円堂に痴漢を上書きしてもらう




(モブ痴漢要素アリ)




厳しい寒さが続く二月のこと。
電車に揺られる中、名字がそっと顔をあげると円堂の横顔が見えた。
高校生二年生になった円堂は昔よりもぐんと背が伸び、かつては同じ高さにあった顔を見上げるまでになってしまった。

「見ろよ名字、夕日だ」

「わ、ほんとだ」

見つめていた横顔が突然名字を向き、驚きながら言われた通り外を見れば日が海へと沈んでいくのが見える。
車内は人にあふれており、車体の動きに合わせて揺れる頭たちの隙間からオレンジ色の光が届いた。窓際ならばもっとよく見えたのだろうが仕方ない。
にこにこと笑いはしゃぐ円堂を見ていると胸が苦しい。
明日からはこの笑顔は見られないなど信じられない。

名字は明日に引っ越しを控えていた。
まさか高校生になって引っ越すことになるとは思いもよらず、密かに要因である父の仕事先を恨んだ。
じたばたしても仕方がないと分かってしまう年齢である名字は、抵抗する代わりにどうしても叶えたいことがあった。
最後の最後だということが後押しとなって、円堂に「引っ越す前の日に遊びにいってほしい」と声をかけた。

円堂に恋をしていた数年間、一度たりとも好意をほのめかしたことは無い。
付き合いが長いとはいえ、決してマネージャーのような関わり方はしてこなかった名字の誘いは深読みされるべきものであったが、円堂は快諾した。
おそらく深くは考えていない。

「なんかあっという間に一日が終わっちまったなー」

そうだ、あっという間だった。円堂を世間一般で言うデートに誘ってから何日も焦れたというのに、今日になってしまえばいつの間にか別れの時間だ。
今日は本当に楽しかった。
女子らしさを出したいからとうんうん悩み、最終的に黒いタイツにお気に入りのひざ丈のワンピースを合わせた。気合を入れた名字とは対称に、円堂はジーンズと部活指定のウインドブレーカーというシンプルさ。がっかりするどころか円堂らしいとときめいてしまった。
雑貨をあれが可愛いこれが面白いと見て回り、スポーツショップではグローブを前に悩む円堂に笑ってしまった。
歩き疲れればカフェに入って、片やハンバーガー片やカフェオレを手に昔話に花を咲かせた。
携帯電話には名字と円堂の写真が溢れているだろう。
自分のやりたいことを優先するあまり、円堂の性格には合わないような計画をしてしまったと名字は感じていたが、円堂は楽しい、面白いと笑ってくれたので満たされた思いだった。

「円堂、今日は本当にありがとね。私のわがままに付き合ってくれて」

「なんだよ、俺達結構長い付き合いだろ。水臭いこと言うなよ」

「それもそうだ。もう何年目だろ」

「サッカー部が出来る前からだから、そうだな……五年目?」

「そんなに? 長いなー。……これまでも、今日も、円堂のおかげで元気になれたよ。円堂たちとお別れしても頑張れそう」

ふと会話が途切れた。
円堂は少し不満そうな顔をして名字を見るが、その意図を読み取れるほど彼女は賢くない。

「連絡ぐらいいつでも、おわっ! とっとっ!」

「あっ円堂、」

しかし次の瞬間、駅に着いたことで開かれたドアから人が雪崩れ込んできた。ぐいぐいと無遠慮に押されていくうちに、二人の距離はおしゃべりができるほどでは無くなった。名字はドアが目の前に来るほど端に追いやられてしまう。
円堂が嬉しいことを言ってくれたというのに返事ができなかったと不満だった。

ようやく波が落ち着くが先ほどよりも人数が増え、ぎゅうぎゅうと見知らぬ人々に密着することになってしまい、決して気持ちよくは無い。背後の中年の男なんて行き場が無いようで名字へと寄り掛かってしまっている。
お互い不運だなと溜息をついた。

名字は円堂の言葉を思い返して微笑んだ。どうやら引っ越しをした後でも連絡をとってくれるらしい。あの不満そうな表情も、当たり前のように連絡をすると思っていてくれたからに違いない。
しかしそれでは困る。いつまでも円堂への気持ちに決着をつけられないじゃないか。

明日からの日常を想像した。
新しい土地で疲れを感じた名字はふと円堂を思い出し、
「連絡ぐらいいつでもって言ってたし、いいよね!」
緊張しながらもそうやって連絡をするだろう。円堂は煙たがることもなく返事をし、親身に話に乗ってくれる。あわよくばまた遊びに誘い、それに応えてくれるだろう。
「いいぞ!」なんて深く考えず、ただ純粋な好意に依って笑うに違いない。
円堂から無自覚な許可を与えられるたびに名字は諦める機会を失った。
しかし好きだと言う勇気も無く、不毛なばかりだ。
まっすぐな円堂と意志の弱い自分。比べてみて、不釣り合いだと笑ってしまいそうだった。

(……ん?)

ふと、名字は違和感を覚えた。
鞄だろうか、何かが太ももに触れては離れている。嫌な位置に当たるなとくすぐったさから逃げるように身じろぎすると、その何かは意思を持って追いかけてきた。

(う……うわ、うわ、うわ。でた、うそでしょ、私?)

得体のしれない何か、もとい得体のしれない手は逃げる名字にはお構いなしにぺたぺたと触り続けている。
少しだけ顔を後ろに向けると、人の波に押されて密着していた中年の男だった。
目は合わずとも振り向いて認識されたことに何か確信を得たのか、太ももを触っていた手は形を確かめるように移動して、やがて到達した臀部をさすった。

何を勘違いしているんだと名字は苛立ちを覚えた。そして不運だと運命を呪った。
円堂と二人きりで出かけるという特別な日なのに、最後は痴漢に身体を荒らされて終わるなんて。
不思議と恐怖は湧かない。名字の中で男に向けられた感情は苛立ちのみだった。

(円堂との時間なのに何で邪魔するのかな)

水を差された!
苛立ちのあまり足を踏みつけてしまいそうだ。
いっそ踏みつけて、地面に擦り付け、「円堂になってから出直してこい!」と怒鳴りつけてやろうか。
馬鹿らしいかもしれないが名字は心の底から、この男が円堂なら大歓迎だと思った。
円堂が相手の意思を無視して行為に及ぼうとするなど想像できないので、それはきっと実現しない。どう足掻いても名字の肉体を荒らす手はこの男のものでしかないのだ。

(円堂もその内彼女とかできて、そういうことするのかな。ずるいなーその人)

サッカーのことしか頭にありません。そんな純粋すぎる円堂が劣情を抱くほどの女は(もしかしたら男かもしれない、あり得る)、名字では到底適わないほど素晴らしいに違いない。
円堂は男らしく成長した。
手は大きく、その実力に恥じぬ努力が滲む厚い手のひら。何気なく肩を叩かれて知った。
足も長く、健常な筋肉がグラウンドを踏みしめればどんなボールも逃がさない。廊下を駆け抜ける一歩はとても大きかった。
その逞しい節々が、思春期の名字を酷く悩ませた。
どのように悩んだとしても、円堂に触れることはない。

顔を上げると円堂が見える。話せる距離ではないが、遠くもない。
随分と焼けた肌を見つめているとこちらを振り向いた。途端に歯を見せて笑ったので、名字も曖昧に口の端を上げて笑った。
気付かないでほしい。男から受ける仕打ちも、円堂に劣情を抱く自分にも。
だって次の駅で二人のデートは終わりだ、何事もなかったように見せたいのだ。

はあ。
耳元に湿った息を吹き付けられた。
どうやら興奮しているようで少ない空間を更に埋めようとしてくる。
臀部の肉をぎゅっとわし掴まれ、痛みに顔が歪んだ。
僅かに声を上げても続けざまに揉まれ、名字は不快感に身を震わせた。
駅で降りる前に仕返ししてやると、名字は片足を上げ踏みつける準備をするが、突然聞き覚えのある声が響いた。

「すいません、どいてください」

円堂が動いている。
幾分もない隙間に身をねじ込み進む。

「通りますっ、失礼します!」

人をかき分け、
真っすぐに名字を目指し、
そして険しい顔で声を荒げた。

「離れろ!!」

円堂が名字の両肩を掴み、胸に押し付ける。
臀部の手の感触が無くなる。
同時に電車のドアが開く。

「待てッ」

投げた言葉から逃げるように、男は周囲を押しのけて走り出す。
続けて円堂が名字から手を離し追いかけた。

「くっそ、どこ行った!」

円堂がホームを見渡すが既に男はおらず、憎々し気に拳を握った。釣りあがった眉からその度合いがうかがえる。
後を追ってきた名字は、円堂がまた走り出してしまいそうに見えて、つい腕を掴んだ。
やっと円堂と視線が合った。

「……だ、大丈夫か!?」

怒りの表情とは一転し、眉を下げながら円堂は名字の肩を掴んだ。
痛いほどのそれに驚いたが、先ほど引き寄せられた時もこのように力任せだったことに今更気が付いた。
円堂は必死だというのは、のぞきこむ顔から伝わってくる。
名字はつい見とれてしまった。

「ごめん、もっと早く気が付けばよかった。痛いところとか無いか?」

「や……、うん、全然無い、どこも。へいき」

「っはあーー、ほんと、びっくりした。すげー焦った……」

「えっ? そんなに?」

「うん。目が合ったと思ったら、お前泣きそうでさ。そしたら」

思い出したように円堂が顔をしかめたので、名字は動揺した。
あの男に対し、怖がるどころか円堂に置き換えようとしていたからだ。
円堂がこんなにも心配をしているというのに。

(うわ、もう、ほんとに……そういうところが)

不釣り合いなのだ。
二人の間にはどう頑張っても埋められない価値観があるのだと見せつけられる。
これではあまりにも下劣すぎじゃないか。
どんな奇跡が起ころうとも円堂に選ばれることなど無いじゃないか。

「……え、名字っ?」

深い自己嫌悪の波が押し寄せ、頬を伝った。
我慢すれども、今まで誤魔化し続けてきた本性への失望は消えてくれなかった。

「ちょっ、まっ、……あ、あっち行こう!」

何もしゃべらずに嗚咽をあげる名字を、慌てた円堂が手を引いた。
こうして手を引かれるのも一時の夢でしかない。
だから諦めたかった。でもずるい名字はそれができない。

やがて辿り着いたのは多目的トイレだった。
円堂が名字を中に引き込み鍵をかける。
泣き止むことの無い彼女を見ていると、円堂は胸が痛んだ。
しゃくりあげる肩に触れようとするが、何か思い至ったのかすぐに引いた。

「その……平気な訳ないよな。俺、お前の考えてること全然分かってなかった」

触れぬまま優しい言葉だけをかけられた。
心配をするというのなら抱きしめてほしい。
車内の時のように肩を痛いほどに掴み、日頃から切望していたその胸の中に閉じ込めてほしい。
一時の夢だからこそ言葉だけでは足りない、もっとたくさん、それこそどこまでも欲しいのだ。

「……なあ、名字、どうしたら楽になれる? 俺にできることは無いか?」

「…………ほしい」

「っ、なんだ? 何がほしいんだ?」


「触ってほしい……」


やけくその末に出た、いたずらのような言葉だった。

名字は下劣だ。ふしだらだ。そんなことはとうに分かっていた。
だからもう限界なのだ。この五年間、肩を抱かれ胸に寄り添ったことなど一度だって無い。
それが突然訪れ、しかも何でもすると解釈できる言葉に、ため込んだ思春期の欲が溢れてしまった。

意味を理解しかねている円堂がぎこちなく肩を叩くが、もちろんそういうことではない。
今度は確かに、しっかりと口にした。

「あいつに触られたところを上書きしてほしいの!」

「…………は? はあああッ!?」

円堂が勢いよく後退り、壁に激突した。
恋人になれないというならば、触る理由を作り上げてしまえ。
名字はろくに考えもせず実行に移した。

「なななな、何言ってんだッ!」

「円堂にしか頼めないの、お願い!」

「だからって……さ、触るってお前!」

円堂は首から頭にかけてどんどん赤くなっていった。
名字が痴漢を怖がっているという円堂の思い込みを利用して、何てことをしているのか。
けれど、どこまでも欲しいのだと分かってしまった。
明日から連絡をし辛くなろうとも、いつまでも触れられない焦れったさを手放したかった。

「何言ってるか分かってんのか!?」

「分かってるよ!」

ついに怒りさえ滲ませた円堂だが、それを黙らせる勢いで名字は吠えた。
距離を詰め、ためらうことなく胸に飛び込んだ。
勢いが良すぎたので円堂が慌てて抱きとめて衝撃を殺すが、それを好機とばかりに下から腕を回した。
円堂がびくりと震え硬直する。次に離そうとして両肩に手をかける。
触れた足が、胸が、腕が、頬が、あまりに熱くて。心臓が本当に止まってしまいそうだ。

「思い出の最後があいつなんて、嫌だ、こわい。でも円堂ならいい。きっとあいつを忘れられる」

熱くても頭はどこか冷静だった。
本当は怖くなどないくせに。
思ってもいないことがするすると出てくる。

「円堂、……助けて」

ずるい女だ。
助けてなど、円堂には脅しの言葉だ。



「…………わ、わかったよ……」

しばし時間をおいてから、そう絞り出した。
名字が勢いよく顔を上げれば、かわいそうになるくらい顔を赤くした円堂がそこにいた。

「ほんと!?」

「すっ少しだけだからな! うう、なんでだよ、嫌がるのはどっちかっていうとお前の方だろ、なんだよもう……」

(やった。やった。やった!!)

「あ、あんまくっつくなってぇ」

名字は飛び跳ねたい気持ちだった。
感極まって円堂に回した腕にぎゅっと力が入る。円堂が再び震えた。

「……ほ、本当に触るからな」

「うん」

「別にやましい気持ちがあるわけじゃないぞ!」

「うん、私がお願いしたからね」

「嫌なら嫌って言えよ!」

「ちゃんと言うから、じゃあお願いします」

促すように名字は胸に顔を埋めた。
円堂をだますことになったが、それでも嬉しかった。はしたない真似をしても、図々しくても、円堂の中に介入したかった。
心臓が激しく打ち鳴らされている。しかしそれは円堂も同じだと、寄り添う胸から伝わった。
頭上でやたら長い深呼吸が聞こえ、やがて終わる。

「い、いくぞ……」

両肩に添えられていた手が、右だけ離れた。

(あ、そっちの手、技使う時の方……!)

いつもサッカーで使われる右手が、数々の強敵から砦を守ってきた右手が、名字の身体を移動している。
それだけで息ができなくなった。

やがて震える指先が、尾てい骨のやや上にちょんと触れる。
本命から離れた場所であることに名字は焦らされたように思え、期待に身が震える。
はじまる、はじまってしまうんだ。
心臓がどきどきとうるさい。次にもっと下を触られて心臓が持つのだろうか……だが、しかし。触れた箇所から熱が消え、すうと冷えていった。

「…………え?」

「さ、触ったぞ!」

円堂は両手を高く上げると、やりきったと言わんばかりの表情で名字を見る。

「そこ、腰なんだけど……」

「えっ!? だ、だめなのか……!?」

そりゃそうだ。
とはもちろん指摘できないが、名字の納得できていない表情からそれは伝わったようで、口を大きく開けて愕然としている。

「内ももとお尻」

「えっ」

「触られたの。最後はすっごい力で揉まれて痛かった」

「すっごい力で」

円堂の顔はまだまだ赤くなるようだった。
……虐めている自覚はある。
しかし円堂ははっきりと言わなければ分からないようだし、ここまできたら絶対に逃したくはない。
そしてほんの僅かに、動揺する円堂を見ていると満たされる何かがあるので尚更止められない。

「友だちに……ううん、私に触るのは気持ち悪い?」

「名字が気持ち悪いなんてことあるか! いや、触りたいとかでもなくて、ただ、俺なんかじゃなくてさ、もっと自分を大事にしてほしいっていうか」

「あいつのことすっごいトラウマになりそう。忘れるために、円堂に同じところを触ってほしいんだけどな」

「同じところって……そしたら……」

「……助けてくれるの、くれないの?」

いい加減業を煮やした名字は円堂を問い詰めた。
ずいと顔を近づける。円堂が逃げようとするが、背中に回った腕により顔を背けるまでしかできない。

円堂は悩んだ。
長い付き合いとなった名字。
マネージャーたちとはまた違う関わり方をしてきた。
円堂にとって、サッカー以外で仲良くなった掛け替えのない友人だ。
サッカー部に入ってくれることはついぞ無かったが、ずっと応援してくれた。
どんな場所にいても、どんな立場になっても、変わらず友人でいられる。
円堂にとって名字とはそういう存在だった。

名字はあの痴漢を忘れたいがためにこうして友人である円堂に縋っている。
経験などしたことのない円堂には彼女が味わった恐怖の度合は推し量れず、ただ車内で一瞬だけ見せた泣きそうな顔から想像するしかできない。
そして名字を思いやる気持ちは、下卑た顔を不必要に近づけ、身体を押し付けていた男に湧いた確かな怒りによって更に増幅した。

自分が彼女を触るというのか。
だがしかしそれを本人が望んでいる。忘れるために円堂の力を借りたいと言っている。
助けてほしいと言うならば。
円堂は泣きそうになりながら、葛藤を口にした。

「たす、助けたいけど……内ももは、内ももは、ぜったいむりだ。だめだって、まずいってえ……!」

じんわりと涙の膜が張った円堂の目を見て、名字は冷静に考えた。
内ももとお尻、一体何がセーフラインなのか。

「……じゃあ、お尻。いい?」

円堂がこくこくと頷いた。
いいのか。
もしかしたら、内ももという(円堂の中では)難しいものがあったおかげで、触るハードルが下がったのかもしれない。
円堂が再び右手を伸ばしてくる。残った左手は下げられて肩においてはくれないのかと若干落胆した。
しかしそんな考えも臀部付近に伝わる熱によってかき消えた。
まだ触れてはいない。近くにあるだけだが、手のひらの熱が確かに届いていた。
スカートとタイツ越しでもじわじわと温かくなっていくその箇所に意識が集中する。
円堂がひとつ呼吸を深めたすぐあとに、名字の臀部を確かに包んだ。

びくんと身体が跳ね、驚いた円堂の手に力が籠る。

「……怖いんだろ? やっぱり止めた方が、」

「やだ! 怖くない! ちゃんと触って!」

双丘の浅いところに円堂の親指が当たっている。その感触に打ち震えながら縋れば、円堂は何も言わなかった。

円堂は手を動かさない。正確にはどのようにすべきか分かりかねていた。
触ると言っても、このまま手を置くだけでいいのだろうか。
名字の身体は熱く、この季節柄よく冷やされた空気には不釣り合いだ。
円堂が触れる臀部も同じく、スカートの生地の上でもよく伝わる。
まろい臀部は柔らかく、触れている感触としては悪くないものだった。
逃げられないから観念して触った円堂だったが、突き抜ける羞恥心の他に僅かな心地よさを感じていた。
だからだろうか、無意識にずるりと右手を動かした。

「っ……!」

「……名字?」

「なんでもない……!」

息を詰まらせた名字が円堂にきつくしがみ付く。抵抗も怒ることもしないその様子に、そのままゆるやかに上下させた。

名字は荒くなる呼吸を必死に噛み殺した。
円堂の手がずるずると臀部を這う度に、僅かに肉が形を変えているのが分かり、全身がどんどん熱くなる。
双丘の間を指が通り、窄まりに近づくたびに声が漏れそうなほど震えた。いや、出していたかもしれない、でも記憶が定かでないのだ。
きつく抱き付けば顔にはカサカサとした上着が当たり、更に鍛えられた胸を感じる。早鐘を打つ心臓にときめいた。
すうと息を吸うと、円堂家の洗剤の香りと、今日かいたであろう汗のにおいがして、これが円堂のにおいなのだと頬ずりしたくなった。このウインドブレーカーの前が開いていたら、しっとりとしたシャツがあらわれ、より密着できるのだろうか。

円堂の全てにときめいてしまって、仕方がない。
どんどん成長していく円堂はあまりにも魅力的で、悩ましくて、それでも触れる勇気は無く、押し殺していく内に想像だけが高まっていった。
この男と一緒になることは絶対にありえないと思うなら、手遅れになる前に離れておけば普通の恥じらいのある貞淑な女の子でいられたのに。中途半端に近づいて仲良くなるから、こんなことになってしまった。
円堂に魅せられた選手が世界にどれだけいることか、きっと分かっていない。
円堂と仲が良く、そしてマネージャーでないから聞きやすい名字に対して円堂のことを質問する人がどれだけいたか、知らないだろう。
彼の凄さを実感するたびに空しさに襲われたのだ。

(でも、今は、今だけは……世界で一番、私が円堂に近い)

一時の夢だというのに今まで感じたことの無いほど幸せだ。
何かの衝動が胸から込み上げ、目に膜を張る。
意識しなくともしゃくり上げる肩を隠すことはできず、気付いた円堂が口を開いた。

「わ、悪い……やりすぎたか? やっぱり怖いんだろ、な、もう……」

「円堂は怖くない」

「え?」

円堂は勘違いしている。
いい加減否定したくなった名字は、今まで絶対に言うまいと思っていた言葉を口にしようとするが、もう気付かない。

「好きな人だから怖くなんてない。むしろ……うれしい。だから円堂にしかお願いできなかったんだよ」

「な、な、な……」

「だからもっとして。私の大好きな円堂で、いっぱいにしてっ」

一片の隙間も作りたくないとばかりに名字は円堂を抱きしめた。
好き。
この人が好き。
底抜けに明るくて好きなことに一直線、でも広く周囲を見渡せるその目、絶対に諦めない精神力、どこをとっても大好きで、微笑みが溢れてしまう。

「 名字、おま、おまえ……いや……くっ……うう……!」

「円堂……?」

円堂がうめき声を上げる。
臀部の手はそのままに、顔を隠すように左手を当て天を仰いだ。
その動きに気付いた名字が顔を上げようとすると、途端に円堂は声を荒げた。

「見るな!!」

「あっ」

がばりと抱き込まれた。
円堂の顔は全く見えず、しかし背中に腕が回され今まで以上に身体が密着した。

「分かった、ちゃんと触るから……だから、俺を見ないでくれ」

「ん、う、うん……っ」

耳元で小さく囁かれ、その声の低さに腰が震えた。
吹きかかった息が熱くて上ずった返事をしてしまう。
一体どんな顔をしていたのだろう、名字は密かに気になった。

やがて臀部の手が再び動き始めた。
どうしてか今までよりも力が強く、名字は主導権を握られた気がして動揺した。
ただ上下に動かすだけじゃなくて、円堂の意思が入ったような、変則した動きになった。

「ふ、ふっ……ん」

決してくすぐったいだけではない感覚に襲われ、相手が円堂という興奮で簡単に声が出てしまう。
抱き込まれた今では円堂に届いてしまうだろうか。瞬間に背中の腕に力が籠ったことが答えのように思え、羞恥が湧いた。
円堂は今何を考えているんだろう。どうして抱きしめて、触る力を強くしたんだろう。
簡単にわかるような、でも認められないような気持ちが思考の邪魔をする。

ほんの一瞬、本当に一瞬だけ窄まりに指が触れた気がして、途端に名字は全身の力が抜けた。

「ひうっ……!」

突然重力に従った名字の身体を円堂は支えられず、ずるりと落ちて膝をついた。
名字は立ち上がれず、円堂は労りの言葉をかけられるほど余裕が無かった。
空間に二人の息だけが繰り返され、少ししてから名字が顔を上げ円堂を見つめた。

「お前……なんて顔してるんだよ……」

名字は自分の顔がいかに蕩けているか、なんとなく想像がついた。
心がこんなにもぐずぐずになっているのに、普通の顔でいられる訳がないのだ。
けれど名字にだって言いたいことがあった。

「円堂こそ、すごい顔してる」

決して人様に見せられないその顔を、きっと初めて見たのが名字だ。



「ねえ、誰のせい?」







2018.02.27





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