
11.ニコラス・フラメル
クィディッチ試合の朝、珍しく早起きしたレイラはふくろう小屋に向かっていた。両親に書いた手紙を運んでもらうためだ。
賢そうな顔をしているワシミミズクにふくろうフーズをあげると、濃い黄色の目を細めて美味しそうに食べる。
「お手紙の配達をお願いできる?」
ワシミミズクは任せろというように一鳴きし、レイラの手にあった手紙を咥えて飛び立っていった。ハリーの飼っているヘドウィグも賢そうで可愛いけれど、今の子もとても可愛かった。
きっとふくろうがペットなら便利だろうとは思うが、レイラはふくろうを飼うつもりはなかった。
それよりもファングのような犬がいい。レイラは一人部屋だから飼育スペースなら問題ないだろうけれど、ホグワーツでペットとして認められているのはふくろう、猫、カエルだけだ。でもロンはネズミを飼っていると言っていたし、例外も認められるのだろうか。
飼うならどんな犬がいいかな。大きくて黒い子……いや、でも白や茶色も捨て難い。まだ見ぬペットをイメージしながらレイラは図書館へ向かうべく足を進めていた。
今日のクィディッチの試合は昼過ぎからだ。
まだ時間に余裕はあるし、この前セドリックが勧めてくれた薬草学の図鑑を探してみようと思ったのだ。
お目当ての本を見つけたらまっすぐ寮に戻って、試合に向けてそわそわしているであろう友人を励ましてあげようと思いながら歩き出したレイラは、少し離れた所を歩く頭だけ異様に大きな人影を見て思わず足を止めた。
あのシルエットはターバンをぐるぐるに巻いているクィレル以外にいない。頭の大きな人影は人目を避けるように小走りで駆けていく。クィレルがどちら側の人間なのか掴めるかもしれないと、レイラは咄嗟にその後を追った。
クィレルらしき人影は禁じられた森に入っていった。
レイラも迷わず後を追って森に入る。けれど元々距離が離れていたせいもあり、あっという間にクィレルの姿を見失ってしまった。
「あれ…どこ行っちゃったんだろ…」
目を凝らして木々の間を見つめるが、人の姿は見つけられない。薄暗い森の中でレイラは今まで感じたことのない不安で立ち尽くした。ユニコーン達に会うために何度も森に足を運んでいるが、一度も危ない目にあったことはない。それなのに今日はどうしてこんなにも胸がざわつくのだろう。
不思議に思いながらも自分の嫌な予感に従って森を出ようと振り返ったレイラは小さな悲鳴を上げた。
何の気配も感じなかったのに、振り返ったレイラのすぐ目の前にはクィレルが立っていた。恐ろしいほどの無表情で。
「………クィレル、先生…」
「ミ、ミ、ミス・マルフォイ。こここ、こんな、と、ところで、何をし、しているの、かな?」
しかしレイラがその名を呼ぶと、いつものように何かに怯えたような表情になった。その吃り様に、知らず知らず強ばっていた体の緊張が解ける。
「あの、ちょっと……えへへ。クィレル先生はどうしてここに?」
まさかあなたを尾行していましたなんて言えるわけがないし、生徒が森に入ることは禁止されている。レイラは何とか誤魔化そうと笑顔を見せた。
「わわ、わ、私は…少しや、野暮用が、あ、あり、ありまし、てね」
「ここは危険だ」
森のざわめきに紛れて声が聞こえた気がして振り返る。だが当然のように周囲には誰もいなくて気のせいかと息を吐いたレイラの目に、杖を構えたクィレルの姿が映る。
その顔は何かに怯えている普段の彼とは別人のような──先程見せていた、恐ろしい無表情だった。
「、なに……」
無意識のうちに一歩後退るが、すぐに背中が木にぶつかってしまった。クィレルの変貌振りに言葉が出ない。
これがあの吃りのクィレル先生≠ネのだろうか?生徒や自分の教えている科目にさえ怯えている、あの気弱なクィレル先生?
「……先生…?」
「君に聞きたい事があるんだ」
そう言ってクィレルは口の端を吊り上げて笑った。
けれどその目は冷たく、笑っていない。レイラは訳のわからない恐怖に襲われ、小さく震えながらクィレルを見上げた。
「ご主人様がずっと君のことを気にしている」
「ご主人様…?」
レイラは激しくなる鼓動に胸をおさえた。心臓が痛い。
いつもそうだ。クィレルの近くにいると鼓動が早くなり、胸が苦しくなる。目眩がする。異臭のせいなんかじゃない。
心臓が、痛い。
「──どうして君がここにいるんだ?」
「どうして、って……」
「どうして君は生きている?」
「……何を、言ってるんですか」
眉を顰めたレイラの首にクィレルの手が伸ばされ、そのまま勢い良く地面に押し倒された。馬乗りになったクィレルの体重が細く白いレイラの首にかかり、両手できつく絞めあげる。
「、……ッ」
クィレルの手を剥がそうともがくが、圧倒的な力の差に指一本剥がすことすらできない。圧迫された喉がヒュー、ヒュー、と奇妙な音を立てて段々視界が霞んでいく。
「ご主人様はお怒りだ」
クィレルの声が、遠くから聞こえる。
目の前で話しているはずなのに、ひどく遠い。
酸素が足りない。意識が遠退いていく。
「何故、裏切った」
クィレルのものとは違う、低く掠れた声が響いた。
他に誰かいるのだろうか。頭が働かない。
心の中が悲しみで押し潰されそうだった。どうしてこんなに悲しいのか、わからない。
「……レイラ」
恐ろしい声なのに安心するのはどうしてだろう。
まるで母親の腕に抱かれたまま眠りにつく寸前に感じるような。
安堵感と愛しさに、知らず涙が溢れた。
「……、レイラ」
あぁ、そんな声で呼ばないで。
心臓がひび割れたみたいに痛んで、壊れてしまいそうだ。
「お前は私のものだ」
「全てを私に捧げると誓った」
「なのに──何故、裏切った」
ごめんなさい、
ごめんなさい、ごめんなさい。
「お前は裏切った」
裏切り者は許されない。そんなこと、わかっている。
わかっていて裏切った。
一度失った信頼は二度と取り戻せない。
貴方の元へ帰ることは許されない。
帰りたいと願っても、もう叶わない。
貴方以外、何もいらなかったのに。
「……どうして、うらぎったの…?」
少女の口からこぼれた言葉の真意は、本人にさえわからない。
首を絞める手を剥がそうともがいていたレイラの手から力が抜け、腕がぱたりと地面に落ちる。
涙に濡れた少女の頬に指を滑らせたクィレルの中で、言い知れぬ征服欲が顔を見せた。この少女を手に入れたい。己の手で壊してしまいたい。まるで少女の色香に惑わされたように時間を忘れて横たわる姿を見つめていたクィレルは、視界が悪くなり始めてようやく意識を引き戻した。
どれくらい少女に見蕩れていたのだろう。
辺りは暗くなり、体が冷えていた。
「……ご主人様、この娘はどのように致しましょう」
しかしその答えを聞く前に小さな足音が聞こえ、クィレルはハッとして立ち上がった。遠くにすっぽりとフードを被った男の姿を見つけると「セブルス…!!」と小さな声で忌々しそうに吐き捨てた。地面に横たわる少女を置き去りにしたまま慌ててその場を離れ、クィレルは黒い影から逃げるように森の奥に向かった。
開始五分でスニッチを捕まえるという快挙を成し遂げたハリーは幸せな気持ちで箒置き場に向かっていた。
昨日「今度こそ絶対に特等席で応援するわね!」と笑顔で言ってくれたレイラの姿を見つけられなかったことだけが心残りだ。試合を見てくれていただろうか?
談話室に戻ったら「ハリー、素晴らしかったわ」と微笑んでくれるかもしれない。
きらきら輝く少女の金色の瞳を思い浮かべて甘い気持ちに顔を綻ばせたハリーは、禁じられた森に向かって歩く姿を見つけた瞬間一気に冷水を浴びせられたような気持ちになった。
フードを深く被り顔を隠しているが、あの滑るように歩く姿は間違いない、セブルス・スネイプだ。彼は禁じられた森に入っていく。ハリーは持っていた箒に跨り、上空からその黒い姿を追った。
音を立てないように木の上に降りたハリーは話し声の聞こえる方をそっと覗き込んだ。そこにいたのはセブルス・スネイプとクィリナス・クィレルの二人だった。
「……セ、セブルス…」
「クィレル、貴様何を企んでいる」
低く脅すようなセブルスの声に、クィレルはひどく困惑したような、怯えたような表情を見せている。
「わ、わ、私は……なにも…」
クィレルは顔を真っ青にしながら口をガクガクと震わせる。
そんな彼を睨む暗い瞳は刃物のようだった。
「ハグリッドの野獣を出し抜く鍵が、この森にあるとでも思ったのか?」
「い、いや…わ、わ、私は…」
「……賢者の石は手に入れられそうですかな?」
「セ、セブルス、わ、わ、わ、私は」
「クィレル、私を敵に回したくなかったら──」
「ど、どういうことなのか…な、何を言って、い、いるのか……」
逃げ場を探すように視線を彷徨わせるクィレルを追い詰めるように、セブルスは更にぐいと一歩前に出た。森にふくろうの鳴き声と木々の揺れる音が響く。
「私が何を言いたいのか、よくわかっているはずだ……あなたの怪しげなまやかしについて聞かせていただきましょうか」
「で、でも私は、な、な、何も…」
「それから、」
セブルスが一段と声を低くしたせいで、ハリーにはその声を聞き取るのがひどく困難になった。身を乗り出したせいで危うく木の枝から滑り落ちそうになり、すんでのところで踏みとどまる。
木々のざわめきに紛れるような囁きが聞こえた。
「もしも彼女に……ミス・マルフォイに手を出そうなどと考えているのなら、」
「な、な、なにを…私は、そ、そんな……」
「──いいでしょう。それでは近々、またお話をすることになりますな。もう一度よく考えて、どちらに忠誠を尽すのか決めておいていただきましょう」
セブルスはマントを被り直して再び顔を隠すと、真っ青な顔のクィレルを置いてその場を大股に立ち去った。その場に石のように立ち尽くすクィレルを見つめるハリーもまた、石のように固まって動くことができなかった。
暗くなりかかった森の中を歩きながら、セブルスは考えていた。石を狙っている犯人がクィレルであることは確実だ。ただ、その後ろに「例のあの人」がいるのか確証が持てない。クィレルが狙っているのが石だけなのか、それもわからない。
もしもクィレルの後ろに「例のあの人」がいるのなら、あの少女に危険が及ぶ可能性は高い。クィレルに近付かないようにと忠告はしたが、彼女が素直に自分の言い付けを守ってくれるとは思えない。ポッターだけでなく、レイラのことも見張っていなければ……。
視界の先に黒い塊のようなものが映る。
薄暗い森の中では見えにくいが、傷付いた動物だろうか?それならハグリッドに知らせなければと近付いたセブルスの暗い瞳が驚きに見開かれた。
それは動物ではなかった。
よく見知った少女。
今、たった今、考えていたばかりの少女。
「──……レイラ!!」
セブルスは悲痛な叫び声を上げて、地面に倒れている少女に駆け寄った。艶やかなプラチナブロンドの髪は地面に広がり、その細い首に鬱血した痕が残っている。意識を失った少女を抱き起こそうとその体に触れたセブルスは、少女の体の冷たさにまるで心臓が止まったような心地を覚えた。
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