
13.さよなら
「夜の森は危ないよ」
レイラは耳をくすぐる心地好い声で目を覚ました。
いつの間にか眠っていたらしい。辺りは暗く、木々の隙間から輝くような月が覗いている。
「今、何時……」
「もうすぐ八時になる」
腕時計を確認しようとしたレイラの耳に、再び同じ声が響いた。その声に顔を上げると、近くの切り株に誰かが腰掛けているようだったが、暗すぎてそのシルエットすら朧気だ。
目を凝らすように細めたレイラに気付いたのか、その人物は楽しそうな声でくすくす笑い、指を鳴らす。途端にいくつもの光の玉が空中に現れ、レイラの周りを照らした。突然現れた柔らかい光に驚きながら目の前の相手を見上げる。
ホグワーツの制服に身を包んだその男子生徒はレイラよりかなり年上に見える。おそらく上級生だ。
スリザリンのネクタイを締めた彼は切り株から立ち上がり、レイラの目の前で立ち止まった。
「もう遅い。こんな時間に森にいるのは危ないよ」
優しく微笑みかける青年の顔に、思わず見惚れてしまう。
真っ直ぐで艶のある黒髪と金色の瞳。形の良い眉にすっと通った鼻筋。まさに眉目秀麗。目の前の青年はレイラが今まで会った人物の中でも、群を抜いて整った顔立ちをしていた。
「……そんなに見つめられるとさすがに恥ずかしい、かな」
「あ!ごめんなさい…、つい……」
何も答えずに見上げたままのレイラに、青年は照れたように笑ってみせる。その言葉で我に返ったレイラは見惚れてしまった恥ずかしさで頬を染めて俯き、けれどその視界に映った光景に、一瞬にして気持ちが沈んだ。
青年が出した柔らかい光の玉に照らされて横たわる、純白の体。
それはまるで作り物のように美しく、もう二度と動くことはない。その体はレイラの手や腕を染めるのと同じ、銀色の血で染まっていた。
「ユニコーンか」
「……助けられなかったんです。私が見つけた時はまだ息があったのに、」
「自分を責めることはないよ。君はまだ何も知らない、何の力もない、ただの子供なんだから」
慰めるようにレイラの頭を撫でる手は優しいのに、投げられる言葉に棘があるように感じるのは気のせいだろうか。
「この森に潜む者のことは知っているかい?」
「狼男とか?」
レイラの言葉に青年は笑みを深め、首を振る。
「君は自分が狼男に襲われたと思ってるのかな?数ヶ月前君を襲い、今日ユニコーンの命を奪った──二つの事件の犯人は同一人物だよ」
告げられた言葉に目を見開いた。
その内容はもちろんだが、何よりもレイラが襲われた事実を知っていることに驚いた。それを知っているのはレイラとセブルス、ダンブルドア、マダム・ポンフリーだけのはずだ。もしかしたら他の先生も知っているのかもしれないが、少なくとも生徒が知っている情報ではない。
一気に目の前の青年が怪しく思えてきて、後退る。そんなレイラの行動を見下ろす青年の顔は楽しそうだ。
「…あなた、誰?どうして私が襲われたことを知っているの?どうしてその犯人を知っているの?もしかして……」
「心配しなくても僕は犯人じゃないし、犯人と繋がっているわけでもない」
レイラの言葉を遮り、青年は笑顔のまま首を振る。
「クイズをしようか。君を襲った犯人について……これは少し置いておこう。ユニコーンを襲った犯人は誰だと思う?」
「……そんなの、わからないわ」
「それじゃあヒントをあげよう。ユニコーンを殺すことで得られるものはなんだろう?」
「ユニコーンの角や毛…?」
どうしてクイズなんてしなくちゃいけないんだろう。不審に思いながら、それでも青年から目を離さずに考える。
ユニコーンの角や尾の毛、蹄は魔法薬や杖の材料になる。レイラの答えを聞き、青年はわざとらしく肩を竦めてみせた。
「それならわざわざ殺さなくてもいいよね?」
「…………もしかして、血…とか?」
「ご名答」
ハッとして自分の手や胸を染める銀色に目を落とす。
傷だらけのユニコーンを抱き締めていたせいで、レイラの体にも血がついている。目の前でしゃがみ込んだ青年はレイラの胸元に手を伸ばした。綺麗な指が銀色に濡れたブラウスに触れ、血を拭った。
「ユニコーンの血を何に使うか知ってる?」
「魔法薬では使わないし……うーん、わからないわ」
「普通ならユニコーンの血を使おうなんて考えない。だから、君は知らない」
「あなたは知っているの?」
青年はその金色の瞳を細め、冷たい手でレイラの頬に触れた。
ユニコーンの血が頬にべっとりと塗り付けられる。その不快な感触にレイラは知らず眉を寄せた。
「ユニコーンの血には強力な魔力があるんだ。その血に触れることで幻に実体を与えることもできるし、血を飲めば死の淵を彷徨う命をこの世に繋ぎとめることができる──もちろん、それ相応の代償が伴うけどね」
青年の優しい、囁くような声に鳥肌が立つ。
眉間の皺を濃くするレイラなんて気にもしないで、金色の瞳を輝かせて青年は続ける。
「ユニコーンの血がその唇に触れた瞬間から、その者は呪われた命を生きなければならない」
そんな物がこの世に存在しているなんて。
それが、自分の体に、頬に擦り付けられている。
青年はレイラの瞳に恐怖の色が浮かんだのに気付き、見る者を安心させるような顔で微笑んだ。
「君が呪われた命を生きないように、この血は綺麗にしないとね。そんなものはレイラに相応しくない」
青年がレイラの頬に触れているのと反対の手で指を鳴らすと、レイラの体についていたユニコーンの血が跡形もなく消え去った。頬の不快な感覚もなくなり、横たわるユニコーンの周りからも血が消えている。
青年が杖も呪文も使わずに魔法を使ったことに驚けばいいのか、それとも綺麗にしてくれたことにお礼を言えばいいのか。悩んだレイラの口から出てきたのは「どうして私の名前を知っているの?」という疑問だった。
「君のことならなんでも知っているよ──そんなことより、クイズの答えがまだだ」
自分は相手のことを知らないのに相手は自分のことを知っているというのは、気分の良いものではない。レイラは不機嫌を隠そうともせず、目の前の笑顔の青年をじとりと睨みながら口を開いた。
「……ユニコーンを襲った犯人は誰か、でしょ?わからないわ」
「ちゃんと考えてごらん。その犯人の目当ては、ユニコーンの血だ」
「呪われた命でいいから、生きていたい人?」
「ここでスペシャルヒントだ。今この学校に隠されている物が何か、知っているよね?」
こくんと頷き、けれどそれを口に出していいのか……もしかして、カマをかけられているのかもしれない。
そんなレイラの考えなんてお見通しだというように笑い、青年はぐっと顔を寄せた。息がかかるくらいに、綺麗な顔が近付く。
「『賢者の石』永遠の命の源、命の水を生み出す石」
「……どうして」
「言っただろう?僕は何でも知っているんだ」
青年の手がレイラの両頬を包み込む。その手はひやりと冷たい。
「そいつはね、その石を手に入れるまでの間、命を繋ぎとめることができればいいんだ。本当の狙いは石だからね」
「石を狙っているのは、セブルス……?」
頭の中が物凄い勢いで回っている。
ハリー達は石を狙っている犯人はセブルスだと言っていた。単独犯にせよ共犯がいるにせよ、レイラもそう思っている。
でも、呪われた命を生きてまで石を手に入れようとするだろうか?──違う。セブルスが犯人だとしたら、ユニコーンの血を飲む理由がない。彼は死の淵を彷徨ってなどいないのだから。
「セブルス?セブルス・スネイプが石を狙うわけがないよ」
青年は肩を揺らして笑い始めた。しばらく笑い続け、ようやく笑いの発作が治まるとレイラを呆れたような半笑いで見つめる。
「うーん……やっぱりレイラは頭がいいとは言えないね。こんなにヒントを出してあげてるのに、正解にたどり着けそうもない」
「失礼ね!そもそも犯人を知ってるって言うなら、こんな遠回しなやり方じゃなくて普通に教えてくれたらいいじゃない!」
明らかに馬鹿にしたような言葉にレイラは眉をつり上げ、青年から顔を離した。クイズに付き合ってあげているのはこっちなのに。初対面の、名前も知らないような相手に頭が悪いと言われたくない。
「教えてあげてもいいけど、代わりに何をしてくれるんだい?」
「何って?」
「まさか無条件で教えて貰えるなんて、そんな甘いこと考えてないよね?」
数分前、この顔に見惚れてしまった自分に腹が立つ。この青年は言葉の端々からレイラを馬鹿にしているのが伝わってくる。
そもそもどうしてこの人と話をしなくちゃいけないんだ。
「……もういいわ。私は早くこの子を埋葬して、寮に帰らなくちゃ。遅くまで出歩いていたら減点されちゃう」
「犯人、知らなくていいの?」
「あなたに教えてもらわなくても、自分で調べるもの」
レイラがムッとした表情のまま立ち上がり杖を振ると、少しずつ落ち葉が片付けられていく。その様子を見て、青年は再びくすくす笑った。
「あはは、いいね。本当に何も変わらないんだ……気に入ったよ」
「……?」
何を言っているんだろうと訝しげに振り返ったレイラの唇に、何か柔らかい物が押し当てられた。突然のことに目を見開くレイラの視界に、楽しそうに細められた金の瞳が映った。
キスをされているのだと気付いた途端、顔に熱が集まってくる。慌てて青年を引き剥がそうともがいたが、上級生の男と一年生の女、力の差は歴然としている。両手首を掴まれ、抵抗することもできなくなってしまう。
重ねられていただけの唇がゆっくりと動き、レイラの下唇を優しく食んだ。ぞくりとした感覚が背筋を駆け抜け、体の力が抜けそうになる。
目の前の相手が笑っている気配に怒りこそ湧いてくるが、不思議なことに嫌悪感は感じない。ただ、混乱していた。
頬や額へのキスは何度もしているが、唇同士のキスなんてしたことがない。息ができない。息の仕方がわからない。
何度も下唇を食まれ、それでもレイラがぴったりと口を閉じていると弱く歯を突き立てられた。
その甘い痛みに脳の奥がじんと痺れる。
「口を開けて……ほら、ゆっくり鼻で呼吸してごらん」
唇をしっかり引き結んだまま、ふるふると小さく首を振る。
呼吸ができないせいで次第に頭がくらくらしてきた。
「そんなに可愛い反応をされるとは思わなかったな」
唇が離れたかと思うと、青年の笑い声が降ってくる。
レイラはいつの間にか瞑っていた目を開け、ようやく息ができると口を開ける。すると思ったよりも近い距離にあった青年の顔が再び近付いてきて、思わず肩を竦ませると、今度は唇ではなく鼻の頭に冷たい唇が押し当てられた。
「少し意地悪し過ぎたかな」
あまりのことに言葉が出ない。
真っ赤な顔で口をぱくぱくさせるレイラを横目に青年が両手を地面にかざすと、片付けかけていた落ち葉が綺麗になり、地面に大きな穴が空いた。そのまま青年が手をゆっくり動かすと、横たわったままだったユニコーンの体が浮かび上がり穴の中に移動する。
「このまま土をかけてあげればいいのかな?」
「……えぇ」
レイラがまだ赤いままの顔で頷くのを確認して、青年の手が再び動かされる。するとあっという間に穴は土で埋められた。
最後の仕上げとばかりに青年が握った手を開くと、美しい花輪がその上に供えられた。
「…………ありがとう、ございます」
「どういたしまして」
この人の目的も、正体もわからない。何がしたいのかわからない。青年は難しい顔のままお礼を言うレイラの手を引いて歩き出した。
「城まで送っていくよ」
「……ありがとうございます」
この人は一体何者なのかという疑問、そして青年に言われた言葉がぐるぐると頭を回っている。
ユニコーンを襲った犯人、レイラを襲った犯人、石を狙っている犯人──それは全て同じだという。
そして、セブルスは犯人ではない。
ぐるぐる考えていると、あっという間に玄関ホールに着いていた。青年が立ち止まり、手を繋がれたままだったレイラもつられて立ち止まる。
「楽しませてもらったお礼に、レイラには特別に教えてあげる。犯人はね──君の愛を乞う者だよ」
耳元で囁かれた、甘い毒みたいな声。
「どういう意味…………あれ?」
顔を上げたレイラは、玄関ホールに一人きりで佇んでいた。
辺りを見回しても他に生徒の姿はない。もちろん先生やミセス・ノリスの姿すらない。たしかに今の今まで隣にいたのに…
レイラはまだ青年の冷たい手の感触が残る左手を見つめ、誰もいない玄関ホールに立ち尽くした。
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