう会えないと思っていた幼馴染が――手の届く場所にいた。
随分と雰囲気が変わったが円堂は確信を持っていた。


「あ……名前っ」

「きゃああああああああああああああ!!」

「うぐっ!!」


円堂が名前を呼んだ瞬間、名字は喉が張り裂けんばかりに悲鳴を上げた。
そして右足を思い切り振り上げ――これは強烈なシュートの構えだ――円堂の横っ腹に蹴り込んだ。
円堂の身体は宙に浮き数メートルほど飛んでいく。白く明滅する世界の中、名字が脇目も振らず走り去っていく姿を見て胸が痛くなる。

――かつて自分に告白してくれた女の子に逃げられるというのは、かくも辛いものだと円堂は理解した。




円堂と名字は幼馴染だった。
毎日のように日が暮れるまでボールを追いかけ、二人で全身泥だらけになったものだ。
円堂は祖父への憧れからGKを、名字はしんがりの鮮やかさに惚れてFWを想定してゴールを争った。
実力から言えば名字は小学生の女の子にしては光るものを持っていた。円堂は中々名字のシュートを止められず、何度も挑戦してまた彼女もそれに応えた。


「いつか絶対、名前に勝つからな!」

「私も絶対、負けないんだからね、守くん!」


夕日の中で白い歯を見せて笑う彼女がとても好きだった。

名字との別れは突然だった。
小学六年生の春、彼女の転校が決まったのだ。


「お前がいなくなっちまうなんて、俺考えられないよ……」

「私もだよ……守くんと、ずっとサッカーしてたい」


夕日に包まれる河川敷で二人の空気は随分と寂しいものだった。
互いが互いを必要としているのが痛いほどに分かっていた。


「守くん、ずっと言いたいことがあったんだ」

「何だ?」

「……守くんが好き!」


名字の顔は夕日と同じ色だった。
円堂はその言葉を聞いて胸が熱くなるのを感じた。衝動のまま口を開けば、同じ言葉が出た。


「俺も名前好きだ!」


名字は始め信じられないという表情をしたが、すぐに円堂の言葉を噛みしめて涙ぐんだ。お互いの気持ちを確かめ合い、二人の絆が強まるのを感じる。
そう、俺たちはずっと友達だ――これが最大の食い違いだと気付くのは、後日だった。


「円堂! 名字と付き合ったんだって!? 手は繋いだのか!」

「……何のことだ?」


円堂が登校するなり同じクラスの少年たちが詰め寄ってきた。
聞けば円堂が名字と付き合ったという話で、円堂にとって全く心当たりが無く即座に否定した。


「女子の間で話題になってるぞ」

「はあっ!? 付き合ってないし名前はそういうのじゃないって!」

「えっ……」


微かに聞こえた戸惑いの声。円堂が視線を移せば少女たちの向こう側に名字がいた。
円堂は安堵した。名字に説明してもらえればこの誤解は解けるだろう――そう思ったが、彼女のいっそ青白い顔を見て、円堂は口を閉ざした。


「……あ、私たち、付き合ったんじゃ、ないの?」


ここでようやく、円堂は根本的に名字との間に食い違いがあったことに気がついた。
この時点ならばいくらでも平和的解決ができる言葉を選べたのだが、円堂はそれができなかった。
幼馴染と恋愛的関係であると自分以外の全員思っているという事実に羞恥心が高まり、それを否定することだけに集中してしまった。


「俺たち友達だろ? それに、名前は男みたいなもんだろっ」


――円堂にとって、名字はどこまでも幼馴染だった。
共にボールを追いかけ、泥に塗れ、夕日に包まれながら手を叩く。
友達。ライバル。仲間。かけがえのない存在が名字だ。
けれどもその意図は正しくは伝わらなかったのである。

円堂の発言に空気が固まる。
やがて名字は静かに泣き出し――謝ることもできないまま、稲妻町を去っていった。

連絡先さえ教えてもらえなかった。見送りに行きたいと言えばただ一言、「来ないで」。
このときの円堂にできることは、もうなかったのである。


時は戻り、名字から強烈な蹴りを食らった円堂は保健室で、かの光景を目撃した木野、風丸、豪炎寺、鬼道、半田の五人に囲まれていた。雷門も一組であったが、丁度生徒会の仕事で不在だった。もし彼女がそこにいればすぐさま理事長まで話がいっていたに違いないと密かに安堵している。
何があったのかと詰め寄る彼らに円堂はその過去を静かに語った。


「……とまあ、こういうことが、あって」


語れば語るほど、あれほど言葉を選び間違えたことはないと後悔した。
もうすぐ三年が経とうとしているが、中々乗り越えられずにいる。
話を終えた円堂を囲む者たちは皆一様に口を閉ざしており、円堂はなんとなく、それぞれの考えを想像することができていた。
鬼道が口を開く。


「円堂、それはお前が悪い」

「うん、俺もそう思う……」


想像通りの言葉が飛びでてきて円堂はがっくりと項垂れる。
そんなこと、言われなくとも分かっている。
いくら恥ずかしかったとはいえ、真実でなかったからといえ、選ぶべき言葉ではなかった。


「俺のクラスに転校してきたあの女が、円堂の知り合いだったとはな」

「まさか会って早々叫ばれて蹴られるほど嫌われてるなんて、うおおお……」

「円堂くん……」


頭を抱えた円堂に木野は心配故に眉をひそめた。しかし木野も鬼道に同意見だったため、適切な言葉が見つからずにいた。
円堂は女子の恋愛感情に鈍感だと身を以て知っているが、同じことを言われたらおそらく悲しくなるだろうと木野は想像する。
やがて半田が大げさに騒いだ。


「ま、まあ、円堂が今まで女子関係でトラブルが無いのが不思議なぐらいだしな! こういうこともあるって!」

「半田、それじゃあ円堂が軟派みたいだぞ……でも言いたいことは分かるぜ」

「風丸余計なことは言うんじゃない」


鬼道が風丸を咎めた。
豪炎寺はその空気感が理解できなかったのか木野の疑問をぶつけている。


「なんだ、何の話をしているんだ」

「さあ。私には分からないな」

「時間を戻したい。あの日からやり直したい……そして一緒にサッカー部入ってあいつがエースストライカーになるんだ……」

「待て円堂、俺の立場はどうなる」


ついに重い雰囲気を背負いだした円堂。
そして呟いた聞き捨てならない言葉に豪炎寺はすかさず前に出た。
豪炎寺という存在は、雷門中サッカー部が大きく前進したきっかけだ。
それを軽んじられたようで、黙っている訳にはいかない。


「今まで一緒に勝ち抜いてきたじゃないか。それをやり直したいなんて俺は認めないぞ」

「俺達なら何度だって勝てると信じてるから大丈夫だ」

「それは信頼だと前向きに受け取っていいのか……?」



――円堂のかつてない暴挙が繰り広げられている中、また別の場所で名字は息を切らしていた。
円堂を蹴りつけたせいで名字は周囲から注目を集めてしまった。その視線から――そして円堂から逃げるために全速力で走り抜けたのだ。
呼吸を整える。
そして懐から携帯電話を取り出し、電源を入れれば名字の顔はたちまち赤くなった。


「ま、守くん……!」


壁紙として設定した、いつしかテレビで放映された円堂の戦う姿。
これを見るたびに言いようのないときめきが湧き出てくるのだ。


「やばい蹴り飛ばしちゃった!! でも、何を言われるか分かんなくて怖かったんだよー!」


名字は円堂が口を開くのを見た瞬間戦慄したのだ。
あんな最悪な形で別れてしまったのだ、いくら優しい円堂とはいえ怒っているに違いない。
ましてや――まだ好きだということがバレたら引かれてしまうだろう。
それが名字の見解だった。


「絶対気持ち悪いよね、付き合ってるって勘違いしてて、訂正したら泣き出して、見送りまで断って……! それでまだ好きとか? 鬱陶しいよね!?」


名字は涙ぐみながら画面を見つめた。
そこにはただ前向きな感情だけを持った円堂がいる。名字に怒りを向けることは無い。
だからこそ、本物の円堂が何を言い出すか想像できず、彼女は無理矢理逃げることを選んでしまった。

――答えはたった一つだというのに、互いの勘違いに気付かず膠着するばかり。
いつになったら解決するのか、それを考えつく者は誰一人として存在しなかったのである。


「守くんにこれ以上嫌われたくないなあ」

「名前とまたサッカーしてえよー!」






2017.11.3


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