
07.ハロウィーン
レイラは目を開けるなりひどい吐き気に襲われ、顔をしかめる。仄かに漂うパンプキンの香りで今日がハロウィンだと気付き、より一層眉間の皺を深くした。
なぜかレイラは毎年十月の最終日、ひどく体調を崩すのがお決まりになっていた。季節の変わり目だからだろうか。
ホグワーツのハロウィンは素晴らしいと聞いていたから今年こそは元気な状態でハロウィンを迎えたいと思っていたのに、だめだったみたいだ。
寝返りをうつだけで頭がガンガン痛む。レイラがベッドの中で呻き声を上げているとノックの後ハーマイオニーが顔を覗かせた。
「おはよう、レイラ。そろそろ起きなくちゃ!食べる時間なくなるわよ」
明るい声と共にカーテンが開けられ、「まだ寝てるの?」と呆れ顔のハーマイオニーだったが、レイラの赤い頬を見て途端に目を丸くした。
「どうしたの?あなた…やだ、熱があるじゃない!」
ハーマイオニーの手がおでこに触れ、レイラはそのひんやりとした冷たさに気持ち良さそうに目を細めた。
「どうしましょう……医務室に行く?」
「んーん…横になってれば、へーき…」
医務室に行けばきっとマダム・ポンフリーのお小言が飛んでくるに違いない。毎年ベッドの中で大人しくしていれば翌日には良くなっているし、今年も大丈夫だろう。
「……あ、机の上の包み取って?」
「ちょっと待ってね。包み……これかしら?」
包みの中にセブルスから貰った薬が入っている。レイラがこの時期に体調を崩すことはセブルスも把握しているからか、数日前に「そろそろだろう」とわざわざ調合したものを渡してくれた。
数日間は保存がきくように錠剤になっているそれを口に含み、ハーマイオニーから受け取った水で流し込む。
苦しそうな呼吸を繰り返すレイラを心配そうな瞳で見つめていたハーマイオニーだったが「ほら。早く行かないと、授業、おくれちゃうよ?」と赤い顔のまま言われて渋々頷いた。
「……わかった、それじゃあもしもこれ以上酷くなるようなら医務室に行くのよ。約束」
頷く代わりに一つ瞬きをしてみせる。
それでも不安なのか、ハーマイオニーは時間ギリギリまでレイラの側を離れようとせず、何度も何度も心配そうに振り返りながら部屋を出ていった。
ハーマイオニーが出ていくと自分の呼吸音だけが響く室内は静かになり、微かに談話室から楽しそうな話し声が聞こえてくる。
授業のない上級生だろうか。波音のようなそれがまるで子守唄のように、レイラの意識を攫っていった。
×××××××
「見て、私たちの赤ちゃん──〇〇〇っていうの。彼にそっくりでしょう?」
幸福に満ちた顔で笑う彼女の後ろから賑やかな笑い声が聞こえてくる。この幸せな空間を壊したくない。彼等の幸せが続きますようにと強く願ってしまった。
×××
助けてくれと命を乞う声が、縋り付く手が、まとわりついて煩わしい。虫を払うように手を振るとその声は止んだ。
×××
世界がぐるぐる回る。
早送りされる景色は黒く塗りつぶされて見えなくなる。
×××
「この部屋に入るなと聞いていないのか?」
冷たい声。謝罪と慈悲を乞う言葉を繰り返す男を見下ろして残忍な顔で笑う姿。そして呆気なくひとつの命が終わる。
見慣れた光景なのに、苦しくなる。
×××
「何言ってるんだよ、〇〇〇は友達なんだから当然だろ」
驚きに目を丸くする顔を見て変な顔だと四人の笑い声が弾けた。
胸が痛んだ気がしたのは、きっと気のせいだ。
×××
空気まで止まったような暗い部屋で、青白い骨ばった手が頬を包み込む。体温を感じない冷たい指先に安心する。
「お前は、僕のものだ」
何度も聞いた、愛しい呪いの言葉。
互いを結ぶ赤い糸がぐちゃぐちゃに絡まっている。そこに愛はない。それに安心して、なのに、なぜか──…
×××
「君のことが好きなんだ」真っ赤な顔で告げる青年の目の前で渡された花束を燃やした。気持ち悪い。
×××
小さな閉じられた部屋で肘掛け椅子に座る美しい少女。
今日も彼女は動かない。
×××
ぐるぐる、ぐるぐる、
目まぐるしく変わる映像はどれも不明瞭でよく見えない。
暗転、世界が崩れていく──…
×××××××
喉の渇きを覚え、ゆっくりと瞼を押し上げる。あいかわらずレイラしかいない室内は静かだった。開けっ放しだったカーテンから射し込んでいた陽射しはなくなっている。
時間を確認しようと体を起こすと、目眩がして目の前が真っ暗になった。しばらくその状態で静止して目眩がマシになってから時計を確認すると時計の針は思ったより遅い時間を指していて、随分長い時間眠ってしまっていたのだと知る。もう夕食時だ。
体調は朝より悪くなっている気がする。
セブルスが調合してくれた薬は使用に制限があるものらしく、一度に貰えるのは一回分だけだ。お願いしに行ったら新しく調合してもらえるだろうか。それとも医務室に行った方がいいのだろうか。
いつもより回転の鈍い頭で考え、とりあえずグリフィンドール塔から近い医務室に行ってマダム・ポンフリーに相談しようと結論を出した。ゆっくりとした動きで身体を起こし、毛布から足を出したところでナイトテーブルに折り畳まれた羊皮紙とオレンジと紫の小袋が置いてあるのに気が付いた。
『授業の間に様子を見に来たけど、よく眠っているから起こさないでおくわね。大広間は既にハロウィン一色でかぼちゃだらけよ。パンプキンパイとお菓子をいくつか持ってきたから、起きた時にお腹が空いていたら食べてね。ハーマイオニー』
几帳面な文字で綴られた言葉にレイラは顔をほころばせた。
お腹は空いているような気もするが、体調が悪過ぎて食欲がない。けれど優しい友人の気遣いが嬉しくて、小袋の中からオレンジ色の飴玉を選び口に放り込んだ。
ナイトウェアの上から黒いモコモコのガウンを羽織り、ふらふらと立ち上がる。
レイラがふらふら、ふらふらと時折壁にぶつかりながら階段を下りていくと、普段あんなに騒がしいグリフィンドールの談話室には今日は人っ子一人姿が見当たらなかった。
「うぐ……っ」
どこまで下りてきただろう。
レイラは廊下の途中で口を抑えてしゃがみ込んだ。
八階にあるグリフィンドール搭から医務室まではいくつもの階段を下りなければならない。ここが何階なのかわからないが、息が苦しくて吐き気がする。
この調子だと医務室にたどり着く前に倒れるかもしれない。そうしたら誰かが見つけて運んでくれるだろうか。
そんなことを考えながらふぅ、と息を吐き出した途端、酸っぱいものが込み上げてきてレイラは口を抑えながら立ち上がり、すぐ近くのトイレに駆け込んだ。
「う…ッ、……ッ…」
手洗い場の蛇口を捻ると水が勢いよく流れ出てくる。
レイラは洗面台に手をつき荒く呼吸を繰り返すが、朝から飴玉しか食べていないせいで胃液しか出てこない。繰り返し嘔吐いていると体がガクガクと震え、立っているのも苦しくて地面に膝をついた。
「………う、ぅぇ…っ」
「──レイラ…?」
個室のドアが開く音と共に聞き覚えのある声が響いた。
ハーマイオニーだ。
「レイラ…!?あなた何でこんなところにいるの!?」
ハーマイオニーはレイラに駆け寄ってその体を支え、触れた体の熱さに驚きの声を上げた。
ハーマイオニーは呪文学の授業でロンから言われた言葉に傷付き、どうしても次の授業に出ることができなくて逃げるようにレイラの部屋を訪ねた。彼女の体調が心配だったのは本当だが、「いつもありがとう」「ハーマイオニー大好きよ」「私、ハーマイオニーと友達になれてよかった」と真っ直ぐな好意を向けてくれるレイラの傍に行くことで安心したかったのだ。
悪夢みたいなやつだと、友達が一人もいないと言われた自分を大好きな友達≠ニ言ってくれる少女は顔を真っ赤に染めていたがよく眠っていた。朝薬を飲んでいたしこのまま眠っていれば良くなるだろうと考えた自分に腹が立つ。こんなことなら無理矢理にでも医務室に連れていけばよかった。
けれど今ここで悔やんでも意味はない。そんなことよりも早くレイラを医務室に連れていかなければ。
「早く医務室に行きましょう。ほら、立てる?」
そう言って立ち上がろうとしたハーマイオニーの手を掴んでレイラは首を振った。心配そうな顔でレイラの顔を覗き込む彼女の目が赤く腫れているのがわかったからだ。
「ハーマイオニー?…どうしたの?」
「どうしたの、って?」
「……泣いてたの?」
震える手を伸ばして熱をもった目元に触れると、涙で濡れていた。ハーマイオニーはバツが悪そうに顔を伏せる。
「ねぇ…何があったの?」
視界が揺れて気持ち悪い。
でもそれ以上に、目の前の友人のことが心配だった。
ハーマイオニーが悲しげな表情で顔を上げ、彼女の茶色の瞳と目が合ったレイラは突然漂ってきた異臭に顔をしかめた。
ハーマイオニーもその匂いに気付いたらしく、それが何なのか知る為に二人が辺りを見回しているとすぐにトイレ中に耐え難い悪臭が充満して慌てて鼻をつまんだ。
ただでさえ吐き気を催していたのに、こんな悪臭耐えられない。レイラが涙目になりながら吐きそうになるのを堪えていると、ズ…ズ…と何かを引きずる音と鈍い呻き声が聞こえてきた。
「……なに、この音…」
「わからない……とにかくここを出ましょう。立てる?」
肩に手を回してくれたハーマイオニーに「ありがとう」と言って立ち上がった瞬間、二人の上に大きな黒い影が覆いかぶさった。
「ブァー、ブァー」
頭上から低い唸り声が聞こえ、二人はゆっくりとそれを見上げた。岩石のようにゴツゴツとして鈍い灰色の肌、天井すれすれの位置にある小さなココナッツのような頭。巨大な棍棒を握った、異常に長い腕。
それは本の挿し絵や図鑑の写真でしか見たことのない生き物──トロールだった。
「…なんで、どうしてトロールがこんな所にいるのよ……」
ハーマイオニーのくぐもった呟きの直後、廊下へのドアがバタンッと勢いよく閉まり、続けて鍵が掛かる音がした。狭いトイレの中でトロールと共に閉じ込められたレイラはパニックに陥って悲鳴を上げた。
「……っ、キャーッ!!!!」
「レイラ落ち着いて……!!」
慌ててハーマイオニーがレイラの口を塞ごうとしたが、それより先にトロールが棍棒を床に叩きつける。タイルの破片が飛び散り、鋭く尖った大きな破片がレイラの太ももにぐさりと突き刺さった。
あまりの痛さに床の上に崩れ落ちるが、トロールはそんなことお構い無しに棍棒を振り上げながら近付いてくる。
「こっちに逃げて!レイラ!!」
再び振り下ろされる棍棒から逃げようとハーマイオニーがレイラの腕を引っ張るが、元からの体調不良に加えて破片が刺さった足が痛んで立ち上がることができない。動こうとしない友人を不審に思い振り返ったハーマイオニーは太ももから真っ赤な血を流す姿に目を見開いた。
こんな怪我をしていたら動けない。でも動かないと、逃げないともっと酷いことになってしまう。
トロールは棍棒を振り回して洗面台をなぎ倒しながら近づいてくる。降り注ぐガラスの破片から守るように、ハーマイオニーがレイラの上に覆い被さった。
「ハーマイオニー!レイラ!」
突然ドアが開き、ハリーとロンが中に飛び込んできた。
少女達には二人の少年の姿はまさに救世主、ヒーローに見えた。
「こっちに引き付けろ!」
ハリーは叫びながら壊れて床に転がった蛇口を拾って投げつけた。その蛇口が頭にぶつかるとトロールはレイラ達の手前で立ち止まり、低い唸り声を上げながらハリーの方を向く。
「やーい、ウスノロ!」
ロンがハリーの反対側から叫んで金属パイプを投げつけると、トロールはのろのろと方向転換をしてロンがいる方を見る。
レイラはカタカタと震えながらその光景を見ていた。逃げなくちゃと思うのに足に力が入らない。
「二人とも早く、走れ、走るんだ!」
「レイラが怪我してるの!」
ハリーが必死に呼び掛けるが、ハーマイオニーは泣きそうな顔で首を振った。そこでハリーとロンもレイラの怪我に気付いたらしく、顔を青ざめさせた。
ハリー達の叫び声が気に入らないのかトロールは「黙れ」というように唸りながら再びロンの方を向き、そのタイミングを見計らってハリーがトロールの背中に飛びついた。
そして何を思ったのか、ハリーは自分の杖をトロールの鼻に思いっきり突き刺した。
「ヴォォオ!」
トロールは痛そうに呻き声を上げ、棍棒を無茶苦茶に振り回す。振り落とされてなるものかとハリーは必死にトロールの頭にしがみついているが、このままでは振り落とされるのも時間の問題だ。
ロンはハリーに当たらないようにトロールの太い足にタイルの破片や蛇口を投げ付け、ハーマイオニーはトロールからレイラを庇うようにしながらロンと同じように物を投げ付けている。
勇敢にトロールに立ち向かう三人の姿を見て、レイラは自分の無力さに泣きたくなった。
皆を助けなきゃ。
皆のお荷物になりたくない。
私だって、皆を守りたい。…でも、体が動かない……
レイラが悔しさに唇を噛んだ瞬間。鋭く尖った硝子の破片がハーマイオニーの腕に突き刺さった。赤い血を飛び散らせながらよろめく友人の姿にレイラは声にならない悲鳴を上げた。
私のせいで、私を守ろうとしたせいで、私が動けなかったせいで、私に力がないせいで、私が、私の、私のせいで、ハーマイオニーが──大好きな友達が傷付いた。
私の、せいで。
その光景にカッと頭の中が燃えるように熱くなり、その熱さはすぐに身体中に伝わった。
心臓が、熱い。
ぐらぐらと視界が歪む。
「──……
____=v
レイラの口が小さく開き、歌うように囁いた。
途端、トロールがこの世のものとは思えないような悲鳴を上げた。聞いているだけで頭がおかしくなりそうな苦痛に満ちた悲鳴。それを見上げる少女の瞳は、氷のように冷たい。
他の三人は何が起こったのかわからず、数秒の間ただ叫び続けるトロールを見つめていた。一番最初に我に返ったのはハリーだった。ハリーはトロールの頭から飛び下りてレイラ達の傍に駆け寄った。
「大丈夫?」
レイラがはっとしてハリーの方を見ると同時にトロールの悲鳴が止んだ。トロールは口の端から涎を垂らし、魂を抜かれたように立ち尽くしている。しかしいつまた襲いかかってくるかわからない。ハリーが「ロン!」と叫ぶと、ロンは杖を取り出して真剣な顔でビューン、ヒョイ、と杖を振った。
「ウィンガーディアム レヴィオーサ!」
床に落ちていた棍棒が高く高く上がり、空中でゆっくり一回転してからトロールの頭に直撃した。ボクッという嫌な音が響き、トロールは床に大の字に倒れた。
静寂が戻ってきたトイレの中でレイラは震える手でハーマイオニーの腕を掴んだ。ローブは裂け、ブラウスは血で赤く染まっている。
「ハーマイオニー、腕……腕、怪我してる…」
「これくらい平気よ。私よりあなたの方が重傷だわ!」
「だいじょうぶ、」
「大丈夫なわけないでしょ!どうしましょう、これ、破片って抜いても平気かしら?」
レイラは破片の刺さった太もも以外にも体のあちこちから血を流している。ハーマイオニーがこのまま動かしていいものか思案し、ハリーがトロールの鼻から自分の杖を引っ張り出しているとバタバタと足音が聞こえてきた。
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